「はた揚げ大会」~雲仙市吾妻町・愛野町
昨年も「愛のハタあげ大会」で紹介しましたが、先週3月30日には、「吾妻町はた保存会」
による「第18回吾妻町はた保存会はた揚げ大会」、今日は、「愛野町剣舞箏保存会」によ
る、「第18回愛のハタあげ」が開催。
明日は、長崎市で「唐八景のハタ揚げ大会」。なんと、新聞紙2面をぶち抜いての特集。他
の所ありませんよね。
長崎のハタ揚げは、ヨマ(ハタを揚げる糸)のさきの方に、ビードロ(ガラス)を小さく砕き、
接着済で塗りつけ、他のハタに絡めて、糸を切り合うという、「ハタ合戦」をします。
切られたからといって、喧嘩することもなく、飛んでいったハタは、子どもが追っかけて拾っ
て、自分の物とします。
「郷土史事典~長崎文献社刊」にはこう書いてあります。
「合戦手合わせの申し込みは予め礼儀正しく行われ切り合いも正々堂々としていた。江戸
時代からのはたあげ大会の世話町も数か町定められ、物事の一切の処理をした。今日で
もこの伝統は守られていて、はたの切り合いに関する紛争は少ない。」
新聞にはちゃんと、「ハタ合戦出場者名簿」まで載っていて、49歳から78歳までの16名
の方が出場されるそうで、こうなると、ハタ揚げ(関東では凧あげ)は子どもの遊びとは言
えないデスネ。
さて、一番上の写真のハタは「剣舞箏」といいますが、「郷土史事典」では少し形が違って
おり、
こんな感じで、「けんむそう」書いてあり、「下に三本のハタの骨が出ているのが劔に見立
てられて。」と書かれていますが、こちらでは「けんぼうそう」と言い、真ん中の所が尖って
なく。
おめでたい絵が描いてあり、男の子の誕生を祝って揚げるものだそうです。
こちらは、子どもの似顔絵が描いてありますが、下に書いてあるのが家紋で、夫婦両家の
家紋を入れるそうです。
さて、今日は思い思いにハタを作ってお持ちより.
左はバラモンと言われるハタ。
「郷土史事典」にも「ばらもんを揚げる(江戸時代)」と書いてありますが、四人かかりです
から、かなり大きなハタでしょう。
右の方は、コブラだそうです。
これ、ナンデショウ。右は、わざわざ天草から来られた方のハタ、「なんとか、かんとか
(又、名前忘れました)。」
ノンビリと連バタ。80枚だそうです。愛野のハタ保存会の法被。「剣舞箏」が描いてありま
す。
収穫を終えた田んぼの中で、ノンビリと良いですね。
こちらが、普通長崎で使うハタです。「郷土史事典」によれば、「あごばた」という種類で、出
島蘭館のインドネシア人から伝わったと書いてあります。関東のハタより上下左右に操作
がしやすく、ハタ合戦には向いています。
以前、諫早でもハタ揚げ(長崎とは違って大型のハタ)が禁止になったことを書きました
が、長崎でもハタ揚げ盛んになりすぎ、禁止になっています。
「長崎町人誌」によれば、「奉行所は安永二年(1773)次いで天命元年(1781)『ハタあ
げ』取り締まり法令をだしている」。
にもかかわらず、益々「ハタあげ」に熱狂し、野山のみでなく町中でハタを揚げ、屋根の瓦
などを踏みわり、人の家の庭木をあらし、口喧嘩でけが人が出たりで、文化一二年(181
6)に禁止令を公布したそうです。
しかしこれも、10年たたないうち、奢侈禁止令にもかかわらず、美妓、酒をたずさえ、三
味線、太鼓の囃子でハタを揚げる者がいたため、嘉永二年(1849)に「ハタあげ」禁止令
を出し、次のように訓令したそうです。
「一切ハタあげ申間敷のこと。近頃面々家業の営を忘却しハタあげ相い聞え候。如何の
事候。向後ハタあげ候者共これあるにおいては急度(きっと)申し付く可く候。尤も、小兒・・
の分は苦しからず」・・・「しかし、この厳しい法令も安政六年(1859)の開国令に再び忘れ
られ、又自由に町の人たちは『ハタあげ』を楽しんでいる。
最後にこう結んであります。「長崎町人の心得第一条は、『嵐がきた時には静かに身を引
き、時機ををえて又楽しめばよい』」。長崎人って意外と人生の達人なのでは?
(参考・引用:「長崎町人誌」「郷土史事典」~長崎文献社刊より)
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