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2014年4月 2日 (水)

「草積御前」について★長崎市茂木町~伝説について その一

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資料を整理していたら、どこでコピーしたものか、「草積明神の主」(釜蓋城の伝説)という

のが出てきて(「あまり長い話なので一部省略等訂正をしている。」との但し書きあり)・・


茂木の伝説として、千々石に関係があるということで紹介がしてあり、この話、千々石では

まったく聞いた事もなく、角川書店「日本の伝説28 長崎の伝説~福田清人・深江福吉」

に載っているとの事。さっそくお取り寄せ。


内容は、以下の通りですが、話がややこしいところがあるので、私なりにまとめてみまし

た。


❶ 題は「草積大明神」

❷ 四百年ばかりの昔、文禄年間の事、一隻の小舟が、茂木の千々の里に流れ着いた。

(注:千々は茂木の先で、当時は寂しい漁村。千々石と千々は名前が似ているようでも、

交流はありません)

❸ 小舟には、弱った盲目の娘が乗ってた。

❹ 娘は、どうにか二、三軒の漁師の家のあるところに辿り着くが、とびだしてきた犬が吠

えかかった。漁師は犬を怒鳴りつけ、押さえつけた。

❺ 親切な漁師に手当を受け、ようやく元気になった時、「ありがとうございます。あの、島

原の方へ行く便船ありますまいか」。「なに、お前さんは島原にわたりたかとか?」。「は

い、島原の千々岩(千々石?)は、わたしの母の里でございます」。(注:「ちぢわ」という地

名は島原半島には「千々石町」一つしか無くしかなく、「千々岩」は記載違いか?)

❻ 漁師が身の上を聞くと、母は二年ほど前、亡くなったが「・・・父の顔は知りません。母

はなくなる前、初めて私に、お前の血には殿さまの血が流れていると明かしてくれました」

娘は、3日後に死んでしまうが、死ぬ前に「母は私を産ませた父は、島原に攻め寄せた隣

の国の殿さまということでした。母はその出先の千々岩(ママ)の館に召し使われていまし

た。

父に当たるその殿さまは、私の生まれる前、本国に帰られて、その後六,七年がたってま

た、その殿さまにそむいた島原を攻めた時、とうとう沖田畷という所で戦死されたそうでご

ざいます」。そのため、それが知れると命が危ないので、各地を転々としたとのこと。

❼  亡くなる、千々石の見える丘に、小さな石塔でも建てて欲しいとのお願いをする。漁

師夫婦は、願い通り、丘の上に葬り、千々石の方に向けて五輪の塔を建ててやった。

❽ 長崎から来た物知りの商人に聞くと、島原の沖田畷で討ち死にした殿さまは、龍造寺

隆信とのこと。

❾ 里人も花や水を供え、願いを立てると必ずかなえられるということで、小さな祠をたて、

土地の名にちなみ、「草積大明神」とよばれるようになった。

❿ その後、100年ばかり後、長崎の劉宣義(りゅうせんぎ)という唐通事がこの土地に、

遊びに来、この話を聞き、祠を修復するも、後焼けたので、その後、玉台寺に移された。


と言う事で、住んでいる千々石に関する事なので、茂木の玉台寺まで出かけると、山門を

くぐった、左側の大銀杏の下に祠があり、

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4

厳重に祀られており、隙間から撮した写真が、一番上の写真で、どう見ても新しいもの。

住職さんに尋ねてみようかと思ったのですが、あいにく留守。


ところがが、祠の横を見たら、説明版が設置してあり、これにはなんと


「草積御前の祠(延命地蔵尊) 境内、本堂の向かって左側大銀杏の根元にある 藤原俊

成の子隆信(定家の兄)が島原を訪ねたとき漁師の娘との間に一女を設けたが不運にも

盲目となり船より落ち茂木の千々海岸に漂着したが上陸後野犬にかまれ死去、

臨終に村人に言う。『私は盲目で不幸な生と終わるが同様な運命の人たちを死後救い

たい』

千々の村人は現在の位置(千々南町中学校)に葬り冥福を祈った。

草積みした野で死去したので草積御前と称した。

今延命地蔵として日々のお参り人々にために御苦労してくださっております。」


との説明。まったく、「日本の伝説」の記述とは違うところが、特に、❻❽の所、父親がまっ

たく違っています。龍造寺隆信は、確かに、島原半島まで攻めのぼり、島原市の沖田畷で

討ち死にをしています。1529年~1584年の人。


藤原隆信は、父が為経、母の再婚相手、藤原俊成に育てられ、歌人藤原定家は異父弟

に当たるそうです。自身も歌人であり、画家としても有名。1142年~1205年の人。年代

がまったく違います。


色好みとしても有名で、(最もあの時代の貴族は、色事が一つの仕事で、源氏物語を読ん

でもわかりますね)建礼門院右京大夫も恋人の一人であったとか。


❷の所、文禄年間の頃であろうかについて。文禄年間は1592年~1596年ですから、

時代的には龍造寺が討ち死にして、子どもが大きくなるまで数年かかったとしても、年代

的には何とか合います。ただし、後で物語に合わせて書いたと言う事も考えられます

が・・・


あと、藤原隆信が島原まで来たかどうかと言う事ですが、隆信は越前守、若狭守を歴任し

ていますが、これは、北陸の方。


群書類從に隆信の歌集があり、和歌には前書きとか、歌の部分に地名が織り込まれてい

るものがあるのですが、残念ながら島原関係は無いようでした。日記があればすぐに分か

るのですが。足跡は分かりませんでした。


ただ、長崎が京都から遠くの田舎といえど、戦国初期の1528年(大永年間)、諫早城主

西郷尚善が京都に滞在し、内大臣で歌道にもすぐれた三条西実隆から、和歌、連歌の指

導を受けていると言う事実もあり(故外山幹夫「長崎市の実像」「高来の風」、他の書物に

も散見します)、田舎と京都も文化の面でも交流があり、隆信が来たことがないとは、10

0%否定出来ないのでは?


と言う事で、この話、「長崎町人誌」にも載っており、他に、「茂木町の郷土誌」、「わが町の

郷土誌~熊弘人著」、「茂木の散歩道」などにも取り上げられており、微妙に異なっており

伝説の伝わり方が違い、面白いので、これについては、また、次回。


タマネギの取り入れ時です。畑の間の道を通ると、タマネギの匂いが香ってきます。

今年は、タマネギの値段が良いらしく、昨年は沢山いただいたのですが、今年は・・・・

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