昨日の続きになります。この話は数件の資料に見られますが、孫引きであるのか、実際に
現地で聞き取りしたのかは不明です。
「長崎町人誌 第五巻 新編 長崎名勝図絵」。この本については、以前少し書きました
が、江戸中期から後期にかけて、各地の名所図会が発刊され、長崎でも長崎奉行が命じ
て編纂させますが、脱稿までいかず、長崎区役所・長崎市役所に眠っていたものを、長崎
史談会で昭和6年刊行。普及のため、文章も平易にするなどして昭和49年再発刊。
今回(平成9年発刊)は、図版の再現は忠実にし、本文は記述は尊重しながら、現状の状
況を若干重ね、全体の組み立てを一応解体し、地域により分かりやすく再構築したものだ
そうで、私が持っているのは、この本です。
と言う事は、「草積御前」として、文章として現れたのは、この本が一番最初だと思われま
す。
まず、❻❼父親に関しては、龍造寺隆信。但し、「母親は千々岩(ママ)の館に召し使われ
ていた」が、「島原の漁人の女に生ませた」になっています。
❻母の死後、転々として、犬に吠えられたりして結局、ここで死んだ。ここは一緒ですが、
「里人は哀れに思い葬ったが、その後、いろいろと不思議な事が起こるので祠を作った。
草積明神と言って祈ると霊験がある。小石がお賽銭の代わりである。これは盲目の悲し
さ、犬に吠えられ杖で払おうとしても叶わず、石を探って取って投げている内に悶絶して倒
れたのであった。だから、祠壇には供えられた小石が堆高く積まれている。・・・・」の記述
有り。
❿唐通事劉宣義の所は同じ。「なお、龍造寺隆信はこの娘のことは全く知ってなかった。」
❼「私が死んだら海の見える高い山に葬り、五輪の塔を建てて欲しいと言った。それで、
千々と大崎の間、松の大木のあるところに墓を立てた。のち、玉台寺の右に移し祀る。近
年、その祠が火災で焼失したのでまた移して今は玉台寺内にあるのである。
さて、この火災が、いつあって、移転されたかは書いてありませんが、前回の写真で見る
ように、新しく、また、厳重に鉄柵がしてあるところを見ると、長崎町人誌の「現状の状況を
若干重ね・・・」と言うことでは無いかと思うのですが・・・・・
なお、草積御前が、龍造寺の娘であったことは、本人の口から語ったことは書いてありま
せん。
昭和33年発刊の「茂木郷土誌」によれば、❻❼の父は、龍造寺隆信ではなく、藤原隆信
になっており、「島原の漁師の子某女と親しくなり・・・・・」、隆信は旅立ちますが、「子どもを
産み『藤』と名付づけたのであった。」
母は他界、藤は目が不自由になり、父を尋ね、うつぼ舟(大木をくってつくった舟)にのり、
ついたところが千々。後は、前に書いたような話になりますが、玉台寺の説明版にに書か
れたような言葉を残して亡くなったと言う事で、付近の人は「草住の野に島原をむけて葬っ
てやった、そして、草積御前、草積様といって石や貝殻を供えて参詣素津人も相当であっ
た。
後になって千々は不便だというので分骨して松尾玉台寺の一隅に祭ったのある。」と記さ
れています。
「わが町の歴史散歩~熊弘人著」では、❶草積夫人祠としてありますが、❻❼父の名は、
龍造寺隆信。あとは、長崎町民誌とほぼ同様なことが書かれていますが、「祠は南小中学
校近くにある。」と書いてあったので、またも、バカだなと思いながらも、現地に行くと、一
番上の写真、南小中学校の入り口に「草積ごぜん」の看板。祠は、学校のすぐ手前にあり
ました。祠は、茂木四国八十八カ所の五十五番札所でもあります。
中には、3体の石仏と、一番右、五輪の塔碑が置いてあり、コンクリーで補修がしてありま
した。石仏は左から古い順みたいでしたが、一番新しいものは、昭和63年7月に建立、
「草積御前」と書いてありました。
一番右が、五輪の塔碑になるのでしょうが、一番下の台に、同じように「草積御前」と書い
てあり、小石が積み上げてありました。これが伝説に出てくる、五輪の塔碑でしょう。
私も、島原半島の千々石に住んでいるので、少しはご縁があるのかな、と思い、千々石の
海岸の石を2,3個持っていって、お供えしてきました。
祠の横には、玉台寺と同じような説明版が付けてありました。
この場所からでは、海の方は木が茂って見えませんでしたが、少し下の方から見ると・・・
残念ながら、霞んで、どこが、どこか、よく分かりませんでした。千々石はもう少し左側か?
地元の方に聞くと、天気によっては島原半島がよく見えるそうですが・・・・
さて、残るは「茂木の散歩道」。これは、長崎市のホームページ、観光案内>観光・文化的
施設>長崎の隠れたスポットをさるく>茂木をたずねての、「茂木の散歩道」に出ていま
すが、こちらは、「長崎名勝図絵」の引用で、ただ、祠の横にある説明版もそのまま引用し
てあり、龍造寺か藤原かははっきり書いてありません。
あちらこちらで、高齢者の方の話を聞くことがあるのですが、同じ話でも、少しづつ違って
いるところがあり、この話を書きながら、伝説、口伝は複数の話を聞かないと、正確なとこ
ろは分からないなと思っているところです・・・・
ただ、龍造寺隆信、藤原隆信。隆信が同じですから、何かの話が混同したと思うのです
が・・・・
しかし、千々は、「茂木のあゆみ」の「陸上交通」の所に書いてありますが、陸上交通が不
便だった所であったようで、茂木~大崎・千々の所に「茂木と大崎・千々の間は、5,6トン
の発動機で人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいた。昭和36年から5
年間かけて宮摺・大崎・千々間に林道を整備し、昭和46年に県道となった。」とありますか
ら、戦国時代と言えば、ほとんど交通不便な寒村といえるでしょう。その土地に、なぜ、都
の貴族の「藤原隆信」の名前が残っているのか?
藤原隆信の足跡をもう少し、追ってみないとと思っているのですが、ご存じの方はありませ
んか?
小さな事ですが、土地の名称で「草積の野」とあったり、「草積した野」としたあるのです
が、千々の旧小字名を調べると、「草積」と言うところは無く、「草積した野」で、通称「草積
の野」と言いうのではないかと思うのですが・・・・・
なお、祠が移転した経過も少しずつ違った所もあり、とにかく、伝説、口伝の類いは難しい
ですね。
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