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2014年4月

2014年4月30日 (水)

茂無田キリシタン墓碑★基壇付き伏碑~雲仙市小浜町

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久しぶりの、キリシタン墓碑の紹介です。墓碑は、雲仙市小浜町の茂無田の共同墓地内

にあります。


行かれる方は、少し分かりにくいので、ネットで検索すると、地図が出てきますから、それ

を頼りに、近所の方に尋ねた方がベターかと思います。


私もちょうど通りがかりの、近所の方に尋ねたので、すぐに分かりました、とは言っても、

道を行くと、少し写真では分かりにくいのですが、猪が入らないように、柵が張ってあり、私

の短い足では、跨ぐこともできず、針金をはずして入りました(もちろん後は元どうりにし

て)。


あと、上の広い道から入る方法もあるようなのですが、ここまで下る道があるかどうか、責

任は持てません。あと、この道を少し行くと、矢印の所、小さな共同墓地があります。

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この中に、キリシタン墓地があるのですが、一番上の写真で見られるように、方形の石積

みの基壇の中央、板碑の後に祀ってあります。横から見たところ。

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正面から見た板碑で、この後にキリシタン墓碑があります。

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あと、「日本キリシタン墓碑総覧~企画・南島原教育委員会 編集・大石一久著」に添って

書けば、この前の板碑。拓本では「天保十五年辰年/○(月輪)□□□□者無縁先|祖

代々各位/二月十一日 造立」と陰刻され、「無縁先祖代々各位」の霊を供養するために

造立した趣旨が読み取れるそうです。


なお、墓碑は現在地より、上方の土地を切り開いた際出て来たもので、それを現在位置

に移したものだそうです。


「小浜町郷土史を語る会編『茂無田キリシタン墓碑調査報告書~昭和51年』」によれば、

板碑の紀年碑をもとに、天保15年に移し、墓碑の移設に関係して自然石板碑が建立さ

れたとしてあるそうです。


なお、日本キリシタン墓碑総覧によれば、「本墓碑は、一間四方の方形積石基盤の中央

に立てられた自然石(略)の背後に接するように横置きで配置されており、単なる放置では

なく、そこに意識的な配列がうかがえる・・・・」とあり、「これらの各点を考慮すると、本墓碑

の移設に関して方形積石基壇を築き、その中央に天保15年銘の『無縁先祖代々各位』

のための供養塔を立て、その背後に本墓碑を意識的に配置したものと思われる。・・・」と

あります。


この基壇と墓碑本体が一体化した伏碑は、五基確認されているそうですが、この墓碑が

一番大きなものだそうです。

(伏碑本体) 小口横幅36,5  背高32,4  全長89,2

(基壇) 横幅57,0 背高(中央15,3  右側11,0  左側10,8)

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ゴールデンウィークですが、こちらは、毎日がゴールデンウィーク。ご近所からもらった花

も、気付かないうちに咲いていました

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(文引用:、「日本キリシタン墓碑総覧~企画・南島原教育委員会 編集・大石一久著」)


2014年4月28日 (月)

千々石海岸を歩けば~雲仙市千々石町

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昨日は、天気も良く、ゴールデンウィークに入り、国道に車がゴチャゴチャしているので、ま

あ、こんな日は海岸でもでもブラブラと・・・・



上の写真は、一昨年撮ったものですが、鯉のぼりがめっきり減りました。ここ海岸沿いの

家にも、いつも5,6軒、立ててあったのですが、今年は、一軒しかないようでした。


これは初節句の鯉のぼりではありません。こどもの日だから、立てたものでしょう。右の小

さな鯉のぼりも元気よく、風の中を泳いでいました。

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ここの海岸は、「日本の自然百選」「「日本の白砂青松百線」に選ばれ、記念碑に写真が

焼き込んであり、松の多さが分かると思います。昭和初期。説明には、「昭和3年8月25

日海水浴場に外人観光客の歓迎会を開催したと記録してあります。」と書いてあります。

雲仙、小浜、千々石の海水浴場には外人が、たくさん訪れています。

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ウチのカミサンに聞いても、昔は遠浅で、綺麗な海岸だったと言います。海流が変わった

せいか、海岸の様子も随分変わったようです。


数十年前は、この左右の場所に、桟敷席があって、泳ぎに来る人が沢山いたのですが。

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いつも一人、ではなく、一匹のアオサギ。老後はどうするんでしょう。海沿いですから、恵比

須さんですね。蛭子(能収)さんではありません。

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右の看板は分かりますが、左の看板はナンデショウ?

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昔、この海岸沿いに、煮干し工場が沢山あったのですが、随分減ってしまいました。小屋

の戸が開いていたので、覗いて見たら、イチゴをパックに入れる作業をしていました。

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シーガラスというんですか?海に洗われて、角はすっかり丸くなっています。私も、これくら

い丸くなれば良いんですが。

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以前紹介しましたが、シーガラスを集めて、接着し作った、ランプ。最近はペットボトルに取

って変わられたため、シーガラスはすっかり減ってしまったそうです。

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ガラスだけでなく、陶器の破片も、左は何か由緒あるような、上品感じ。角もまったくなく、

見事なものでした。右は、赤い色が入っている所を見ると、おめでたい席に使ったもの

か?いろいろ想像して、見るのも良いもんですね、

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こちらは見事に、まん丸くなった石。意外と少なかったのが貝殻。桜貝を探したのですが、

ありませんでした。「美(うるわ)しき 桜貝一つ 去りゆける きみに捧げん・・・・・」を「去り

ゆける カミサンに捧げん・・・」などと替え歌にして、誰もいない海岸で、思いっきり歌いま

した・・・・この、ガラスも、陶器もいずれ、波にさらわれ、又、どこかに行ってしまうのでしょ

うが・・

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私の好きな風景ですが、石垣に張り付いた蔓、まるで、大木みたい。

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浜昼顔。時季外れの松ぼっくり、何となく、哀愁を感じます。

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という事で、交通混雑にも巻き込まれず、人混みに酔う事もなく、カネを使うこともなく、波

音を聞きながら、海のオゾンを胸一杯に吸って、ゆったと、半日を潰しました。

皆さんも、たまには、近所でもゆっくり散歩しては如何。意外と、いろんな物があって、面白

いですよ。

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2014年4月27日 (日)

長崎帆船まつり~長崎市

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今日は、ブログはお休みの予定でしたが、TVで「長崎帆船まつり」 が始まったとの、ニュ

ースがあり、数年前、よく行っていたので、以前に撮っていた写真を、少し、載せてみま

す。


とにかく、行って、帆船を見学させてもらって、その、ロープの多さ、帆を張った姿の美し

さ、なんとも、いえませ。

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帆を張る時の作業の大変さ。とにかく、この柱を登っての作業。素足で、登っていました。

女の子の2,3人いましたが、私にはとうてい登れません。

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帆を張った後の、答礼。と言うのかな?一列になって・・・・

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船の中で、潮風を受け、ゆったりするのも良いもんですよ。

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こんなのもありましたが、今年もあるのかな?

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5月1日まで、開催しているそうですから、まだ帆船を見たことがない方は、是非、見に行

ってください。すごいですよ。


(注:写真は数年前のもので、今年、来崎する船は違っていますから、確認をしてくださ

い。)



2014年4月26日 (土)

「ちゃんぽん煎餅」~長崎

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今日は、常会で、私が監査になっており、会の前に監査をするので、手っ取り早い話題

を。


先日、「皿うどんチョコレート」を紹介しましたが、「皿うどん」を紹介して、「チャンポン」を紹

介しないのは、片手落ちだと思い、確か、どこかにあったなと探したら、ありました、「チャ

ンポン煎餅」。


問題は、この「四海楼監修」ですね。裏に説明があり、「『チャンポン』は、福建料理がルー

ツであり、四海樓の創業者である陳平順(ちん・へいじゅん)が長崎で採れる山海の産物

を使い、独特の麺と豊富な具材で考案したもので、長崎生まれの中華料理なのです。」と

書いてあり、四海楼は長崎を代表する、中華料理屋さんで、「チャンポン発祥の店」と言わ

れていますから、この四海樓が監修とあれば、早速買いました。

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箱の中は、9㎝×6.5㎝くらいの小袋が、18個。中は、直径5㎝程度のお煎餅。

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食べて見たら、パリッとした感じで、お味は、自分で買って確認して下さい。何となく、インス

タントラーメンを思い出し、お湯をかけて3分間。食してみましたが、これは真似しない方が

良いようで・・・・・・


昨今、いろんな新製品が出ており、次は何が出るか、楽しみな所です。「イチゴ大福」が出

てきた時のような、「え!ウソ」というような、ショッキングなものが出てこないか、期待して

います。

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今日のところは、これにて失礼。


2014年4月25日 (金)

「三ッ島の小鯨問題」★領地の問題について~諫早市・雲仙市

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以前、「森山町民俗資料館」について書きましたが、一つ忘れていたので。館内に、「子鯨

の骨」が置いてあり、説明には


○昭和五十六年五月三十一日出土

○井牟田下名丁軒

町道北側路肩災害復旧工事の際、水田の下約1,5m付近から出土した。

「すさへごと竹は、干拓工事の基礎材料に使われていたもの」

○文献によれば、「安政六年(1859)三ッ島(旧山田村)の大島に、凡そ十米位の子鯨が

一頭漂着し、それの取得権をめぐって山田漁民と森山漁民が争い、結局半分ずつ分け合

った。」と、あります。

(注:山田村は町村合併で吾妻町となり、現在は雲仙市、森山町は現在は諫早市)

○その当時、現在の丁軒道あたりは大土井(でい)が築かれ、二反田川湖(えご)沿いの

船着場になっていた模様で、解体した骨を附近の海中に捨てたものと考えられる。


と書いてありますが、佐賀藩には海上の領海問題が多々あったようで、「諫早市史」の目

次にも、「島原との領海紛争」、「前海領海紛争」、「天領網場(あば)との紛争」、「大村領と

の海上紛争」とあり、この「子鯨の骨」も3番目の、山田村(島原藩)と、森山村(佐賀藩諫

早領)の領地の問題が感じられるのです。


いつものようにアバウトで言うと

赤い楕円の所が、佐賀藩諫早領と島原領の境あたり、愛野町には現在も、両藩の境石塚

が残っています。詳しくはこちらをクリック→「島原藩・諫早藩~藩境石塚

黄色の矢印が、現在、開門かどうかの問題で揺れている、諫早干拓。

白の矢印が、今日の話の所です。

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さて、この「子鯨」は、領海の問題も係わってくるようで・・・・

土地なら、領地の境を川とか、大きな石を目印にするとか、石塚を作るとか、方法はあり

ます。

ただ、現在も、はっきりしないところもあるらしく、某町と某町の、山の中の境が分からな

いという事で、両町で確認に行ったそうですが、結局分からなかったそうですから、まして、

昔の海の境といったら・・・・


森山町(佐賀藩諫早領・現在諫早市)は、有明海の潟海に面し、昔から、村々で小規模に

干拓が行われており、これが、次々に拡大したところ、島原藩と領地を接するところでは、

問題を起こすこともあったそうです。


元禄十六年、森山村杉谷村川筋に、「南端十間(約18m)、北の端十間、内六間半(約1

2m)を作った所、島原藩の境役から、新地(干拓地)ができると、近くに番所があり、入江

が狭くなり、隠れて出這入りする者に対し、目が届きにくくなるという申し入れ。


これに対し、一年ばかりして、「・・・そちらの番所近くにある、新みを、そのままして置か

れると、水の流れが悪くなり、こちらの方も差し支えるから、そちらの方こそ取り捨ててもら

いたい。それを捨てるという返事をもらえれば、こちらも取り捨てる。」というもの。

あとは、文書のやり取りになりますが、結局は立ち消えになります。


さて、次いで、正応四年(1714)、島原藩山田村から、森山庄屋の所に使いが来て、「森

山で新しいハジ(漁業のためガタに柵をたてること)を立てているが、そのハジは山田村漁

師の漁業に支障となるから抜き取ってもらいた」というもの。


庄屋の返事は、自分は知らない、村内に太郎介という漁夫がいるから、当人に聞いてくれ

と言うこと。


太郎介の所に行くと、ハジを立てるのは、一々役所へ願ったり、庄屋に尋ねるものではな

い、・・・・・近く新地を築くことになり、ガタも高くなるから魚は捕れなくなる。だから、ハジの

位置を直したまでの事で、別に何の意味も無いとのこと。使いはそのまま戻るが・・・


後日、山田村の庄屋の使いだと言うことで、森山の庄屋の所に、ハジを撤去するよう太郎

介に話をしてくれとの事だが、断られる。


今度は、山田庄屋の所に、使者が来てハジは、はやり、撤去できないとのこと。これに対

し、山田村から使いが来て、山田の漁師は、あのハジで迷惑するから、こちらで撤去する

と言い、森山で作ったハジを切り破ってしまい、あとは、まあ、新しく作ったり、壊したりの

泥仕合。


この事から、佐賀藩と島原藩を巻き込んでの争い。要するに、一歩でも譲歩すると、それ

が前例になるということ。


さて、これも泥沼合戦になりますが、結果は、五年目から、記録が見られないそうですか

ら、「両方とも根負けして、破壊(ハジの破壊)のやり合いは中止にしたのではないかとい

われている」そうです。


さて、やっと子鯨です。

時代は変わって、安政六年(1859)二月九日。三ツ島の大島付近で、鯨が打ち上げられ

ます。(地図の白の矢印附近)


諫早領の者が知った時は、すでに遅く、島原領山田村のものが来て、鯨を大網で島に引

き揚げていたところ、鯨が暴れ頭をガタに突っ込んで身動きできない状態。日が暮れてき

たので、番人を残し、引き上げるが、そこへ諫早領の漁民が、鯨を捕ろうと思って来くる

が、半分は切りとってあり、残りを捕りたいとの話。


これに対し、「ここは、島の付け根の所で漁事はされないから村で捕りに来たまでだ」との

返事。


諫早方は、「島のつけ根ならなにも申し上げないが見うけのとおり、ここはガタの上で、海

は諫早の海と心得ている。・・・・・・・」と言ったところ、山田側も、島のつけ根だと言い張り

譲らない。


諫早方は「明日は、諫早の海という明白な証拠を差し出すから。」という事で、引き上げ。

翌日、両方とも譲らずも、結局、役方同士で話し合い、半分ずつ分けると言うことで、交渉

成立。


以上、長々と書いて来ましたが、当時の領地問題が感じられる話です。ざっと書きました

が、実際は、文書のやり取りなども多くあり、もっと、長く複雑な問題です。たかが「子鯨」

にも、思わぬ歴史があるものです。詳しくは、「森山町郷土史」、「諫早市史」をお読みくだ

さい。当時の領地に関する考え方が、よく分かります。

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(文引用・参考:「森山町郷土史」「諫早市史」より)


2014年4月24日 (木)

一口香・ごまパン~長崎

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先日、茂木の「草積御前 その一」「草積御前 その二」について書きましたが、茂木とい

えば、名物の「茂木枇杷」が有名ですが、長崎銘菓の茂木の「一口香」本店があり、もちろ

ん寄りました。茂木の「一口香」は、「茂木 一○香本店」と書いて、「いちまるこう」とふりが

なが書いてあります。

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店の前には、「茂木一○香本家の碑」があり、長いので要約すると、


「江の浦にいた、大久保市右衛門が、海運業『島原屋』を茂木玉台寺下に創業。当時は茂

木を中心に天草、薩摩、宮崎への商船の来船が多く、長崎出島や唐館との貿易交流の盛

んな所。

天保9年(1838)、長崎は飢饉にあい、、その際、応急食料として、『一口香』は唐饅を麦

粉に丸め、黒糖を含んであめ玉のように固く、航海者等の保存食として最適と記録あり。

市右衛門はこれに着目し、唐饅製造にのりだし、死後、二代目伝二郎に後を継がせ、

弘化元年(1844)店名を『エノキ屋』に改め、一口毎に香ばしいので『一口香』と名付けた

そうです。」あと、いろいろ書いてありますが、省略。


この「一口香」は、他に、榎純正堂の「榎の一口香」が有名ですが、中が空洞で、他県の

方には珍しいらしく、「食べたけど、中身が無かったとか」、TVにも取り上げられたことがあ

るそうです。両店の外観と、真ん中から切ったところで、中身は空洞。内側には、黒砂糖、

水飴、蜂蜜等で味がつけてあります。、

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「榎の一口香」のパンフレットによれば、


「当時、雑貨商だった弊堂初祖一右ェ門がみやげとして頂いた唐饅の製法を会得し、工夫

改良を加えてできたものが、一口香です。弘化元年(1844)創業以来・・・・・・・」と書いて

あり、これ、茂木「一○香」と一緒ですね。一右ェ門と一右衛門、字は少し違いますが、同

一人物でしょう。創業も、両方とも弘化元年(1844)になっています。


現在の、社長さんの名前も、茂木は「榎巍(たかし)氏」、榎木純正堂の名前も、「榎一憲

氏」で同じ、「榎」です。


これは、ネットの「一口香レポート」によれば、先代(伝一郎氏)の長男(正孝氏)が戦死。

次男(純一氏・茂木一○香本店の碑では三男)が純正堂を継承し、戦死された正孝氏の

長男(巍氏)が、一口香発祥の地、茂木で「茂木一○香本店」に改名し、その味を守り続け

ておられるそうです。


さて、「一口香」は、歯の丈夫な方は、良いのですが、歳取ると少しきつくなり、ちゃんと、説

明書きに書いてありますが、柔らかいのが好きな方、又、固くなった時は、オープントース

ターかフライパンで温めれば良いそうです。固いのが好きな方は、「個包装のまま手の平

等で割ってから袋からお出しくだい。」と言うことだそうです。女性の方は、固い方がお好き

かな?


茂木の「一○香本店」のホームページに載っていた写真です。

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「長崎町人誌」の、長崎でいろいろ一番になった所に、「一口香 (当時)西浜町にあった榎

純正堂が弘化元年(1844)に創業したものが最も古い。」となっていますが、「茂木一○

香本店の碑」では、「汐見崎観音(注:所在地、茂木です)参詣者、長崎市中や長崎街道

の旅行者に名産品として大いに好評を博す。」とあり、茂木にも、店があったらしい感じも

しますが、この写真、西浜町でしょうか、茂木でしょうか?もっとも、両方あったという事も

あるでしょうが・・・・弘化元年には写真機はありませんから、近代の写真でしょうが。


私の母の実家が、中華街の新地で、遊びに行った時、近くの店屋に売ってあった、ごまパ

ン。よく買いに行きましたが、

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このごまパン、昔は菓子を入れるビンに入れてあって、一個一個売ってあって、駄菓子と

いう感じだったのですが、今や観光土産。昔、行っていた店は、ありませんでした。


これには、「糖餅(黒砂糖味)」と「光餅(塩味)」と2種類あって、「糖餅」は「一口香」と一緒

で、中身が空洞。「光餅」は、中がふくれてないもの。昔は、どちらも「ごまパン」と行った覚

えがあるのですが・・・・・


左が「糖餅」。UFO見たいな形で、中身は空洞。中には、黒砂糖と蜂蜜が配合してありま

す。「一口香」と一緒です。右は「光餅」。そのままでも、ハム、蒲鉾等を挟んでも良いそう

です。

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「ごまパンのつぶやきとして」説明があり、


「私たちは、黒砂糖(糖餅)と塩味(光餅)の姉妹です。中国生まれ日本へはまだお侍が大

勢いた頃に、船に乗ってやって来ました。着いたところが長崎の港で、たくさんの人に可愛

がっていただき、すっかり長崎が好きになりました。」という事です。


ごまパンを買う時、同じ物で、値段の高いのと安いのがあり、どちらか迷っていると、店の

おばちゃんが、「同じよ。安かほうが、賞味期限があと4日で、安うしとるけん、安か方ば買

うていかんね」。


さて、「一口香」が10個。「ごまパン」が9個。合わせて19個。どうしましょう?

(引用:各店パンフレット、「長崎町人誌」「茂木一○香本店の碑」等より)



2014年4月23日 (水)

「健康診断基準値」?~週刊ポストより

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別に、「肉食熟女が欲しいSEXは童貞が知っている」を読みたくて、400円も出したわけで

はありません。まあ、これはこれで面白かったけど。


気になったのが、白の四角で囲んだ部分、「血圧147は健康値の怪奇」。

読んでみると、PART1、PART2、PART3と別れていて、、一番気になったのが、PATRT1

の、「いままで我々は『病人』扱いされ薬漬けにされてきたってことか!?」


健康診断を受けている、よい子、ではなく、よい大人の方、結果表をもらい、そこに書いて

ある数値で、治療を受けるとか、再健診とか判断されますが・・・・


この数値が、「人間ドック学界が4月4日、血圧やコレステロール値、肥満度などについて

行った大規模調査の中間報告を発表。そこで、現在の健康診断で採用されている健康基

準値と大きく差がある『新基準値』が公表されたのだ。」というもの。

あくまで、中間発表としてありますが・・・・

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赤い枠で囲んだ所が、「今回解析された基準」で、その右の数値が、従来のものです。

例えば今まで、血圧の上が129以上、下が84以上なら「高血圧」でしたが、新基準では9

4~147ではセーフで、上が140なら、今までは「高血圧」と診断されましたが、新基準で

はOKというわけです。


BMIも、男性は25以上はメタボと云われましたが、新基準では27.7までOK。私も、これ

で、メタボと云われなくても良いと言うことです。


なお、総コレステロールなど、女性の部分、年齢によって、変わっています。いままでは一

律だったのですが、まあ、20代の若い女性と、80代の高齢者では、違うのが当然でし

ょう。男性と女性も分けてあります。


中間発表ですから、専門医からの反論もあるでしょうが、皆さんの、健康診断の結果と見

比べてはいかが。


PART2は、「『患者』を量産したい医者・製薬会社 医療費を減らしたい役人ども」

基準値が変わると治療・薬が違ってきて、基準値が厳しいなら病気と診断され、治療・投

薬が必要。

基準値が緩くなると、病気とは診断されず、診療も不必要で、必然的に医療費の軽減にな

ります。なにか、お金の匂いがしますが・・・


PART3は「中高年は『薬は5種類まで』にしろ。」

私も6種類の薬を飲んでいますが、あれ、今日は飲んだっけ、なんて云うことが始終です

が・・・


健康に気をつけることは、必要ですが、あくまで、自己責任の部分が大きいので、一度読

んでみて、考えられては如何。


関係ありませんが、ポストに載っていましたので、おまけに。

宮中晩餐会の招待状で、菊のご紋は金の箔押しだそうです。

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テーブルは、こんな感じだそうで、ナイフとかフォークをこんなに並べて、どうするんですか

ね?コップもたくさんあって、日本酒用、ビール用、焼酎用、ウィスキー用、泡盛用なのか

な?

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私、招待されても、行きません。「ねーちゃん、箸持って来て」なんて、言える雰囲気ではな

いでしょう。

(文引用・写真:「週刊ポスト 5月2日号」より)




2014年4月22日 (火)

「新長崎市史」~勝海舟・坂本龍馬の道をめぐって?

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本当にバカですね。先日「大村市史」を買い、「諫早市史(現在、新しいものが出版されて

ないため中古で、いわずと知れた高価本)」を買い、昨日は「有明町史」(現在は合併で島

原市)、今日は「長崎市史」と買い集め、ろくに読みもしないのに・・・・・キャバクラで遊んだ

方が良かったか  。


長崎市史は、カラー版であり、一冊なんと8000円。全巻4巻ですから、8000円×4巻

でいくらになるか、分かりますね。さすがに、全部は買い切れず、「近代」と「現代」は、パス

して、上の二巻を買いました。


長崎市はこれまで、大正から昭和にかけての「長崎市史」に始まり、「長崎市制五十年」、

「長崎市制六十五年史」、「長崎市史年表」、「市制百年長崎年表」を刊行。平成21年の

市制施行120周年を契機に「新長崎市史」を刊行したそうです。我が雲仙市は、いつに

なることやら、「市制1000年史」ぐらいかな?


さて、関係の所を読んでみると、???。


「元治元年(1864)勝海舟と坂本龍馬一行も長崎を訪れているが、往路は2月22日島原

港を発ち、陸路、神代村を経由、その日は愛津村(雲仙市愛野町)に宿泊、23日矢上宿

を経由、長崎に到着している。復路も4月5日長崎を発ち、その日愛津村に宿泊、6日に

島原港を出港している。」(下線は私が引いたもの)とあります。


島原から長崎に行くには

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(「長崎龍馬の道活用広域観光推進協議会」刊、「龍馬の道」パンフレットより)


白の矢印、「北目道」と、黒の矢印「千々石道」があり、北目道は緩やか、千々石道は、山

越えの急な道になります。ただ、距離的には、北目道と千々石道では、かなりの違いがあ

り、千々石道の方が、近道になります。勝海舟一行はこの時、急いでいます。神代は、遠

回りの北目道にあります。


長崎市史では、往路、復路とも「北目道」説をとっていますが、地元では、往路は千々石

道、復路は北目道という説をとっています。


根拠は、「勝海舟日記」にあり、この日記、刊行jされていて、長崎図書館から借りて、コピ

ーしていたのですが、どこへやったのか、本当に歳はとりたくないもの。


「長崎龍馬の道活用広域観光推進協議会」から出しているパンフレットに、書いてあった

ので借用して、往路について


「少しでも距離が短い山沿いのちぢわ(千々石)道を通ったという説がある。」ということで、

勝海舟日記から引用して


「大石雑わり、小石、道路満ちて甚だ悪し、雲仙の獄、噴出せしによるか、西洋に云うラア

ミ(溶岩)年を経しものならむ。」と書いてあります。


雲仙は、噴火をしていますから、道は荒れているはずで、北目道のように、歩きやすい道

ではありません。確か日記では次いで、「会津泊(愛津ではなく会津との記憶があります)」

とのみ書いてあり、途中の経路については、まったく書いてなかった覚えがあります。


なお、復路は「鍋島日記」(神代の鍋島家)で、一行20名ばかり、休憩を取ったとの記述

がありますから、復路は北目道を通った事は間違いありません。


復路で、記録があるなら、公のことですから、往路の事も「鍋島日記」に書いてあるはずで

すが、これに言及したものは無いようです。


なお、「長崎龍馬の道活用広域観光推進協議会」の「龍馬の道 道標」に変なことが書い

てあり、


「神代鍋島家の4月20日付『鍋島日記』に次のような記載があります。(下線は私)

『公役人長崎江御用筋ニ而罷越候段(中略)神代江休之由ニ付町内休所割付手当相成

候事』

海舟一行は神代鍋島家の計らいで、街道をはずれ神代小路で休息を取ったようです。」

と書いてありますが、勝海舟一行が島原に着いたのが、確か2月22日あたりですから、

日にちが全然違い、上記の文章は、違う一行の事では?


なお、同協議会が出している、別パンフレット、「龍馬之道」では、ちゃんと、2月になってい

ました。


「島原半島の歴史~松尾卓次監修」では、帰路につき、現代語訳にされたものですが


「(四月五日、小雨後晴)最前長崎へ罷りこされた公役人が今昼別当で休まれ(略)休所

手当ていたす。一、御軍艦奉行並勝麟太郎上下弐十人(略)」この二十人の中に坂本龍

馬が含まれていた。」


とあり、この文章の方が、本当の事です。私も「勝海舟日記」で読んだ事を覚えています。

いずれにしても、歴史的な事物は、はっきりしないところが多いのですが、しっかりと調べ

て欲しいものです。私のブログも、後で読み返してかなり、ポカをしていますが・・・・いつも

のように、 ヾ(_ _*)ハンセイ・・・


なお、日記は後世の人が迷わないように、しっかりつけておきましょう。まあ、あまり偉くな

い人には関係ないけど  。








2014年4月21日 (月)

「島原城跡公園災害復旧工事竣工式」~島原市

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何回か写真を出しましたが、復旧なった石垣です。2年前だったか、豪雨で崩れ、直るの

かな、と思っていたら、期日どうりに完成。崩壊した所と、崩壊していない所が分かると思

います。


昨日、復旧工事の竣工式が行われ、これに伴い、基調講演、シンポジュームが行われ、

話を聞いたら、はやり餅屋は餅屋。単なる城だと思ったら、専門家の目は違いますね。こ

の城を、見直してしまいました。


頭に残った事などを。

この城は、国指定でも、県指定でもありませんが、専門家の目から見たら、なぜ、この城

が国の指定にならないか、不思議だそうです。

復旧のための委員と、現場でのチーフの皆さん。

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崩壊した石垣の部分ですが、幸いに、以前撮った空中写真があり、崩れ落ちた石垣の一

つ一つが、どこに当てはまるか、比べたそうですが、この作業が一番大変だったらしく、こ

れだけで、2~3ヶ月かかったそうです。


ジグゾーパズルと言っていましたが、ジグゾーパズルなら、絵柄が出て正解かどうか、分

かりますが、これは、素人には全然分かりません。なにしろ、同じような石が、600~700

個あったと言いますから。

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このシンポジュームのなかで、「城が悲鳴あげていた」という発言がありましたが、島原城

は、復元後、多くの施設を上に作り、駐車場も舗装されていますが、これらが、元来の城

の機能を変えてしまったのではないか?排水も偏って、そのための崩落ではなかったかと

のことで、今後どうするか?従来の形に戻していくのか?


城を作る時、権威を示すためのモニュメントととして、巨石、鏡石を使うそうですが、他の

城にも見られないような、巨石が使われているそうで、写真、上右の石、今までそこにあ

った、自然石を利用したと思っていたら、これも、石垣の巨石の一つだそうです。


この辺は二の丸から、本丸に行くところで、観光客の方はほとんど、来ないところです。

重機も無い時代、どうして積み上げたのでしょう?

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これは、平成19年に、島原城を研究された、U氏の島原城の防御構造の一つで、スライド

で写したものを撮影したものですが、赤の部分が本丸に辿り着くまでの道順です。


二の丸の橋を渡って、現在は文化会館、森岳公民館が建っているところを通って、二の丸

から、本丸までは橋を渡り、また、曲がりくねった道を通り、やっと本丸に辿り着きますが、

思うように直進できず、この間、攻め手は両側から鉄炮、投石などで攻められ、戦力が削

がれるわけです。「近世城郭では最高水準の防御構造」だそうです。


いざとなったら、二の丸、本丸の間の橋を壊してしまえば、本丸は独立してしまう、という事

になります。

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二の丸から、本丸に至る橋が、大体ここらあたりに架かっていたそうです。(二の丸跡に建

てられた、文化会館裏手側にあります。橋がどこに架かっていたか、標識があると、あ

りがたいのですが・・・・

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参加者の方から質問があり、毎日散歩をしているが、石垣近くの松が大きくなりすぎ、根

が張って、台風等の時、倒木し、一緒に石垣が壊れないかというもの。


これに対し、城の石垣が崩れる原因の67%が、そのような事で崩れているとか。それに

対するマニュアルなどは無いそうです。


景観は松があった方が良いのですが・・・・・古人曰く「城には松が良く似合う、私にはカミ

サンが良く似合う  」

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シンポジュームの後、現場で、記念式典。餅つき、餅播き。例によって、どこにでも顔を出

す、長崎「がんばらんば国体」、マスコットの、がんばくんと、らんばちゃん。

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とにかく、この他いろいろな話がありましたが、専門家の意見を聞いて、見直しました。

城の詳しいことついては、観光ボランティアさんがいて、研修をして、いろいろ学んでいま

すので、城を訪ねる場合は、ボランティアさんにお願いした方が、良いのではないかと思い

ます。まだまだ、隠された謎が多いような城です。


なお、この城は現在、観光関係の部署が管轄しており、文化財担当はほとんどタッチして

ないそうです。文化財というより、観光資源として見ているような感じで、話によれば、50

年で27億円稼いだそうでが、文化財としての見直しも、本格的に必要な感じがしました。


ただ、七万石の城にしては、立派すぎる城だとか。このために、島原半島の住民は重税、

苦役で困窮し、原城一揆が起こるのですが・・・・


追伸です。島原城の石垣は、島原半島の各城から運んで、集めたものです。



2014年4月19日 (土)

「天祐寺 奥の院 虚空蔵」~諫早市

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諫早の上山公園を車で通る時、いつも気になっていた看板。「天祐寺 奥の院 虚空蔵参

道」。「奥の院」という字に、何となく、引かれて、寄ることに。

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感じの良い山門をくぐると、道をやり替えたのでしょうか。歩きやすく、気持ちの良いところ

でした。


途中、天祐寺の信徒の方でしょうか、参道の落ち葉を掃いている方に聞いたら、昔は砂利

道であったとか。途中、矢印のような建物があって、中を覗いたら、ブッタマゲました。

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なんと、東南アジアの神々が・・・・ここは天祐寺で、天祐寺は曹洞宗で、諫早の領主西郷

氏のとき菩提寺として開創され、その後、龍造寺家(後、諫早家)が諫早を支配し、その菩

提寺になるのですが・・・・・


なぜ、東南アジア系の神を祀ってあるのか?ご住職さんの考えなのでしょうが、まあ、見る

と、とにかく興味深く、日本の仏教に与えた影響が分かるような感じでした。



説明がしてあったので、参考にしながら少しばかり、

左が大黑天(マハーカーラ)。日本の大黑天とは全然違いますね。踏みつけているのは魔

神。寺院を守護し、財産を守ってくださるそうです。


右は迦那鉢底尊(がばなていそん ガバナティ)。インドでは、ガネーシャ。日本では聖天・

歓喜天だそうですが、どこかで覚えありません?


小説「夢をかなえるゾウ」に出てくる神様です。古くは様々な障害をもたらす魔の首領であ

ったそうですが、転じて、厄災から守ってくださり、財産を増やし、財宝を授けてくださるそう

です。

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右から、緑の多羅菩薩(たらぼさつ ターラ)。観音菩薩の慈悲の涙から生まれたそうで

す。真ん中が、聖観自在(観音様です)。左が、二十一尊の多羅菩薩。緑の多羅菩薩を囲

んで、二十尊が回りを取り囲み、曼荼羅になっています。

確か日本の十三仏の板碑にも、同じ感じのがありますね。

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実は、この仏像は、日本の彫刻師が作ったと思ったのですが、説明に「ネパールで400年

も続く仏師の家系であるダルマ・シャキャ氏によって、ネパールの石で作られた仏像であ

る。」と書いてありました。本物中の本物ですね。


右が、金剛手菩薩。釈尊のガードマンだそうです。日本では金剛力士像として知られてい

るそうです。


真ん中が、五字文殊菩薩。仏の知恵を表すそうで、学業成就にご利益があるそうです。受

験勉強の際には是非どうぞ。


左が、六字観自在。観音様の真言「オーン・マニ・パドメー・フーン」の威力が仏様になった

もので、仏の慈悲を表すものだそうで、十月生まれの守護観音だそうです。


そういえば、日本にも三十番神があって、毎日交替で、国家や国民の守護をするというこ

とだそうですが、やはり、この影響なのでしょうか?

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日本にお馴染みの不動明王。日本の不動明王とは随分違いますね。大日如来の使者に

して、仏法の守護神。

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まだあるのですが、後は皆さんが拝観する時の楽しみに・・・


なお、一番上の仏像は、金剛如来像。お釈迦様ですが、説明によると、「菩提樹の下の金

剛座で悟りを開かれたお釈迦様のお姿です。右手を地面につけた触地印を結び、降魔成

道としてしられております。」と書かれていました。


さて、一番上に虚空蔵堂ががありますが、この由来については説明版があり

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多分左が拝殿でしょう。後の方に回ったら、右のお堂があり、こちらが本殿で、虚空菩薩

像が納められていると思いますが、覗くことは出来ません。

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道々こんな素敵な風景もあります。少し、坂道になりますが、一度は拝観してはいかがでし

ょう。

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(参考・文引用:天祐寺様、各説明文より)





2014年4月18日 (金)

好きなマンガ~「東伍郎とまろすけ~長月キュー著」★「派遣戦士 山田のり子~たかの宋美著」

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マンガはこの歳になっても、読んでます。

現在は、「ビッグコミック」、「ビッグコミックスピリッツ」、「ビッグコミックオリジナル」だけに

なりましたが、以前はこれに「少年ジャンプ」、「少年キング」、「少年マガジン」、「少年サン

デー」、「プレイコミック」、あと2,3誌読んでいましたが、どうも、歳取ると目はかすむし、筋

が頭に入らない、読むのに時間かかかるということで、「ビッグコミック」系統だけにしまし

た。


考えれば、「ビッグコミック」系統には、手塚治虫、石ノ森章太郎、白土三平、藤子・不二

雄、水木しげる(まだ現役だったか)、等々描いて、随分映画化されたものもありました。


上の、「東伍郎とまれすけ」。東伍郎は武士ですが、まろすけは猫の名前です。この、東伍

郎の強いこと。後から切りつけられてもかくの如し。

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「東海道沿いの小藩」にいるようですが、町道場で指導をまかされているが、師範ではな

く、その強さを聞いて、諸藩から召し抱えたいとの話がありますが、これ、全部お断り。

その理由は、とにかく、猫好きで、仕官すると猫と遊ぶ時間が少なくなるから。

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この、「まろすけ」の可愛いこと。猫好きの人には、たまりませんネ。東伍郎さん、まろすけ

をかわいがりすぎて、まろすけは、少し迷惑気味ですが。


まだ、第一巻目ですが、どのような展開になるか楽しみです。作者は、第261回のスピリ

ッツ賞を取っていますが、猫の好きな方は、お読みください。映画にすると面白そうなので

すが・・・・

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この「派遣戦士 山田のり子」さん、ガソリンスタンドで、洗車する時、時間がかかるので、

置いてあった「まんがタウン」に連載してあって、よく読んでいたのですが、ガソリンスタンド

が予算削減のためか、いつの間にか置いてなく、単行本になっているのを見て、全12巻

購入。マンガの基本、4コマ、マンガです。


この山田さん、すごいですよ。仕事バリバリ。社員より仕事は出来ます。

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何となくクールで地味な感じ。未婚で年齢不詳。結婚願望はあるみたいですが・・・

鼻と口がかいてありませんが、時々、描いてあると、美人か恐るべき顔か、どちらかにな

ります。同僚には好かれていますが、仕事には厳しく、ミスがあると、お仕置き。時々愛嬌

を見せます。


裁縫は上手、体のツボ押しはプロ並み、鍼灸は練習中、ゴールデンウィークのお土産は

NASAのクッキー、外国語ペラペラで、アラビア語まで出来るらしく、パソコンの分解掃除も

お手の物、正月の故郷のお土産は、シンガポールと、中国のお菓子と、塩まんじゅう、右

手と左手を使ってパソコンを打って、足では、書類をめくり、お菓子、料理作りは旨く、催眠

術もでき、とにかく、持っている資格が100あまり。


刀を持っていますが、蚊、真っ二つで、ケーキを切るのも、鉛筆を削るのも、若手社員を脅

すのにも使います。


派遣社員ですから、勤務はジャスト9時から、午後5時まで、どんなに仕事が多くても、絶

対的に仕上げていきます。


9時の勤務は絶対的で、時間ギリギリの時は、天井から降りてきたり、床から出てきたり

(のり子さん建物改造もこっそりやっています)、洪水が起こり、社員が出社できない時

も、出社してきます。5時になると、これも絶対的に帰るといっても、社員旅行等にはちゃ

んと参加します。


私生活はほとんど不明。しかし、年賀状は沢山来て、くじ運は良いらしく、商品をリヤカー

で運んでいました。なお、花粉症です。

作者は第一巻の、あとがきで「自分はこれだけ描いておきながら、未だ私はのり子のキャ

ラクターがつかめません」と書いていますが、これ、読者の私も一緒です。

このような派遣社員が2,3人いれば、会社は安心でしょうが・・・・現実の社会は、派遣ば

かりが多くなってきました・・・・・


以上の二冊の本、気が滅入った時など、読めば少しは、気が楽になりますヨ。


2014年4月17日 (木)

ちょっと「田代原」まで~雲仙市千々石町

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数年前、写真に凝り、雲仙の九千部岳まで、写真機に三脚を担いで良く登りましたが、今

日は天気は良いし、カミサンは家にいて、やぜくるしいし、久しぶりに九千部の麓、田代原

まで出かけることに。

左が九千部岳、右が吾妻岳。赤の矢印がトレイルセンター。ここから、車道を渡った所

が、登り口になっています。なお、トレイルセンターは5月から11月までが利用期間。

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この山の間に、田代原という放牧場があり、藩政時代からの放牧場であり、管理している

方に聞いたら、鍋島の殿さま(島原半島には、佐賀藩の飛び地として、神代鍋島家領があ

ります)から、祖先の方が管理を命令されたそうです。


さて、以前は,牧場の入り口を開けて、牧場を抜け、登り口まで行って、登っていましたが、

へたすると、牛のお食事時間にあたり、入り口あたりに餌場がありますから、牛が何十頭

といて、間を縫って歩くのですが、怖かったですね。牛肉にして売ってあるのは好きです

が・・・・


左が入り口で、右が何名山へ登ったかのカウンター機。絹笠山にもありましたが、こちら

は柵があるので、グルグル回られません。登山者数を増やすべく、協力したいのです

が・・・

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道は本当に良くなっています。

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おまけに四阿まで。風景は絶望的に見られませんが・・・・・お休み処ですね。

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さて、数年前までは、九千部岳は、何の事もなく無く登っていたのですが、入り口に着く前

に、足はガクガク、心臓はパクパクで、歳を感じました。心臓病があるので、万が一のこと

を考え、携帯電話をみたら「圏外」。回れ右をして、戻りました。

あちこち、野花をみて歩いていると、穴があちらこちらに。写真では分かりにくいけど、かな

り深い穴です。猪が掘った穴です。牙と鼻で掘った。

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さて、トレイルセンターの回りに、ドウダンツツジが植栽してあって、満開でした。本当は、

自然の林の中で見るのが、趣があるのですが・・・・

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昔は知っていた野花の名前が、すんなり出てきません。哀しいですね。

ところで、山道を歩いていると、なんとなく感じるものがあって、探したら、道の側にありまし

た。カンアオイ。寒気にも葉があるので「寒葵」。「九州の花図鑑~益村聖作画・解説」には

「本当のカンアオイは九州にはない」と書いてありますが、「ウンゼンカンアオイ」と言うの

が載せてあり、これで間違いないでしょう。真ん中の落ち葉を除けると、花が咲いていまし

た。


赤のやじるが花です。え?これが花?って言わないで下さい。人間にも、美人と、そうで無

い方もおられるでしょう。慣れれば、可愛いものです。

持って帰らないように、国立公園ですから、木の枝一本折るのも禁止されています。もっと

も、普通の方には、カンアオイは雑草と同じようで、分からないでしょうが・・・・

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何というキノコなのか?昔、植物学をやっている人に聞きました、「毒茸と、普通の茸の見

分け方はありませんか」、先生曰く「難しいですね。とにかく、食べて見て、一週間なんとも

なければ毒茸ではありません。食べて、症状が出るまで、時間がかかる毒茸がありますか

ら」。

右は、「しのぶくさ」。古いワラ屋根の軒に生えるのは「のきしのぶ」。カミサンに寄生して、

忍んでいるのは、私そっくり。

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オオイヌのフグリ。可愛い花なのに、可哀想な名前をつけられて。果実が犬の睾丸そっくり

なんですって。

ナズナ、でしたっけ。横から見ると、あまり面白くないですが、上から見ると意外と絵になり

ますね。

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ヒメオオドリコソウ。オドリコソウという名にしては少し地味ですが・・・・

何の草の若葉だったか?アカメガシワだったかな。春を感じます。園芸用でなく、野花も風

情があって良いですね。畑に生えれば、雑草なのですが・・・・

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この田代原、ヤマボウシが多く、その時は又、写真でも。最後に、シロドウダンの写真をも

う一枚。

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忘れていました、一番上の写真は、シャガの花。少し湿った、日陰に咲きます。


2014年4月16日 (水)

B-1グランプリ準優勝「とんちゃん」弁当発売

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「とんちゃん」の事については、「とんちゃん」がB-1グランプリで準優勝をした時、ブログで

取り上げましたが、この「とんちゃん」を、ファミリーマートが、弁当、おにぎりとして売り出す

とか、

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セブンイレブンが、高校生が作った食品の発売なら、ファミリーマートはB-1で対抗か?

弁当は、対馬北部の町おこし団体「対馬とんちゃん部隊」の監修。


対馬は二つの島からなり、以前は「上県郡」と「下県郡」でした。「かみけんぐん」、「しもけ

んぐん」ではありません。「かみあがたぐん」、「しもあがたぐん」と読みます。現在は合併し

て、「対馬市」になりました。


さて、商品は、「とんちゃん重」、「上対馬とんちゃん」、おにぎりの「直巻 上対馬とんちゃ

ん」の3種類。昼過ぎ行って見たら、「とんちゃん重」が、1個だけ残っていました。おにぎり

も4,5個しか残ってなく、、両方購入。「上対馬とんちゃん」は売り切れ。


ラベルの、「B-1グランプリ」の字が光りますね。「ちょいワルとんちゃん」のイメージ、良い

ですね。ついでに、着ぐるみも作ったら、面白いかも。

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弁当の中身です。野菜と「とんちゃん」。

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おにぎりの方。こんな感じで、「とんちゃん」が入っていました。

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美味しかったか?

青春の一時期を過ごした所です。何人の女の子に振られたことか。思い出しながら食べて

いたら、涙がジワッと・・・・・・ 


限定食品で、こんなのも出ていたので、買って来ました。

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こんなの食べても、カミサンには勝てないですがネ。


2014年4月15日 (火)

千々石「豆なるな」と広田言証師~弘法大師と今弘法の話

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以前、この天如塔については書いた所です。→こちらをクリック 「その1」 「その2


海外で、「からゆきさん」として働いた女性達が、寄進をし、当時の、ここのお寺の住職、故

広田言証師が建てられたもので、百年ほど経ち、崩壊寸前の所、これではいけないと、寄

付を募り、修復工事をし、出来上がりました。内部は、もう少し工事中でしたが。


広田言証師は、不思議な力もあったようで、病気を治してくれと言われても、何も出来ない

からと、断っていたそうですが、病気の若者が、言証師の杖に触れると、病気が治ったと

いう事もあり、「これには、我ながら不思議にたえないと思っている」と、自分自身が感心し

たそうです。(島原のからゆきさん~倉橋正直著)


そのうち、信者も増え、主に弘法大師の教えに基づく、宗教活動をしていたことから、信者

さんから、現代版の弘法大師と評価され、「今弘法」と呼ばれるようになったそうです。


さて、弘法大師については、各地に伝説があり、水で困っている土地で、杖を立てたところ

から水が湧き上がったとか、温泉が出たとか、大体、良い話が多いようです。


千々石にも、弘法大師に関する話があり、こちらは、あまりいい話でなく、あちらこちら書

いてはありますが、平成10年刊の「千々石町郷土史」によると、以下のような話です。長

いので簡略して書きますが、


弘法大師が千々石を通った時、一軒の家に立ち寄ったところ、おばあさんが、大きな鍋で

何かを煮ており、たずねたところ、味噌を作るため大豆を煮ていると答えると、弘法大師

は、私にもご馳走して欲しいとお願いしたところ、断わられたそうです。


実は、釜の中で赤ん坊(昭和43年刊の千々石町史では「そしてその子はママ子であり、

主人が居らぬ間に煮て殺して居ることもわかった。」:原文のまま)を煮ており、弘法様は

大変怒られ、「村中を歩きながら、『サヤは出来ても実は入るな。サヤは出来ても実は入

るな。』と唱えながら村をでられたそうな。だからその後千々石では、大豆が出来なくなっ

たという。」と書いてあります。(大豆はなるんですが、と言うより、あまり作っていません

が・・・・)以上が千々石での伝説です。


これを聞いた「今弘法」の言証氏、自ら大豆半俵を担って村に出かけ、大豆を村人に配分

し、「大師様がいかに申されたか、わからぬが、その時分と今とは時勢が違う。まず、播い

てみよ。必ず実って、相当に収穫があるから」と言ったそうです。何となく、言証師の性格

が感じられる話です。


村人が、証言師の事を信じ、大豆を播いてみたら、相当な収穫をあげたそうですが、こち

らでは、あまり聞いた事も無く、また、お年寄りをつかまえて、調べてみましょう。



(参考・引用:「島原のからゆきさん・奇僧広田証言と大師堂~倉橋正直著より)


2014年4月14日 (月)

今日は凹みました~前立腺がんの疑い

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今日は、3ヶ月に一回の前立腺の楽しい検査。おしっこ取って、血液取って、後はお医者さ

んのお話しだけ。おしっこの出も良いし大丈夫だろう・・・・・


と、思っていたら、以前から書いているように、PSAの値が徐々に上げっているのが、気に

はなっていたのですが、なんと今日の値は9.21。標準値は4です。前から調べると、大

体の所、5.8→5.9→7.19→9.21。今日の値見て、本当に凹みました。

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以前、生検査をやって「前立腺がん疑いのための生検入院体験記」をブログに書きました

が、また、やってみようかと言われていたのですが、なにや、かやと言って逃げていたので

すが、こりゃあかん、と思って、又、あの恥ずかしい検査を受ける事に。


またもや、お尻の穴グリグリ、可愛いチンコをいじられて・・・可愛い看護師さんなら良いの

ですが、、最近は男の看護師さんが増えていますから・・・・医師会には、看護師さんのご

指名制度を作って欲しいですネ。「18番、麗花さん、8号病室まで」なんて、デスね。


以前は一泊で済んだのですが、血液さらさらの薬を飲んでいるので、今回は、念のため、

前泊が3日ばかり、あと、1日程度様子をみて、と言う事になりました。

「どんなんでしょう?」と聞いたら、「この間のMRと今日の値から見て、間違いないでしょう」

ん~、何が「間違いない」のでしょう?


と言うことで、一応入院の書類を説明してもらって、「個室にしますか?」「はい、カウンター

バーとカラオケとバニーガールが付いた部屋を」。冗談が通じない事務員さんでした・・・


来月あたりは4,5日お休みします。まあ、検査入院だから、そんなに心配はしていません

が、本手術となったら、逃げ出すか。とにかく、注射を打たれるのも恐ろしくて。


ところで、アクセス解析を見ると、毎日、かならず「前立線がん 生研」で検索がされている

ようで、はやり、男性の方は、前立腺で悩んでおられる方が多いのでしょう。女性には関係

の無い病気ですが。


ちなみに、検査入院は時々問診、尿検査があるくらいで、時間はあるし、カミサンはいない

し、じっくり読書でもしてみる予定です。読む本が溜まっているので、何を持っていくか・・


来月には、「前立腺がん疑いのための生検入院体験記 パート2」を書く予定です。お楽し

みに。

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帰りに買った、「ぷっちん・ようかん」。爪楊枝でつつっくと、皮がクルッとむけます。久しぶ

りで、面白く、全部ぷっちんして食べました。


私の皮もつついてみましたが、むけませんでした。チ○コの皮で無く、少し出てきた、ポン

ポンの皮ですヨ。あなた、なに想像しているんですか。


2014年4月12日 (土)

2014 「諫早つつじ祭り」~諫早市

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市川雷蔵でも、松方英樹でも、片岡千恵蔵でも、東千代之介でも、松方弘樹でも、ありま

せん(古いな!)。私です。


今日は、諫早で「諫早つつじ祭り」があり、天気予報では、昼から明日にかけては雨、とい

うことで、朝から出かけました。


本音は、「着物deお写真」というのがあり、てっきりモデルさんが来ての撮影会だと思った

のですが、本人が着物を着て写真を撮るとのこと。少し残念。


利用しているのは女性の方ばかりで、受付に行って、冗談に、「男でも良い?」「はい、良

いですよ」。


言い出した手前、断る分けにもいかず、申し込みました。和服を着るのは、結婚式以来、

生涯で二度目。


着替え用のテントから出ると、周りにいる人、一斉に、私を見て、「格好良い!」。これ、い

つもの冗談ではありません。天に誓って本当の事です。そういえば、和服の男性の姿、最

近、見ることありませんから、でしょう。「おヒゲがいいわ~」、なんて言っておられた方もい

ましたが。


和服を借りて、写真機は主催者で準備して撮ってくれて、後日、良い写真を選んでくれると

か。これで、500円。嘘みたいなお安さ。おかげで、葬式用の良い写真が撮れました。ボ

チボチ準備しようかなと思っていたところ。


例年によって、ミニ眼鏡橋で一枚。こうして見ると、単なる、おじさんだな。

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フリーマーケットは、消費税値上げのためか、以外と盛況。

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諫早の郷土料理として売り出し中の「ぬっぺ飯」。

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ぬっぺ飯の看板、何というか、「日本一地味で・・・・」。まあ、本当に地味ですが、味は良い

ですよ・・・・・・・最近売り出し中の「幻の高来そば」。

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今年は、諫早ボランティアガイドさんが、一日4回程度、会場を中心に説明していました

が、眼鏡橋の階段。見るとおり、高さが低く、広いのが分かると思いますが、これは、駕籠

が(お殿様の駕籠かな?)、階段に当たらないようにとの配慮だそうです。


下の部分に、「要石」があって、それをはずすと橋は崩れ落ちるそうです。どの石かな?

悪い子の皆さんは、いらないことをしないように・・・・・・

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橋の上の「おねがいシャボン玉」コーナー。

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大手門です。右手の方もツツジですが、日当たりのせいか、まだ、咲いていませんでした。

いつもと違う、つつじの風景をと思っていたのですが・・・・・

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はやり、ここが定番ですね。

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会場に銅像があります。今日はバルーンマジックをやっていたので、少し分かりにくいと思

いますが、左のおじさん、オヘソが見えていますから、上半身裸ですね。昨今、セクハラに

うるさい時代ですが大丈夫ですかネ。


先日、私のブログのコメントで、「心づくし」さんから、質問をされていたのですが、確か、こ

れが設置された時は、話題になった記憶があるのですが、近年はすっかり、公園の風景

の中に溶け込んで、良い雰囲気を醸し出しています。


さて、題か何か、どこかに彫り込んでいないか、椅子の下までのぞき込んでいたら、像の

後の方。

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おじさんのには、「1991 Akihiko Crokawa」、女の子には、「1991 A..Crokawa」と彫って

ありました。残念ながら、題は分かりません。他には彫ってありませんでした。

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会場ではライブなども。

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大人の和服もあるなら、お稚児さんの衣裳もあります。これも衣装代500円ですが、ミニ

眼鏡橋に立たせて写真を撮るもよし、ツツジをバックに撮るもよし。

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大まかな予定を貼っておきますから、ご参考に。あ!「着物deお写真」は今日だけですね。

皆さん、残念でした。又、来年。

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さて、皆さんのアンコールにお答えして、もう一度私の渋い和服姿を・・・

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俳優になれば良かったかな?「いいとも!」。


2014年4月11日 (金)

2014 「第3回 しまばら芝桜まつり」~島原市しまばら芝桜公園

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この間は、諫早白木峰高原の菜の花の黄色。今日は、しまばら芝桜公園の芝桜のピン

ク。


個人的には、ピンクが好きなんですけれど。昔、ピンク○○ンなんて所で、随分お世話に

なりましたから・・・・・男性の方、あなたもでしょう  ?

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今日は、金曜日で平日にもかかわらず、結構なお客さん。修学旅行の生徒さんも来ていま

したから、修学旅行のコースにここが入るのは良いことですね。

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4,5日前、TVで六分咲きと放送していたので、病院通いもあって、今日ぐらい良いかなと

思って行って見ると、ピンクの芝桜は満開でしたが、他の色のがもう少しか?


左が、一昨年の4月27日に撮影したもの。右が今日撮影したもの。PM2.5とかで、写真

では少し分かりにくいのですが、「しまばら芝桜まつり」になって、3回目ですが、芝桜は確

実に大きく育っています。


係の人に聞いたら、雑草の駆除が、一年中大変だとか。ボランティアの皆さんでやってい

ますが、この広さなら、本当に大変な事でしょう。

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さて、去年なかったもの。「権現様の水と双子の大楠」の説明版。

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左が、双子の大楠でしょう。去年は何かなと思っていたのですが、これで意味する所が分

かりました。ちゃんとしめ縄まで張ってあって、木の根元の所には、昨年見たら、温泉熊野

神社のお札が祀ってありましたが、今年もちゃんとあるようでした。


右が現様の水。島原は湧水で有名な所。ここの水も、権現様の水と言うことで、沢山の方

が、水を汲みに来るのでしょう。矢印の所、パイプを引いてあって、水を汲むことが出来る

ようにしてありました。

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考えれば、ここも雲仙の火砕流の被害に遭った地区です。皆さんの手で、もっと有名にな

り、地域の活性化に役立てば良いのですが。


なお、4月下旬までが見どころだそうですが、ゴールデンウィークまで、もてば良いのです

が・・・・


10月上旬~11月中旬まで、「秋桜(こすもす)まつりが」開催されますので、こちらもお越

しを・・・




2014年4月10日 (木)

雲仙「古絵葉書展」&雲仙でハヤシライス~雲仙市雲仙

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先日、雲仙に用事で行くと、丁度「雲仙お山の情報館」で、今年が国立公園になって、80

周年ということで、「古絵葉書展」を開催中。ちょっと覗いて見ました。


いつ頃かの写真か分かりませんが、自動車の屋根の部分がない珍しいもの。多分、仁田

峠を往復した小型バスか?このデザインなら今でも通じますネ。

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こちらは、鳥瞰図ですが、下の説明の所、英文です。雲仙にいかに外人客が多かったか

の証拠でしょう。

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稚児落としの滝。以前書きましたが、雲仙には大きな僧房が二つありましたが、そこの稚

児が飼っていた白雀を、貸せの貸さないので、大人まで出ての大喧嘩、挙げ句の果ては

放火までし、時の島原藩主が出て、稚児が原因だということで、稚児全員を集め、この滝

に投げ落としたそうです。


この間、写真でも撮るつもりで行ったら、立入禁止。理由を聞くと、千々石~雲仙の車道

の拡張工事で、この滝に行く道が無くなり、危険なので立入禁止にしたとか。


本当に、担当したのどこか知りませんが、バカですね。歴史、由緒ある所をどんどん潰して

いく、今の行政は本当にバカばっかりです。


わが町の釜蓋城も、上を切りとってグラウンドにしてしまうし。龍造寺が攻めてきて戦場だ

ったところですから、工事中に鎧とか、遺骨とかが出てきたということを、数名の人から聞

きましたが・・・・・某町の山城も同じく、山頂をグラウンドゴルフ場にしてしまうし、竹林にな

ってしまった城跡もあるし、ひどいところは城跡の真ん中を切り開いて、国道を作るし・・・

ほんまに、めちゃくちゃですわ。


つい興奮しました。(*_ _)人ゴメンナサイ 。

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さて、用事が終わって見ると、ちょうど昼。帰ってもカミサンは又留守で、思い出したのが、

雲仙でハヤシライスを新名物に、という新聞記事。

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とにかく、最近は、どこもかしこも新名物を作って、観光客の誘致に懸命。雲仙は「ハヤシ

ライス」、長崎は「出島ビーフライス」。

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雲仙は、国立公園指定80周年を記念して、新たな名物料理として売り出す料理、飲み物

を先日披露したそうで、★ハヤシライス★サラダ★野菜や果物を材料にした飲料「スムー

ジー」。味付けは各店で、共通条件は、島原半島の野菜を使うこと。

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提供しているところは、この「ハヤシ」という旗が立っています。

が・・・・入って見たら、まだやってない所もあり、聞いたところ、提供をする始めの時間が

決まっていたり、前日から予約が必要だったり、一日限定10食だったり、でバラバラ。


せっかく売り出すなら、各店の独自性を出すのは良いのですが、統一するところは、統一

して欲しいですね。おまけに、15軒で提供するとなっていますが、ネットで探しても、一覧

表は出ていません。


とにかく、食べられるところを聞いて、行きました。どうも、このライスとルーが別々になって

いて、少しづつ食べるのが苦手で、ぶっかけて食べました。

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メニューには、「国立公園指定80周年の2014年より雲仙のご当地グルメになった『ハヤ

シライス』。昭和の初期、外国人に向けにハヤシのルーをカツ丼にかけてだしていたエピソ

ードが由来です。当ホテルでは、甘さを抑えてハッシュドビーフ風のちょっぴり大人の味に

仕上げています。」と言うことだそうです。が、まだ、「ご当地グルメ」にはなってない感じで

すネ。久しぶりの牛肉で、ちょっぴり大人の味で、美味しくはありました。


さて、「ハヤシライス」について、私、「ハッシュドビーフ」の事だったと思っていたのですが、

ネットで調べると、語源説がいろいろあり、面白いのは「早死説」。


当時、四つ足の動物ということで、時代的に受け入れられなく、この料理を食べていたら罰

が当たり、「早死にする」ということで「ハヤシライス」と呼ばれたと言う説。


このホテル、この食堂で食事すると、二名様、40分間、2,500円で「庭園野天付貸切風

呂」を利用出来るそうですから、お二人で「ハヤシライス」を食べて、二人きりで野天風呂で

も楽しまれては

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雑草は強いですね。コンクリートの道の継ぎ目から茂り始めたタンポポ。私も、これくらい

の力強さが欲しいです。今日もカミサンから、「食べるのが早すぎる」と怒られ、ションボリ

しているところです。


追伸

思い出しました。テレビコマーシャルの「ハヤシもあるでよ」。ありましたね。若い人は知り

ませんね・・・・YouTubeで見られます。


2014年4月 9日 (水)

「花子とアン」と「Water is wide」~NHK朝ドラの挿入歌

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NHKの朝ドラで、「赤毛のアン」を翻訳した、村岡花子さんの物語を放映していますが、今

日の最後の所。スコット先生が、歌を歌っているところがありましたが、これ聞いて・・・・・


へえ~、え!、うそ~、マジ!お~、NHKの音楽担当にも、意外とセンスがある人がいるん

だ。


何でかというと、あの曲、前に紹介した「Water is wide」なのです。

あのときは、メアリー・ブラックの歌を紹介しましたが、YouTubeでみると、プロからアマまで

沢山演奏をしていますからご覧下さい。良い曲です。

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「イギリス」は正式には「グレートブリテン及び北(部)アイルランド連合王国」だそうで、「イ

ングランド」、「スコットランド」、「ウェールズ」、「北アイルランド」の4っの「カントリー」から成

り立っているそうです。(歴史、地理の時間は内職の時間でしたから、今日調べてやっと知

りました。)


さて、この曲は、国の名前を正式に書けば長いので、日本式にいって「英国」のトラディショ

ナルソング(伝承されたその地域独特の音楽)です。


ドラマの舞台の学校。村岡花子さんが学んだ学校は、東洋英和女学校で、学校紹介によ

れば、カナダ・メソジスト(現カナダ合同教会)婦人伝道会社から派遣された、ミス・カートル

先生により設立された学校です。外国の先生方は当然のことながら、カナダ人でしょう。


スコット先生が歌っていた歌は、英国の音楽、そして、スコット先生はカナダ人?


これには、私と違って歴史をきちんと勉強した方はご存じの通り、アメリカ、カナダには英

国からの移民がというより、当初、アメリカは英国からの移住者ばかりですが、カナダはフ

ランス人、英国人の移住者です。


必然的に、音楽も英国の影響を受けています。「ミシシッピは月まで狂っている~駒沢敏

器著」で著者は、「今もアパラチアに残されているかもしれないアイルランドの音に出会う

ために」、出かけますが、そこで出会った音楽、「それはまさに、アイルランドの音そのもの

だった。音が出た瞬間から、僕の心には鳥肌が立った。アパラチアの山の奥で、本当にア

イルランドの音が聞けるとは・・・・」と言うように、アメリカの音楽は、英国の音楽の影響を

受けているのです。


さて、カナダ人のスコット先生が、英国のトラディショナル音楽を歌っていたと言うことは、ス

コット先生自身か、親か、先祖の方が英国からカナダへの、移住民であったことが分かり

ます。


この、スコット先生の歌を聞きながら、花は「この時、初めて、あんなにも嫌いだった英語

が花の心に響いてきたのです」という事で、花子さん、今から、英語の勉強にも身を入れて

て、将来「赤毛のアン」を翻訳していくでしょう。


これも、この「Water is wide」を聞いたからでしょうが、もし、この歌を聞かなかったら・・・・


なお、一番上の写真、「新訳 赤毛のアン」。翻訳完成間近、村岡花子さんは急逝され、娘

さんが執筆を受け継がれ、完成された本です。

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ボチボチ、鯉のぼりが立てられてきましたが、少子化のためか、年々少なくなるような・・・




2014年4月 8日 (火)

風景2つ★白木峰高原の菜の花畑・諫早公園ナウ~諫早市

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諫早の図書館に行く途中、あ~、あそこ見に行ってなかったなと、少し寄り道を。


諫早の白木峰高原です。秋は、コスモスで有名で、何回か見に行ったのですが、菜の花

は初めて。


見どころは4月中旬までと聞いていたので、あまり期待はせずに行ったら、まだまだ。

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何となく、黄色の花畑を見ていると、心がイヤされますね。

足元をみると、タンポポも。はやくも、種が飛び出す準備。


タンポポとかけて、私と解く。その心は、「種まきちらす」。


少し古いギャグですが・・・ o(_ _)oペコッ。意味が分からない方は、無理しなくても良いんで

すよ。ストレスがたまりますから。

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すいばも咲いていました。良く見れば、これも可愛い花。名もない雑草は無い、と言うとこ

ろか。


さて、真ん中にモニュメントがありますが、長崎生まれの、世界的彫刻家の流政之氏の作

品です。心して見てください。諫早市制55周年記念のものです。偉そうに書いています

が、横の標柱に書いありました。

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さて、今週の土曜日、12日から20日まで、「諫早つつじ祭り」がはじまるので、ちょっと又

寄り道を。

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咲いているのもあるし、まだなのもありますが、鑑賞するには充分でした。

つつじ祭りに向けて、準備の最終段階。

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新聞のチラシに、つつじ祭のチラシが入っていて、スキャンして載せようと思ったのです

が、チラシが大きく、残念でした。ネットの諫早市役所で検索すると、日程、イベントなど載

っていますので、そちらをご参考に。


2014年4月 7日 (月)

「黄金の十字架と天正遺欧少年使節」~「有馬キリシタン遺産記念館」オープニング企画展

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以前は「原城文化センター」といい、一階の一部を使って、原城jを中心とした遺物等が展

示してあったのですが、世界遺産登録に向けてか、「有馬キリシタン遺産記念館」として、

改装しオープニン。こちらの部屋も以前は、多目的ホールだったのですが、展示会場へと

変身。


観光で原城に来られた方は、ただ見るだけに終わり、日野江城にに来られた方のブログ

を見ると、何にも無かった等と書かれていますが、島原・原城の乱が起こるまでには、そ

れ相当の歴史があり、会場の説明版には、その歴史が分かるように、分かりやすく書か

れていました。原城、日野江城に行かれる方は、是非こちらを見学してからにして下さい。

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日野江城から出土した金箔瓦です。発見当時より、少し金箔の輝きが薄くなっているみた

いですが・・・・有馬家の繁栄を物語るものです。

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メダイと、多分銃弾を溶かして作ったと思われる鉛の十字架。

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火縄銃の銃弾と、弾丸。

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ミニチュアですが、その当時の様子が展示してあります。左は、拷問の様子。ワラの蓑に

火をつける「蓑踊り」。右は、原城攻防の様子。こうして見ると、文字で読むより、イメージ

がはっきりしますね。

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複製ですが、有馬晴信は岡本大八事件で山梨県甲州市大和村に幽閉され、終焉の地と

なりますが、その大和村の臨済宗建長寺派天目山栖雲寺所蔵の虚空像菩薩像。

キリシタン大名の有馬晴信に縁の深い、菩薩像だと考えられています。


胸の前に十字架が書かれています。なお、肩、膝の4カ所の少年達は、「天正遺欧少年使

節」を描いた可能性もあるということです。

残念ながら、ガラスの反射がひどく、上半身しか撮られませんでした。

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黄金の十字架は、残念ながら撮影禁止でしたが、入り口の看板の下に書かれたようなも

ので、普通の十字架の金作りかと思っていたら、全然違って、ビックリするような精密な作

りでした。


説明版によると、大阪中津の南蛮文化会館所蔵だそうですが、1951年に原城本丸跡か

ら発掘されたもの。縦4.8㎝、横3.2㎝。22金だったかな?


出自は分からないそうですが、イエズス会の日本年報には、「ローマ教皇から天正遺欧少

年使節を通じて黄金の十字架が有馬晴信に贈られた」という報告もあるそうです。

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会場に来ることが出来ない方は、南島原市のホームページ「知られざるキリシタン王国、

光と影」をご覧下さい。→こちらをクリック




2014年4月 5日 (土)

「はた揚げ大会」~雲仙市吾妻町・愛野町

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昨年も「愛のハタあげ大会」で紹介しましたが、先週3月30日には、「吾妻町はた保存会」

による「第18回吾妻町はた保存会はた揚げ大会」、今日は、「愛野町剣舞箏保存会」によ

る、「第18回愛のハタあげ」が開催。


明日は、長崎市で「唐八景のハタ揚げ大会」。なんと、新聞紙2面をぶち抜いての特集。他

の所ありませんよね。


長崎のハタ揚げは、ヨマ(ハタを揚げる糸)のさきの方に、ビードロ(ガラス)を小さく砕き、

接着済で塗りつけ、他のハタに絡めて、糸を切り合うという、「ハタ合戦」をします。


切られたからといって、喧嘩することもなく、飛んでいったハタは、子どもが追っかけて拾っ

て、自分の物とします。


「郷土史事典~長崎文献社刊」にはこう書いてあります。


「合戦手合わせの申し込みは予め礼儀正しく行われ切り合いも正々堂々としていた。江戸

時代からのはたあげ大会の世話町も数か町定められ、物事の一切の処理をした。今日で

もこの伝統は守られていて、はたの切り合いに関する紛争は少ない。」


新聞にはちゃんと、「ハタ合戦出場者名簿」まで載っていて、49歳から78歳までの16名

の方が出場されるそうで、こうなると、ハタ揚げ(関東では凧あげ)は子どもの遊びとは言

えないデスネ。

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さて、一番上の写真のハタは「剣舞箏」といいますが、「郷土史事典」では少し形が違って

おり、

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こんな感じで、「けんむそう」書いてあり、「下に三本のハタの骨が出ているのが劔に見立

てられて。」と書かれていますが、こちらでは「けんぼうそう」と言い、真ん中の所が尖って

なく。

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おめでたい絵が描いてあり、男の子の誕生を祝って揚げるものだそうです。

こちらは、子どもの似顔絵が描いてありますが、下に書いてあるのが家紋で、夫婦両家の

家紋を入れるそうです。

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さて、今日は思い思いにハタを作ってお持ちより.

左はバラモンと言われるハタ。

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「郷土史事典」にも「ばらもんを揚げる(江戸時代)」と書いてありますが、四人かかりです

から、かなり大きなハタでしょう。

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右の方は、コブラだそうです。

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これ、ナンデショウ。右は、わざわざ天草から来られた方のハタ、「なんとか、かんとか

(又、名前忘れました)。」

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ノンビリと連バタ。80枚だそうです。愛野のハタ保存会の法被。「剣舞箏」が描いてありま

す。

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収穫を終えた田んぼの中で、ノンビリと良いですね。

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こちらが、普通長崎で使うハタです。「郷土史事典」によれば、「あごばた」という種類で、出

島蘭館のインドネシア人から伝わったと書いてあります。関東のハタより上下左右に操作

がしやすく、ハタ合戦には向いています。

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以前、諫早でもハタ揚げ(長崎とは違って大型のハタ)が禁止になったことを書きました

が、長崎でもハタ揚げ盛んになりすぎ、禁止になっています。


「長崎町人誌」によれば、「奉行所は安永二年(1773)次いで天命元年(1781)『ハタあ

げ』取り締まり法令をだしている」。


にもかかわらず、益々「ハタあげ」に熱狂し、野山のみでなく町中でハタを揚げ、屋根の瓦

などを踏みわり、人の家の庭木をあらし、口喧嘩でけが人が出たりで、文化一二年(181

6)に禁止令を公布したそうです。


しかしこれも、10年たたないうち、奢侈禁止令にもかかわらず、美妓、酒をたずさえ、三

味線、太鼓の囃子でハタを揚げる者がいたため、嘉永二年(1849)に「ハタあげ」禁止令

を出し、次のように訓令したそうです。


「一切ハタあげ申間敷のこと。近頃面々家業の営を忘却しハタあげ相い聞え候。如何の

事候。向後ハタあげ候者共これあるにおいては急度(きっと)申し付く可く候。尤も、小兒・・

の分は苦しからず」・・・「しかし、この厳しい法令も安政六年(1859)の開国令に再び忘れ

られ、又自由に町の人たちは『ハタあげ』を楽しんでいる。


最後にこう結んであります。「長崎町人の心得第一条は、『嵐がきた時には静かに身を引

き、時機ををえて又楽しめばよい』」。長崎人って意外と人生の達人なのでは?

(参考・引用:「長崎町人誌」「郷土史事典」~長崎文献社刊より)


2014年4月 4日 (金)

花まつり★ガルデン(八江農芸)~諫早市

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「花まつり」といっても、桜の方ではなく、園芸の花の方です。


花や野菜の種、苗を販売しているガルデン(八江農芸)で毎年開かれ、種類が多く、安い

のでいつも買い出しにに行っています。九時半頃に行ったら、駐車場はもういっぱい。


一般ガーデン用の苗に、ちょっと手が出ない、胡蝶蘭。

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あじさいにミニサボテンまで。

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こちらは、どちらかというと野菜苗を見にいったので、本店とバイパス店に。これだけある

と目移りがします。

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左の写真何だか分かりますか?プランタンに植えたゴーヤです。実もちろんご覧の通り

立派なもの。昨年は、緑のカーテンとして流行りましたが、これくらい繁ると立派なカーテン

替わり。今年はいかがですか?

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茄子にトマトこれも鉢で育ててあります。

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ピーマン。なんと鉢で育てた、かぼちゃ。ご立派。

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これくらいまでなら許せますが、メロンに、スイカまで鉢植え。これ見ると、土地がないから

野菜ができませ~ん、なんて、甘いこと言えませんね。為せば成る、とかいいますから、頑

張ってみましょう。といっても、私も以前、挑戦はしましたが、なかなかですね・・・さすがプ

ロの技。

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こちらは、私が好きな山野草コーナー。一時、寒葵を集めていたこともありました。

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本当に、私と同じく目立たない、寒葵の花。冬咲きますが、こんなに目立たなくては、蝶々

さんも、蜂さんも寄りませんよね。カンアオイの広がり方については、まだ、良く分かってな

いそうです。あまり、見たことがないと思いますので、載せておきます。花ですよ!

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期間中は、洋ランの植替え実演販売、野菜等のミニ栽培講習会も予定されていますか

ら、確認の上、参加して立派な野菜を育ててください。

期間は4月6日までですが、土曜、日曜は人が多いと思いますので、お早めに。

会場には、近隣町の特産品店があったので、

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お土産に、以前書いた、「幻の高来そば」と「雲仙こぶ高菜まんじゅう」を買って帰りまし

た。カミサンが今晩はいないので、晩ご飯です。「雲仙こぶ高菜まんじゅう」は、あんこの代

わりに「こぶ高菜」が入って、独特の味です。

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カミサンは昼から行ったらしく、買ってきた物をみたら、ポピーと「幻の高来そば」。よりによ

って、同じ物を・・・・・  プンプン。


2014年4月 3日 (木)

「草積御前」について★長崎市茂木町~伝説について その二

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昨日の続きになります。この話は数件の資料に見られますが、孫引きであるのか、実際に

現地で聞き取りしたのかは不明です。


長崎町人誌 第五巻 新編 長崎名勝図絵」。この本については、以前少し書きました

が、江戸中期から後期にかけて、各地の名所図会が発刊され、長崎でも長崎奉行が命じ

て編纂させますが、脱稿までいかず、長崎区役所・長崎市役所に眠っていたものを、長崎

史談会で昭和6年刊行。普及のため、文章も平易にするなどして昭和49年再発刊。


今回(平成9年発刊)は、図版の再現は忠実にし、本文は記述は尊重しながら、現状の状

況を若干重ね、全体の組み立てを一応解体し、地域により分かりやすく再構築したものだ

そうで、私が持っているのは、この本です。


と言う事は、「草積御前」として、文章として現れたのは、この本が一番最初だと思われま

す。


まず、❻❼父親に関しては、龍造寺隆信。但し、「母親は千々岩(ママ)の館に召し使われ

ていた」が、「島原の漁人の女に生ませた」になっています。


❻母の死後、転々として、犬に吠えられたりして結局、ここで死んだ。ここは一緒ですが、

「里人は哀れに思い葬ったが、その後、いろいろと不思議な事が起こるので祠を作った。

草積明神と言って祈ると霊験がある。小石がお賽銭の代わりである。これは盲目の悲し

さ、犬に吠えられ杖で払おうとしても叶わず、石を探って取って投げている内に悶絶して倒

れたのであった。だから、祠壇には供えられた小石が堆高く積まれている。・・・・」の記述

有り。


❿唐通事劉宣義の所は同じ。「なお、龍造寺隆信はこの娘のことは全く知ってなかった。」


❼「私が死んだら海の見える高い山に葬り、五輪の塔を建てて欲しいと言った。それで、

千々と大崎の間、松の大木のあるところに墓を立てた。のち、玉台寺の右に移し祀る。近

年、その祠が火災で焼失したのでまた移して今は玉台寺内にあるのである。


さて、この火災が、いつあって、移転されたかは書いてありませんが、前回の写真で見る

ように、新しく、また、厳重に鉄柵がしてあるところを見ると、長崎町人誌の「現状の状況を

若干重ね・・・」と言うことでは無いかと思うのですが・・・・・


なお、草積御前が、龍造寺の娘であったことは、本人の口から語ったことは書いてありま

せん。


昭和33年発刊の「茂木郷土誌」によれば、❻❼の父は、龍造寺隆信ではなく、藤原隆信

になっており、「島原の漁師の子某女と親しくなり・・・・・」、隆信は旅立ちますが、「子どもを

産み『藤』と名付づけたのであった。」


母は他界、藤は目が不自由になり、父を尋ね、うつぼ舟(大木をくってつくった舟)にのり、

ついたところが千々。後は、前に書いたような話になりますが、玉台寺の説明版にに書か

れたような言葉を残して亡くなったと言う事で、付近の人は「草住の野に島原をむけて葬っ

てやった、そして、草積御前、草積様といって石や貝殻を供えて参詣素津人も相当であっ

た。


後になって千々は不便だというので分骨して松尾玉台寺の一隅に祭ったのある。」と記さ

れています。


わが町の歴史散歩~熊弘人著」では、❶草積夫人祠としてありますが、❻❼父の名は、

龍造寺隆信。あとは、長崎町民誌とほぼ同様なことが書かれていますが、「祠は南小中学

校近くにある。」と書いてあったので、またも、バカだなと思いながらも、現地に行くと、一

番上の写真、南小中学校の入り口に「草積ごぜん」の看板。祠は、学校のすぐ手前にあり

ました。祠は、茂木四国八十八カ所の五十五番札所でもあります。

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中には、3体の石仏と、一番右、五輪の塔碑が置いてあり、コンクリーで補修がしてありま

した。石仏は左から古い順みたいでしたが、一番新しいものは、昭和63年7月に建立、

「草積御前」と書いてありました。


一番右が、五輪の塔碑になるのでしょうが、一番下の台に、同じように「草積御前」と書い

てあり、小石が積み上げてありました。これが伝説に出てくる、五輪の塔碑でしょう。

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私も、島原半島の千々石に住んでいるので、少しはご縁があるのかな、と思い、千々石の

海岸の石を2,3個持っていって、お供えしてきました。

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祠の横には、玉台寺と同じような説明版が付けてありました。

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この場所からでは、海の方は木が茂って見えませんでしたが、少し下の方から見ると・・・

残念ながら、霞んで、どこが、どこか、よく分かりませんでした。千々石はもう少し左側か?

地元の方に聞くと、天気によっては島原半島がよく見えるそうですが・・・・

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さて、残るは「茂木の散歩道」。これは、長崎市のホームページ、観光案内>観光・文化的

施設>長崎の隠れたスポットをさるく>茂木をたずねての、「茂木の散歩道」に出ていま

すが、こちらは、「長崎名勝図絵」の引用で、ただ、祠の横にある説明版もそのまま引用し

てあり、龍造寺か藤原かははっきり書いてありません。


あちらこちらで、高齢者の方の話を聞くことがあるのですが、同じ話でも、少しづつ違って

いるところがあり、この話を書きながら、伝説、口伝は複数の話を聞かないと、正確なとこ

ろは分からないなと思っているところです・・・・


ただ、龍造寺隆信、藤原隆信。隆信が同じですから、何かの話が混同したと思うのです

が・・・・


しかし、千々は、「茂木のあゆみ」の「陸上交通」の所に書いてありますが、陸上交通が不

便だった所であったようで、茂木~大崎・千々の所に「茂木と大崎・千々の間は、5,6トン

の発動機で人だけでなく日用品や農産物、農業資材などを運んでいた。昭和36年から5

年間かけて宮摺・大崎・千々間に林道を整備し、昭和46年に県道となった。」とありますか

ら、戦国時代と言えば、ほとんど交通不便な寒村といえるでしょう。その土地に、なぜ、都

の貴族の「藤原隆信」の名前が残っているのか?


藤原隆信の足跡をもう少し、追ってみないとと思っているのですが、ご存じの方はありませ

んか?


小さな事ですが、土地の名称で「草積の野」とあったり、「草積した野」としたあるのです

が、千々の旧小字名を調べると、「草積」と言うところは無く、「草積した野」で、通称「草積

の野」と言いうのではないかと思うのですが・・・・・

なお、祠が移転した経過も少しずつ違った所もあり、とにかく、伝説、口伝の類いは難しい

ですね。


2014年4月 2日 (水)

「草積御前」について★長崎市茂木町~伝説について その一

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資料を整理していたら、どこでコピーしたものか、「草積明神の主」(釜蓋城の伝説)という

のが出てきて(「あまり長い話なので一部省略等訂正をしている。」との但し書きあり)・・


茂木の伝説として、千々石に関係があるということで紹介がしてあり、この話、千々石では

まったく聞いた事もなく、角川書店「日本の伝説28 長崎の伝説~福田清人・深江福吉」

に載っているとの事。さっそくお取り寄せ。


内容は、以下の通りですが、話がややこしいところがあるので、私なりにまとめてみまし

た。


❶ 題は「草積大明神」

❷ 四百年ばかりの昔、文禄年間の事、一隻の小舟が、茂木の千々の里に流れ着いた。

(注:千々は茂木の先で、当時は寂しい漁村。千々石と千々は名前が似ているようでも、

交流はありません)

❸ 小舟には、弱った盲目の娘が乗ってた。

❹ 娘は、どうにか二、三軒の漁師の家のあるところに辿り着くが、とびだしてきた犬が吠

えかかった。漁師は犬を怒鳴りつけ、押さえつけた。

❺ 親切な漁師に手当を受け、ようやく元気になった時、「ありがとうございます。あの、島

原の方へ行く便船ありますまいか」。「なに、お前さんは島原にわたりたかとか?」。「は

い、島原の千々岩(千々石?)は、わたしの母の里でございます」。(注:「ちぢわ」という地

名は島原半島には「千々石町」一つしか無くしかなく、「千々岩」は記載違いか?)

❻ 漁師が身の上を聞くと、母は二年ほど前、亡くなったが「・・・父の顔は知りません。母

はなくなる前、初めて私に、お前の血には殿さまの血が流れていると明かしてくれました」

娘は、3日後に死んでしまうが、死ぬ前に「母は私を産ませた父は、島原に攻め寄せた隣

の国の殿さまということでした。母はその出先の千々岩(ママ)の館に召し使われていまし

た。

父に当たるその殿さまは、私の生まれる前、本国に帰られて、その後六,七年がたってま

た、その殿さまにそむいた島原を攻めた時、とうとう沖田畷という所で戦死されたそうでご

ざいます」。そのため、それが知れると命が危ないので、各地を転々としたとのこと。

❼  亡くなる、千々石の見える丘に、小さな石塔でも建てて欲しいとのお願いをする。漁

師夫婦は、願い通り、丘の上に葬り、千々石の方に向けて五輪の塔を建ててやった。

❽ 長崎から来た物知りの商人に聞くと、島原の沖田畷で討ち死にした殿さまは、龍造寺

隆信とのこと。

❾ 里人も花や水を供え、願いを立てると必ずかなえられるということで、小さな祠をたて、

土地の名にちなみ、「草積大明神」とよばれるようになった。

❿ その後、100年ばかり後、長崎の劉宣義(りゅうせんぎ)という唐通事がこの土地に、

遊びに来、この話を聞き、祠を修復するも、後焼けたので、その後、玉台寺に移された。


と言う事で、住んでいる千々石に関する事なので、茂木の玉台寺まで出かけると、山門を

くぐった、左側の大銀杏の下に祠があり、

2 3

4

厳重に祀られており、隙間から撮した写真が、一番上の写真で、どう見ても新しいもの。

住職さんに尋ねてみようかと思ったのですが、あいにく留守。


ところがが、祠の横を見たら、説明版が設置してあり、これにはなんと


「草積御前の祠(延命地蔵尊) 境内、本堂の向かって左側大銀杏の根元にある 藤原俊

成の子隆信(定家の兄)が島原を訪ねたとき漁師の娘との間に一女を設けたが不運にも

盲目となり船より落ち茂木の千々海岸に漂着したが上陸後野犬にかまれ死去、

臨終に村人に言う。『私は盲目で不幸な生と終わるが同様な運命の人たちを死後救い

たい』

千々の村人は現在の位置(千々南町中学校)に葬り冥福を祈った。

草積みした野で死去したので草積御前と称した。

今延命地蔵として日々のお参り人々にために御苦労してくださっております。」


との説明。まったく、「日本の伝説」の記述とは違うところが、特に、❻❽の所、父親がまっ

たく違っています。龍造寺隆信は、確かに、島原半島まで攻めのぼり、島原市の沖田畷で

討ち死にをしています。1529年~1584年の人。


藤原隆信は、父が為経、母の再婚相手、藤原俊成に育てられ、歌人藤原定家は異父弟

に当たるそうです。自身も歌人であり、画家としても有名。1142年~1205年の人。年代

がまったく違います。


色好みとしても有名で、(最もあの時代の貴族は、色事が一つの仕事で、源氏物語を読ん

でもわかりますね)建礼門院右京大夫も恋人の一人であったとか。


❷の所、文禄年間の頃であろうかについて。文禄年間は1592年~1596年ですから、

時代的には龍造寺が討ち死にして、子どもが大きくなるまで数年かかったとしても、年代

的には何とか合います。ただし、後で物語に合わせて書いたと言う事も考えられます

が・・・


あと、藤原隆信が島原まで来たかどうかと言う事ですが、隆信は越前守、若狭守を歴任し

ていますが、これは、北陸の方。


群書類從に隆信の歌集があり、和歌には前書きとか、歌の部分に地名が織り込まれてい

るものがあるのですが、残念ながら島原関係は無いようでした。日記があればすぐに分か

るのですが。足跡は分かりませんでした。


ただ、長崎が京都から遠くの田舎といえど、戦国初期の1528年(大永年間)、諫早城主

西郷尚善が京都に滞在し、内大臣で歌道にもすぐれた三条西実隆から、和歌、連歌の指

導を受けていると言う事実もあり(故外山幹夫「長崎市の実像」「高来の風」、他の書物に

も散見します)、田舎と京都も文化の面でも交流があり、隆信が来たことがないとは、10

0%否定出来ないのでは?


と言う事で、この話、「長崎町人誌」にも載っており、他に、「茂木町の郷土誌」、「わが町の

郷土誌~熊弘人著」、「茂木の散歩道」などにも取り上げられており、微妙に異なっており

伝説の伝わり方が違い、面白いので、これについては、また、次回。


タマネギの取り入れ時です。畑の間の道を通ると、タマネギの匂いが香ってきます。

今年は、タマネギの値段が良いらしく、昨年は沢山いただいたのですが、今年は・・・・

Dsc_0057


2014年4月 1日 (火)

「新編 大村市史第二巻」発刊~大村市&その他

1

「新編 大村市史第二巻」がやっと発刊。第一巻が平成25年3月でしたから、随分待った

感じですが、まあ、この厚さになれば・・・計五巻まで刊行すると言う事でした。


第一巻は、「自然・原始・古代編」でしたが、第二巻は「中世編」で、鎌倉時代、室町時代、

戦国時代、対外関係(貿易・キリシタン史)、中世の社寺と信仰、石造物からみた中世・大

村の様相と仏教文化、考古資料からみた中世。


この時代、動きが不明な点が多々ありますから、「大村家の出自」の「従来の説とその信

憑性」、「大村家系譜はどこまで史実か」。何となく魅力ありますね。


島原半島を調べると、どうしても、諫早、大村、佐賀あたりまで手を伸ばす必要があります

が、ちゃんと「龍造寺」、島原半島の「有馬氏」との関係も書いてあります。


なお、千々石の、野田名の畑の中にある、「地輪」(地元の方はほとんど知らない)の事ま

で言及されております。


さて、この本、今日の長崎新聞に載っており、連絡をとると、現金書留で料金を送ると、送

料は着払で送付してくれるそうです。


発行部数が、500部で、半分を県内外の図書館に送り、残りは、一般販売になるとかで、

すぐに、飛んでいって買って来ました。私が、一部買ったので、少なくとも残りは、249部

です。興味のある方は、入手された方が良いですよ。ざっと読みましたが、読みごたえは

ありました。価格は、5,000円ですが、写真もカラーで、豪華版です。


5,000円は高い?中身を読むと安いものです。私の場合は、女の子に貢いだと思えば

安いもの。

2

大村公園の桜が満開だったので、帰りに写真でもと思っていたのですが、K書店に寄った

ら、社長さんと話が弾んで、時間切れ。


代わりに、私の好きな森山図書館前のウォーキングロードと、桜の通り抜けの写真など

を・・・


桜はボチボチ散っていました。森山町は早場米をやっており、もう、田植えの準備です。

Dsc_0035 Dsc_0034

桜の通り抜けです。

Dsc_0014

おまけ。これ見て、ビックリしました。エイプリルフールじゃないかと思ったんですが・・

3

多分、高圧電線の保守点検でしょが、見ているだけで、具合が悪くなりました。


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