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2014年3月

2014年3月31日 (月)

「橘公園花まつり演芸会」~雲仙市橘公園

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咲いたかと思っていたら、昨日からの風雨で、桜が早目に散り始め。土曜日の「観櫻火

宴」は体育館での実施。


次の日の、日曜日の「橘公園はなまつり演芸会」も、朝からの雨で危ぶまれたものの、時

間をずらしての実施。


最初はいつもの、中学校ブラスバンドによる「御神楽」。「観櫻火宴」に続いて、二日間連

続の出演。

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今年初めての出演。「南中ソーラン」。千々石第一小学校の皆さん。

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踊りの皆さん。もちろんTV局も実況放送、ではなく、地元「ひまわりテレビ」の収録。

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本年度、神社の祭りの演芸会で出演した、上町地区の踊り。球磨の六調子。

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こちらも、祭りで出演の瀬々尾地区の「エイサーミルクムナリ」

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カラオケの皆さん、いつもの通り、気持ちよさそう~。

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こちらは、熟女(o(_ _)o失礼)ではなく、ウラ若き乙女のフラダンス。あまりの、美しさに私も

フラフラと・・・・

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こちらも、今年の神社の秋祭りに出演の、南船津名の銭太鼓。保存会も作って、練習して

います。二本の棒を操りながらの、見事な演技。

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最後は全員で、「千々石音頭」の総踊り。;

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田舎の演芸会で、全部ボランティアの手作りですが、こんなところが、味があって良いもん

ですね。とにかく、雨を心配しながらの演芸会でしたが、なんとか、持ちこたえ、見物の方

も喜んで見ておられました。裏方の方は天気を心配しながら、お疲れ様でした。


今日、月曜日、2,3の場所の桜を見に行ったら、あちらこちら、ほとんど散りかけで、今年

は例年より少し早いのかな?花見をされる方は、仕事を休んでも早めにどうぞ。




2014年3月30日 (日)

雨の観櫻火宴(かんおうかえん)~雲仙市千々石町

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出陣式ではなく、記念写真撮影式です。残念ながら、日本一の松明武者行列、雨のため

松明行列は出来ませんでしたが、イベントは、千々石中学校の体育館で賑やかに開催。


実行委員会の会長の話によれば、雨は3回目だとか。確率としては、天気の時が多いの

ですが・・・誠に残念。


最強軍団の稚児武者と極悪軍団。最強軍団が負けるはずもなくというところで・・・

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千々石中学校ブラスバンド部の「御神楽(みかぐら)」。ブラスバンド部は現在8人ですが、

新年度で新しい部員が入って、増えてくれれば良いのですが。

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昨年結成したばかりの、千々石の、「肥前千々石鉄砲隊」。本物の火縄銃だそうで、警察

の許可も得ているそうです。「なんでも鑑定団」にでた、値打ちものもあるとか。体育館の

内なので、発砲は出来ませんでした・・・・

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今年、中学校に入る、元服武者の「元服立志式」。千々石大和守よりの訓示。みんな仲良

く、勉強をして、女遊びはしないように(冗談)。これは、記念になりますよ。ウチの孫の時

も出ましたが。来年中学校にあがる、お子様をお持ちの方は是非参加を。

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舞台に上がって、一人一人、自分の名前と夢を語ります。ひとり、「考古学者になりたいで

す」と言う武者がいて、良いですね。我が市では発掘調査が、まだまだ進んでいませんか

ら。

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天正遣欧使節の「四少年物語」。左から2人目が、千々石出身の千々石ミゲル。

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最後は、特別フィナーレでAKB48の「なんとかかんとか(歌の題、いつもの如く忘れまし

た)」を踊って、賑やかに終演。

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朝から雨で、せっかく準備したものが、予定変更になり残念でしたが、体育館でのイベント

も意外と盛り上がりました。ぶっつけ本番だったので、裏方さんは大変だったでしょう。

来年は、晴れるように祈っています。


松明行列は、以前写真を撮ったもので、我慢してください。

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来年のお越しを。


2014年3月28日 (金)

「軍師 黒田官兵衛 第二巻」~ただいま読書中

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本屋さんに行ったら、昨日並んでました。NHK大河ドラマの「軍師 黒田官兵衛 第二

巻」。


一日で読めるかと思ったら、目はかすんで、読んだところは忘れてしまい、また、読み直

し。やっと半分まで読んだところです。


私の愛読書、漫画ですが、「センゴク一統記」が戦いの物語なら、こちらは、裏の調略の物

語。


官兵衛の調略で、播磨は信長についたはずなのですが、毛利の調略、信長の臣下村重

が裏切り、毛利につくものが続出。


なんと、官兵衛の主君政職も毛利につき、村重を説き伏せに行った官兵衛は捕らえられ

牢獄へ。


主君政職が信長に出すはずの人質を、代わりに、自分の息子松寿丸を差し出したが、そ

の運命やいかに・・・・・


と言うところまで読んで、結果は他の本を読んで、分かっているんですが、落語、劇、歌

舞伎と一緒で、内容は分かっていても、面白いものは、面白い。


でも、この黒田勘兵衛さんTVで見ると、いい男過ぎますネ。私ぐらいで丁度よかったんじゃ

ナイデスカ。


さて、話変わって、ニュースを見ても、新聞を見ても、桜の事ばかり。ウチ、橘神社のすぐ

近くですから、毎日見ているのも飽きました。おまけに、人は多いし、車も多く、渋滞で、こ

こ1、2週間はうんざりですね。たまには、桜の名所でないところも、良いですよ。


桜の本数は少ないですが、千々石少年自然の家の上にある、猿場公園。芝生があって、

静かで、人はほとんど来ないし、彼女と来るなら、こんな所ですね


この、上の方に、パラグライダーの基地があり、運が良ければ、パラグライダーが飛ぶとこ

ろが見られます。誰もいないので、心静かに鑑賞していると、自然と詩が出来ました。


   吉野のお山に咲く桜  千々石のお山に咲く桜

   桜に変わりがあるじゃなし 散ってしまえば皆同じ

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さて、桜ばかりではなく、他の花も綺麗に咲いています。道端に咲いていました。誰も、見

て行く人はいませんでした。

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さあ、これから、「黒田官兵衛」の続きを読みますよ。


2014年3月27日 (木)

茂木あちらこちら~長崎市茂木 附録・橘公園(神社)ナウ

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先日から、気になることがあり、2日ばかり茂木通い。この事は、まだ、まとまらないので、

後日。


茂木については、小学生時代に来たばかりで、詳しくないので、調べものついでに、ぶらっ

と、由緒あるところを、あちらこちらと。


「裳着神社」です。「わが町の歴史散歩~熊弘人著」によれば、「町名の由来は、昔、神功

皇后がこの地に立ち寄られた際(三韓からの帰途)、モニの浦と名付けられたのが転訛し

た説、或いはこの地で裳(衣の下ばかま)をお着けになった事から、裳着の地名がおこっ

たとの説があります。」と書いてあります。


また、「現在の地形から素直に考えると『草木が繁茂し、魚が群れる浦』から茂木の地名

が起こったのではないかと考えられる。」とも書いてあり、他の資料を読むとまだ諸説ある

ようで・・・・

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最近出来た、「茂木水辺のきずな公園」の説明版。茂木は化石が出るところで有名で、小

学校の時、先生に連れられて時々来ましたが、木の葉っぱの化石なんかが結構採れまし

た。最近、恐竜の化石が見つかったとかで、その説明と採れた場所です。

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長崎は内町(旧町)と外町(新しく発展した町)があり、その外町の代官、アントン(又は、ア

ントニオ。記念碑には、アントニオと記載)村山等安の別邸跡。


近くのスーパーで「村山等安の跡地は?」と聞くと、「さあ?」。他に聞いても「?」。この近く

だと聞いたので、見つけると、スーパーのすぐ横の、郵便局でした。皆さん、興味ないのか

な?


村山等安は、佐賀の名護屋城で豊臣秀吉と会い、洗礼名アントンを元に「等安」という名

前を貰い、長崎代官を願い出、許されます。


なお、この事に関しては小説ですが、典厩五郎著、「NAGASAKI 長崎 夢の王国」をお読

みください。当時の長崎の様子がわかり、面白い本でした。

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長崎市指定記念物「太田尾の大クス」。周囲5,80メートル、樹高20メートル。近くではカ

メラに入らないので、遠くから写しましたが、下の家と比べると、大きさが分かると思いま

す。

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玉台寺にある、石碑。左は、寛政4年、島原大変(雲仙の地震・噴火・眉山の崩壊)の時、

死者が漂着したそうですが、その死者を埋葬し、供養した塔だそうです。


右は、島原の乱後復興のため、島原藩主として移封された高力摂津守の命で、茂木地方

のキリシタン取締に功績をあげた、長尾安右衛門の墓。

この、玉台寺については、また、述べます。

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長崎、茂木間の鉄道設置の計画があったそうで、大正10年、茂木鐵道株式会社を設

立。大正12年堀切の工事が始まり、大正15年に完成したそうですが、鉄道敷設は出来

なかったそうです。

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立石。江戸中期から後期にかけ、各地の名所図絵等が刊行され、長崎でも長崎奉行が

命じ文政年間、編纂されますが、刊行されることなく終わり、眠っていたものを長崎史談会

が出版した、長崎町人誌「長崎名勝図絵」にも載っていいいます。


石の上。昔は右図の様に、五葉の松の大木だったそうですが、枯れて今では普通の松だ

そうです。

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                          (「長崎町人誌~長崎名勝図絵」より)

茂木と言えば、「茂木ビワ」。ハウスものは出荷しているようですが、1個で何百円。我々、

下々の者の口に入るものではありません。


露地ものは5月からの出荷。茶色に見えるのは、ビワに袋をかぶせたもの、これ、大変で

人夫さんを雇ってするそうです。とにかく、手がかかるもの。

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再び、長崎町人誌「長崎名勝図」より。

茂木のあゆみによれば、「古老の口伝によれば、昔の茂木村は、入江に漁師の家が数軒

あるのみの名もない浦だった。」とも書いてあります。

読んでみると、「茂樹村」とも書いてあるようです。

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       (「長崎町人誌~長崎名勝図絵」より)

忘れていましたが、雲仙の小浜に行くには、長崎からひと山越え、ここ茂木港から小浜温

泉に行っていました。

まだ他にも、いろいろあるようですが、時間切れで残念でした。


橘公園、すっかり咲いていました。開花基準木もあっという間に、八分咲き。ドンチャン騒

ぎするところも、すっかり咲いていますから、いつでもどうぞ。

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(参考・引用:「郷土誌 1958」、「長崎町人誌~長崎名勝図絵」、「わが町の歴史散歩~

熊弘人著」、「茂木 ミニガイド」、他ネットより「茂木のあゆみ」、「茂木の散歩道」、より)


2014年3月26日 (水)

長崎御犬カステラ~長崎市

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え~冗談だろうと、見に行ったら本当にありました。「長崎御犬カステラ」。ちゃんと下に「ペ

ット用」と書いてあります。大きさは、普通のカステラを二つに縦割りした程度。


もっとも、旦那様より、ペットと一緒に、墓に入りたいという、奥様方が増えている時代です

から・・・・・・このようなものが発売されても、当たり前か?


発売されているのが、「芋味」、「チーズ味」、「イチゴ入り」、そのほか、犬専用の「長崎ワ

ンちゃんぽん」、「わんにゃん玄米野菜ぞうすい」。


試しに、チーズ味、イチゴ入りカステラ、ワンちゃんぽんを買ってみました。

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中を開けてみると、小さいながらも、見かけは普通のカステラ。

材料は、チーズ味は、卵、砂糖、糖蜜、水飴、小麦粉、チーズ。イチゴ入りは、卵、砂糖、

小麦粉、水飴、オーチャードストリベリー。なんと、人間が食べる、カステラの材料と同じで

はありませか。生意気な。

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裏を見たら、「これはペット用の食物です。食べても害はありません」と書いてあるので、適

当に切って、皿に載せて、ラップをかけて、冷蔵庫に入れておいたら、誰が食べたか、無く

なっておりました。


現在、カミサンと2人住まいで、私は食べていませんから・・・・しばらくカミサンを観察して

いると、なんともなさそうなので、私も食べてみると、普通のカステラ。犬用と人間用と同じ

味とは、イヤになりますね。


こちらは、「長崎ワンちゃんぽん」。左にあるのは、人間用の「カステラキャラメル」

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中を開けてみるとキャラメルは、人間用ですから、ごく普通。


ワンちゃんぽんは、葛麺、おから、小松菜、キャベツ、カボチャ、鶏肉。なんと、「合成保存

料、合成着色材は使用しておりません」。ヘルシーで、安全食ですね。


ただし、ご注意として、「これは犬専用の食べ物です」と書いてありましたが、何とか、カミ

サンに食べさせられないものか、思案中です。

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昔は、犬、猫の食べ物は、人間の残飯だと決まっていたのですが、この商品には賞味期

限まで書いてありました、犬、猫の食べ物にも。消費期限があるんですか?


このようなものを見ていると、私が時代遅れの人間なのかな、と感じる今日この頃でした。


ところで、このカステラ、あなたの家にも置いておいて、気に入らない方が来たら、お茶う

けに出してはいかがでしょう。「あら、おいしいわ!」なんて言われて、気が晴れますよ。


売ってある所は、新地中華街入口のWホテル。通信販売もしています。

ちなみに、ウチでは犬も猫も飼っておりません。私はカミサンに飼われていますが・・・



2014年3月25日 (火)

天如塔の改修(理性院太子堂内) その2(最終回)~島原市

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前回書いたように、貴重な建物が崩壊寸前ということで、何んとかしようという話は、何年

も前からあるにはあったのですが、今回は話だけではなく、皆さんの寄付金をお願いし改

修することに。


昨年9月21日、島原文化市民講座の中で、元教育長宮崎金助先生が講師で「『からゆき

さん』と天如塔」ということで、講演があり、その中で天如塔の改修の話があり、本格的に

火がつき、寄付が集まり、やっと改修にこぎつけ、今月の3月中に完成の予定。もうすぐで

す。


工事がすでに始まっていることを聞き、寄付を届けにお寺に伺ったところ、ご長男の方が

出てこられ、「ご住職は」と尋ねると、「先月、心筋梗塞にて亡くなりました」との事。


9月の講演会が終わり、住職さん(故廣田信証氏)が出口に立って、一人ひとりにご挨拶

をしている姿を覚えておりまして、あと一月半、生きておられれば、完成の姿をご覧になれ

たのにと残念の気持ちで一杯でした。


さて、この天如塔を囲む石垣には、名前、居住地、寄進額が赤の文字で彫られています。

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倉橋正直氏の「島原のからゆきさん」によると、玉垣に書いてある寄進者はベトナム、タ

イ、マレーシア、インドネシア、ビルマ、インド、中国、韓国、ロシア、内地、合わせて192

名になるそうです。


名前を読むと、本土(島原半島を中心)の地名も見えますが、内地の方が35%、外地の

方が60%。外地はほとんど「からゆき」さんからのものでしょう。倉橋氏は「『からゆきさん

の塔』という名が、天如塔にまさにふさわしかった。」と書かれています。


なお、外国からの男性の名前もありますが、「からゆきさん」の関係者の名前だということ

です。高額者の名前も見受けられますが、「楼主自身か、ないしは、それに連なるもので

あろう・・・」と考えられるそうです。


「五円以下の文字通り『貧者の一灯』ともいうべき小額の寄進が、実際には無数にあった

はずである。しかし、天如塔の玉垣の本数には限りがあるので、やむなく五円以下の少額

の寄進者の名前は全部、割愛してしまったのであろう。」とも書かれてあります。


内部の写真ですが、今は入れないため、本堂に飾ってある写真を写したものです。

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         (本堂の写真より。お寺より許可済みです)

改修中の入り口の所です。

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内部については、教育委員会の説明板にこう書いてあります。


「この塔の特徴は、内部に螺旋階段を二つ(登りと下り)持っている点である。塔の最上階

に如来像を安置してあり、その途中には明かり取もない闇の中で、仏の体内めぐりを意識

した作りとも考えられる、二重螺旋階段を持つ類例の少ない珍しい建造物である。」


付け加えると、少し下って、登り階段になるそうで、随所に仏像等が置いてあるそうです。

登り階段と、下り階段は別々になっているそうで、普通のように、同じ階段を上り下りする

階段とは違っているそうです。


多分、説明板に書いているように、「体内めぐり」(胎内巡り?)を意識し、なおかつ、違っ

た階段を使って戻ってくるのは、からゆきさんに対し、今度生まれ変わるときは、別の人生

を歩みなさいと言う、広田言証氏の思いだという気がするのですが・・・・


階段の作りには、「栄螺堂」というのがあり、言証氏は全国を巡礼していますから、目にし

ているはずで、それを意識したものではないでしょうか?


この、からゆきさんの資料等については、県内では、口之津町の「口之津歴史民俗資料

館」そして、この「天如塔」しかありません。


口之津民俗資料館にある「娘一名預証」。「預」とは書いてありますが、実態は、からゆき

さんとして、異国に売られていく娘さんの事でしょう。

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昨日、「からゆき」さんを一般の方がどう見ているか書きましたが、この塔は島原市指定文

化財ですが、説明版に「・・・近代の邦人の海外進出を物語るとともに、知られざる出稼ぎ

労働者の実態を示すものとして貴重である。」と、ぼかした言い回ししか使われていませ

ん。今回の改修を機会にどう書くか、考えるべきでしょう。


島原半島は、ジオパーク認定、世界遺産への登録運動をおこなっていますが、あれが正

の遺産なら、からゆきさんは負の遺産だと言えます。

両方を正確に伝えないと、正当な歴史は考えられないと思うのですが・・・・・

(参考・文引用:「島原のからゆきさん~倉橋正直著」・説明板から)


2014年3月24日 (月)

天如塔の改修(理性院太子堂内) その1 ~島原市

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島原に「理性院 太子堂」というお寺があり、この敷地内に「天如塔」が建てられています。


建てられたのが、明治42年(1909)年。建てられてから、104年。高さが、11メートルとい

いますから、台風等の風雨にも耐えて、良く残ったのもだと思いますが、ご覧のとおり、屋

根などはボロボロになっています。


以前は、少し有名な所で、内部まで入られたそうですが、今では、知っている方は、市内

の方ぐらいのみで、島原を訪れる人は知らない所です。もちろん、現在は中には入れませ

ん。この塔を建てたのが、広田言広(ごんしょう)師。

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   (「太子堂」内の写真より)

広田言証師については、倉田正直氏の「島原のからゆきざん」に詳しく書いてある所です

が、岡山県で米屋、材木商を営むも商売に失敗、その上、難病にかかり、病院も匙を投

げだす始末。


死ぬならばと、四国巡礼を四度も繰り返し、第25番札所、本山寺にて、出家。正式の修

行、勉強をしたわけではなく、倉橋氏によれば「必ずしも適切な表現ではないかもしれない

が、彼はいわばインスタントお坊さんになった人であった。」


さて、言証師は、その後、本土への巡業。苦行。そのうち、雲仙の普賢岳に登って苦行

し、天草に渡ろうとしたところ、運命の定めか、島原市に定住することに。その後、1903

年5月~12月までシベリアへ巡礼。


事情により、檀家を持たない寺ですが、島原に住みついて、この地方の人の信頼を獲得

し、信者を増やします。


1906年、55歳のとき、にインドへ巡礼。倉元氏によれば、「『お告げを』聞きたいという彼

の念願。」もうひとつが、当時の島原地方、天草が「からゆきさん」を多く送り出しており、

活動をしている時「いやでもおうでも、言証師は、『からゆきさん』のことを身近に感じざる

を得なかったであろう。」


このインド旅行は2年半に及び、現地の言葉は言うに及ばす、英語さえ喋れずといった旅

行。この旅行において、「ほとんど必ず日本人墓地をおとすれ、施餓鬼(無縁の死者のた

めに供養すること)を営み、その地でなくなったものを仏僧として、ねんごろに供養してい

る。」、もちろんその中に、多くの、からゆきさんも関係してます。


各地における施餓鬼の様子です。

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       (「島原のからゆきさん」倉田正直著より)

からゆきさんからの寄進を受け、また、太子堂の発行したリーフレットによれば、「ラングー

ンのポイキャナン寺のウセッタ僧正より、御丈二尺一寸(63センチ)の釈迦如来を賜り」と

述べられて、この仏像を安置するため、天如塔が作られたそうですが、現在は、本殿の祭

壇に安置されています。


住職さんと長男の方で、下まで下ろされたそうですが、重くて、クレーンで下ろしたそうです

が、倉橋氏の本によれば、「それが比較的小さなものであったことから、別便では送るとい

うことはせず、言証師自身が、一緒に持ち帰ったのである。・・・・」とあります。

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帰国すると、寄進(寄進されたお金は、からゆきさんのみでなく、信者の方からも寄進され

ています)されたお金で境内に「天如塔」を作りますが、倉橋氏の計算では、全体で4,87

0円、現在額で換算すると5000万円~7000万円になるそうですが、「これらの寄進額

のうち、かなりな部分は東南アジアの各地に散在していた島原娘(注:からゆきさん)、及

び、その関係者が負担していた。」と述べてあります。この金額を見ると、言証師が、から

ゆきさんたちに、どんなふうに優しい心で接したか、想像できると思います。


さて、この塔をめぐる玉垣に、寄進者の名前、住んでいる所、金額が書いてあります。この

事は次回に述べたいと思いますが、この時分、からゆきさんが、人々からどう思われて

いたのか、「口之津町史 郷土の歩み」に次のような記事があります。


明治二六年二月三日付島原先魁で発行した「有明海」第二号。

「密航者多く島原地方に出で、重罪犯の徒多く島原にいづ、島原には一つの産物として名

をえたるものなし、しからばすなはち 島原の産物は密航婦(注:からゆきさん)と重罪犯

の徒の二つあるか、ああ恐るべき島原の空気・・・・」


また、「東洋日の出新聞」に、島原女についての投書があったそうですが、島原、口之津、

加津佐に密航・醜業婦が多いのは従来から、有名である。ことに島原の女たちは恥とも思

わず、盛んに出稼ぎをするのでほかの者が迷惑をし、一般の島原女の信用が下がってき

たとの趣旨だそうです。


なお、からゆきさんを密航させるときには、火事を起こし、そちらに皆の目を向けさせ、そ

の隙に、出帆させたとの話もあります。


次回は、天如塔について。


(本堂内の写真については許可を受け、ブログ掲載の許可をいただいております。)

(参考・文引用:「島原のからゆきさん」~倉橋正直著」)




2014年3月22日 (土)

2014/3/22  島原市★芝桜公園&雲仙市★橘公園(神社) 

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島原の芝桜公園です。残念ながら、芝桜公園は、まだまだでした。全面に芝桜が咲くと、

きれいですが・・・・・白い鯉と、ピンクの鯉が泳ぐようなデザインにしてあります。


受付の準備はできて、少しばかり、咲きかかっている所もありました。

気短な方は行ってみてください。いまなら、只で入れます。

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橘公園(神社)の軍神橋の横にある、開花基準木です。

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TVで見ていると、5,6輪の花が咲くと、開花宣言をしているようで、良く見ると、頼りげなさ

そうですが、5,6輪咲いていました。

役所の方からは、開花宣言もないので、僭越ながら、私の方で、「橘公園の桜は、開花い

たしました。」

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とは言っても、十分に咲いている木もあれば、どんちゃん騒ぎする所はまだという所で、こ

の暖かさが少し続くと満開でしょう。

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露天が随分減りました。これも、少子化のせいか?入口の準備もできましたが、、駐車料

がもったいない方は、多分、千々石支所(歩いて3分)の駐車場を解放するはずですから、

そちらへどうぞ。

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軍神橋の下。ここが一番見所があるのですが・・・・・アベックがいたので、カメラの望遠で

追っていたのですが、何事もなく、帰ってしまいました・・・・・

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2014年3月21日 (金)

2014 春うらら茶会★日米親善人形交流と島原’展~島原市島原城

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この話を書くのは、3回目になるのかな。きな臭い世界情勢だから、このような話を何回

も、続けていく必要もあるでしょう。


リトルメリーさん。昭和2年、日米関係が悪化した時、日米の子どもの友好を願い、親日家

のシドニー・ギューリックさんが12,739体の人形を、日本の幼稚園、小学校等に贈りま

す。


今見れば、何でもない人形ですが、昭和2年。多分高価でもあったでしょうし、日本でも珍

しい洋人形、しかも、洋装でもあり、子どもたちは喜んだことでしょう。島原市でも、人形の

歓迎会が開かれています。


これに対し、日本からも答礼人形として47体、長崎からは「長崎瓊子(たまこ)」がアメリカ

に送られれました。


時は戦争になり、人形といえど敵国製。焼かれたり、こわされたりで、現在残っているの

が、全国で約300体、長崎県では2体しか残っていません。その一体が、リトルメリーさん

です。


どういうわけか、島原第一小学校の箱の中に、雛人形と共に眠っていたそうで、数十年を

経て、見つかって、それから、このイベントがおこなわれ、今年で10回目。


場所は、「御馬見所(おんうまみしょ)」。藩主松平公が藩士の訓練状況を見るのに使われ

た所。

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日米親善人形のことを、後世に残すために、紙芝居が作られ、利用してもらえるよう、各

公民館等に配布をしてあります。紙芝居の読み手は第一小学校の生徒さん。

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展示の様子。各地の人形の写真。

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紙芝居の後は、「島原城 春うらら茶会」ということで、お茶のお接待。接待役は、「森岳婦

人会茶道教室&もりもり広場茶道教室の子ども達」。はやり、子どもとはいえ、お茶をやっ

ている子は、立ち振る舞いが良いですね。学習塾よりも、こちらを習わせた方が良いので

は?

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さて、あとは、国際交流ということで、「しまばら半島国際交流クラブ」を中心に、みんなで

大合唱。メリーちゃんも一緒に。

昨年は、中国のハッスル女性の方が、中国語で「幸せなら手をたたこう」を指導したのです

が、今年は、お国の方に帰っているとのこと。ちょっと残念。愉快な女性だったのですが・・


なお、人形、資料関係の展示は、4月6日まで、島原城内の「島原城観光復興記念館」で

おこなっていますので、ご来場下さい。

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天気も良く、紙芝居も良くでき、歌も楽しく、お茶も旨く、帰りがけに崩壊した城壁の修復具

合をを見に行くと、修復したところ、色で分かると思います。3月までに出来るかと思ってい

たら、ざすが現代技術。

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天気も良いので、この後「芝桜公園」に寄って見ましたが、これは明日のお楽しみ・・・・に

なるかどうか。


2014年3月20日 (木)

雲仙市の歴史を学ぶ会~雲仙市

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この2.3日、雲仙とは縁があるのか、今日も雲仙へ。


雲仙市は7町が合併した市ですが、各町に史談会があり、それを中心に、「雲仙市の歴史

を学ぶ会」ができたということを、少し前から聞いていたのですが、知っている方から、参

加しないかとの連絡。出かけたら、やはり、会場の、雲仙のお山の上は、寒い寒い。


参加者がどれくらいかと思っていたら、意外と多く、各町の歴々たる郷土史家の方ばか

り。


講師は、加津佐町史談会代表 福田八先生。内容は、「松倉豊後守重政素描」。


島原半島は元来、有馬家が支配をしていましたが、「岡本大八事件」に巻き込まれ、領主

有馬晴信は死罪。本来、息子の直純も一門同罪のところ、嫁が、家康の孫であったため

か、日向国の県(あがた)へ転封。(貰うなら良い嫁を!)


そののち2年ばかり、幕府の預かり地となり、その後、元和2年、奈良五条二見城松倉豊

後守に五千石の増加があり、有馬家居城・日野江城に転封。


元和4年島原に「浜の城」を築き、これを仮寓として、「島原城」を築城。これには、日野城

を中心とする有馬地方が、キリシタンの巣窟であったとか、地の利の関係とか、諸説あり。


最初、キリシタンに対しては、「きわめて寛大であった。」(島原半島史)が、寛永2年、徳川

家光から、キリシタン禁制の手ぬるさを指摘され、その後、水責め、斬首、磔、烙印、焚

殺、穴つるし、硫黄責め、木馬責め、竹鋸引き、祈りの時手が組めないように、指切り等

を行うも信者は減らず。


このころ、イエズス会が主だったのが、フランシスコ会、ドミニコ会等の宣教師も日本に入

り込み、その拠点がルソン島にあり、ここを攻略すること計画。吉岡九郎左衛門、木村権

之丞は二十名の足軽とともに、長崎の貿易商人糸屋随衛門の船に便乗し、偵察。


松倉氏が当時の、長崎奉行、竹中采女正重義に報告。その帰路、小浜温泉に寄るも急

死。この急死に関しては、竹中采女の暗殺説があり、ルソン島攻略が成功すると、島原藩

の力が大きくなるとか、竹中采女正重義が、、島原藩の城主になりたかったとかの説があ

るようです。なお暗殺については、家臣山本権兵衛の「松倉重政軍場日記」に記されてい

るとのことです。


重政の後継ぎ、重次(勝家)の弾圧はひどくなり、天草・島原の乱が起こります。


竹中采女正重義は、堺の商人平野屋三郎右衛門の愛妾を奪い、平野屋は追放されたた

め、江戸へ行き、目安箱で同時に不正等も訴え、竹中采女正重義は切腹を命じられたそ

うです。(女には要注意!)


というような、気軽に聞けるお話でした。他にも、いろいろ面白い話もあったのですが、話

をお聞きになりたい方、興味のある方は、下記までご連絡を。


事務局:広報連絡担当 西 久 幸

     FAX:0957-73-2542

     電話:0957-73-3636

     e-mail:west24@mac..dom


来月も予定しているみたいですから、ご連絡は早めに。なお、上の文章は、本日の話を中

心に、私の方で、少しばかり附け加えをしておりますので、ご了解を。

(参考:引用:本日の講話・「小浜町史談」・「島原半島史」より)


2014年3月19日 (水)

空照上人壹百日修行頭髪塚~雲仙市田代原

A

以前、空照上人については、少し触れたと思います。多分ダブル所があると思います

が・・・→以前記事はこちらをクリック


雲仙の高岩山の登り道の鳥居から、けもの道に入り、500m。天照上人(他に、天照法

師、天照さんの記述あり)の立像があり、いつか行くつもりが体調が悪く、ついに行ききれ

ませんでした、特に、これからの時期は蛇さんがでてくるので・・・・・

B

天照上人は、佐賀県東多久市の出身だそうで、当時、有馬村に住み、病気を治す霊験

を現していたそうですが、大正11年の島原大地震、12年の関東大震災などの天災があ

り、西有家では天照上人にお願いし、西有家八十八か所霊場の基礎を築きます。


像の大きさは、台回り1.2m四方、高さ1.5m、像は60~70 ㎝だそうです。さらに、ここか

ら、登ると、「びわの口」と呼ばれる巨石群があり、その石窟の中に、太子像があり、「西有

家四国奥の院一夜太子」像があり、この両方の像は、有家町見岳名の信者さんが作った

そうです。


特に太子像は、セメント、砂などを険しい山道を担ぎあげ、一夜にして作りあげたそうで

す。

C_2

この、空照上人は、雲仙最後の修験道者と言われ、百日修行をされたそうですが、この場

所が、上人が回峰修行をされた所だろうということです。修行は昭和6年に行われたそう

です。


以前にも書いた、雲仙別所ダム(鴛鴦の池)のパワースポット、大黒天の横にも空照法師

(こちらには法師の文字)の像。年代は、昭和6年1月29日。多分修行に関係して作られ

たものと思うのですが・・・・・

Pa1402121_2

さて、話変わって、いま、島原から千々石にいたる街道、千々石道といいますが、島原の

お殿様が長崎まで通い、伊能忠敬が測量をしていった道であり、勝海舟、坂本龍馬一行

も通った道(これには異説あり)を少しうろうろして、田代原(藩政時代からの放牧場)の集

落を歩いていると、一番上の写真。


近頃、こんなものを見るとすぐに、調べる癖がつき、字を読んでみると、

E

「空照上人壹百日修行頭髪塚」。空照上人の百日修行の願を、讃えたたものでしょうが、

「え!こんな所に」、と思って建立者を見れば、

D

「三會村(三会、現在の島原市三会)信者一同謹建」。三会といえば、島原市の有明町と

の境で、一番端の所。


ということは、空照上人の名は、昔で言うと、西有家、有家、布津、深江、安中、島原市、

三会と、かなり広範囲に知れ渡っていたことが分かります。


田代原の管理人の方に聞くと、別の所に建てる予定が、都合があり、こちらに頼まれたと

のこと。


さて、空照上人の事も、この碑の意味も、すぐに忘れられ、私達の先人の歴史が段々薄

れていくことでしょう。


世界遺産の指定、ジオパークの指定と、それも結構なのですが、もっと、足元にも忘れて

はいけない歴史もたくさんあるのですが・・・・まあ、文化後進発展途上市としては・・・・・・

N市、I市、S市などと比べれば、遅れていますね・・・・

(参考・引用:「西有家町郷土史」「雲仙歴史散策資料~西久海著」より)

2014年3月18日 (火)

小浜の鬼石・雲仙の鬼石~雲仙市

1

小浜町北野の鬼石です。説明板には、次のように書いてあります。


「この石は、島原半島随一の巨石と言われ、長さ12m巾11m、厚さ6m、表面は平坦で、

その面積は61㎡、そこには四体の地蔵が安置してある。その石にまつわる伝説は、例え

ば、鬼が罰を受けて大きな石をもたされ、雲仙登山をしていたが、あまりの重たさに耐え

かね捨てたものであるとか、この石のまわりを三回まわれば鬼がでるなど、いろいろある

が、事実は雲仙火山大爆発の際、転げ落ちた石ということである。里人は、この石には霊

魂がやどっているとのいい伝えから、この石を石材にしようとするものはなかった。

観音菩薩像は、昭和52年11月篤志者により建立されました。」


穴が穿たれ、4体の地蔵が安置され、そのほかにも、新しく奉納されたものが、たくさんあ

りました。


横に、かなり古ぼけた説明板(町合併前、小浜町時代からのもの)と、小浜小学校の生徒

が作った説明板。


「北村の名の由来! 昔は「来村」と書いて、神様が来た村で、来村って書くんだよ。今は

北村という字だよ!」「1663年、大雨が降って、その時に土砂が流れて、この鬼石が地

上に現れた!!」。良く調べていますね。

3 2

下が、雲仙の鬼石。こちらの説明板は少し難しく、環境庁・長崎県の名前が入っていま

す。「鬼石」のタイトルで・・・・


「東西南北を十二支の卯(ウ・東)、酉(トリ・西)、午(ウマ・南)、子(ネ・北)、で現している

古い雲仙の絵図面に、鬼石の場所が記されています。

温泉山縁起にも『此の山の難林王は四面の大鬼なり、行基菩薩に逢いに奉り種々の問

答あり、又悪鬼あり、男鬼の名は空仙鬼、女鬼の名は難林王なり、此の鬼々を加持すれ

ば即ち鬼石となる』」と記されてあります。

石の形から、山領の鬼石(注:小浜の鬼石)は男神の『空仙鬼』。雲仙の鬼石は女の『難林

王』と思われます」と記されていますが、小浜の鬼石と、雲仙の鬼石との関係は、検証がい

ると思いますが・・・・、

6

この場所、旧八万地獄の周囲の散策道にありますが、観光客も訪れる人もなく、鬼石は、

ひっそりと鎮座しています。


左が今の旧八万地獄で、右がいつのものか分かりませんが、煙が上がっていたころの、

八幡地獄の絵葉書です。

4_2 5

なお、この地獄の場所は、西から東へと場所を移動をしているということです。

下図の赤丸が、左から右(西から東)へと移っていく様子です。

Img_20140318_0003

 (「島原半島ジオパークをひと筆書きで一周する~寺井邦久編著」より)


さて、帰りがけ、「六兵衛茶屋」で昼飯と思っていたら、なんと・・・・・・閉店でした。多分、以

前は茅葺の立派な屋根だったのですが、今はボロボロで、最近、茅葺ができる職人さん

が少なく、費用もかかるとか。そのせいかな?なお、千々石店はちゃんと営業をしておりま

すので、こちらへ御来店を。

13 14


2014年3月17日 (月)

雲仙ビードロ美術館★2014 第13回南島原市セミナリヨ現代版画展、その他~雲仙市

Photo

雲仙にあるビードロ美術館です。ここ、写真撮影禁止なので、撮影できませんが、すごい

ガラス工芸品が蒐集してあります。ガラス工芸が好きな方は、是非お越しください。皆さん

は、パンフレットで我慢を。

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ショップには、高級品から、子どもの喜ぶものまで。ガラス細工の可愛い、金魚さんに、タ

コさんなど。ガラス体験工房まであり、トンボ玉、ネックレス、ブレスレット、万華鏡等などが

作れるそうです。

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さて、ここへ来たのは「第13回 南島原市セミナリヨ現代版画展 巡回展」があり、私の知

人が入賞しており、本当は、有家町であった、展覧会を見に行きたかったのですが、うっ

かり忘れて、ということで、巡回展の方に。


巡回展は、3月26日まで。こちらの会場では、第1部~3部の大賞、準大賞、入賞が展

示、、4月1日~6日まで、長崎県美術館で、第1部~第4部の大賞、準大賞、入賞と3部

の入選作品が展示されるそうです。(1部は小学生、2部は中学生、3部は一般、4部はグ

ループ作成)


南島原市には、セミナリヨ、コレジジョ(神学校)が置かれ、天正欧遣使節に選ばれた、4

人の少年が学んだ所であり、銅版画の「セビリアの聖母」「「聖家族」は、有家セミナリオで

日本人の手によって作成された、最初の銅版画だと言われています。


明治2年にマニラで発見され、ローマ法王によって、大浦天主堂に下賜されているそうで

すが、故渡辺千尋氏が400年の時を経て「セビリアの聖母」を復刻され、ローマ法王へ献

上されているそうです。


それを期に、版画教室なども開催され、合併前の有家町で、始めて開催された公募展だ

と記憶しているのですが、町合併後、現在は、南島原市セミナリヨ版画祭実行委員会が主

催になっています。


本年は、第1部、第2部、第3部、第4部、合わせて、8,381点の応募があったそうです。

ほんの一部を紹介。

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以前は、入賞者の方は地元の方が多かったのですが、入賞者の住所を見ると、ほとんど

が県外ばかり、県内の方は1名だけでした。少しさみしいところです。


さて、帰りがけは、千々石へ直通の道を。この道、段々広げており、将来的には、小浜で

はなく、こちらから車で登るほうが多くなるのでは、・・・・・


途中、稚児落としの滝があるので、写真でも撮って行こうかと思ったら、危険なため、立ち

入り禁止になっていました、右の写真の下の方にあるのですが・・・・・音だけは聞こえま

す。

Photo_11 Photo_10

雲仙は昔、僧侶の修行の場所であり、瀬戸石原に300坊、別所に700坊あったといい、

島原藩に残る深溝世紀(ふこうずせいき。島原藩の正史。島原藩の松平氏は三河深溝に

由来する深溝松平家。)によれば、「小院有瀬戸石原三百房別所七百房」とありますか

ら、数は多くても、あまり大きな僧房ではなかったのでしょう。


この、二か所の坊さん、あまり仲が良くなかったみたいで、片方の稚児が白い雀を飼って

いたところ、もう片方の稚児が貸せといい、貸せ、貸さぬの喧嘩になり、白雀が死んでしま

い、その喧嘩が、いわゆる、子どもの喧嘩に親が出てということになり、「瀬戸石原僧放

火、別所坊舎儘焼亡」で、結局、島原の殿様が兵300を派遣して鎮圧。


原因が稚児と分かると、全坊の稚児を集め、この滝に突き落としたそうです。(この話、前

にも書いたかな?まあいいか~。)昔、稚児争いの話だと、地元の方に聞いたこともあ

ります(要するに男色に関係あることです)。他の説もあるのですが、またいつか・・・・

白雀の乱として知られ、宝永四年(1701)に、このことを題材とした謡曲があり、一般に

は普及していないそうですが、某市の謡曲関係者が、復活させようという話。本来は雲仙

市に属する話なのですが、少し残念な気持ち。

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ビードロ美術館にあった、おフランス製の期間限定生チョコ。試食すると、なんとなくフラン

ス美女の香りがして、またもや衝動買い。

カミサンに見つかると、また、お小言かな?隠し所に困りますね。生チョコだから、冷蔵庫

に入れておかないといけないし、冷蔵庫は小さいし、缶は大きいし・・・・・・

(参考・文引用:「島原半島史~林銑吉著」「小浜町史談」など)


2014年3月15日 (土)

竹添ハウス・ガレージセール

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猫のお昼寝。良いですね。場所は「竹添ハウス」。主は松本さん(女性)という方で、出身は

宮城県。


どういうわけか、千々石に住みつき、古い家を借り、「竹添ハウス」となずけ、町おこしの拠

点にしています。


今日から19日まで、「『雲仙手づくり職人の店 新風』一周年ガレージセール」ということで、

出かけてみました。高級品から、古いものまで・・・・ちなみに上の猫さんは、売り物ではあ

りません。


懐かしの鉄製の扇風機。今は、家電屋さんにも売っていません。手回し式の計算機。かえ

って、そろばんの方が早かったな。

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ローライフレックス2眼レフ。すごいな。テーブルに椅子。ドイツ製だとかで、がっちりして、

座りごこちが良かったので、ひとつ買ってきました。椅子は3,000~5,000円。机は使

いやすく、がっちりしたもので、わが家にも、置く場所があれば欲しかった。

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卓上用の織り機。なぜか、懐かしの鉄道用の荷札。

Dsc_0261_2 Dsc_0262

これは不思議、ほどいたら一枚の布になるドレスと、もうひとつは、5枚になるドレス。でき

れば、実演が欲しかった。火鉢に、電熱器。電熱器は学生時代、私もお世話になりまし

た。これも、家電屋さんには売っていません。

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少し高級になって、「ユネスコ無形文化遺産 重要無形文化財・石州半祇 伝統文化・石

州和紙」。高級陶磁器。

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お~懐かしのビートルズ。先生に、これ聴いている奴は、不良だと言われました。今では

教科書に。タイプライター、パソコンのキーボードと違って、重みがありますね。

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昔のアイロン、中に炭を入れて使いますが、ウチもいつまでだったか、使っていました。

珍しい、ガラスのフライパン。使いやすいそうですが、今では作っていないそうです。オープ

ンに入れても大丈夫だそうで、がっちりしたもの。600円。但し、重い。

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木彫り職人さんの作品。「ゆきおちゃんシール」。ストラップも入っていますね。こんなのあ

ったんですか?

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他にも、手作り職人さんの作品もあるのですが、写真撮るの忘れました。


場所は、多分、分かりにくいと思いますが、千々石の公民館あたりで、「ホテル跡はどこで

すか」と聞けば、「ホテル跡」から、ほんの数メーターの所ですから、分かると思います。

思わぬ掘り出し物がありそうなので、興味のある方は御来場を・・・・・・

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ウチの寄せ植えの鉢も春。「春が来れば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空・・・・」。中学

校の時習いましたが、尾瀬にも行ったことがない私、尾瀬ってどんな所?






2014年3月14日 (金)

島原城の「宇宙つつじ」★天正遺欧使節ステンドグラスのこと他~島原市島原城

1

今日は、島原の病院へと。ついでに、島原街道の事を確認しようと、島原城内に勤務され

ている、M先生の所へ聞きに行こうとしたら、本日はお休みだとのこと。


他に、確かめたいことが2つばかりあったので、そちらの方を・・・・


着いたときが昼で、お城の前の姫松屋で具雑煮でもと思ったら、団体客で一杯。城内の売

店の食堂で、久しぶりに「ろくべえ」でも食べようかと、待つ間、そこらを眺めていると、さす

が、外人の方も来るのか、「うどん」の説明が英文で。

2 25

全国的に有名になった「佐世保バーガー」。「島原城」と「佐世保バーガー」。組み合わせ

がピンと来ませんが、冷凍ものだから、まあ、いいか。

3 4

と思っていたら、目の前に新聞記事が貼ってあり、「『宇宙ツツジ』島原城に」の記事。向井

千秋さんが、スペースシャトルに運んだ、ツツジの種から育てられた「宇宙ツツジ」が、昨

年、島原城に移植されたとのこと。

「どこにあるの」、と店員の方に聴いたら、「どこだっけ」。思いだして、捜してもらったら、上

の写真の所。お城に向かって、左手の所にあります。


「宇宙ツツジ」を探している時に、もう一つ。ここ、売店の裏で、ここまで見る人はいないでし

ょう。

島原城を築いた、松倉重政が、籠城用飲料水を得るために、寛永元年に掘った井戸。も

う一カ所、井戸があるそうですが、どちらかの井戸かが、抜け穴ではないかとの、地元の

人の話。紙を投げ入れると、下からの風で、フワフワするそうです。最も、抜け穴の話は、

お城には、つきものの話ですが・・・・

8

この「宇宙ツツジ」の説明板、知ってはいながら、西望さんの彫像の横にあるので、その説

明かとばかり思って、読んでなかったのですが・・・・

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「このツツジは、人類の夢を乗せたアジア初の女性宇宙飛行士向井千秋さんとともに宇

宙を旅したツツジの種から育った宇宙ツツジであることを証明いたします」


なんと、商標登録も取っているらしく、「商品登録」として、「商標 宇宙ツツジ」、「登録 第

4305632号」。「平成11年8月13日」、「特許庁長官 伊佐山建志」、「宇宙ツツジ認定

番号 80」の文字。


なお、ツツジは研究機関で育てられ、その一部が、館林市のつつじが岡公園で植栽され、

館林市からの厚意で、島原市に送られたものだそうです。まだ、植えて一年ばかりですか

ら、小さいものの、とにかく「宇宙ツツジ」です。島原城にお越しの際は是非ご覧を。


さて、あと確認したい一つが、先日書いた、元山元造氏が所蔵していたという、銅版画。

ありましたが、城内撮影禁止のため、図録から

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  (「島原城展示品図録」より)


同じものだということが、分かると思います。「長崎談叢」の後の方は「サンクトスの御作業

のうち抜書」かな?(版画が、逆になってないのは、乾拓から再転写したため)

説明は「故版画」になっていますが、「古版画」ですね。「幼なイエスと老ヨセフ 16世紀」



さて、もう一つ確認したかったのが、展示物で、「天正遺欧使節」の絵の、4人の少年の名

前の所。千々石ミゲルの名前の所のみが、黒くなっているとのこと。


見に行ってみると、真っ黒ではなく、薄墨を流したみたいな感じです。この絵、見た事があ

るなと、考えてみると、カトリック島原教会にあるステンドグラスの絵。


で、カトリック教会に見に行くと、ステンドグラスでは、かすかに分かるくらい。写真は遠慮し

ていたら、絵はがきがあったので、絵はがきで・・・・

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 (「島原半島殉教者記念聖堂~カトリック島原教会」 絵はがきより)


なお、使節の主席正史が「伊東マンショ」、正史が「千々石ミゲル」、副使が「中浦ジュリア

ン」、「原マルチノ」で、この順番で描くのが普通なのですが、この、絵では主席正使「伊東

マンショ」、副使の「中浦ジュリアン」、「原マルチ」、最後に、正使の「千々石ミゲル」の順。

そして、薄墨を流したような文字。


千々石ミゲルは、帰国の後棄教し、大村藩キリシタン弾圧の原因を作ったとも言われてい

ます。


カソリック教会としては、当たり前のことですが、正式には、認められない人物だったので

しょう。その取り扱いだったことが感じられます。多分、遺欧使節としての実績があるの

で、この形が、ぎりぎりの妥協だったのでしょう。



2014年3月13日 (木)

あぶない!フチ子さん!!

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昨日は、医療費控除の書類をまとめていたら、思ったよりも多く、夜の1時までかかり、昔

は、夜遅くても、何んともなかったのですが、年には勝てず、今日は、くたばりました。


おまけに、朝から雨。気がめいって、本を読む気にもなれず、ちょうど、フチ子さんがあっ

たので、遊んで、気晴らしをしました。


ゴキブリ、アブラムシ、長崎あたりでは「アマメ」とも言います。フナ虫も「アマメ」とも言いま

す。私も、「ゴキブリ亭主」と言われますが、広辞苑、明解国語辞典には「ゴキブリ亭主」は

載っていません。


ネットで調べると、台どころに入り込んで、ゴソゴソする夫だそうで、近年、男の料理が流

行っていますが、あれ、全部「ゴキブリ亭主」ですね。最も、夜中に、台所でこっそり食べ物

をさがす夫の事、とも載っています。アナタ、覚えがありますね?


ゴキブリも慣れると可愛いんですが。上の5匹は私が飼っている、ゴキブリで、モチロン若

くて可愛い女子。モモちゃんに、リエちゃんに、サエちゃんに、ユリちゃんに、ユカちゃんで

す。(もちろん冗談、冗談  )


さて、こちらは少し真剣な話、今日のNHKの「あさいち」でもやっていましたが、「マダニ」。

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あちらこちらの公園に、注意札が立ててありました。こちらの方が、ゴキブリより危険です

ね。特に、私も家庭菜園をやってますから、要注意。皆さんも、御注意を。


橘公園(橘神社)に寄ってみたら、一本だけ桜が咲きかかっていました。早熟の桜かな。

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いつか散る桜と思へば散りにけり  sugikan     お粗末でした ヾ(_ _*)ハンセイ・・・







2014年3月12日 (水)

2014 観櫻火宴(日本一の松明武者行列)&桜情報~雲仙市千々石町

1 2

ホワイトデーにお返しを送ろうと思って、伝票の配達指定年月日の所に、間違って、2月14

日と、書いてしまっちゃいました。店員の方から言われて、訂正しましたが、考えれば、もう

3月。古人曰く、「老人老い易く、あの世はすぐそこ」。


さて、今年も千々石町で、3月29日(土)に、日本一の松明(たいまつ)武者行列、「観櫻火

宴(かんおうかえん)」が実施されます。


参加は申し込みで、衣装代はいりますが、戦国武将になったと思えば安いもの。

昨年の写真からですが(今年はまだなので、今年の写真は出せません)、各々武将の姿

に身を固め、松明を持って、千々石海岸から,商店街を抜け、橘神社までを練り歩きま

す。


申し込みは3月20日まで。上のチラシをクリックすると大きくなり、連絡先など分かりますか

ら、参加希望の方はお早めに。

3 4

昨年までは、他県から鉄砲隊をお願いしていたのですが、今年は火縄銃を地元で揃え、

その名も「肥前千々石鉄砲隊」。お~カッコイイ。


元服武者は、今春、中学校に入学する子どもが対象ですが、一人づつ、舞台に立ち、名

前、自分の夢などを発表しますが、これ、記念になりますよ。該当される子どもをお持ちの

方は、是非ご参加を。

55 5


橘公園の桜を見に行ったら、まだまだ。ただし、早々と、ぼんぼりを付ける柱と、電気の工

事中。「今年は早いね」と声をかけると、「今年の桜は早そうですから」との返事。

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公園の桜開花基準木。先日行った時より、芽が少しふくらみ始めた感じ。かな?

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お隣の家の木花、名前思い出せなくて、あせっちゃうな。あ!「あせび」だ(少しダジャレ気

味かな?)。見れば不思議な花。

Dsc_0151_2 

ホワイトデーのお返しですか?エルメスのバックです(中○製ですが・・・)。


「長崎談叢」に見る戦時中の「浜屋」[岡政』の広告、他

1_3

この2,3日、カミサンが家に居着いて、何となく、気が滅入るので、図書館へ逃げ込み、

資料を探していたら、長崎史談会が書かれた「長崎談叢」(昭和43年復刻版 全五冊)が

置いてあり、パラパラめくっていたら、「濱屋」(現、浜屋)「岡政」の広告が載っていて、目

に入ったので。


長崎市でデパートといえば、「浜屋」と「岡政」、遅れて「玉屋」が開設。

「岡政」は経営難から、福岡大丸の傘下に入りますが、思わしくいかず、閉店。「玉屋」も昨

日閉店をしましたから、残るは「浜屋」のみになりました。


上の広告は、昭和14年のもの。第2次大戦は昭和11年~昭和20年ですから、戦争中

のものです。


地下、1階、2階の2階建てで、地下は、食料品、日用雑貨、1階は洋装品中心、2階は和

服関係が中心。


昭和15年の宣伝、上の宣伝とは1年しか違いませんが、「配給」、「国民服」の文字があ

り、戦時の感じがしてきます。

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こちらは「岡政」(大丸)昭和16年の宣伝。一階では、「債権賣塲(場)」。「愛国債権」の文

字が見えます。


一階西側、「軍人會館」。在郷軍人、警防團、青年学校、婦人会の服装用具品の売り場で

す。


「兒童相談所」、「第二國民の教育・素行等に就いて毎週水曜日斯界の権威者が指導相

談」。デパートでこんな事もやっていたんですかね。いまも、やってみたら、どうでしょう。子

連れの若い奥様方も、買い物に来られますから。ついでに、ご相談も。


一階西側、「慰問袋賣塲」、出兵された方に、どんなものを送ったら喜ばれるか、季節毎に

研究して提供。これを、読むと戦争の影響が、全国民を包んでいくことが分かります。

3_3

戦争後の広告。昭和38年。絵で見ると4階建てみたいですが、今、何階建てでしたっけ?

たしか、エスカレーターが出来たのも、ここが初めてだった記憶があり、最初は、おっかな

くて乗れませんでした。


屋上に遊園地があり、メリーゴーラウンドか、飛行機がグルグル回る乗り物があった記憶

もあるのですが・・・・・

あの頃は、屋上が楽しみで、子どももたくさん遊びに来ていたのですが・・・・今はどうなの

かな?

4

おまけに。「丸善」。ありましたね。思案橋電停の近く、洋書がたくさんあり、高校の時良く

行きました。


昭和44年に開催された時の「十八銀行」での「長崎国体定期積立金」の宣伝。今年、国

体が長崎で開催されますが、これ、今度はやっているのかな?

5 6

さて、表紙を見ていると、南島原市加津佐のコレジョで印刷された、「サントスの御作業所

の内抜書」。説明に、昭和13年、加津佐の本(ママ、元が正解)山元造宅で、実物を見せ

ていただたものを、田川憲氏が、乾拓にとらせてもらったもの。

表紙は、多分一部をデザイン化したのもでしょうが、

Photo

加津佐の「加津佐郷土誌 加津佐史談」には、下のような写真が載っており、明らかに上

のとは違うことが分かります。

Img_20140311_0023_2

加津佐の郷土誌によると、「加津佐のコレジョに施設された活版印刷機によって印刷され

た書物は、『サントスの御作業の内抜き書第一』、『どちりなきりしたん』、『加津佐物語』な

どあったはずであったが、現物が現存しているのは前二者だけである。」と書いてあり、


「サントス・・・・・」はイギリスのボードレー図書館にただ一冊が秘蔵。

「どちりな、きりしたん」はローマのベルベリニ文庫に秘蔵されている由。

「加津佐物語」は現物はどこにも現存しないとのこと。


なお、「長崎叢書」によれば、この元山氏の銅販は、「島原城の資料館にあると聞いた。」

とあります。


この間、島原城の資料館に行ったばかりだったのですが、また、ボーと見ていたのかな?

気づきませんでした。また、行って見ようかな。

なお、この印刷物の価値については「加津佐史談」には、次の通り書いてあります。


一 印刷史上、日本最初の金属活字で本であること。

二 国語学史上、日本最初の西洋文学翻訳書であること。

三 宗教史上、日本最初の聖人伝であること。

Dsc_0175_2

庭の薔薇が一輪だけ咲いていました。薔薇と、といて、カミサンと解く。その心は、「どちら

綺麗 トゲがある」。おそまつさまでした  o(_ _)oペコッ


2014年3月10日 (月)

センゴク一統記⑦~宮下英樹著

Img_20140310_0003

え~、まあ、なんと言いますか、消費税は上がる、年金は下がる、男は下がるわで、この

「センコク一統記⑦」。信長の本能寺も終わったし、買うの止めようかと思ったのですが、

黒田官兵衛は出てくる、この間書いた、三谷幸喜著の「清須会議」と、宮下氏の「清洲会

議」が、どう違う展開を見せるのか、読みたくて、つい買っちゃいました。


今回は、「山崎の合戦」の決着がつくところですが、中国大返しをおこなった、豊臣秀吉と

明智光秀の決着は、ご存じの通りです。日本史の時間は、お昼寝タイムだった私も知って

いるくらいですから、もちろん、皆さんもご存じだと思います。


さて、これに次ぐ「清洲(清須)会議」が大変で、なにしろ、織田信長の後継者を決める会

議ですから。いよいよ前哨戦がはじまります。


「清洲会議」については、メンバーは、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の四

名。他、事情により(書けば長くなるので省略)、滝川一益、徳川家康は欠席。

Img_20140310_0001

長男、織田信忠は二条城で死亡、次男信雄、三男信孝、どちらかが選ばれるはずです

が、結果は以外、ご存じの通り・・・・ご存じない方は、次巻の第八巻をお買い下さい。


さて、この清洲会議には、次男信雄、三男信孝は出ておらず、この点で、織田家の実権が

弱まっている事が分かります。


この会議につては、著者宮下氏は、「付記」で従来とは、少し違った見方をしており、これ

も、買ってお読み下さい。ほんの2,3頁ですから、立ち読みもできますが、立ち読みは他

人の邪魔になるので、ちゃんと買って読むように。


ちなみに、私は立ち読みする人が嫌いで、長時間、立ち読みしているのがいたら、そばに

寄って、ひとりごとをブツブツ言いますが、皆さん気味が悪いのか、全部逃げていきます。

一度お試しを。


さて、次の第八巻は「清洲会議」が中心になりますが、多分、黒田官兵衛も活躍するはず

です。どのように描かれるのか、楽しみにしています。

Img_20140310_0002_2

さて、我等が主人公、仙石権兵衛は、淡路の国を治めますが、主君の秀吉から、まだ宛

行状(あてがいじょう、知行宛行状)が、まだ届いていません、というより、清洲会議等でそ

れどころでは無かったのでしょうが・・・・


宛行状とは、知行の割り当てを示し、その権利を保障した文書のことですが、仙石権兵衛

の場合は、分かりやすく言えば、部長の席には着いたが、辞令は貰っていない状態。こ

れ、本人も不安なら、部下になる人も不安ですよね。さて、どうなるかは、第八巻のお楽し

み。

Dsc_0096_2

手入れも、肥料もろくにやらないのに、毎年、綺麗な花を咲かせます。これに比べれば、

人間は・・・・



2014年3月 8日 (土)

雲仙鉄道 31~第1号機関車? その四(最終回)

  Photo_3

上の写真、ウィキペディアに載っている写真で、何回もお見せしていますが、この機関車が

原型で、改造をされていきます。ウィキペディアにもう一枚、下の写真が載っており、改造

は、国鉄、島鉄両方で受けますが、この写真はいつ頃のものか、不明になっています。原

型の機関車と比べると、いかに変わったことか。(うちのカミサンもですが・・)


国鉄でどのように改造されたか、写真を探したのですが、ついに見つかりませんでした。

その折、You Tubeでなぜ、改造が必要だったのか、「迷列車【九州圏】♯25 島鉄1号機

関車」に説明があり、要点を書けば、1号機関車は、現在明治村で活躍している、160型

「12号機関車」と比べれば著しく劣っており、その原因として、異常に低い重心のボイラー

の据え付けにあったようで、明治17年、大阪に転用される際、神戸工場で、ボイラーの、

かさ上げ工事がおこなわれたそうです。


なお、島鉄にきても、煙室の扉、砂箱、蒸気ドームも替えたそうですが、これは、九州鉄道

の廃車になったものを使ったそうです。


又、同じくYou Tubeにて「鉄道博物館 1号機関車物語 開会の様子」がアップされていま

すが、鉄道博物館に問い合わせたところ、この機関車は明治30年仕様、すなわち明治1

7年に、改造された後の機関車になりますが、特に車高が、低く見えます。You Tubeを是

非ご覧下さい。

1501k

さて、いよいよ、この1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったかどうかですが、まこと

に残念でした。分かったのが、いつも参考にしている「島原鉄道100年史~夢ある未来を

めざして」の冊子でした。


最後の方に、「島原鉄道の100年のあゆみ」という事で、年譜が載っており、1927年(昭

和2年)、諫早~小浜間が乗り換えなしで良いように開通した年ですが、ここのところに、

「6.6 小浜鉄道の開通により、温泉鉄道の車両が諫早~小浜の直通運転を開始。」

と書いてあり、あくまで走っていたのは、「温泉鉄道の車両」と言う事で、「島原鉄道の車

両」が、と言う事ではないということが分かります。


昨年から、写真、資料と調べまくり、写真を比べ、汽車の前面、窓の形、煙突の下の状態

から、違うのかなとは思っていたのですが、やはり、はかない夢でした 


おまけです。「温泉鉄道のガソリンカーの愛野村駅入り込み」の説明が付いています。

Photo_4

「初めてのガソリンカー 昭和5年」。列車のまえに旗が付いて、大勢人がいるところをみ

ると、初運転の時でしょう。だとすれば、島原駅か?

Photo_7

「昭和14年・県立口加高等女子学校『口之津町』 口之津鉄道のガソリンカーで登校」の

説明。この島原鉄道南目線は、廃線になりました。

Photo_8

以上三点の写真は「島原鉄道100年史」からです。


この記事を書くにあたっては、島原本社まで出かけましたが、丁重に対応していただき、

また、貴重な資料までいただきましたことを、心から感謝いたします。ありがとうございまし

た。

(参考・文引用・写真:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」「島原南高の100年

~監修 松尾卓次」「島原半島の歴史~監修 松尾卓次」、ほかウィキペディアより)



2014年3月 7日 (金)

雲仙鉄道 30~第1号機関車? その三  

Photo

              (「島原鉄道100年史」より

上の写真の機関車、「1号機関車(大正初期)」と書いてあります。前回書いたように、明治

44年、日本の1号機関車は、島原鉄道に払い下げられますが、前回の設計図と比べると

分かると思いますが、ほぼ一緒の形だと思われます。こうして見ると、D型機関車などと違

い、随分小さい事が分かると思います。


さて、一号機関車として、数冊の本に写真が出ているのですが、撮影の日にちがほとんど

分からず、私も、鉄道マニアでなく、よく分からないので写真を並べてみます。


一応、念のため、「大正初期頃の3号機関車と思われる」と注釈がある機関車。

Photo_3

           (「島原鉄道100年史」より)

松尾卓次氏編の「目で見る 島原南高の100年」に載っている、1号機関車。胴体の横の

所に「1」と言う字、その上に、島原鉄道のマークが見えます。本書では、大正初期となって

います。

Photo_5

 以前のマークと、今使っているマーク。少し違っているのが分かると思います。

Photo_6 Img_20140306_0003

「島原鉄道100年史」からの写真です。横に、島鉄のマークと「1」その下に、多分「島原鉄

道」の文字だと思いますが、加わっています。下の写真同じようでですが、写真の写す角

度、煙突の下の痛み具合から、上の方が使い込んだような感じ。

Photo_10

Photo_7

「長崎歴史文化博物館」に売っていた絵はがき。煙突前の探照灯(ヘッドランプ)がありま

せん。上の写真より以前のか?取り外しができたのか?珍しく、煙が出ている写真です。

Photo_11

下の写真、「島原南高の100年・監修 松尾卓次」、「島原半島の歴史・監修 松尾卓次」

「島原鉄道の100年」。同じ写真が載っていますが、「島原半島の歴史」には、「島原駅と

シマテツ列車」となっており、他の本には「多比良(たいら)駅」となってますが、どちらが本

当?

Photo_12

「多比良の浜、田川の鉄橋を走る1号機関車(大正時代)」。車体の真ん中、かすかに島

鉄のマークと「1」の字が見えると思います。

珍しく、貨車を押していますが、前の方には牽引機関車がいたと思います。

0

さて、今日は、1号機関車が雲仙鉄道のレールを走ったのかどうか、結論を書こうと思っ

たのですが・・・・一号機関車は、原型をとどめないほどの改造を、国鉄、島鉄で受けます

が、どうして、改造を受けなければならなかったのか、偶然のことに、今日になって分かり

ました。


次号はそのことと、結論を。勘の言い方は写真を見て行けば、すでに分かられたと思いま

すが・・・結論まで長くかかりましたが、あと1回で、「第1号機関車」は終わりです。なにや

かやで、長くなって  (*_ _)人ゴメンナサイ  。



 



2014年3月 6日 (木)

雲仙鉄道 29~第一号機関車? その2

Photo_2

少し呆けてきたようで、昨日、明治44年と書くところを、昭和44年と書いてしまって、訂正

はしておきましたが・・・雲仙鉄道の続きです。


さて、しっつこいようですが、雲仙鉄道の各駅の記念碑の所に、焼き付けてある写真で

す。確認のために載せます。


最初写真を見て、考えたのは、この場所はどこか?左に見える畑は、路線際に所々見ら

れる風景です。


右側、良く見ると、防波堤と思われるものがあり、その外側は海岸の岩礁みたいに見えま

す。だとすれば、千々石断層の下あたりか?


この写真、「小浜鉄道」と書いたものがあり、小浜鉄道と言えば、千々石~小浜ですから、

似た風景がないか、一応、小浜の観光協会、小浜支所に聞きに行ってみましたが、はっき

りせず、富津あたりではなかろうかと言う方もおられ、ウロウロしてみましたが、やはり似

た風景はなく・・・


二枚の写真があり、一枚は小浜郷土館、一枚は個人が所有していたもの。千々石海岸で

す。

Photo_4

              (小浜資料館にて)

Photo_5

                  (個人所有)

同じように見えますが、満潮と干潮。また、線路の写り方を見ると、下の写真は、上の写真

より、かなり下ったところで、写真を撮ったことが分かります。たぶん、同じ人が、同じ日に

写したという感じがあるのですが・・・・ルーペ、パソコンで拡大して見ると、一軒だけ違う家

があり、写真を写す角度の関係か、写した時期が違うものか、悩みます。


赤矢印が線路ですが、写真の右の方に行くと、千々石断層の一番ひどい所。

海と平行に、海のすぐ横を汽車が走ります。なお、ここのところは、岩礁がゴツゴツとした

所で、砂浜ではありません。


念のため、一番上の写真を、ディサービスのお年寄りに見せたところ、「塩屋(千々石海岸

付近)のとこやろ」と言う事でしたが、当時とは、地形も変わっており、はっきり、ここだと断

定できることは、できませんでした。


さて、機関車です。昨日も載せた、ウィキペディアに掲載されている、一号機関車の写真で

す。

Photo_8

             (ウィキペディアより)

島原鉄道に入ってきた時は、かなり、改造されていたようで、下は、島原鉄道に入ってきた

時の設計図だと思われます。

「形式称号/1   車種/四輪連結タンク機関車  番号/1」と書いてあります。

Photo_10

          (「島原鉄道100年史」より)

ご覧の通り、改造されていることが一目瞭然です。とくに、機関車の上の方。

図面の下に、製造所名「ランカッシャー ヴァルカンフアウンドリー」。製造年月日「187

1」。前所有者「鉄道院」。旧番号「150」。「元作業局第1号」。その他、寸法等の記

載。


さて、島原鉄道でも大改造がおこなわれますが、また、次号。

Dsc_0141_2 

諫早市森山図書館、玄関脇のミモザ。今が盛りです。不思議な花ですね。






2014年3月 5日 (水)

市民ミュージカル「至純の人 千々石ミゲル」★最後の追い込み~雲仙市

1

さて、本日は「雲仙鉄道」の続きを載せる予定だったのですが、カミサンが、3月9日に公

演される、市民ミュージカル「至純の人 千々石ミゲル」の関係者で、夕方になって、「あん

たのブログにも、PRで載せとってよ」とのお言葉で、「いやだ」と言えない、気弱な私。


カミサンが撮ってきた写真が、プレていたり、露出不足だったりで、いい写真だけですが紹

介を。


さて、3月1日、南串山町の「ハマユリックスホール」(以前にも書きましたが、旧南串山町

の町花が「ユリ」、町木が「クス」から「ハマユリックス」。ゆり根の生産地として、有名な所で

した)にてゲネプロ。


ゲネプロとは、要するに、最後の全体リハーサル。私たちの時は、総練習って言っていま

したが、いまは何でも横文字。

15

この市民ミュージカルは、出演者を公募。最初はなかなか集まらずに、脇で見ていてヤキ

モキしていたのですが、段々に増えて、一番上の写真のように、大勢の方が参加をしてく

れています。全員ボランティアの方ばかりです。

合唱団の方かな?ローマ教皇への拝謁の場面。教皇様は、衣装の布をわざわざ長崎

まで買いにいかれていました。

3_2 P1070315

さて、出演者も土曜、日曜返上での練習なら、裏方さんも大変で、ローマ教皇の衣装と4

少年の衣装は、地元婦人会員の手作り。南蛮服の上着は学ランを利用したそうです。


天正遺欧使節の4人の少年は、秀吉の前で演奏をし、感動させますが、楽器も実行委員

のM氏の手作り(残念ながら、音は出ませんが、出ているつもりで見てください)。見た目

は、本物そっくりで、よくできています。


当日、ご覧になる方に、前もって、少し知識があった方が、と言う事で、あらすじのプリント

を配るということですが、これも、「紹介のために、書いてよ」という事で、又、千々石ミゲル

について、良く、ご存じない方もおられ、参考になると思いますので、少し長文になり、プリ

ントに書いてあるとおり、書こうと思ったのですが、長いのでチラシをスキャンして、貼り付

けておきます。クリックすると、少し大きくなるので、充分読めると思います。

Img_20140305_0001_2

今日も、練習をやっており、カミサンはそちらの方に行っており、今日も一人っきりの晩

飯。「・・・・独り寂しく冷や飯(ジャーに入れてあるので温かかったが)食えば 古い虫歯が

またまた疼く 愚痴は云うまい零すまい・・・・」なんて歌、思い出しますね。

P1070307

切符も、ほぼ売り切れ状態だそうで、雲仙市内の「ハマユリックスホール」、「国見町文化

会館」、「吾妻町ふるさと会館」、千々石町にある「教育委員会生涯学習課」、また、ローソ

ンチケットでも取り扱っているそうですが、一応電話で確認されたがいいと思います。


次回こそ、「雲仙鉄道 29~第一号機関車?」を載せます。果たして、日本での、「汽笛一

声新橋を・・・」の日本での第一号機関車が、雲仙鉄道を走ったのか、次回をお楽しみに。

泣く子とカミサンには勝てぬと言う事で、今日は、お許しを m(_ _)m。







2014年3月 3日 (月)

諫早市美術・歴史館オープン~諫早市

Img_20140303_0002

 (「諫早家ゆかりの品々展」図録より)

昨日の、雲仙鉄道の続きをと思っていたら、写真の整理ができず、おまけに諫早の病院

へ。


前週に心臓細動が起ったことを話したら、検査は延ばしましょうか、と言う事で、「PSAの

値も初期段階だし、この値だと、このままにしていても、あと十年は大丈夫でしょう」。せっ

かく決心して行ったのに、検査入院は延期。


と言う事で、家に帰ってもカミサンがいるだけだし、図書館はお休み。諫早の美術・歴史館

がオープンしたということを聞いていたので、行ってみました。以前は、郷土館はありまし

たが。


入ったとたん、ゆったりとしたホール。雰囲気が良いですね。

どなたか、言っていましたが、便所の壁のタイルも洒落ていますね。女子便所は、どうか覗

いて(純粋に比較のため)見たかったのですが・・・・赤みたいでした(人から聞いた話です)

P3030324

P3030281 P3030293

P3030294 P3030308

P3030307 P3030316

中の展示も、ゆったりとして、説明も分かりやすくしてありました。


2階建てで、一階は常設展。二階が企画展示室と、研修室(貸室)。開館記念として、二階

は、4月の29日まで、記念特別企画展「諫早家ゆかりの品々展」。これは、見ごたえがあ

りました。


受付で、「展示品以外の館の様子など、写真撮ってもいいですか?」、「展示品も撮影禁止

とあるところ以外はいいですよ、フラッシュはたかないでください」、「マジ~、普通、博物館

は撮影禁止じゃない?」「え~でもいいですよ」。この、諫早市の器量の大きいこと。いろい

ろ、調べ物をしていると、どうしても、写真に撮って調べたいことがあるので・・・・本当に、

助かります。こんな事なら、良いカメラの方を持って来たら良かったかナ。


一番上の写真は、企画展の図録から複写したものですが、下が私が撮ったもの。

「明珍作うこん威甲冑」。甲の頭、真ん中の所、水晶球の中に、載金(きりがね)で装飾さ

れた木彫の像が入っています。軍配なども展示してあり、右の兜、「獅子王尊霊甲」。増田

明珍宋次作。これ、すごいですよ。

P3030283

諫早家にお輿入れした、お姫様の婚礼道具と思われる駕籠「黒漆塗唐草文花杏葉紋散

女乗物」、担ぐのも大変なら、乗っていくのも大変だったのではないでしょうか?

船と同じで、揺れますから、「駕籠酔い」もあったのでは?後の所は、背もたれみたいなも

の、左右には、アームレストかな?

P3030309 P3030310

大雄寺の「十一面観世音菩薩座像」。これ見たくて、大雄寺まで行ったのですが、がっちり

鍵がかかって見れなかったもの。


諫早家代々の守り本尊。高城(たかしろ)の頂上に奉安してあったものを、第8代目の茂

行公のとき、大雄寺の堂宇に奉安したそうです。


左手に持っているのは徳利か?何か気になります。頭に、11の観音様が彫ってあるのが

分かると思います。いいお顔の観音様でした。思わず合掌。

P3030303_2

「エーセルテレカラフ」。現存する国内最古の電信機。左の針がついたものを回すと、時計

のようなものも同じように回っていき、ボタンをおすと、上のベルが「チン」となって、選んだ

文字が(両方とも、ひらがなが書いてあります)分かるようになっています。


このようなものから、現代のインターネットへと発展したかと思うと、情報通信の原点を見

るような感じでした。


これ、模造品ですが、実際に体験できます。 常設展示場の方に置いてあります。実際動

かしてみると、結構面白いものでした。

P3030298

その他、企画展では、古文書、古地図、諫早家の当主の肖像画、国内に二冊しかないと

いうナポレオン辞書、金泉寺の千手観音など、貴重なものがたくさん展示されていました。


この二階の企画展のものは、企画展が終わると、元のところに戻すみたいで、興味のある

方は、4月29日までですから、是非ご覧下さい。


ところで、入場料、大人200円と書いてありましたが、取られませんでした。どうも、3月い

っぱいは無料のようでした。図録は1000円ですが、是非お買い求めください。役に立ち

ます。


なお、この近所は諫早公園、高城跡、高城回廊、諫早高校内の桃山様式の庭園、御書

院、眼鏡橋、諫早家墓所の天祐寺等あり、環境は良い所です。


今日は体調が悪く、ざっと見ただけですが、また、じっくりと見に行くつもりです。どうです

か、ご一緒に。いつものように、若い女性に限りますが。

(参考:「諫早市美術・歴史館開館特別記念展『諫早氏ゆかりの品々展』」図録より」



2014年3月 2日 (日)

雲仙鉄道 28~第1号機関車? その一

Dscf1586

さて、しつっこく雲仙鉄道です。右のカテゴリーの「雲仙鉄道」をクリックすると、今までの部

分が出てきますので、ご覧下さい。ただ、少し(おおいに?)私の誤認したところがあり、ま

だ訂正していませんので、ご注意を。いつか、訂正します。


さて、千々石の、「上千々石駅」の記念碑です。この横に説明版がありますが、この赤の

矢印の所、機関車の写真が焼き付けてあります。これは、他の駅跡の記念碑にも、同じ

写真が焼き付けてあります。拡大すると

1_2

この矢印の所、どう見ても、数字の「1」に見えます。すなわち1号機関車と言う事です。

もう少し拡大すると。

2

さて、これが何故気になるかというと、再度、雲仙鉄道の歴史を簡単に書くと、この鉄道

は、本来、温泉(当時は「うんぜん」と読んでいました。)軽便鉄道(のち温泉鉄道に改称)

と小浜地方鉄道(のち小浜鉄道と改称)に別れていました。


温泉鉄道は、大正12年(1923)5月5日に、愛野村~千々石を開業。

小浜鉄道は、昭和2年(1927)3月10日に、千々石~肥前小浜を開業。


昭和8年(1933)に小浜鉄道が「雲仙鉄道」に社名変更をし、「温泉鉄道」を合併し、「雲

仙鉄道」となります。


長崎、福岡方面からくると、国鉄の諫早駅で下車、島原鉄道に乗り換え、愛野駅で下車

し、雲仙鉄道に乗り換え小浜まで、と言う事になり、非常に不便になるので、昭和2年6

月、島原鉄道、温泉鉄道、小浜鉄道の3社で、諫早~肥前小浜の直通運転を開始します

が、昭和7年(1932)11月、直通運転を廃止します。


その後、昭和10年に島原鉄道に経営委託し、昭和11年10月、直通運転を再開するも、

昭和13年(1939)に廃業。


と言う事で、昭和2年~昭和7年、昭和11年~昭和13年は、諫早~肥前小浜が直通運

転であったということになります。


さて、問題は、この「1」と書いた機関車が、雲仙鉄道のものか、小浜鉄道のものか、島原

鉄道のものかと言う事です。もし島原鉄道の「1号機関車」なら、話が面白いのですが・・


なぜ、島原鉄道の「1号機関車」が、問題になるかというと、島原鉄道の「1号機関車」は、

日本の鉄道が開業した折、イギリスに10両発注された機関車の中で、最初に日本に着

き、「1」と番号が付けられ、新橋~横浜間を走った機関車で、現在、鉄道博物館に納め

られ、重要文化財に指定されているからです。


この一号機関車は、輸入後、改造、各地に転用され、明治44年に、鉄道院から、他に機

関車4輛、、4輪客車10輛、無蓋貨車7輛と共に、島原鉄道に払い下げられます。


のち、貴重な機関車ということで、返還・保存の運動が起こり、昭和5年、鉄道院と別の機

関車と交換という形で、鉄道院に返還されています。なお、この時は、盛大な送別会がお

こなわれたそうです。


ですから、昭和2年から、鉄道院に引き取られる、昭和5年の間に、現在、国の重要文化

財になっている、1号機関車が雲仙鉄道を走っていた可能性があるのではないかと・・・・

もし走っていたら面白いなと・・・・・


ウィキペディアに載っている、第1号機関車の原型です。

Photo

この機関車が、雲仙鉄道を走ったかどうか、結果は出ましたが、昨年から調べ回って得た

結論。簡単には教えません。


なお、この機関車、島原鉄道でも大改造をうけており、次回は、その改造された機関車の

姿などを・・・


3月になりました。4月には入学式。「ともだち100人できるかな・・・・」。小学校の新入生、

28名なんですけれど・・・・・

Dsc_0124

(参考・引用:「ウィキペディア」「島原鉄道100年史」より)







2014年3月 1日 (土)

「走れメロスは歩いていた」?~たまには週刊誌を

Img_20140301_0001

久しぶりに週刊誌を買いました。久しぶりにといっても、3日前、別の週刊誌を買ったばか

りですが・・・


この「65歳で決断する『終の2択』」、「夫が死んで『幸福な妻』『不幸な妻』」という、題字が

気になります。ウチのカミサンはもちろん「幸福な妻」でしょうが・・・・


さて、本屋さんに行ったら、猫と犬の本が多いこと。

「犬に言いたいたくさんのこと」「涙猫」「ネコの涙」「ネコに言いたいたくさんのこと」「猫たち

の恩返し」「世界から猫がきえたなら」「人生はニャンとかなる」。


何ですかね、これ。ウチ、隣の犬と猫から5年も悩まされています。私が某国の国王なら、

「発禁書」にしているんですが。

__

さて、週刊誌をめくっていたら、「走れメロスは歩いていた」の目次が目に入ったので読ん

でみたら、中学生2年の村田信一君のレポートが、理数教育研究所主催のコンクールで

最優秀賞をとり、話題を呼んでいるとか。


「走れメロス」は教科書にも載っているので、皆さんご存じだと思います。太宰治の作品。

簡単に書くと、いろいろあって、3日間のうちに町に戻ってこないと、人を信じない王様に、

親友が処刑されるというもの。


はたして戻ってこれるか、手に汗を握る物語。また、友情、人を信じることを主題にしてい

ます。


村田君のレポート。「初夏満点の星の深夜出発」との記述から、メロスが深夜0時に出発と

仮定。


「一睡もせず十里の道を急ぎに急いで、村に到着したのは、翌る日の午前、日はすでに昇

って、村人達は野に出て仕事をはじめていた」とあるので、夜通し走って午前10時に到着

したものと仮定。


計算すると、10里=約39㎞。村へ到着するのに10時間。計算すると、平均時速は3,

9㎞。「一般的な男性の歩行速度は4㎞なのでメロスは往路は歩いたことが分かります」。


復路は、「目が覚めた時は翌る日の簿明」と書いてあり、物語の舞台はイタリア南部、北

緯38度付近、日本では仙台とほぼ同じ軽度。緻密な考え方ですね。


そこで、メロスが目覚めたのは、「午前4時」と推定。「悠々と支度を始めた」ので、出発を

午前4時30分と推定。


と言う事で、あとは簡単に書けば、出発から12時までの平均時速が2.7㎞(この間は川

の氾濫がありますが)。


途中、山賊に襲われますが、処刑場に辿り着いたのが、仙台の夏至の日没時間から午後

7時と推定。


と言う事で計算すると、最後の死力を尽くして走った時速が、5.3㎞。私が、少し早めにウ

ォーキングする時の速度が、時速6㎞。結果、メロスは、計算上では歩いた、ということに

なります。


村田君は、こう感想を述べているそうです。「『走れメロス』というタイトルは、『走れよメロ

ス』のほうがあっているなと思いました」、村田君、中学2年ですよ。すごい、着眼点とユー

モア。


結局、「65歳で決断する「終の2択」、「夫が死んで『幸福な妻』『不幸な妻』」はまだ読んで

いません。読まない方が良いかな、特に後者の方は。


橘公園の桜。桜開花の基準木を見に行ったら、まだまだですね、

Dsc_0040 Dsc_0049

帰りがけ、学校のユキヤナギが、少しばかり咲き始めていました。春はすぐそこ。わたしの

心はいつも冬。

Dsc_0067

(参考・文引用:「週刊ポスト 3月7日号」より)





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