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2014年2月20日 (木)

千々石大和守直員(千々石ミゲルの父)の死について

Photo

千々石町をGoogleの写真で見た図です。真ん中の赤丸の所、釜蓋城跡です。黄色の矢印

の所は畑になっています。多分、ここらも城の一部だったのかな?


一番上まで行くと、立派な天守閣、ではなく、展望所があります。よく、釜蓋城があったと言

うと、天守閣つきの城があったのかと、想像する方がおられますが、山城です。

Dsc_0351_2 

さて、ここの城で、天正遺欧使節として、ヨーロッパに行った、千々石ミゲルが生まれ育ち

ます。


父は城主の千々石大和守直員。この城は、佐賀の龍造寺に滅ぼされたため、文書等は

残っていないため、詳細については不明な所があります。直員は、当時、島原地方を治め

ていた、有馬家の出身です。


当時は、有馬氏は大内氏と手を結び、高来、彼杵、藤津を確保し、その後も玖島郡を攻

略、千葉氏の小城郡にを狙っていたようで、これに対し、佐賀郡の龍造寺氏が脅威を感じ

対立します。


さて、この直員の死については、龍造寺氏から城を攻められ、自死し、その戦火の中を

千々石ミゲルは、落ちのびたという事になっています。が、チト怪しいようで・・・・


この話は、大正7年「千々石村郷土誌」にも、「・・・・竜造氏ノ来襲ハ意外トセシ所ニシ

テ・・・・・刀折レ矢儘キテ自刃セリ」とあり、昭和43年発行の千々石町史にも同様に書か

れています。


城跡は、見られるとおり、山が崩されグラウンドになっています。展望台の横には、千々石

ミゲルの顕彰碑があり、「釜蓋城由来記」の看板があり、釜蓋城の落城については、

「千々石町史」からの引用が書かれています。

Dsc_0354 Dsc_0350

さて、某日、大村のことを調べようと、「大村史談」第五十一号(平成12年発行)」の、宮崎

栄一氏が書かれた「千々石ミゲルの生涯と子孫」の中に、「千々石氏とミゲール千々石・

床井一郎(千々石町長を長く勤められた方です)著」では、と書いてあり、その中で、


藤原有馬家譜・千々石直員についてという事で、「・・・・元亀元年(1570)二月七日、隆信

(注:龍造寺)大軍を率いて藤津郡横穴を攻むー中略ー直員、直ちに丹羽の石切谷に向

かい苦戦して死し、横穴落城す」と書いてあるではありませんか。え~!


さらに、有馬晴信記では「義貞の代、・・・・・元亀元年(1570)二月七日千々石直員討死

嫡子十三歳の純員が父の敵を討つ」とある。と書いてあるではありませんか。


確認のため、平成10年発行の、千々石町郷土誌を読むと、ちゃんと、「父・直員は佐賀藤

津郡の合戦で戦死、その後を義貞の子・純貞が養子となって継ぐが、これまた龍造寺軍

に攻められ千々石城(釜蓋城)と共に没した」と訂正してありました。


さて、確認のため、原典の「有馬晴信記」がどこか無いかと、頭をひねっていると、東大で

出している「大日本史料」、それでなければ「群書類従」あたりか?


と言うことで、お近くの図書館に行ったら、「大日本史料」は「史料綜覧」しかなく、見当たら

ず。次に「群書類從」を調べたら、これが見事にビンゴ。


内容は五つしかありませんでしたが、(小文字も有り面倒くさいので、大文字で表記しま

す。)


一 天正十二年甲申三月四日 有馬修理大夫晴信與龍造寺肥前守隆信合戦起之事

一 慶長十五年庚戌十二月二日之夜於長崎黒船討取候事

一 慶長十九年甲寅七月十三日肥前之國高来郡日之江城ヨリ日向國ヘ所替事

一 慶長十九年甲寅九月大阪冬御陣罷上候事

一 同廿年乙卯同夏御陣大阪不罷上候事


ですが、二番目の事件。外国船とのトラブルがあり、有馬晴信が外国船を焼き払うのです

が、「御所様悦被思召。御腰物御直ニ御拝領」とあり、晴信が外国船を焼き払ったのがよ

ほど嬉しかったのでしょう。家康は自ら刀を与えています。この話、読んで、面白いです

よ。


閑話休題

直員のことは、最初の龍造寺の合戦のことに載っています。

この合戦のきっかけから書いてありますが、長いので、大事なところ。


「元亀二年庚午元年二月七日ニ。隆信取懸り申由。相聞ヘ候ニ付。千々石直員三千人

ニテ加勢ニ遣シ候處ニ。二坂ノ石切谷ヘ向かヒ候ヲ。右ノヨコソウノ城番代留候ヘ共。無

理ニ石切谷ニテ直員死仕り。ヨコソウノ城モ落城ナリ」


さて、「其比嫡子純員十三歳ノ時。父モ戦死ノ儀ヲ。所在千々ニ至テ承ハリ。・・・・・・・・・・

不移時日石切谷へ馳向ヒ。一戦ニ及ビ。速ニ切勝父ノ敵ヲ討取申候」と言うことで、敵を

取ったと言うことです。


この合戦の話の部分のみは、「史籍集覧」という本にも載っており、国立国会図書館のデ

ジタルコレクションで公開しており、ネットで誰でも読めます。


さて、直員の死、どこで話が違ったものか分かりませんが、父が自死する中、ミゲルが戦

火の中を逃れた、という方が、物語になるので、まあ、そういう事にしておきましょうか。

誰でも、そう思っているし・・・・・夢は壊したくないし・・・・・


(参考・引用:「大村史談第51号 千々石ミゲルの生涯と子孫~宮崎栄一著」「続群書類

従~第二十三輯上」「島原半島史~林銑吉著」「千々石町史」「千々石郷土誌」「史籍集

覧」)



こちらのブログに関しては、少し、誤認しているところがあり、再度、調べ直しています。

再度、追加で書きますので、少々お待ちください。~2014/02/22






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