八王社★筏遺跡後日談~雲仙市国見町
以前、「筏遺跡Bの発掘説明会」について書きましたが、その折、ある人が、山手の方を差
し、「あのおおきな木の所に、安德天皇の・・・・」という話を耳にしたので、行って見たら、ご
覧の如く石碑、石仏があるばかりで、安德天皇を思わせるものは何もありません。
もっとも、安德天皇の遺跡については各地にあり、多分、あちらこちらに落ちのびた、平家
の落人が、安德天皇を偲んで建てた物でしょう。
さて、先日、大正12年に出版された、「島原半島戦国史(高陽史譚改題)」を読んでいる
と、
「神代に筏といふ處あり。その一部分を八王(やつのわう、昔の読み方で、やつのう)とい
ふ。今畑となり居れども、もと古墳ありし由。文化七年之を発掘せしに、中に石櫃あり。朱
を以て其の中に滿たせしを、運び出して海に投ぜしに、海中一面血の如くなり。・・・・・その
時出でし勾玉は、今同村の小学校にあり。丸玉は余が家に保存せり。傳へいふ。昔安德
天皇平氏の一族に擁せられ、、海上より筏に乗りてこの地に孝し、爾来世を避けて、此處
を隠棲の地とせしが、崩ずるにおよびて、従者等此處に之を奉葬せり。故に此の地を筏と
いひ、古墳を八王(八歳の王の義)といふと。・・・・・・」
ということで、これは見なければと、再度出かけました。
「国見町郷土誌」「島原半島史」によれば「八王」は「八王日(はちおうにち。立春、春分、立
夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至)」、「八大竜王」の語からきたものであろうと書いてあり
ます。
「国見町郷土誌」によれば、「『鍋島家日記』によると、前にも述べたとおり、文化七年(18
10)に百姓・六兵衛という人が、ここの竹藪を開梱した時に、石棺、金冠、宝玉、つぼ、石
斧を発掘し領主へと献上した。領主は佐賀(国見町鍋島家は佐賀藩に属します)に尋ねた
ところ『もとの所へ埋めよ』といわれて、埋めてしまったが、これら写絵は鍋島家に現存し
ている。」そうです。
なお、入り口の正面に、碑が建っていますが、これは、旧領主・鍋島桂治郞氏が碑文を書
かれたもです。
これによると、口碑によると、八王社は文治元年の頃創立し、後は荒廃したまま。文化七
年、上にかいたような発見があったそうです。
「・・・・数年の後現地還納に噂有りといえども半信半疑その詳細を知るを得ず。今以って
不可解の問題なり。・・・・・・当霊域に於いて曲玉、円玉、発見今尚現存、永年この地に居
住の医師・原秀太方に在り。・・・・・・」
ここらあたりは、「筏遺跡A」として発掘し、出土物がかなりあり、石棺から出て来たもので
はないでしょう。
なお、この土地は、明治36年、原秀太医師が買って私有地にしたそうですが、大正5年
地区の人が譲りうけ協同社地としたそうです。
郷土誌には、八王社参道碑とかいてありますが。どうも、「八王神社々苑並(?)参道」と
書いてある気がするのですが・・・・・大正14年に建てられたものです。
同書では、八王社として紹介されていました。大正5年建立。左の方が古く見え、ひょっと
したら本来のものは、左では?
なお、敷地内の片隅に、五輪の塔碑の一部が、5,6個ありました。
ちいさな、神社ですが、調べると、いろいろ歴史があるものですね。
珍しかったので・・・ポンプは動きませんでした。右側はエビス様です。
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