千々石直員(千々石ミゲルの父)★こんがらがってホイ!~千々石町
千々石直員が祀られている、天満神社です。
さて、千々石直員は、千々石ミゲルの父親になりますが、昨日、直員はこの釜蓋城で自死
したのではない、と偉そうに書いたのですが、調べて見ると、チョンボです。
島原半島史には、「・・・・・・・千々岩(千々石?)氏等の名が見えるが其系統が明瞭でな
い。」と書いてあります。
あれから、研究が進んだのか、外山幹雄氏「肥前有馬一族」に系図が載っておりました。
それによると、有馬家は、藤原長良が開祖で、途中省略して、有馬晴純に、義貞、純忠
(大村丹後守)、直員(淡路守)、盛(松浦丹後守)、諸経(志岐兵部少輔)と五名の子がお
り、この直員(淡路守)が、昨日書いた藤津郡で討ち死にした直員になります。
そして、その子が、又、直員の名を継ぎ、「大和守直員」と、「直員」と同名をつぎ、この直
員が千々石ミゲルの父になります。ここが、私の早合点。「淡路守」と「大和守」。
群書類従を読むと、ちゃんと前の方に
「・・・・・就夫日野江近邊ノ小城。
一 深江ノ城代 深江下野
一 鷺野ノ城代 田口監物
一 千々石ノ城代 千々石淡路
一 守山ノ城代 守山宮内
一 諫早ノ城代 西郷右衛門」
と書いてあって、そのすぐ後に、直員の討死の事が書いてあるので、藤津郡で龍造寺に討
たれたのは、「淡路守」の方の「直員」だったことが分かります。いろいろな本。ネットを見
ると、私と同じ間違いをしたものが、多々見うけられます。
さて、先日書いたとおり、「直員」の敵を取ったのは、「其子純員」と書いてあり、「純員」が
「直員」に名前を変えたものか?兄弟がいたのか?もっとも、親の敵を取りに行くのは、長
男で、跡継ぎになるのは充分に考えられます。
考えれば、徳川家康も、幼少名、竹千代。後、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家
康と名前を替えています。
さて、神社は、直員が討ち死にする時、平和な世であって欲しい。ここに天満神社を建て
るように言って自刃します。そのとき、家臣町田兵七、木戸萬九郎も自刃するのですが・・
明治12年「千々村村史」の村の紹介には、「釜蓋神社」として、「・・・有馬大和守純員其臣
木戸萬九郎鬼山兵四郎ヲ祭ル祭日九月廿五日」と書いてあり、やはり、「直員」、と「純員」
は同一人物であったようです、なお、家臣の名前が一名違っています・・・・
ただ、大正7年の「千々石村郷士誌」の「神社及宗教」の所、由来沿革には、神社名は「天
満宮」となっており、「故千々石釜蓋城主大和守澄籌及家老木戸万九郎 仝町田兵七郎ノ
三名・・・・・」、これもまた「大和守澄籌」と名前が変わっており、また、名前を替えたのか
な?
この、釜蓋城は、龍造寺に落とされた時、火に包まれ、文書類はなくなっており、詳細は分
からないところがあるのですが・・・・
さて、この釜蓋城は、拠点的に重要なところであったらしく、ルイス・フロイスの「日本史」
に、「・・・・けだし、同城は、ドン・プロタジオ(注有馬晴信。晴信も、鎮純→鎮貴→久貴→久
賢→正純→晴信と名前を変えております。)の高来領における、二つの鍵ともいうべき城
の一つをなすものであった。」とあります。
なお、佐賀の龍造寺軍はかなり強かったみたいで、同書に、「・・・・(龍造寺)隆信麾下の
戦列は、あたかも彼が奉仕している悪魔が彼を授けているように見えた。その隊列は見
事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし戦術計画を入手しているか
のようであった。・・・彼らは豪華に装い、また清潔で気品があり、戦場で鍛錬された兵士で
あった。」とあります。
さて、薩摩の国、島津氏(有馬氏と手を結んでいます)+有馬氏は「6,300人を超すほど
の兵士がおろうか。」、龍造寺軍は1万2000名。ただし、沖田畷の戦いで、龍造寺軍は敗
れ、大将の龍造寺隆信も討たれてしまいます。
釜蓋城は、有馬氏の手に戻りますが、前に紹介した、外山幹夫著「肥前有馬一族」に異な
事が書いてあり、「天正一二年三月、龍造寺隆信軍は千々石城を明け渡し、佐賀に逃亡
した。千々石直員はその城にもどることができたのだった。(フロイス「日本史」(10)322
ページ)」。残念ながら、「日本史」の本は私のと底本が違うため、この部分は見つけること
ができませんでした。この「直員」どうにも分かりませ~ん。子孫が、又、名前を継いだの
か?
さて、ミゲルは戦火の中を落ちのびる事になるのですが、上に書いたように、龍造寺軍は
かなりの訓練を積んだ兵。その中を、ちいさな子を抱いた母親が逃げ切れるものか?
復活祭後の木曜日、その日の朝に諫早を逃げ出した異教徒が、隆信が伊佐早におり、明
金曜日に天明とともに襲撃するとの報告をしています。
千々石なら、有馬よりはるかに近く、動向は常に探っているだろうし、ちいさな子どもを逃
がす時間はあったと思うのですが・・・・
さて、これ調べて見ると、こんがらがってホイです。名前は変えないように、また、家系図
はチャント書いておきましょう。
我が家にも家系図があるのですが、開祖を見るとなんと「光源氏」。これで、私が(キャバ
クラで)もてるわけが分かりました。
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