« 島原半島郡部の映画館と私~大久保昇★お昼ご飯は「まんま屋」さんで | トップページ | 病院で古事記を »

2014年2月27日 (木)

千々石直員(千々石ミゲルの父)★こんがらがってホイ!~千々石町

P2270275

千々石直員が祀られている、天満神社です。


さて、千々石直員は、千々石ミゲルの父親になりますが、昨日、直員はこの釜蓋城で自死

したのではない、と偉そうに書いたのですが、調べて見ると、チョンボです。


島原半島史には、「・・・・・・・千々岩(千々石?)氏等の名が見えるが其系統が明瞭でな

い。」と書いてあります。


あれから、研究が進んだのか、外山幹雄氏「肥前有馬一族」に系図が載っておりました。

それによると、有馬家は、藤原長良が開祖で、途中省略して、有馬晴純に、義貞、純忠

(大村丹後守)、直員(淡路守)、盛(松浦丹後守)、諸経(志岐兵部少輔)と五名の子がお

り、この直員(淡路守)が、昨日書いた藤津郡で討ち死にした直員になります。


そして、その子が、又、直員の名を継ぎ、「大和守直員」と、「直員」と同名をつぎ、この直

員が千々石ミゲルの父になります。ここが、私の早合点。「淡路守」と「大和守」。


群書類従を読むと、ちゃんと前の方に

「・・・・・就夫日野江近邊ノ小城。

一 深江ノ城代    深江下野

一 鷺野ノ城代    田口監物

一 千々石ノ城代  千々石淡路

一 守山ノ城代    守山宮内

一 諫早ノ城代    西郷右衛門」


と書いてあって、そのすぐ後に、直員の討死の事が書いてあるので、藤津郡で龍造寺に討

たれたのは、「淡路守」の方の「直員」だったことが分かります。いろいろな本。ネットを見

ると、私と同じ間違いをしたものが、多々見うけられます。


さて、先日書いたとおり、「直員」の敵を取ったのは、「其子純員」と書いてあり、「純員」が

「直員」に名前を変えたものか?兄弟がいたのか?もっとも、親の敵を取りに行くのは、長

男で、跡継ぎになるのは充分に考えられます。


考えれば、徳川家康も、幼少名、竹千代。後、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家

康と名前を替えています。

P2270277

さて、神社は、直員が討ち死にする時、平和な世であって欲しい。ここに天満神社を建て

るように言って自刃します。そのとき、家臣町田兵七、木戸萬九郎も自刃するのですが・・


明治12年「千々村村史」の村の紹介には、「釜蓋神社」として、「・・・有馬大和守純員其臣

木戸萬九郎鬼山兵四郎ヲ祭ル祭日九月廿五日」と書いてあり、やはり、「直員」、と「純員」

は同一人物であったようです、なお、家臣の名前が一名違っています・・・・


ただ、大正7年の「千々石村郷士誌」の「神社及宗教」の所、由来沿革には、神社名は「天

満宮」となっており、「故千々石釜蓋城主大和守澄籌及家老木戸万九郎 仝町田兵七郎ノ

三名・・・・・」、これもまた「大和守澄籌」と名前が変わっており、また、名前を替えたのか

な?


この、釜蓋城は、龍造寺に落とされた時、火に包まれ、文書類はなくなっており、詳細は分

からないところがあるのですが・・・・


さて、この釜蓋城は、拠点的に重要なところであったらしく、ルイス・フロイスの「日本史」

に、「・・・・けだし、同城は、ドン・プロタジオ(注有馬晴信。晴信も、鎮純→鎮貴→久貴→久

賢→正純→晴信と名前を変えております。)の高来領における、二つの鍵ともいうべき城

の一つをなすものであった。」とあります。


なお、佐賀の龍造寺軍はかなり強かったみたいで、同書に、「・・・・(龍造寺)隆信麾下の

戦列は、あたかも彼が奉仕している悪魔が彼を授けているように見えた。その隊列は見

事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし戦術計画を入手しているか

のようであった。・・・彼らは豪華に装い、また清潔で気品があり、戦場で鍛錬された兵士で

あった。」とあります。


さて、薩摩の国、島津氏(有馬氏と手を結んでいます)+有馬氏は「6,300人を超すほど

の兵士がおろうか。」、龍造寺軍は1万2000名。ただし、沖田畷の戦いで、龍造寺軍は敗

れ、大将の龍造寺隆信も討たれてしまいます。


釜蓋城は、有馬氏の手に戻りますが、前に紹介した、外山幹夫著「肥前有馬一族」に異な

事が書いてあり、「天正一二年三月、龍造寺隆信軍は千々石城を明け渡し、佐賀に逃亡

した。千々石直員はその城にもどることができたのだった。(フロイス「日本史」(10)322

ページ)」。残念ながら、「日本史」の本は私のと底本が違うため、この部分は見つけること

ができませんでした。この「直員」どうにも分かりませ~ん。子孫が、又、名前を継いだの

か?


さて、ミゲルは戦火の中を落ちのびる事になるのですが、上に書いたように、龍造寺軍は

かなりの訓練を積んだ兵。その中を、ちいさな子を抱いた母親が逃げ切れるものか?


復活祭後の木曜日、その日の朝に諫早を逃げ出した異教徒が、隆信が伊佐早におり、明

金曜日に天明とともに襲撃するとの報告をしています。


千々石なら、有馬よりはるかに近く、動向は常に探っているだろうし、ちいさな子どもを逃

がす時間はあったと思うのですが・・・・


さて、これ調べて見ると、こんがらがってホイです。名前は変えないように、また、家系図

はチャント書いておきましょう。


我が家にも家系図があるのですが、開祖を見るとなんと「光源氏」。これで、私が(キャバ

クラで)もてるわけが分かりました。


« 島原半島郡部の映画館と私~大久保昇★お昼ご飯は「まんま屋」さんで | トップページ | 病院で古事記を »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 島原半島郡部の映画館と私~大久保昇★お昼ご飯は「まんま屋」さんで | トップページ | 病院で古事記を »

フォト
2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

ブログランク参加中ポチしてね(^o^)

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ