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2014年2月

2014年2月28日 (金)

病院で古事記を

__

お~、スベスベした、雪のような、真っ白いお肌。


この写真、何回目になりますか。また、今日の朝、おかしいと思って病院に行ったら、出て

ました。心房細動。寝たままの状態で、脈拍が120~160。私が少し速く走って、脈拍が

160ですから、少しきつかった。


さっそく点滴ですが、上手な方と、苦手な看護師さんがおられ、それに加えて、私の血管が

細いので、3回目でやっと血管に入りました。


針を刺す度に、「あ~快感」。本当は痛いのですが、痛いと思えば痛いので、美人の看護

師さんに刺されながら、前向きに「あ~快感」と思うようにしています。少しは楽。なんでも

前向きに考えること、必要ですね。


さて、どうせ半日はかかるなと思っていたので、以前より読んでみようと思っていた「古事

記」を持ち込んでみました。もちらん、原文でもなく、NHKで解説放送をしたもの。

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古事記で分かりにくいのが、名前。「ウマシアシカビヒコジ」。3回言ってください。舌噛みま

す。


この本によれば、「ウマシ」は立派な、「アシ」は植物の葦、「カビ」は菌類のカビと同じよう

にツンツンと萌え出る棒状の芽、「ヒコ」は男、「ジ」は「神格」。すなわち「立派な葦の芽の

男神」と言うことになります。こうして説明されると、名前覚えるのも、そう苦にはなりません

ね。


高校の古典も、このように教えてくれると、少しは分かったのですが・・・・・古典の時間は

「お昼寝」の時間だったか。


と言うように、全文解説ではありませんが、古事記の成り立ち、書かれた物語の裏にある

もの、民俗学的な見地など書かれています。


残念ながら、この本、昨年の9月、4回にわたって放送されたもので、私、なんでか買って

たのかな?


とにかく、心臓のドクドクする音を聞き、唸りながら、完読。これで、だいたいの流れは分か

ったので、あと、簡単な解説本を2,3冊読んで、原典を読むつもりです。


さて、読み終わって、裏表紙を見ると、

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何ですか、これ、病気で唸っているのに、「あらゆる人々は、ひたすら、死に向かって進ん

でいる」。体の空気抜けますよ。看護師さん呼んでマジックを借りて、書き直しました。

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「汝は、ひたすら、キャバクラに向かって進んでいる」。これで、少しは元気がでました。



2014年2月27日 (木)

千々石直員(千々石ミゲルの父)★こんがらがってホイ!~千々石町

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千々石直員が祀られている、天満神社です。


さて、千々石直員は、千々石ミゲルの父親になりますが、昨日、直員はこの釜蓋城で自死

したのではない、と偉そうに書いたのですが、調べて見ると、チョンボです。


島原半島史には、「・・・・・・・千々岩(千々石?)氏等の名が見えるが其系統が明瞭でな

い。」と書いてあります。


あれから、研究が進んだのか、外山幹雄氏「肥前有馬一族」に系図が載っておりました。

それによると、有馬家は、藤原長良が開祖で、途中省略して、有馬晴純に、義貞、純忠

(大村丹後守)、直員(淡路守)、盛(松浦丹後守)、諸経(志岐兵部少輔)と五名の子がお

り、この直員(淡路守)が、昨日書いた藤津郡で討ち死にした直員になります。


そして、その子が、又、直員の名を継ぎ、「大和守直員」と、「直員」と同名をつぎ、この直

員が千々石ミゲルの父になります。ここが、私の早合点。「淡路守」と「大和守」。


群書類従を読むと、ちゃんと前の方に

「・・・・・就夫日野江近邊ノ小城。

一 深江ノ城代    深江下野

一 鷺野ノ城代    田口監物

一 千々石ノ城代  千々石淡路

一 守山ノ城代    守山宮内

一 諫早ノ城代    西郷右衛門」


と書いてあって、そのすぐ後に、直員の討死の事が書いてあるので、藤津郡で龍造寺に討

たれたのは、「淡路守」の方の「直員」だったことが分かります。いろいろな本。ネットを見

ると、私と同じ間違いをしたものが、多々見うけられます。


さて、先日書いたとおり、「直員」の敵を取ったのは、「其子純員」と書いてあり、「純員」が

「直員」に名前を変えたものか?兄弟がいたのか?もっとも、親の敵を取りに行くのは、長

男で、跡継ぎになるのは充分に考えられます。


考えれば、徳川家康も、幼少名、竹千代。後、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家

康と名前を替えています。

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さて、神社は、直員が討ち死にする時、平和な世であって欲しい。ここに天満神社を建て

るように言って自刃します。そのとき、家臣町田兵七、木戸萬九郎も自刃するのですが・・


明治12年「千々村村史」の村の紹介には、「釜蓋神社」として、「・・・有馬大和守純員其臣

木戸萬九郎鬼山兵四郎ヲ祭ル祭日九月廿五日」と書いてあり、やはり、「直員」、と「純員」

は同一人物であったようです、なお、家臣の名前が一名違っています・・・・


ただ、大正7年の「千々石村郷士誌」の「神社及宗教」の所、由来沿革には、神社名は「天

満宮」となっており、「故千々石釜蓋城主大和守澄籌及家老木戸万九郎 仝町田兵七郎ノ

三名・・・・・」、これもまた「大和守澄籌」と名前が変わっており、また、名前を替えたのか

な?


この、釜蓋城は、龍造寺に落とされた時、火に包まれ、文書類はなくなっており、詳細は分

からないところがあるのですが・・・・


さて、この釜蓋城は、拠点的に重要なところであったらしく、ルイス・フロイスの「日本史」

に、「・・・・けだし、同城は、ドン・プロタジオ(注有馬晴信。晴信も、鎮純→鎮貴→久貴→久

賢→正純→晴信と名前を変えております。)の高来領における、二つの鍵ともいうべき城

の一つをなすものであった。」とあります。


なお、佐賀の龍造寺軍はかなり強かったみたいで、同書に、「・・・・(龍造寺)隆信麾下の

戦列は、あたかも彼が奉仕している悪魔が彼を授けているように見えた。その隊列は見

事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし戦術計画を入手しているか

のようであった。・・・彼らは豪華に装い、また清潔で気品があり、戦場で鍛錬された兵士で

あった。」とあります。


さて、薩摩の国、島津氏(有馬氏と手を結んでいます)+有馬氏は「6,300人を超すほど

の兵士がおろうか。」、龍造寺軍は1万2000名。ただし、沖田畷の戦いで、龍造寺軍は敗

れ、大将の龍造寺隆信も討たれてしまいます。


釜蓋城は、有馬氏の手に戻りますが、前に紹介した、外山幹夫著「肥前有馬一族」に異な

事が書いてあり、「天正一二年三月、龍造寺隆信軍は千々石城を明け渡し、佐賀に逃亡

した。千々石直員はその城にもどることができたのだった。(フロイス「日本史」(10)322

ページ)」。残念ながら、「日本史」の本は私のと底本が違うため、この部分は見つけること

ができませんでした。この「直員」どうにも分かりませ~ん。子孫が、又、名前を継いだの

か?


さて、ミゲルは戦火の中を落ちのびる事になるのですが、上に書いたように、龍造寺軍は

かなりの訓練を積んだ兵。その中を、ちいさな子を抱いた母親が逃げ切れるものか?


復活祭後の木曜日、その日の朝に諫早を逃げ出した異教徒が、隆信が伊佐早におり、明

金曜日に天明とともに襲撃するとの報告をしています。


千々石なら、有馬よりはるかに近く、動向は常に探っているだろうし、ちいさな子どもを逃

がす時間はあったと思うのですが・・・・


さて、これ調べて見ると、こんがらがってホイです。名前は変えないように、また、家系図

はチャント書いておきましょう。


我が家にも家系図があるのですが、開祖を見るとなんと「光源氏」。これで、私が(キャバ

クラで)もてるわけが分かりました。


2014年2月26日 (水)

島原半島郡部の映画館と私~大久保昇★お昼ご飯は「まんま屋」さんで

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思えば、映画全盛の時期があり、どこの町にも必ず映画館があり、有名映画になると、お

客さんが、映画館を取りまいたものです。


この本、1997年発行ですから、少し以前の本。作者は、農業、映画館、自動車修理業と

3回の転職をしています。


この本を書いたきっかけは、一人娘を嫁がせたため、大久保家直系が終わりになり、そ

のため、記録を残しておくこと。もう一つが、「二つ目に書きたいことは映画の記録であ

る。」


著者は、各町の映画館をとりまとめ、昭和35年、「邦画七社のフィルム配給権」一切を

ガラス張りにして、「南高映画協同組合」(著者によれば、法的なものではなく、私的な呼

称)を作ります。


この本、この協同組合なるものの映画館を集金して回る様子が書いてあり、これが、映画

館名、所在地、経営者、出身地、経歴、エピソードまで書いてあるというもの。全部は書き

きれませんから、町名、映画館名、経営者のご紹介を。島原半島の方は、ご存じの方も

おられると思いますが・・・・・


■有明町~大三東(おおみさき)村 松尾映劇

・有明町大三東 ・経営者~岡野千代蔵 ・文房具、青果も取り扱っていたそうです。

■有明町~大三東映劇

・有明町大三東 ・経営者~佐中密男 

■国見町~日ノ出館 

・国見町多伊良 ・館主~中村松太郎(昭和6年日ノ出館を新築) ・経営~田添信義

■国見町~神代映劇

・管理者~鵜殿孝良 

・神代映劇は昔、「不知火座」と呼ばれ、本格的な芝居小屋であり、回り舞台、歌舞伎の六

方も踏めるものであったそうです。なお、「映画も他町村とは違って文芸作品が受ける土

地柄であったそうです。」さすが、鍋島家の、お殿様のお膝元。

■瑞穂町~大成館

・西郷村 ・生田虎雄 ・祖父の生田兼三郞は、顔の効く人で、「功徳碑も残っていると聞

く」と書いてあります。

■吾妻町~吾妻館

・吾妻町大木場名 ・経営者~林田豊蔵 

・豊蔵さんは鍛冶屋さんだったそうですが、駅前の鍛冶屋の小屋を改造し、戦後映画館を

兼業で始め、後、昭和29年、木造二階建ての常設館を新築。

■愛野町~愛野映劇

・「映画館を造ったのは多分農家であったシメ子さんと思うが確証はない」 ・昭和32年か

ら岩佐茂さんの経営に変わる。

■千々石町~千興館

・経営者 玉村福市 玉村宏治 ・土地 玉村俊子

・喜佐治(俊子さんの父)さんの父親は、温泉鐵道千々石駅の前で、大きな倉庫を持つ肥

料屋さんだったそうで、昭和12年、千興館を買収。二階建で、桟敷席のある本格的な劇

場づくりであったそうです。

■南串山町~南串映劇

・南串山町尾登名 ・経営者 辻俊三 ・昭和35年頃、板引の辻商店さんへ売却 

・昭和36年に廃業

■口之津町~口之津映劇

・口之津町甲 ・経営者 鎌田満太 

・なお、口之津資料館に、占勝館と刻銘された大鬼瓦が展示してあるそうですが、大正3

年11月、島原で活動常設館として申請し、親しまれ、昭和13年口之津映劇として利用さ

れたそうですが、テレビの普及に伴い廃業。

■南有馬町~原城館

・南有馬町乙 ・経営者 中村信一 中村千足

・昭和28年、兄弟で映画館を思い立ち、口之津港税関跡近くの塩倉庫を買い、舟で運

び、移転改築。昭和33年から、お兄さん一人の経営だったそうですが、昭和39年廃業。

■北有馬町~北映館

・北有馬村字下谷川 ・経営者 寺田兼作 ・兼作さんは村相撲で強かったそうですが、

中国に渡って、いろいろあり、敗戦で引き上げ。

後の町長八木氏、原口さん、病院の三宅先生、高木下駄やさん等、十数名の知名士で、

映画館を作り、当たったそうですが、出資者が多く、運営も配当も思うに任せなかったよう

です。

■西有家町~弥生座

・西有家町須川 ・経営者 宮崎清人

・この方も、書ききれないほど経歴が有り、昭和29年に、奥さんの郷里西有家の、弥生座

が売りに出たのを買い、経営しますが、これもテレビに押され昭和39年に閉館。

■有家町~有家館

・有家町中須川 ・経営者 島居勝信 

・火災を2回起こしたそうですが、昭和39年閉館。有家農協へ売却。


ここに書いたのは、著者の大久保さんが配給に関係したところで、多分、映画の配給ルー

トはまだあって(島原市、加津佐町、小浜町、布津町、深江町が載っていません)、これよ

り多くの映画館が、島原半島にはあったことと思いますが、この本、島原半島の映画史と

して参考になるものでしょう。


さて、本日も一人っきりで・・・いつも車で通るたびに気になっていたお店、「まんま屋」さ

ん。以前はそんなに、多くなかったみたいでしたが、タウン紙に載ったせいか、駐車場がい

っぱい、お客さんもおっぱい(失礼)、ではなく、いっぱい。おかげで、十分ほど待たされま

した。お隣は、ケーキハウス「ちゅちゅ」さん。本日お休みでした。左の方が「まんま屋」さん

です。


お客さんの人数を数えると、女子18名、男子2名。女子の左薬指をさりげなく見たら、み

んな安っぽい結婚指輪をしている方ばかり。


いつものように、安いコンビニ弁当を食べているであろう、旦那さんの姿を思うと、涙があ

ふれ出てきました。


料理は、いつものように一番安い日替わり定食。日替わり定食で手を抜く店は、ろくな所

ない、と言うのが私の持論。


「味噌漬けの豚肉のトンカツ」。なんと、小ぶりながらも、二枚もついているではありません

か。成人病すれすれの私にとっては、二枚食べるのは、自殺行為。と思いつつ、美味しく

いただきました。

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2014年2月24日 (月)

潜伏キリシタン地蔵?~雲仙市瑞穂町

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一昨日、瑞穂町の八幡神社で、T氏と偶然お会いし、話をしていると、興味あるものがある

と言われ、わざわざ連れていただいたことを、書きましたが、この場所です。


石仏の前は、少し凹地になっており、通りかかった、おじいさんがT氏を知っているらしく、

話を聞くと、この場所に以前水が湧いており、水神様として祀ってある事のことでした。


さて、島原半島はキリシタンの遺跡が多く、学術的に証明されている物、議論があるもの

等、種々さまざまです。


そのうちの一つに、A(アルパ)型キリシタン地蔵、ω(オメガ)型地蔵があります。

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(島原半島のキリシタン文化・かくれ切支丹の遺物と遺跡~島旗半島かくれ切支丹研会)


腕の形、全体の形を見ると、「ω」と「A」の形に似ています。

この「A」と「ω」については、「ヨハネ黙示録第1章の8」に「今いまし、昔いまし、やがて来

たるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、わたしはアルパであり、オメガであ

る」。要するに、神が世界の全てであると言う事でしょう。


さて、先ほどの地蔵さん、まさに腕の所をみると、「ω地蔵」。

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潜伏キリシタンの遺物については、私の立場は、肯定派でもなく、否定派でもないのです

が、ただ、これが島原半島独自のものか、全国的なものか、分布範囲など学術的研究も

なく、ただ、思い込みだけでは、なんとも言えないと思うのですが・・・・


なお、ヨハネ黙示録は、「ウィキペディア」によれば、「『黙示録(ヨハネ黙示録)』はキリスト

教徒の間でも、その解釈と聖典への受け入れをめぐって多くの議論を呼びおこしてきた書

物である。今日では歴史的教会では聖典と認められている。」とあり、果たして、このような

難解な教えが、キリスト教未開発の、昔の日本において教えられていたのか?


参考です、宮崎県瑞厳寺にある、十一面千手観音菩薩。

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(「仏像の基本」~枻(えい)出版社より)


見方によっては、腕の所「ω」に見えませんか?この方面、まだまだ、研究の余地があり

そうですね。


さて、もう一カ所案内していただきました。

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これが、キリシタン地蔵かどうか、私の目では分かりませんが、横の所。

写真では、分かりにくいのですが、左右で少し違っていましたが、読みやすい方で書くと、

向かって右には「寛正二十年 釈現○ 壬四月八日」と読めました。


最初は「寛政」の当て字かと思ったのですが、「寛正(かんしょう)」という年号はありまし

たが、1461年~1466年。寛正7年2月には文政に改元していますから、「寛正二十年」

という年は無いということで、これは、どう考えたら良いんでしょう。悩んでいます。

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実は、この後、もう一カ所連絡があったので、一人で行って写真を撮ってきて、整理してい

たら、間違って消してしまいました。機会があったら、又。

瑞穂町のTさんには、仕事中にかかわらず、お世話になりました。感謝いたします。



2014年2月23日 (日)

緋寒桜まつり~雲仙市国見町神代小路(こうじろくうじ)

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鍋島家陣屋の正面玄関です。この玄関を使うのは当主のみで、現在でも、我々平民は、

横の方からしか入れません。


入る時に、係員から「撮影禁止です」。と言われ、写真は載せられませんが、減るもんじゃ

なし、写真くらいイイジャナイですか。我が家は、撮影自由です。


なかに入って、初めての印象は、「掃除するのに、大変だろうな。こんな所に生まれなくて

よかった。」


門の左右の緋寒桜。もう少しという所。さて、この屋敷、イメージ的に分からないと思いま

すので、説明版の絵を

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話変わって、島原の有馬氏と、佐賀の龍造寺氏が争った頃、ここ、神代氏は龍造寺氏に

つきますが、龍造寺は敗退。神代氏は有馬氏の支配するところになり、姿を消します。


その後、豊臣秀吉が九州を平定、九州国割をおこなった際、当時、島原半島の有馬領か

ら、旧神代領三千石が割られ、鍋島直茂に与えられます。


城番を派遣して、統治していましたが、慶長十三年、鍋島信房が神代に入り、初代の領主

になります。

こんな感じで、東神代村、西神代村、伊古村、古部村の4ヶ村が領土になります。

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(「島原半島の歴史~監修・松尾卓次」より)


これは、昔の龍造寺氏、神代氏との関係、又、鍋島直茂の兄、鍋島信房が鹿島(後、鹿島

から神代に移ります)を統治していたことから、対岸の有馬領に、楔を入れ、有馬家、島津

家(龍造寺家との戦いでは、有馬家は、島津家と手を結んでいます。)を牽制するという、

秀吉の考えがあったと言います。あと、話が長くなるので省略。


左は、長屋門と石垣、いつもは静かな、神代小路(くうじ)です。昔の風景が、ゆっくりと眺

められます。

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この鍋島家の屋敷、この間まで修理をしていましたが、先週の16日、オープンをしたばか

りで、大変な修復作業であったそうです。

釘一本にしても、どこの釘か記録しておいて、また、同じ所に、同じ釘を使ったそうです。


さて、2月から3月にかけて、各種イベントが企画され、これはネットで調べられます。

今日は、大道芸。南京玉すだれ、長崎で有名な西村氏と奥様。他に、「かっぽれ」など、本

格的な芸が見られました。


オカリナの演奏。オカリナは、一番右の女性の方の手作りだそうで、お馴染みの曲が多

く、皆さん最後まで楽しんでおられました。

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「ひょっとこ踊り」、ふんどしの横から、金○が少し覗いていました。

有名な「とり刺し」があるかと思っていたら、先日、おこなったばかりで、今年はパスだそう

で、昨年の写真で我慢して下さい。


他の日には、日本民謡、本格的なフラダンス、吟行俳句大会、神代小路まちなみ散策、お

茶会等々あるみたいですから、確かめてお越しを。

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会場は、昔の中学校の校舎。昔の建物がそのまま残してあり、イイデスね。この、木造校

舎、木の廊下。よく、立たされたものですが・・・・。教室内での特産品の販売。

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アベックが多いようで、ウラヤマシイですね。私は、いつもの通り、一人の孤独旅・・・・・カミ

サンと一緒より良いけれど。

「花の命は短くて・・・・・」、早めにご覧を・・・・・あなたの彼女もですよ。

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(参考・引用:「島原半島の歴史~監修・松尾卓次」、説明パンフレットより)





2014年2月22日 (土)

八幡神社その後~瑞穂町西郷八幡神社

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以前、「肥前鳥居発見」と言うことで、書いた八幡神社です。先日書いたように、再び訪れ

たましたが、丁度、運良くお祭り。


女性の神主さんがおられたので、ちょっとお話しを、と言うことで、話をしていたら、これま

た、岩戸神社の春祭りのとき、おられたので、いろいろ、お話しをお聞きをした方。


「あら、春祭りの時」と言われましたが、その時は、何の事か思い出せず、家に帰って思い

出しました。歳はとりたくないもの。


さて、下の鳥居。古いので、こちらが先にあって、あと、広い神社になったのかと思ったら、

大違い。


実は、一番上の写真の鳥居の所に、こちらの古い鳥居が建っており、新しい鳥居を建てる

にあたり、この古い鳥居が風格があるということで、神社境内にあった、お稲荷さんの所

へ移したとのことで、良く見れば、お稲荷さんの赤い鳥居がありますね。

なにはともあれ、残ったということは幸いです。


と言うことを話していたら、地元の方(T氏)ですが、神社に仕事に来ておられましたが、鳥

居を眺めており、こちらの話が聞こえたのか、「ブログを読んで、鳥居を見ているのです

が・・・・」「あ、それ私のブログです」。と言うことで、いろいろお話をしていると、下の写真の

木の下の石のところに、自分が小さい時から、変な物があるのだが、ということで見たら、

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こちらは「幡大菩」、と書いてあり、たぶん「八幡大菩薩」でしょう。上の土をどけると、四角

に削った石がありましたから、鳥居に神社の名前など書いた額がありますが、その神額で

しょう。(上下逆に置かれています)


神殿に向かって、左にもう一つ鳥居があったので、それを取り替える時に、廃棄した物

か、あるいは、もう一本鳥居があったのか?

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さて、こちらは何なのか、「享保」、「十月十」までは分かり、最初は墓かと思ったのです

が、このように並んで書いたものは見たことが無く、神社に墓がある話は聞かないし、ま

あ、掘り出さなければ分からないでしょうが・・・・・・多分、何かを寄進した時の標柱か何か

とは思うのですが・・・・

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でも、まあ、こんな所に、神様に関係するものを、利用するなんて、大胆な!昔の方は、こ

んな事に、意外と無頓着だったのかナ。今の人なら、バチがあたると思うのでしょうが。


さて、T氏と話をしていると、町内にキリシタンに関係する石仏があるとかで、わざわざ案内

をしていただきましたが、写真の整理がついてないので、これは、また近いうちに・・・・・

すごく、興味あるものでした・・・・



2014年2月21日 (金)

お・か・し

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先日、ポスターを見てから、どうも気になった、「皿うどんチョコレート」。人を送りに駅まで

行ったら、キヨスクに置いてあったので買ってみました。


いちご大福が出た時も、「ゲテモノ」と思ったのですが、いつの間にやら定着。アボガドを巻

いた寿司も、驚くにあたらない時代。皿うどんの麺にチョコレート・・・・・少し不安。


表から見たところと裏から見たところ。ホワイトチョコと、ブラックチョコの2種。皿うどん麺

と、精米が入って、ポリ・パリといった感触。不思議と違和感はなく、意外とお互いの材料

がマッチしている感じ。作っている会社に電話で聞いてみると、二年ほど前から発売してい

るとのこと。興味ある方はどうぞ。

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これが、本物の金貨なら、いくらぐらいするのかナ。残念ながら、中身はチョコレートです。

昔は、よく駄菓子屋に置いてあったのですが、今はあまり見かけることがなく、久しぶり

に、土産屋さんをブラブラしていたら置いてあったので、懐かしく、買ってしまいました。

持っていると、何か金持ちになったようで、気持ち良いですね。チョコレートは、昔の感じ

がする味でした。

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いわずと知れた、ボーロ。今の子どもは食べているのかな?孫のおやつをパックって食

べましたが、何十年ぶりかな。懐かしい、素朴な味でした。

調べて見ると、南蛮菓子で、十六世紀に、ポルトガルから伝えられた物とか。赤ちゃんの

おやつだと馬鹿にはなりませんね。

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新しいお菓子がどんどん出て、昔の駄菓子は、だんだん姿を消しつつありますが、店によ

っては、「懐かしの駄菓子コーナー」があるようで、又、買いに行こう。


今日はしばし、海を見つめていたら、波の形。飽きませんね。と思っていたら、テレビの撮

影。


地元のヒマワリテレビで、「ジオパーク探検隊」という番組のロケでした。真ん中の方は、地

質専門の寺井先生で、島原半島の地質をわかりやすく、面白い解説をしてくれます。

一度はご覧下さい。残念ながら、島原半島でしか見れませんが。

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2014年2月20日 (木)

千々石大和守直員(千々石ミゲルの父)の死について

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千々石町をGoogleの写真で見た図です。真ん中の赤丸の所、釜蓋城跡です。黄色の矢印

の所は畑になっています。多分、ここらも城の一部だったのかな?


一番上まで行くと、立派な天守閣、ではなく、展望所があります。よく、釜蓋城があったと言

うと、天守閣つきの城があったのかと、想像する方がおられますが、山城です。

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さて、ここの城で、天正遺欧使節として、ヨーロッパに行った、千々石ミゲルが生まれ育ち

ます。


父は城主の千々石大和守直員。この城は、佐賀の龍造寺に滅ぼされたため、文書等は

残っていないため、詳細については不明な所があります。直員は、当時、島原地方を治め

ていた、有馬家の出身です。


当時は、有馬氏は大内氏と手を結び、高来、彼杵、藤津を確保し、その後も玖島郡を攻

略、千葉氏の小城郡にを狙っていたようで、これに対し、佐賀郡の龍造寺氏が脅威を感じ

対立します。


さて、この直員の死については、龍造寺氏から城を攻められ、自死し、その戦火の中を

千々石ミゲルは、落ちのびたという事になっています。が、チト怪しいようで・・・・


この話は、大正7年「千々石村郷土誌」にも、「・・・・竜造氏ノ来襲ハ意外トセシ所ニシ

テ・・・・・刀折レ矢儘キテ自刃セリ」とあり、昭和43年発行の千々石町史にも同様に書か

れています。


城跡は、見られるとおり、山が崩されグラウンドになっています。展望台の横には、千々石

ミゲルの顕彰碑があり、「釜蓋城由来記」の看板があり、釜蓋城の落城については、

「千々石町史」からの引用が書かれています。

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さて、某日、大村のことを調べようと、「大村史談」第五十一号(平成12年発行)」の、宮崎

栄一氏が書かれた「千々石ミゲルの生涯と子孫」の中に、「千々石氏とミゲール千々石・

床井一郎(千々石町長を長く勤められた方です)著」では、と書いてあり、その中で、


藤原有馬家譜・千々石直員についてという事で、「・・・・元亀元年(1570)二月七日、隆信

(注:龍造寺)大軍を率いて藤津郡横穴を攻むー中略ー直員、直ちに丹羽の石切谷に向

かい苦戦して死し、横穴落城す」と書いてあるではありませんか。え~!


さらに、有馬晴信記では「義貞の代、・・・・・元亀元年(1570)二月七日千々石直員討死

嫡子十三歳の純員が父の敵を討つ」とある。と書いてあるではありませんか。


確認のため、平成10年発行の、千々石町郷土誌を読むと、ちゃんと、「父・直員は佐賀藤

津郡の合戦で戦死、その後を義貞の子・純貞が養子となって継ぐが、これまた龍造寺軍

に攻められ千々石城(釜蓋城)と共に没した」と訂正してありました。


さて、確認のため、原典の「有馬晴信記」がどこか無いかと、頭をひねっていると、東大で

出している「大日本史料」、それでなければ「群書類従」あたりか?


と言うことで、お近くの図書館に行ったら、「大日本史料」は「史料綜覧」しかなく、見当たら

ず。次に「群書類從」を調べたら、これが見事にビンゴ。


内容は五つしかありませんでしたが、(小文字も有り面倒くさいので、大文字で表記しま

す。)


一 天正十二年甲申三月四日 有馬修理大夫晴信與龍造寺肥前守隆信合戦起之事

一 慶長十五年庚戌十二月二日之夜於長崎黒船討取候事

一 慶長十九年甲寅七月十三日肥前之國高来郡日之江城ヨリ日向國ヘ所替事

一 慶長十九年甲寅九月大阪冬御陣罷上候事

一 同廿年乙卯同夏御陣大阪不罷上候事


ですが、二番目の事件。外国船とのトラブルがあり、有馬晴信が外国船を焼き払うのです

が、「御所様悦被思召。御腰物御直ニ御拝領」とあり、晴信が外国船を焼き払ったのがよ

ほど嬉しかったのでしょう。家康は自ら刀を与えています。この話、読んで、面白いです

よ。


閑話休題

直員のことは、最初の龍造寺の合戦のことに載っています。

この合戦のきっかけから書いてありますが、長いので、大事なところ。


「元亀二年庚午元年二月七日ニ。隆信取懸り申由。相聞ヘ候ニ付。千々石直員三千人

ニテ加勢ニ遣シ候處ニ。二坂ノ石切谷ヘ向かヒ候ヲ。右ノヨコソウノ城番代留候ヘ共。無

理ニ石切谷ニテ直員死仕り。ヨコソウノ城モ落城ナリ」


さて、「其比嫡子純員十三歳ノ時。父モ戦死ノ儀ヲ。所在千々ニ至テ承ハリ。・・・・・・・・・・

不移時日石切谷へ馳向ヒ。一戦ニ及ビ。速ニ切勝父ノ敵ヲ討取申候」と言うことで、敵を

取ったと言うことです。


この合戦の話の部分のみは、「史籍集覧」という本にも載っており、国立国会図書館のデ

ジタルコレクションで公開しており、ネットで誰でも読めます。


さて、直員の死、どこで話が違ったものか分かりませんが、父が自死する中、ミゲルが戦

火の中を逃れた、という方が、物語になるので、まあ、そういう事にしておきましょうか。

誰でも、そう思っているし・・・・・夢は壊したくないし・・・・・


(参考・引用:「大村史談第51号 千々石ミゲルの生涯と子孫~宮崎栄一著」「続群書類

従~第二十三輯上」「島原半島史~林銑吉著」「千々石町史」「千々石郷土誌」「史籍集

覧」)



こちらのブログに関しては、少し、誤認しているところがあり、再度、調べ直しています。

再度、追加で書きますので、少々お待ちください。~2014/02/22






2014年2月19日 (水)

至純の人・千々石ミゲル★市民ミュージカル~雲仙市

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ある喫茶店にて、私と、妙齢の美女の会話。


「あの子、難しいんだよね。」

「そうね。なんで、あんな事したんだろう。」

「人の心は分かんないね。」

「居酒屋兆治って映画に、『人が心に思うことは、誰にも止められない・・・』っていう言葉が

あるじゃない。あの子の場合もそうかしら・・・」


え~、別に、不良少年とか、問題児のことを話しているのではありません。あの子とは、

千々石ミゲル、あんな事とは、棄教をしたことです。


ミゲルは、天正少年遺欧使節として、長年かかって、ヨーロッパに渡り、そして、又戻って

来ます。


時は、キリシタン時代から、禁教時代。天正遺欧使節の四名には、過酷な運命が待ってい

ます。その中で、千々石ミゲルだけ、棄教をし、場合によっては背教者とも呼ばれます。


棄教した原因は、どこにあるのか?多くの人が、その原因を書いています。


その、一つの新しい考えが、今回の市民ミュージカルで提示されます。劇を見てからの解

釈は、あなた次第。


チラシの裏に、人名が書いてありますが、全部一般市民の方で、主婦あり、農家あり、退

職校長あり、商店主あり、公務員あり、小中学生も入り、今、最後の仕上げにかかってい

ます。

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下の写真は、釜蓋城主、千々石大和守直員が、佐賀の龍造寺に破れ、自刃するところで

す。この後、戦闘の中をミゲルは落ちのびるのですが・・・・


実は、千々石大和守直員については、千々石町民のほとんどが、上の話を信じている

のですが、事実は違っており・・・・・・・・この話については次回述べます

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小道具も衣装も全部手作り。天正少年遺欧使節は、豊臣秀吉の前で、習ってきた楽器を

演奏し、感動を与えたと言われています。


クラビコードか?ヴァージナルか?弦が鍵盤と平行に走っています。今のグランドピアノの

弦は、鍵盤とはほぼ直角です。


この楽器の音色、小さいですが、実に素朴な音がします。前に書いた、映画の「ピアノマニ

ア」、に出てきます。クラビコードは、グルダの「世界音楽物語」に出てきます。なお、ビート

ルズの「フォー・ノー・ワン」でもクラビコードが使われています。興味のある方はどうぞ。

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左はリュート。もう少し膨らみが欲しいナ。Fカップとは言わないが、せめて、Gカップぐら

いは。右はハープ。

なお、作成者は某市の元副市長です。写真のものは残念ながら、音は出ません。形だけ

です。

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来月の3月9日(日)、13:30開場、14:00開演です。チケットはお早めに。ローソンチケ

ットも扱っているみたいです。

私?もちろん出演しません。プロが出ると、アマチュアはかすんでしまうから。





2014年2月17日 (月)

「中国人嫁日記3巻」&「唐比(からこ)温泉センターぬっぺ飯」~諫早市森山町

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出ました、「中国人嫁日記 3巻」。出版年を見たら、ウソ!「2014年2月26日 初版発

行」」。今日が2月2014年2月17日。これ、買ったのが2月15日。TSUTAYAさんだから、

早かったのかな。


さて、今回は大変です。「はじめに」の所、第一行目に「中国で暮らすことになりました」と書

いてあります。詳しい事情は、読んでいただくとして・・・・

中身は、大体

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というように、「ずーっとバカップルが仲良くしているだけ!!あんな夫婦いないです

よ!!」と書いてありますが、まあ本当ですね。という感じですが、妻の月(ゆえ)さんの言

葉。


「ジンサンと一緒じゃないと楽しくナイデス」、「イヤデス~日本ガイイデス~ジンサンといっ

しょ、日本がイイデスから」、「ワタシ、ジンサンにとても会いたい、ジンサンもワタシとても

あいたいのコト描くイイジャナイ♡」「ジンサンにベタベタにするシマス」。


言われて見たいですね。カミサンから一度も言われたことありません。もっとも、こちらも言

ったことありませんが・・・・・


さて、月(ゆえ)さん、時々シリアスに描かれているところがあり、どうにも本当はかなりの

美人みたい。赤の矢印が、いつもの描き方です。

なお、夫ジンサン四十歳、妻月さん二十六歳。うらやましい 

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さて、本巻には、外国人との結婚の手続きが描いてありますが、読んでみると、本当に面

倒くさい。日本人同士なら、紙切れ一枚で済むのですが。


手続きのため、ジンサンわざわざ、お互いの家族の集合写真を撮る為に、日本から両親

を中国に呼んでいます。


これ、双方の両親が一緒に写した写真があると、入国管理局が特別に早く在留資格をあ

げるそうです。私、これ、したことがありませんから、本当かどうか、責任持ちませんが。


月さんの後書きです。全部、中国語で、良いことが書いてあります。中国語を、お勉強中

の方は読んで見てください。小さくて字が見えなかったら、虫眼鏡を。


なお、訳文は次のページに書いてありますから、意味を知りたい方は、本を買って読んでく

ださい。もちろん私は、訳文の方を読みましたが・・・

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今日は、不思議なことがありまして、瑞穂町の事を調べに行って、例の肥前鳥居の神社に

よってみたら、ちょうどお祭り。神主さんがいたので聞いてみたら、この鳥居の事、少し分

かりました。


ところが、そこへ、仕事ついでにカメラを持った男性が鳥居を見ていて、地元の方ですが、

ブログを読んで、見にきたとのこと。私、「あれ、私のブログです」。


ということで、はやり、瑞穂在住の方、色々話をしていて、知らなかったことを教えていただ

き、おまけに、半日ばかり案内をしていただき。Tさんには本当に感謝です。なお、この事

は、又書いて見たいと思います。


さて、昼食は、最近、宣伝している、諫早の郷土料理を基にした、諫早新名物ぬっぺ飯」を

食べに。いま、7軒しか作ってなく(ネットで出ています)、久しぶりに、「唐比温泉センター」

へ。もちろん一人で、「孤独のグルメ」です。


平日、天気も悪く、大広間のゆったりしたこと。おかげで、食事の後、一時間ほど昼寝をし

てきました。お望みなら、温泉もありますから、ゆっくりどうぞ(別料金)。

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ぬっぺ飯です。鶏肉、レンコン、厚揚げ、レンコン、コンニャク、里芋、ゴボウ、人参、ギン

ナンを甘辛く煮て、あんかけにしたヘルシー料理。ワンコイン(500円)ですから、安いも

の。なお、大広間でボーッとしても、注文は取りに来ませんから、玄関の受付の所で前払

いで。

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橘湾と雲仙岳が眺められ、風景も良いところです。


もちこみ禁止は、ペットのことではなく、酒とか、食べ物のことです。女性のもちこみは自由

です。もっとも、持ち込んでも、大広間では、なには、できませんが・・・・舞台がありますか

ら、そこで、やってみますか?その時は、ご連絡を・・・・




2014年2月16日 (日)

「小浜温泉わくんたん祭り」~雲仙市小浜

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新聞のチラシを見ていたら、「小浜温泉わくんたん祭り」のチラシが。「わくんたん」とは何

の事か出かけて見ました。


聞いてみたら、このあたりの、新湯ノ崎自治会、脇浜自治会、上脇自治会、新町自治会を

「わくんたん」ということで、どうして「わくんたん」というのか、聞くのをすっかり忘れてまし

た。普段は、中心街から外れているので、静かな通りなのですが、今日は、人出でいっぱ

いでした。

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例によって、写真をベタベタ貼っていきます。

最初に挨拶、その後、もちまき。新町だったかな?のバザー。

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長崎のペンギン水族館からも、ゲスト出演で、2匹ばかり連れてきていました。さわり放

題。私は、人間の若い女性の方が良いので、遠慮しましたが・・・


どこの自治会だったか、ぜんざいの振る舞い。豪勢に二百食。もちろん無料。

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「ピロッケ」と書いてあって、何だろうと思っていたら、二人のお嬢さんが作っていました。


早く言えば、豚まんを揚げたものですが、外がパリッと上がって、意外と美味しいですね。

アイディアものです。皆さんも、一度、豚まんを揚げて食べて見てください。おいしいです

よ。


なお、揚がるまでに時間があって、話しをていたら、「美人は見ていたら飽きるけど、私の

顔、飽きないよ」と言われ、見つめていたら、本当に飽きませんでした  。

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お茶屋さん。

自分の店の前でかな?イチゴを売っていました。なんとなく、つつましやかで良いですね。

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市民音楽祭に出ていた、本職は「ジャガイモおじさん」。顔が良ければプロになれるのに。


B級グルメに出場した、「小浜ちゃんぽん」、残念ながら、グランプリは取れませんでした

が・・・


先日、NHKBSで「私の父はちゃんぽんまん」というドラマが放送されました。私の家BSはと

っていないので見ていませんが・・・

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最近、店舗を持たなく、コーヒーとか、ドーナツとか、ピザとか、車で売って回るのが増えた

みたいですが、大集合していました。


右は、もうすぐ私がお世話になる、高齢者の施設です。温泉卵を売っていました。

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こちらは個人の家の壁だったかと思います。「やじさん、きたさん」とか「きっちょむさん」の

絵が書いてありました。なかなか愉快な絵でした。


裏手をぶらっとしていると。これ、湯気が上がっていましたから、温泉の源泉ですね。多分

個人の家のように見えました。ひょっとしたら、毎日温泉に入っているのかな?


私は風呂嫌いで、学生時代は、半年ばかり風呂に入ったことがなく、あまり感心なし。

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こちら、焼肉屋さん。子どもが一生懸命、呼び込みをしていました。何となく、ほのぼのとし

た風景。


「喜びの恋水」と書いてありました。湧き水です。一人で来たので飲みませんでしたが・・・

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先日、どこかの祭りでガスボンベでの事故がありましたが、小浜消防署からの巡視です。


ピザパイは、炭焼き?食べたかったのですが、又、太るので、我慢我慢。

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小浜には、共同浴場がありますが、この地区に、有名な「脇浜温泉浴場おたっしゃん湯」

があります。風格のある建物。朝から入りに来る人が沢山います。私も、風呂が好きな

ら、入ったんですが・・・

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市、町単位でイベントをおこなうのは多いのですが、自治会で、このようなイベントをおこな

うのは珍しく、「わくんたん」地区の方々の協力体制が、よほど強いのでしょう。


昔は、自治会で野球大会とか、バレー大会とか多かったのですが、近年段々少なくなって

きています。このような、自治会を中心とした事業が増えてくれば、地域の活性化になるの

ですが・・・・・・


さて、今日は、温泉街を、歩いている人がえらく多いなと思っていたら、JR九州で、旧温泉

鐵道のウォーキング大会。みなざんゾロゾロ歩いていました。


この道、少し説明を聞きながら、歩く方が面白いんですが、見ていると、皆さん、竿御前な

んか寄らないで通過していました・・・・残念ですね、、あれが見れなくて・・・・・

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2014年2月15日 (土)

島原ぶらり~島原市「ひなめぐり」

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昨日、島原の「新特産品」の紹介をしましたが1月30日~3月2日まで、「ひなめぐりイベ

ント」がおこなわれているので、ついでに、島原復興記念館(島原城内)、森岳酒蔵、アー

ケード、森岳商店街を回って見ましたので、写真をアットランダムに・・・・昨年も書いている

ので、ダブるところがあるかな?


上は、昨年も紹介した、「押絵雛」。

厚紙でこしらえた型に、布帛(ふはく)を貼り、綿を入れ凸凹を表現したものです。昔、雛人

形と言えば高価で、多分そのために、工夫したものかな?


今の雛人形と違って、女雛、男雛の左右が違っています。「左上位であった宮廷儀式の伝

統」と書いてありました。各地の雛人形、新作の雛人形。右は紙で作ったもののようです。

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森岳酒蔵です。

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左は、少し太り気味のおひな様。右は、御殿付きの雛人形。この、御殿付きは、一時期は

やった事があるそうです。豪華なものです。

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商店街。各商店に飾ってあります。右は、大正時代のおひな様。

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これはまた、洒落たところに、マネキンさん足元です。

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時計屋さん。花に囲まれ、花屋さんの店先に。

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これは珍しく、江戸時代のもの。陶器製みたいですが、面長の顔です。お店屋さんの中に

飾ってありますが、遠慮なく、「見せてください」と言えば、快く「どうぞ」と、見ることができま

す。

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人形さんは、きりがないので、少しばかり別のものを。


「宝篋院塔型流死供養塔」。寛永4年、地震と共に眉山が崩壊しますが、その折、津波の

直撃があり多くの死者がでたため、一乗院七世住職弘輝が建立した流死塔です。


正面には仏の種子(しゅじ)、左右裏には碑の功徳、下の二段には、百五名の俗名、戒名

が刻まれています。アーケードの中にあります。

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橋の所には、さりげなく、北村西望さんの作品が。

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森岳商店街には、文化庁登録有形文化財の町屋が、数軒あります。昔を偲ばさせるもの

です。

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島原の家には、一年中門松が飾っているところがあります。これは、自分の家は、キリシ

タンではないとの事を表している、ということを聞きました。お宅もまだ飾ってある?スボ

ラでそのままにしているのでしょう。


右は、豪族「島原氏」の「浜の城跡」の記念碑です。中央公園にあります。ここについて書

けば長くなるので、また後日。

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相変わらずの布袋様。さわれば幸せになれると書いてあるので、触ってきましたが、あま

り下の方は触らないように。布袋様は、子宝の神様ではありません。

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平日で、寒い日でもあったので、アーケード街はガランとしていましたが、観光ガイドさん

が2組ほど案内をしていました。


私も、数名の女性団体に「青い理髪店はどこですか?」と聞かれました。もう少し若い女性

だったら 、案内したのですが・・・・・「まっすぐ行って、左側です」と答えただけでした・・・







2014年2月14日 (金)

島原市新特産品~島原市

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今や、町おこしで、各地で新しい特産品を作っているようですが、島原市では、第五回目

の市特産品新作展。


三商品が優秀賞に選ばれたとの記事が、新聞に載っていましたが、見ると、私の知ってい

る方が載っているではありませんか。さっそく、島原へ。ついでに他の優秀賞を取った新作

品も買って来てくることに。

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なお、審査員特別賞を取ったのが、以前にも紹介したことがある、島原農業高校食品加

部。


これは、小麦粉の代わりに米粉を利用した、洋菓子「米粉deびわタルト」。この米粉を利用

した菓子製造技術は特許を取っているそうです。


ところが、この「米粉deびわタルト」、どこへ行っても置いてなく、学校へ電話をかけると、

「担当が、今いなくて、体育館で、今日は4時半まで全校生徒集会をやっています」とのこ

とで、4時半までは・・・・・ここが、私の頭の良いところで、、主催者の市役所へTel。


話を聞けば、一般には販売してなく、イベント等の時にしか、作ってないとのこと。先日、ブ

ログで取り上げた、長崎西高校の「びわデニッシュパン」と、どう違うのか比べて見たかっ

たのですが。まことに残念。


さて、島原といえば、寒ざらし。これは、島原駅の売店、アーケードのお店屋さんに売って

います。日持ちが難しいらしく、この点に工夫があったようです。


白玉と、蜜が別々になっていて、食べる時に混ぜ合わせるもの。「銀水」のお婆ちゃんの、

寒ざらしが懐かしいですね。

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「ぱくり屋」さんの「根菜醤」。これも、あちらこちら置いてなく、店を探したら、アーケードの

中央プラザの1Fにあるとか。ところが行って見ると、無い。え~と思って、横に回るとありま

した。


本来、飲み屋さんらしく、店は開けてありませんでしたが、戸は開きました。中は暗く、誰も

いないみたいで、出ていこうとしたら、店主さんが「なにか?」ということで、奥から出てき

て、手に入れてきました。


材料は、玉葱、生姜、人参、牛蒡、蓮根、食用胡麻油、食用菜種油、麦味噌等です。「ご

飯にかけると美味しいですよ」との事でしたが、酒の肴につけても合うような感じ。


「豚のおっぱい」の看板が気になります。横に、「しまばらご当地B級グルメグランプリ」と書

いてありました。しかし、「豚のおっぱい」。気になりますね。人間の「おっぱい」の方が良い

けれど・・・・・

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「島原湧水ジェレを作っている北田水産。ここのお嬢さんとは、数十年の真面目な、お付き

合いです。年齢不詳の美女です。


「島原人形の会」の事務局、島原の「子ども狂言」のお世話もやっていて、また、新しいこと

を考えているようでしたが、本業は「島原きた田」の偉い方です。


この「島原湧水ジェレ」、北田さんと、以前紹介した、「カマンベールチーズケーキ」で有名

な、諫早の「ル・ミエル」さんとのコラボです。


島原は湧水で有名で、環境省指定の日本名水百選に選ばれています。その、天然ミネラ

ルを含んだ水を使っています。


この、ジェレは「山れんげ」とも言われている、「はぜ蜂蜜」を使っています。島原は、江戸

時代、櫨(はぜ)の果実から木蝋(もくろう)を採り、、藩の特産品であったそうです。

島原産の櫨は「昭和福はぜ」といわれ、特に良質だと言われているそうです。


「冷やしてジェレ、凍らせてシャーベット」と書いてありました。風味は、生姜とゆずだそうで

すが、かなり売れているらしく、生姜の方は売り切れでした。

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お味ですか?今、家に帰ってきて、ブログを書き終わったばかりで、まだ、食べていませ

ん。今から、味わってみるつもりです。(なんか、無責任。持って生まれた性分ですから、ゴ

メンチャイ 。)




2014年2月13日 (木)

ちいさなおじさん[発見]~あさののい

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今日は朝から、宅配便の方が、えらくまた荷物を届けにきて、何だろうと思ったら、全部、

チョコレート。忘れていましたが、今日はバレンタインデーでした。あ!今日じゃなくて、明

日だ。さては、宅配便さん、日にちを間違えたな。


さて、おじさんになると大変で、目はかすむ、坂道を登ると息は切れる、すぐつまずく、物忘

れがひどくなる、加齢臭はひどくなる、何より残り時間が少なくなる・・・・・


以前、「おじさん図鑑」がブレイクしましたが、今日、本屋さんに行くと、上の本が出ていまし

た。右の方は、おまけで、真ん中の二つがバッチになっていて、「くつろぐおじさん」と「花と

おじさん」。さっそく、ジャケットに「花とおじさん」をつけました。

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紹介によれば、2007年大学時代の夏休みに、たまたま”それ”(ちいさなおじさん)を拾っ

たために、以後「ちいさなおじさん」が作家活動の主要テーマになったそうです。

端の方に、「ちいさなおじさんの本 シリーズ」と書いてありますから、まだ、今から続編が

出版されるのでしょう。

前に、「茶の味」という映画があり、日常、普通の生活の中、なんとなく、ホンワカした感じ

で、そこはかとないユーモアがあり、好きな映画で4,5回、レンタルで借りて見ましたが、

そんな感じのする漫画です。雨の寒い日は、こんなノンビリした漫画を、ゆったりと読むの

が一番ですね。


なお、チバテレビ(千葉テレビ)で、アニメでもやっているそうです。長崎は映らないから、

見た事がありませんが・・・・・


本も、「ちいさなおやじ日記」が2冊、「ちまちま日記」も出版されているみたいですが、長崎

でも見かけたら、買っていく予定です。


また、「ちいさなおじさん」は、日本都市伝説もあるそうですが、こちらは、2009年頃から

話題になっているそうですが、作者の、あさののいさんが「ちいさいおじさん」に会ったの

が2007年ですから、最初に「ちいさなおじさん」に会われた方かな?


なお、登場人物の「ゆきちん」。メチャかわゆいですよ。私の好み。






2014年2月12日 (水)

「おもちゃ博物館」~小浜町雲仙

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雲仙にある「おもちゃ博物館」。以前から知ってはいたのですが、駐車場がなく、なかなか

入る機会がなかったのですが、昨日書いたとおり、時間ができたので、店に入ると。

お~、タイムスリップ。昔懐かしの、おもちゃがいっぱい。

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右も左も上も、下以外は、全部おもちゃだらけ。


右は、ゴム動力で飛ばす飛行機。私たちの時が全盛で、ローソクで竹ひごを曲げて翼を作

っていました。、学校主催で大会もやっていました。これは、翼が作ってあるので、新しいも

の。

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このプラモデル。「ここにあるプラモデルのメーカーの中には、メーカー自体がなくなってい

るところも数社あります」と書いてあり、マニアの方には、垂涎の的でしょう。

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野球選手のメンコ」。懐かしの選手がズラリと。

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おもちゃだけではなく、どういうわけか、映画のポスターも。

左が、太田博之。若い方知っているかな?右は、石原裕次郎、芦川いずみ、二谷英明の

名前が。

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左は、なんと鰐淵晴子様。私の好きな俳優でしたが、「天才少女バイオリスト」でもありまし

た。

右の映画の出演者を見ると、由利徹、南利明、コロンピアトップ・ライト、NHKの有名番組

「お笑い三人組」の、江戸屋猫八(先代)、一竜斎貞鳳、三遊亭小金馬の名前もあります

が、こんなにコメディアンがたくさん出て、どんな映画だったのかな?

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とにかく、きりがが無いので、最後に、ジャーン、鉄腕アトム。これは、皆さんよくご存じです

ね。一番後が、鉄人28号。あとは、さて、なんでしょう?

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入って見て、これ、「子どもの、おもちゃ博物館」ではなく、「大人の、おもちゃ博物館」です

ね。また、行こう。


なお、一階がお店屋さんで、二階が「おもちゃ博物館」。二階は、入場料はいりますが、そ

れだけの価値はあります。



2014年2月11日 (火)

雲仙霧氷風景~雲仙市雲仙

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今日は、雲仙に調べものに訪ねて行ったら、休日でお休み。時間があったので、おもちゃ

博物館というお店屋さんがあって、昔のおもちゃ、久しぶりに見たら、楽しいですね(歳にな

ると懐古趣味がでて・・・・)。明日、紹介します。


ついでに、奧雲仙から帰ろうとして、雲仙岳を見ると、綺麗な霧氷が、山一杯に広がってい

ました。もったいないので、今日は写真を。


千々石の岳というところから、雲仙に上がる道がありますが、小浜町、橘湾の風景。ここ

も、良い風景です。夕日の時は、特に綺麗です。行くなら彼女と。

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坂道を上がりきったところに、別所ダム(別名、鴛鴦の池)。鴛鴦(おしどり)さん、全部離

婚したのか、全然見当たりません。水の色が、深い緑色です。

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ゴルフ場付近から見た、雲仙岳。

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奧雲仙(雲仙から国見町にいたる道)からの風景。ここらあたり、吹越と言いますが、妙見

岳、国見岳、九千部岳へ登るルートがあり、駐車場が作ってありましたが、八割程度車で

埋まっていて、山登りする人がかなりいるみたいでした。


私も、心臓の心配が無かったら登りたかった。もっとも、昔はここから、イヤと言うほど登っ

たのですが・・・・


なお、経験から言うと、こちらから登ると、妙見岳から国見岳の間に出ますが、このルー

ト、少しきついですね。おまけに、普賢岳まで行くには、一度谷を降り、普賢岳までの登

りになります。


九千部岳に登るのは、最初の坂道を登り切ると後は楽で、牧場方面から登るのに比べれ

ば、こちらからの方がラクチンです。写真は奧雲仙方面からです。

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こちらも、奧雲仙からです。できれば、国見町から雲仙にドライブしながら、風景を楽しむ

のが一番かと思います。

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最後に、千々石展望所から見た、雲仙岳方面。

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天気は良かったのですが、雲仙は零下4度。北国では、もっと寒い日が続いているようで

すが、こちらは、零下以下は珍しく、凍死するかと思いました。はやり、温めてくれる人と行

くのが良いですね。いつものようにカミサンは除きます。




2014年2月10日 (月)

「びわデニッシュパン」~長崎西高校「調理に見る科学」班開発

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某ローソンというコンビニは、以前にも紹介したとおり、高校生などと協力をして、商品開

発をしています。


今日の長崎新聞を読んでいると、以前は農業高校が主だったのですが、今回は、県立長

崎西高校の開発商品とか。農業高校は、調理関係の学科があるので分かりますが、長崎

西高校といえば進学校です。


どうして?と思っていたら、課題研究グループ「SSH(スーパーサイエンスハイスクール)」、

「調理にみる科学」班が開発して、そのアイディアをローソンと、パン製造会社が実現した

ものだとか。私が高校生だった「OKKK(女を口説く研究科学)」班を作るんですが・・・・


さて、長崎市の高校といえば、昔は、長崎東高、長崎西高だけだったのですが、ベビーブ

ームの子供が増えるにつけ、長崎南高、次いで長崎北高が誕生。私、自慢ではありませ

んが、長崎北高等学校の第一回生、しかも、劣等生でした。


思えば、中学校の時、付き合っていた女の子が、長崎西高、私は北高で、泣いて別れたも

のでした。青春時代の、ほろ苦い思い出です。


ということで、西高と聞いては、飛んでローソンへ行ったら、売り切れ。もう一軒行ったら、

そこも売り切れ、3軒目で五個ほどあったので、二個買ってきました。入り口には、ちゃん

とポスターまで。

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さて、この「びわデニッシュパン」、一番中央が「ぷるぷるびわジャム」、それを囲むように

「ふわふわクリーミーカスタード」、土台が「ジャガイモをペーストを練り込んだもちもち感デ

ニッシュ」。びわ、ジャガは長崎産です。

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裏側には、長崎西高のPRと、製品についての説明が書いてあります。

せっかく、若い子が作って、頑張っていますから、皆さんも是非、買って食べてください。

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お味ですか?まずいという方がいたら、「便所裏へ顔貸せよ」。スミマセン o(_ _)oペコッ、 

つい昔の癖がでて。


某町を歩いていたら、懐かしの看板。分かりますか?「岡政」の看板です。「大丸」に変わ

りましたが廃業し、いま、新らしいビルを建てています。「大丸」に変わったのが、昭和63

年頃だったかな?昭和は遠くなりにけり。この看板、はずして持ってこうかな。

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2014年2月 8日 (土)

八王社★筏遺跡後日談~雲仙市国見町

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以前、「筏遺跡Bの発掘説明会」について書きましたが、その折、ある人が、山手の方を差

し、「あのおおきな木の所に、安德天皇の・・・・」という話を耳にしたので、行って見たら、ご

覧の如く石碑、石仏があるばかりで、安德天皇を思わせるものは何もありません。


もっとも、安德天皇の遺跡については各地にあり、多分、あちらこちらに落ちのびた、平家

の落人が、安德天皇を偲んで建てた物でしょう。


さて、先日、大正12年に出版された、「島原半島戦国史(高陽史譚改題)」を読んでいる

と、


「神代に筏といふ處あり。その一部分を八王(やつのわう、昔の読み方で、やつのう)とい

ふ。今畑となり居れども、もと古墳ありし由。文化七年之を発掘せしに、中に石櫃あり。朱

を以て其の中に滿たせしを、運び出して海に投ぜしに、海中一面血の如くなり。・・・・・その

時出でし勾玉は、今同村の小学校にあり。丸玉は余が家に保存せり。傳へいふ。昔安德

天皇平氏の一族に擁せられ、、海上より筏に乗りてこの地に孝し、爾来世を避けて、此處

を隠棲の地とせしが、崩ずるにおよびて、従者等此處に之を奉葬せり。故に此の地を筏と

いひ、古墳を八王(八歳の王の義)といふと。・・・・・・」

ということで、これは見なければと、再度出かけました。


「国見町郷土誌」「島原半島史」によれば「八王」は「八王日(はちおうにち。立春、春分、立

夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至)」、「八大竜王」の語からきたものであろうと書いてあり

ます。


「国見町郷土誌」によれば、「『鍋島家日記』によると、前にも述べたとおり、文化七年(18

10)に百姓・六兵衛という人が、ここの竹藪を開梱した時に、石棺、金冠、宝玉、つぼ、石

斧を発掘し領主へと献上した。領主は佐賀(国見町鍋島家は佐賀藩に属します)に尋ねた

ところ『もとの所へ埋めよ』といわれて、埋めてしまったが、これら写絵は鍋島家に現存し

ている。」そうです。


なお、入り口の正面に、碑が建っていますが、これは、旧領主・鍋島桂治郞氏が碑文を書

かれたもです。

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これによると、口碑によると、八王社は文治元年の頃創立し、後は荒廃したまま。文化七

年、上にかいたような発見があったそうです。


「・・・・数年の後現地還納に噂有りといえども半信半疑その詳細を知るを得ず。今以って

不可解の問題なり。・・・・・・当霊域に於いて曲玉、円玉、発見今尚現存、永年この地に居

住の医師・原秀太方に在り。・・・・・・」


ここらあたりは、「筏遺跡A」として発掘し、出土物がかなりあり、石棺から出て来たもので

はないでしょう。


なお、この土地は、明治36年、原秀太医師が買って私有地にしたそうですが、大正5年

地区の人が譲りうけ協同社地としたそうです。


郷土誌には、八王社参道碑とかいてありますが。どうも、「八王神社々苑並(?)参道」と

書いてある気がするのですが・・・・・大正14年に建てられたものです。

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同書では、八王社として紹介されていました。大正5年建立。左の方が古く見え、ひょっと

したら本来のものは、左では?

なお、敷地内の片隅に、五輪の塔碑の一部が、5,6個ありました。

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ちいさな、神社ですが、調べると、いろいろ歴史があるものですね。


珍しかったので・・・ポンプは動きませんでした。右側はエビス様です。

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2014年2月 7日 (金)

大江戸恐竜伝 第五巻~夢枕獏著

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予定通り、出ました。最終巻。でも、これで最後かと思うと、何となく寂しさも。


さて、恐龍を連れて、ニルヤカナヤから戻った平賀源内。恐龍を見世物に。最も、本来の

目的は別にあるのですが・・・この恐竜が評判を呼び、将軍家治、平賀源内が仕えていた

高松藩主がご観覧に。


無事終われば良いが、盗賊、火鼠一味の、なにやら、よからぬ動き。さて、ここから、どん

でん返しにつぐ、どんでん返しなのですが、後は、本を読んでお楽しみを。

でも、ラストは、ハッピーエンド過ぎるかな?



この第五巻で面白いのが、作者のあとがき、小説を書いたいきさつ等、手の内を全部明

かしています。


「本書をお読みになってから、このあとがきに目をとおしていらっしゃる方なら、もう、おわ

かりと思いますが、この物語、映画『キング・コング』をベースにしております。

なぜ、平賀源内が主人公なのかも、明かしています。が、これも読んでからのお楽しみ。


さて、この小説、作者は冒険小説だと書いています

「書きあがってから気がついたんですが、これ、冒険小説なんですね。考えてみたら、あた

りまえのことなんだけど、押しも押されもしない、ど真ん中の冒険小説ですよ、これ。

これが、ぼくの冒険小説です。たぶん、ぼくにしか書けなかった冒険小説、謎解き、古代の

秘宝ーお宝さがし、悪の組織、怪獣、南の島、ヒーローとヒロイン、恋と悲しみ、挫折、その

他ぼくの考えている冒険小説の要素が、全て、この中に入っている。」


言われてみれば、その通り。「できることなら、作家として書くより、読者としてこれを読み

たかった。」如何にも、夢枕獏さんですね。


戯作者、画家として、エレキテル、寒熱昇降器、源内焼き、火浣布等を作り、本草学者とし

て、鉱山の開発者としての源内を、


「才能がありすぎた。

何でも手をつけたが、そのほとんどを途中で放り投げるか、失敗をした。

おそるべき奇人、奇態なる人物であったと言っていい。」

「源内は、早く生まれすぎた、哀しき天才です。」と書いています。


平賀源内の碑文を杉田玄白が書いたそうですが、最後の一行、有名ですが・・・

「嗟(ああ)、非常の人、非常の事を好み、行い是非常。何ぞ、非常の死なる」


さて、あとがきの最後に、夢枕獏さん一行書いてます。


「映画化、希望。」


庭の梅も散り始めました。蜂が飛んできたので、「お名前は?」と聞くと、「マーヤ」と答えま

した  。

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2014年2月 6日 (木)

2014 第八回 雲仙市美術展覧会~雲仙市・愛野町公民館講堂

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今日から、9日(日)まで、愛野町公民館講堂で、雲仙市美術展覧会が開催されます。

初日とあって、結構な観覧者でした。


最初に、挨拶。挨拶で思い出すのが、元NHKの鈴木健二アナウンサーの講演会。人間が

集中して話を聞けるのは58秒で、私は結婚式でも、この時間でやっております、との事。

今日の挨拶は・・・・・・

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テープカットが終わると、各部門毎に、解説があります。

写真の説明に、書道の説明、時間があまりないので、簡単に。

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絵画、うまい人が多いですね。カミサンも一生懸命描いて、出品していましたが、一生懸命

描いたからといって、良い作品になるとは限らず・・・・・・


「天才は1%のひらめきと、99%の汗」と云いますが、「1%のひらめき」が無いために、誰

でも天才にはなれないのですが・・・・・汗は流せますが。


もっとも、この言葉の真意、「1%のひらめきがなければ、99%の努力はむだである」とい

うことらしいのですが。困りますね、こんな事を云われても、皆さん一生懸命、努力をしてい

るのに。


でも、私、天才でないので、全然努力はしません。我が師匠、伊奈かっぺい先生曰く、「努

力は積み重ねるから、崩れる」。

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テレビ局の方も来ておられました、東京からではなく、ローカルテレビ「ヒマワリテレビ」さん

ですが。

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写真のコーナー。皆さん良い写真ですね。知った方にお会いしましたが、どこのイベントで

も必ずお会いします。本当に、まめに回って写真を撮っています。私と違って、良いカメラ

を持っておられますが・・・・・・

・・・・・・腕が悪いのを、道具のせいにする、私の悪い癖。

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書道、残念ながら、説明文を見ないと、全然分かりません。古文書より難しいみたい。上

手なのは、分かるのですが。

日本画も、大きな作品がずらりと。これくらい描けると面白いのでしょうが・・・・

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出品者の方は、県展、日展、コンクール等に入選、入賞の方も、かなりおられるということ

でした。確かに見ていて、昨年よりレベルが上がっているのが分かりました。


都会と違い、文化に恵まれない田舎の市ですが、皆さんの今後の頑張りを期待したいも

のです。また、来年も鑑賞に行きます。それとも、出品もしてみるかな、セルフヌード。


このほか、工芸の部、デザインの部があったのですが、私も別件の打ち合わせがあり、写

真を撮るのを、忘れてしまいました。申し訳ないm(_ _)m。


 

2014年2月 5日 (水)

森鴎外のユーモア~寒山拾得・寒山拾得縁起

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(群像 日本の作家2「森鴎外」~小学館刊より)


病院の待ち時間。スマートフォーンを利用して、「青空文庫」に、何か、短い読み物は無い

かと探していると、鴎外の「寒山拾得縁起」があり、面白く、ついでに、短いので、「寒山拾

得」の方も読んでみました。


「寒山拾得縁起」は、小説「寒山拾得」の後の方に、添え書きのようにして書いてあるので

すが、中身は大体こうです。


鴎外が何か書いてくれと頼まれ、「寒山拾得」を書いている時のこと、おりしも、子供から、

寒山の詩が出版されるので、買ってくれと云われる。


子供は、どうしても欲しくて、買ってくれと云うが、鴎外は、子供には無理だという。

ここで面白いのが、さすが鴎外の子供、云うことが、「詩はむずかしくてわからないかも知

れませんが、その寒山という人だの、それと一緒にいる拾得という人だのは、どんな人で

ございます。」


今の子供、こんな事言えるのいますか?今や、大人も子供も幼稚になっているんじゃな

い?私もだけど。


さて、鴎外は色々説明をし、この寒山は文殊で、拾德は普賢(後で説明します)だと云った

ために、子供は、ますます分からなくなる。


最後に鴎外は、「そして、とうとうこう云った。『実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝み

に来ないのだよ。』」


本論の「寒山拾得」は、こんな話です。


唐の貞観のころ、閭丘胤という官吏がいた。台州に主簿(日本の県知事くらいの地位)とし

て赴任をする。


赴任する時、どうにもならないくらいの頭痛におそわれる。そこに、乞食坊主が現れ、直し

てしまう。


名前と、住んでいる所を聞くと、天台の国清寺、名は豊干(ぶかん)。閭が赴任するところ

も、国正寺のある台州。

台州には逢いに行って、ためになるような,偉い人がいないか聞くと、国正寺に、拾得という

ものがおり、実は普賢。寒巌という石窟に寒山という者があり、実は文殊という返事。


閭は赴任し、国清寺を訪れるが、同翹(どうぎょ)という僧が出迎える。豊干という僧の事を

聞くと虎の背に騎って、詩を吟じていたが、ある日、ふといなくなったとのこと。


拾得について聞くと、豊干が松林で拾ってきたが、寺で不躾なことをしでかし、現在、僧の

食器を洗っているとか。


寒山について聞くと、寒巌という石窟に住んで、拾得が食器を滌(あらう)うとき、残ってい

る飯や菜を竹の筒に入れて取って置いて、それを取りに来るとか。


閭が厨に案内された時、拾干と寒山は、厨に蹲っていた、どちらも痩せていてみすぼらし

い小男。


同翹が呼びかけ、閭が恭しく挨拶をすると、二人は、腹の底から籠み上げて来るような笑

い声を出すと、立ち上がって厨をかけだして逃げしなに、寒山が、「豊干が喋ったなと」と云

ったのが聞こえた。


という物語ですが、寒山が文殊、拾得が普賢というのは、寒山が巻軸を、拾得がほうきを

それぞれ手に持っている絵が多く残されており、巻軸は文字・思想・知恵を表しており、釈

尊の左に侍し、知恵を司る文殊菩薩の化身。拾得のほうきは、実践・行動を意味し、釈

尊の右に侍し、慈悲(行徳)を司る普賢菩薩の化身であるとされているそうです。

Img_0002_2 Img_0001

           (「寒山拾得」~久須文夫著より)


正体がバレたとたん逃げ出した寒山拾得。文豪、軍医総監、高等官一等などでありなが

ら、「余ハ石見人森林太郎トシテ死センント欲ス」で始まる遺言を残していった鴎外。何とな

く同じ匂いがするのですが・・・・


なお、この鴎外の「寒山拾得」は、詩集「寒山詩集」の「寒山子詩集序」に書かれた話とほ

ぼ同じです。


序を書いたのは、鴎外の物語に出て来る、、閭丘胤です。この序には、後半があって、二

人のことを調べさせたところ、竹・木・石・壁、村の人家の壁に書き散らした文句など三百

余首、拾得が土地堂に書いた偈文もあり、これを一巻の書物にしたそうです。

豊干・寒山・拾得の三人は「国清三隠」とも云われているそうです。

Img_2

さて、文藝春秋社から、「現代日本文学館」という文学全集が出ており、10頁弱の附録が

あり、小林秀雄氏が編集ですが、この小説をどう解説しているか、楽しみだったのですが、

残念ながらこれには言及されておらず、解説を小島正二郎氏が次のように書いています。


「同じように面白いのは、『寒山拾得』だろう。この小説の面白さは、わざと説かずに置く。

これには『寒山拾得縁起』という一文が添っている、この、『縁起』を読まれると、いっそう

面白いだろう、ことに、最後の一行がいい。」


最後の一行は、前述した「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないのだよ。」

です。


この本を読んで、釈然としない方がおられると思いますが、それで良いのです。「寒山拾得

縁起」にこう書いてあります。


「子供はこの話には満足しなかった。大人の読者はおそらく一層満足しないだろう。」







2014年2月 3日 (月)

「桃カステラ大集合」から思い出した話~島原市ひなめぐり

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今の時期、島原城の写真を撮るとすれば、この古野梅園からでしょう。霞んでいるのは、

PM2.5のせいです。梅は満開です。


長崎ではランタン祭り、島原市では1月30日から、3月9日まで、「島原城下ひなめぐり」

がおこなわれており、その一環として、「桃かすてら大集合」が実施されています。島原の

お菓子屋さんで作られた「桃カステラ」を集めたものです。「ももフェチ」の私としては、行か

ないわけがなく・・・・(ももの意味が、少し違いますが)


桃カステラについては、「ひなめぐり」のパンフレットに説明が書いてあり、少し長くなります

が、


「桃カステラは、南蛮貿易で栄えた頃に伝わった『カステラ』と中国で不老長寿の果物とし

て珍重された「桃」が異国情緒と云う長崎県独特の風土の中でアレンジされて生まれ、生

活に溶け込んでいったものです。

 カステラの上に桃を描いて『フォンダン』(砂糖)をのせたその姿はとても愛らしく、又、昔

なつかしい素朴な甘さで、長崎県を代表する伝統的銘菓となっています。島原地方では初

節句返しなどにも利用されています。」

(注:島原地方だけではなく、長崎市等の他の地方でもこの風習あり。初節句は女の子の

節句)

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時間が早かったせいか、まだ、全部は揃っていませんでしたが、同じようで、店により、形

が少しずつ違っています。最近のヘルシー志向か、やや小型のものが、多くなってきたよ

うな感じ。

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私も、二つばかり買ってきましたが、右が標準的な桃カステラ、左が、洋菓子屋さんが作っ

た、創作桃カステラ、上に載っているのは、桜の花びらの塩漬け。

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さて、桃カステラを見ていると、思い出した事があるので・・・・・・以下は下ネタになりますか

ら、要注意。昨年、桃カステラのことを書いた時


「景気よく 開きし妻の もも匂う」


という川柳を紹介しましたが、以下は、「歴史を彩った性豪セックス列伝~菊池美佳子著」

に書いてある、ナポレオンと、妻ジョゼフィーヌのことです。


ジョゼフィーヌは、バツイチ、一男一女をもうけますが離婚。32歳の時、6歳下のナポレオ

ンと結婚します。


有名な話ですが、睡眠中のナポレオンに「ブルーチーズ」(独特な風味があるチーズ)の匂

いを嗅がせたところ、「ジョゼフィーヌ、今夜は勘弁してくれ」と寝言を言ったそうです。


さて、ナポレオンは戦争で忙しく、家を空けることが多かったそうですが、たまに戦地から

帰ってくる時は、「今から帰るから、風呂にだけはいるな」という手紙が、ナポレオンから届

いていたそうです。ナポレオンは匂いフェチだったみたいで、本当に「妻の もも匂う」です

ね。

(参考・引用:「歴史を彩った性豪セックス列伝~菊池美佳子著」)



2014年2月 2日 (日)

2014 第7回雲仙市民音楽祭~雲仙市

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昨年も書きましたが、雲仙市民音楽祭です。第7回目。旧七ヶ町が集まっての、年に一度

の市民音楽祭。


最初が、吾妻町の和太鼓、「吾魂」。

国見町のオカリナ、「ブルースカイ」。以前、宗次郎だったかな、オカリナが流行った時代

がありましたが、たまに聞いたら、いい音ですね。

1_2 2

瑞穂町の長田さんのピアノ独奏、確か、去年も出演したかな。

愛野町コーラス、「わらべの会」、「ふるさと雲仙」。なかなか良い曲でした。

3 4

南串山町、「ムジカ・アコード」。田舎にしては珍しい、室内楽。

千々石町の「アヘナ」。いつもは、3人グループだったのですが、どういうわけか、今日は

一人。

5 6_2

愛野町の文化箏「羽衣会」。曲は「少年時代」と「サントワマミー」とは、お年のわりには、洒

落てらっしゃる  失礼。

「吾妻中・瑞穂中」の合同演奏。「威風堂々」のBrass Rook.。ロックの編曲で聞くのも、な

かなかおつなもの。

7 8

瑞穂町の「津軽三味線愛好会」。なかなかの腕です。

国見町のオカリナ、「ストロベリー」。こちらも、小浜町と同じく、素朴ないい演奏でした。「い

い湯だな」は、頭に手ぬぐいを、のっけて。

9 10

国見町のFill inの「フィル イン」のピアノ連弾。子供たちも加わって、ほ~、こんな方法も面

白いな、という感じ。

11 16

千々石町の「ファミリーコーラス」、若い方も、何名か参加され、頑張っています。衣装は新

調したものだとか。なかなか、良い感じ。もちろんコーラスもですが。

小浜町の荒木さん。普段はジャガイモを作っているそうですが、なかなかのもの。バックは

小浜町のコーラスの皆さん。

コーラスをバックに歌うのは、気持ちよさそう。私も、来年やってみようかな。バックコーラ

スですか?キャバクラのお姉さんに声をかければ、これくらいは集まりますよ。

12 13

ということで、わきあいあいの市民音楽祭の最後は、「レインボーハーモニー」。「レインボ

ー」は七色で、七ヶ町が合併したものから。歌は、「花は咲く」。

最後に、全員で「一人の手」。

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又来年を、楽しみに・・・・・・といっても、ブログでは、音は出ないか・・・・


2014年2月 1日 (土)

「昔の遊び」の壁画~諫早市・九州ガス壁面

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諫早の九州ガスの以前のガスタンク。現在は、改造して、アメニティホールになって、イベ

ント会場になっています。


たしか、クリスマスの時は、クリスマスツリーで飾られたと思います(新聞でしか見たことが

無いのでスミマセン)。


この会社の道を隔てて、八重農芸本社(花、野菜の種、苗等が売ってあります)の駐車場

があり、いつも、苗を買いに行っていたのですが、ふと、九州ガスの塀をみたら、壁画がス

ラッとあるではありませんか。


この道、何十回となく、通っていたのですが、まったく今日まで気づきませんでした。

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何だろうと思って見たら、説明版があり


「野外での素朴な遊びは、昔も今も人の感動する心や価値観、自然観察、社会性、想像

力、活力を培うために大切な子供時代の『体験学習』です。

ここに描かれた遊びの数々を是非ご家族でご覧いただき、遊びの意義について考える機

会にして頂ければ幸いです

                               九州ガス株式会社

                               作画 池田義信(諫早市在住)   」


描いてある絵は、説明通りの昔懐かしい、子供たちの遊びの絵ばかりでした。せっかくで

すから、ご覧下さい。


ビー玉。今、見かけませんね。竹とんぼも、土産物屋などで、時々見かけますが、子供た

ちに作らせたら、小刀が使えなく、まったくダメでした。

1 2  

女の子は、何なのかな?水を使った遊びみたいなのですが・・・子守をしている女の子が

いますが、少子化の時代、もう見られない風景です。

男の子は、いわずと知れたチャンバラごっこ。懐かしの、赤胴鈴之助、白馬童子・・・・ 

3 4

メンコ。四角と丸がありました、私、へたなので全部取られましたが。

羽子板も今や飾り物で、やっている風景はなくなりました。バトミントンが主流ですね。

5 6

ワッカまわし、樽のたがとか、自転車の不要になった車輪を使いました。

コマ回し、曲ゴマみたいですが、真ん中の男の子、かなりの腕とみました。

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ハタ揚げ、諫早の江戸時代、大きなハタを揚げるのが流行り、身上を潰し、お上から禁止

されたこともあったとか。

てるてる坊主、遠足の前の日には、必ず吊しました。運動会の前の日には、逆さまに吊し

ました。私、走るのが遅かったから・・・明日、雨にな~れ

9 11_2

縄跳びに、女の子のゴム跳び。ゴム跳びはまったく見られなくなりました。

お手玉は、今もやってるのかな?ジャグリングは流行しているのですが・・・

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かくれんぼ、これは今もやってますね。子供は、隠れたり、見つけたりするのが好きだか

ら。コマ回し、喧嘩ゴマですね。

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竹馬、今や、お土産屋さんのプラステック製ばかりで、竹を山から切ってきて、作る子はい

ません。

右は、会社の宣伝の絵でした・・・・・・

19 22

こうして見ると、昔の遊びの方が、今のゲームより楽しい気がするのですが・・・・・・

今の若いお父さんお母さん、こんな遊びしたことがあるのかな?



見ていると、何となくホッとする絵ばかりです。一度、子供を連れて、ゆっくりとご覧を。昭

和レトロの時代にたっぷりと浸れますよ。



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