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2013年12月8日 - 2013年12月14日

2013年12月14日 (土)

たまに落語でも

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「お前さん何であんな亭主といっしょになったんだい、見込みがあるのかい」

「あるもんかあんな奴」

「じゃァ なぜいっしょにいるんだョォ」

「だって、寒いんだもん」

志ん生のくすぐりですが、良いですね。、この寒い冬の夜に。


東京に7年ばかりいて、一番残念だったのは、寄席に一度も行かなかったこと。田舎に引

っ込めば、見る機会はほとんど無し。


ポッドキャストで、時々聞いてはいたのですが、先日、立川談志の名演といわれる、「芝

浜」をDVDで見て、ついでに、「落語のピン」、「立川談志独演会」の10数枚を続けて見て、

また、ついでに、上の本と、「現代落語論Ⅱ」を続いて読んでいます。

落語は一時凋落し、また、盛り返しましたが、落語家過剰の時代。


落語は、いまだに、一銭、一文で話をしていますが、今の若い方にはピントこないところが

あるでしょうが・・・


時そば・・・

「そば代、いくらだい」

「へい、十六文で」

「親父。細かい銭しか持ってないんだが、いいかい、手を出してくれ」

「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よ)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(や)、ところ

で、今何時(なんどきだい)」と時刻を尋ねると、そば屋の親父「へい九(ここのつ)で」。間

髪を入れず、「十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、ご馳走様」と、「一文」誤魔化す

のですが、今やると、「いくらだい」、「500円です」、「手を出してくれ」、「100円、200円、

300円」、「今何時だい」、「へい、4時です」。ではなりたちませんね。


さて、立川談志については、また、書くことがあると思いますが、DVDをみて、普通は咄が

終わった後、すぐに楽屋に引いていくのですが、談志さん、座ったまま、首を傾げる部分が

沢山見られます。


自分の、芸の悪さに反省しているみたいで、時々、「スミマセンね今日は出来が悪くて、大

体この話は・・・・」と、説明までしています。多分、立川談志ほど落語を愛し、考え続けた落

語家は、いないでしょう。


たけしが、「落語家は伝統とマンネリにあぐらをかいて平気な顔をして演ってる。帰る巣が

あって羨ましいや。そのため全然研究も勉強もしない・・・・」と言っているそうです。


本に書いてありましたが、どこかの寄席の楽屋に、噺家売れる秘訣五か条というのが貼っ

てあって、

一、素人口調であること

一、内容は支離滅裂にすべきこと

一、ちゃんとした咄をやらぬこと

一、客には媚びること

一、何でもいいから歌うこと

と書いてあったそうですが、これ、一年もたたないうちに消えてしまう、お笑いの方にピッタ

リですね。


新人の良い落語家が出てきていますが、これから先どうなるのか、談志の落語を聞いて、

考えてみたいと思っています。


母親がこどもにむかって

「早起きは三文の徳というんだョ」

「三文なんてふるいネ、ピントこないョ」

「じゃァ、早起きの小鳥はみみずが食べられる。これならいいでしょう」

「でもさ、小鳥はいいけど、みみずがかわいそうだ」

「ウルサイネ、いいんだョ、それは朝帰りのみみずなんだから・・・・・」


私の好きなやつ

「番頭さん、金魚はどうしたい」と旦那、

「いえわたし、食べません」


酒席で

「あっちの男が、酔っぱらって、自分の家は、郵便局の裏だと言ってるんだが、向こうの男

も、酔ぱらって、自分の家も、郵便局の裏だと言って、喧嘩してるんだ。どっちが本当だ

い」

「良いんだよ、親子だから」


お後がよろしいようで・・・・・・


(参考・文引用「現代落語論」「現代落語論Ⅱ~あなたも落語家になれる」~立川談志著」



2013年12月13日 (金)

私的・センチメンタル浜ぶら

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浜町と書いて、「はまのまち」、地元では「はまンまち」といい、長崎市内では一番の繁華

街。


私、生まれは、遊郭があった丸山の隣町、油屋町。いわゆる、「色で育ったこの体」といい

たいのですが、借家住まいだったので、幼稚園の時、諏訪神社のそばに引っ越し。


小学校に入学の時、まだ畑ばかりだった、その真ん中に建った、浦上の県営アパートに引

っ越し。だんだんと、繁華街からは離れいくばかり。、


学校は東京で、就職をし、会社が銀座にあり、銀座のクラブで、夜の貴公子とまで呼ばれ

たのですが・・・・・


戻ってみれば、仕事で島原半島へ。そこで、結婚詐欺(注:カミサンにだまされて結婚の

事)に出会い、田舎住まい。浜町にはなかなか行く機会が無く、まして、歳取ると面倒くさく

て・・・・・


先日、書類を整理していたら、古い貯金通帳が出てきて、ひょっとしたら、亡くなったおじさ

んが、大金を振り込んでいないかと、浜町の銀行へ記帳に。結局は利子が付いて、1,06

7円でした。残念。


ついでに、久しぶりに、「浜ぶら」をしてみました。「浜ぶら」は「銀ぶら」と同じ意味です。

浜町をブラブラ歩いて見ると、変わっていますね。特に、ドラッグストアが増えたこと。商売

成り立つんですかね。


昔、長崎市内でデパートというと、浜屋と岡政。岡政は安政元年(1854)に長崎古町に創

業。あと、いろいろあって、1988年に「博多大丸・長崎店」になりましたが、2011年閉

店。跡地は、博多大丸が商業ビルを建てるという事らしいのですが・・・


横の所に、「1000マイル離れた長崎から1000人分の笑顔の笑顔の贈り物」「浜んまち」

は東北の未来を応援します」のパネル。上の写真が拡大したものです。

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石丸文行堂。昔、夏休みには「ラジオ体操」をしていましたが、全日出席した子どもは、ノ

ートを貰っていましたが、この、石丸文行堂の提供だと言うことを、どこかで聞いた覚えが

あります。

ドラッグストアになりました。名前は忘れましたが、大きな玩具屋さんだった覚えが・・・

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好文堂。長崎で、一番大きな本屋さんだったんですが、紀伊國屋さんあたりもできて・・・・・

好文堂の隣。確か「金文堂」と言う名前だったか、古本屋さんがあり、良く出入りしました。

ここで買った本を読んだら売って、そのお金で、また他の本を買って、中学、高校にはお

世話になりました。無くなっているのを見ると淋しい・・・・ weep 。


赤い矢印の、「カメラのタケダ」。もっと大きなカメラ屋さんだったのですが、今や、写真の

プリントは自分でできるし、カメラは家電屋さんで売っているし、本当に小さくなりました。

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左の写真、まっすぐ行くと、浜屋デパートの裏口に行きます。いま、新館ができています

が、昔は空き地で、確か、街頭テレビが置いてあった記憶があります。プロレスを見た事

があったかな?


写真の左側に「BUN BUN」というジャズ喫茶店があり、何時間いても、なにも言われない

ので、あの頃はお金を持ってなかったので、一日中、暇つぶしに居ました。


右は、思案橋電停付近、ジャズ喫茶「マイルス」があった所かな?入れば普通の喫茶店。

中にもう一つ扉があって、そこがジャズコーナー。一般の人はあまり知ることが無く、学校

サボって、制服、制帽で、煙草を吸いながら受験勉強をしていました。スピーカーがJBL

の、でっかいやつで、すごい迫力でした。

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思案橋ラーメン。おやじさんが面白い人でした。ここの、おでんが好きで、京風でもなく、関

東風でもなく、汁を煮込んであって、良く食べに行きました。


工事中のところ「ステラビル」があったところ。一番上が映画館でした。以前は、「東宝富士

館」があって、「アラビアのロレンス」だったか、学校をサボって見に行きましたが、当時は

映画を見るのは父兄同伴。もちろん一人で見ましたが・・・・走っている車、フィアットの50

0かな?

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左の写真の所にも、映画館があった記憶が・・・「フランケンシュタイン」を見た覚えがある

のですが。たしか、このあたりに、前川清が入っていた、内山田洋とクール・ファイブが出

演していた、キャバレー「銀馬車」もこのあたりだったかな。入ったことがないので良く知り

ませんが。


右の写真、確か、一階がアトムレコード、二階が映画館。当時は、「町を歩けば映画館に

当たる」の時代でした。

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「マツヤ万年筆病院」。全国的に有名で、某作家の万年筆もここで調整しているとか。昔

は、高校の入学祝いには万年筆が定番だったのですが。ちょっと寄って、フィシャーのボ

ーペン「スペースシャトル」を買ってきました。


宇宙飛行士のために作られたボールペン。芯の中に、窒素ガスが封入され、その圧力

で、インクをペン先に供給するもので、無重力でも、寝っ転がって、ペンを上向きにしても

書ける便利なボールペンです。

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さて、浜ぶらをしながら考えると、町の名前に「浜」がついています。確かに海からは、そう

遠くは無いものの、調べると、青い線が17世紀まで海だったそうで、赤い所が「浜町」のア

ーケード街です。こうして見ると、今よりも、海に近いことが分かります。


「長崎県辞典~長崎文献社刊」によれば、「浜町」のところに、「海岸の町として賑わってい

た」、「浜に面した便利な町として濱町は発展し」等の文が見られます。

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    (「復元!江戸時代の長崎」~布袋厚著・長崎文献社刊)

明治中期の、浜町のアーケードの風景。橋が見えますが、後に、この水路は暗渠化され、

両側の道と合わさって、道となり、現在の観光通りになったそうです。

撮した場所は、多分最初の方に紹介した、大丸あたりでしょう。

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      (「長崎古写真紀行」~柴多一雄著・長崎文献社刊)

東浜町を油屋町の方に向かって撮しているそうですが、一番高い山、どなたかご存じあり

ませんか?


久しぶりに、「浜ぶら」したら、変わっていく様子に、何となくセンチメンタルになり、「センチ

メンタル・ジャーニ」ならぬ、私的な「センチメンタル浜ぶら」になりました。





2013年12月12日 (木)

三度(みたび)、滝の観音~長崎市

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どういう分けか、ここ、滝の観音が気にいって、三度目になりますが、先日、病院帰りに寄

って見ました。前書いたのと、ダブル部分が出て来ると思いますが・・・・


昨年、ここの紅葉は綺麗だろうなと訪れたのですが、残念ながら、雨が降った後で、見ら

れず、今年は大丈夫だろうと思っていたら、遅すぎました。少しばかり、その雰囲気は残

っていましたが・・・・・

新緑の頃も良かったのですが、初冬の風景も、枯れていて良いものです。

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前に、言い忘れましたが、この滝の名前はありません。この寺も正式には「長瀧山霊源

院」ですが、「滝の観音」と言う名前の方が、有名です。長崎県指定名勝ですが、教育委員

会の説明文にも「滝の観音」と書いてあります。


敷地内には、元禄十二年、京都北野神社から分祠した、天満宮があるそうですが、行くの

を忘れました。


左の写真は、どちらが根か分からない「伏樹門」。ここをくぐって、山門へ、左右に仁王様

が・・・

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こんな風景も心落ち着いて良いですね。心に沁みます。

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梵鐘は、長崎大水害のとき壊れ、この後の所に、壊れた梵鐘が置いてあります。

首が取れた、石仏がありますが、多分、廃仏毀釈運動の時こわされたものか?

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良く見ないと、思わぬと所にも、石仏が。対岸にも、磨崖仏、石仏ありますが、以前書いた

のでカット。とにかく、石仏大好きな方には、たまらないところでしょう。

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このお寺、万治二年(1659)唐僧が建立した禅寺だそうですが、寛文七年(1667)唐商

許登授が観音堂を建立、中国伝来の魚籃(ぎょらん)観音像を本尊として納め、元禄四年

領主の諫早公(注:第六代茂元公?)から山林の寄進をうけ、その後、諫早家祈願所とし

て被護を受け栄えたそうです。(長崎県教委委員会・長崎市教育委員会説明版より簡略

化して記述)


この「魚籃観音像」、一年に一回、5月5日に、ご開帳があるそうで、拝観に行こうと思った

ら、忘れていて、TVで放映をしていましたが、来年こそは見たいものです。


補足

長崎県のホームページに「長崎ふれあい水辺」というのがあり、この滝の観音についても、

紹介があり、水辺の利用状況の所に、水遊び、とあり、適する年代に、小学校低学年以上

と書いてあるので、夏は水遊びもできそうな感じです。なお、生息する生物に「ウナギ」と書

いてありますから、来年の夏は・・・・・・・・・

なお、座禅の体験もできそうですから、ヒマがあったら行ってみたいものです。いつもヒマ

だけど・・・・・





2013年12月10日 (火)

センゴク一統記 第六巻~宮下英樹著

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ボチボチかなと思って、本屋さんのコミックコーナーを眺めると、でていました、「センゴク

一統記 第六巻」


秀吉が「中国大返し」をおこなった後の、秀吉と光秀の「山崎の戦い」。「天王山の戦い」と

呼ばれる合戦です。第六巻は、まだ、合戦の前哨戦の部分で、お互いに戦略を練るとこ

ろ。秀吉と光秀の考えるところの違いが描かれています。


「山崎の戦い」は天正10年6月13日。「十三日 合戦之上勝負決可(けっすきべき)之旨

云やりしかハ所望之幸尤(もっとも)にこそとの返事有りぬ」『太閤記』


さて、本の表紙の帯を見ると、「黒田官兵衛孝髙」の文字が躍っています。NHKの大河ドラ

マで、放送するので書いたのでしょうが、この巻では官兵衛はあまり出てきません。


黒田官兵衛については、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、小西行長、竹中半兵衛、伊達

政宗等々と比べれば、あまり有名ではありませんが、竹中半兵衛と共に、秀吉が天下統

一を果たした軍師として重要な人物です。

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    (「晋遊社ムック 歴史探訪シリーズ 黒田官兵衛」より)

小説家には興味を引くらしく、多くの本が出ているのですが・・・・私の好きな、坂口安吾「二

流の人」が入っていませんが・・・・


黒田官兵衛は、信長が本能寺で討たれた、という知らせを聞いたとき、秀吉に「これは、

天下をとるチャンス」と言ったとか、司馬遼太郎の「播磨灘物語」には、「・・・めでたき事、

出来ものよ。と、官兵衛が秀吉にいったということが人の口から口へと伝えられたが、たし

かに官兵衛としては、そうも受けとられることを秀吉にいった。信長の死を秀吉のために

めでたいといったのは、事態を露骨に表現しただけのことであり、秀吉自身、内心そう思っ

ていたに相違ないことは・・・・」と書いてあり、同様のことは、他の本にも書いてあるところ

です。ただし、出典はよく分かりません。


これも、良く書いてあることですが、秀吉は黒田官兵衛を警戒していた節も有り、側近と話

をしているとき、「わしが死んだら、天下を取るものは誰か」と聞いたところ、徳川、前田利

家、上杉と諸々意見が出たところ、秀吉は「黒田官兵衛だろう」と言ったということで、これ

を聞いた官兵衛は、隠居を願い出たという説もあるそうです。


なお、黒田官兵衛は、まだ野心があったらしく、関ヶ原の戦いが長引くとみて、その間に九

州・中国をを平定し、京へ攻めのぼる気持ちを持っていて、九州を平定していきますが、

関ヶ原の戦いが、たった一日で終結。夢破れます。


有名な話ですが、息子の黒田長政の調略により、徳川が勝利しますが、父の官兵衛に報

告のおり、「家康は長政の手を取り、この勝ちは甲斐殿(長政)のおかげでござると、とい

って、その手を三度まで押し頂いた。そのことを、如水がほめてくれるかと思い、詳しく話を

した。・・・・・・・やがて如水は、家康が執ったというそちの手は、左であったか、右手であっ

たか、と反問した。

『右手でございました。』

『すると、そちの左手は何をしていたのか』」(司馬遼太郎「播磨灘物語)


要するに、そのとき家康を、なぜ刺し殺さなかったかということです。ただし、坂口安吾「二

流の人」によれば、その後、家康は如水を大阪へ迎え、「膝元近く寄せて九州の動きを逐

一きく・・・」ともあり、小説のことですから、資料の問題、解釈の問題等あり、まあ、ここが

時代の出来事を推理していく面白さでしょう。

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来年放送の「軍師 黒田官兵衛」の放送台本をもとに、構成した本が出ていたので、買っ

て来ました。第一巻ですから、続編はでるでしょうが、呼んでみて、面白かったらご紹介を

します。


「センゴク一統記」とは、少し離れた話になりましたが・・・いつものように・・ヾ(_ _*)ハンセイ・・・




2013年12月 9日 (月)

大江戸恐龍伝 第三巻~夢枕獏著

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本屋さんに行くと、この第一巻と第二巻、売れなくて置きっぱなし。このような状況では、第

三巻が入荷するか?まして、田舎の本屋さん、入荷しても、遅くなるのは目に見えている

ので、Amazonへ、予定注文。


第二巻目の帯に、第三巻11月末刊行予定となっているのですが、本には、初版第一刷・

発行が12月4日になっており、Amazonからの発送が12月1日、ウチについたのが12月

3日。発行日より早く着くとは、さすがAmazonさん。加えるに送料はただ(アマゾン経由の

古本屋さん等からは送料有り)。本屋さんには、3日後に出ていました。


300頁程度の本ですから、一日で読めるはずなのですが、近視に老眼。おまけに、呆け

て登場人物がどういう人物か、忘れる始末。この人物は、誰だ?その度、第一巻と第二巻

を読み直し、読み直し、やっと、今日、読了しました。歳は取りたくないもの。


第一巻と第二巻については、すでに書いた所ですが、あまり書くと、これから読まれる方

に、面白くないので、少しばかり。


いよいよ、舞台は琉球に移り、はたしてニルヤカナヤなるものは、あるのか無いのか、あ

ればどこにあるのか。手がかりは江戸で手に入れた、下の図。

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     (「大江戸恐龍伝 第三巻」より)

そして、琉球にも同じような文字を彫りつけた、徐布石。

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     (「大江戸恐龍伝 第三巻」より)


琉球の加良間でおこなわれる、儀式に潜り込む、平賀源内。そして、書かれた文字を基

に、ニルヤカナヤの場所を推理し、ニルヤカナヤに出帆する源内。はたして、そこが目的

の場所であるのか。続きは第四巻。12月末刊行となっていますが、Amazonではまだ予約

注文の受付をしていないので、少し遅れるかな。


おまけです、本のカバーに書いてある部分だけ、サービスにご紹介を。


「ゑれき丸」を完成させた平賀源内は、黄金のニルヤカナヤに向かい、船出した。

途中、琉球で秘密の祭りを覗き見た源内は、そこで目蓋のない神女(ノロ)から、古の言い

伝えを聞く。

なぜ、神女は目蓋がないのか?

唯ひとり生還した水夫は、なぜ、目蓋を切りとられていたのか?徐市石とは?

そして、その石に刻まれた絵の意味するところは?

深まるばかりの謎を抱えて、源内はニルヤカナヤを目指すのだが・・・。


この本、連載物ではなく、書き下ろしですから、原稿はできているはずで、ほぼ予定どおり

刊行されるでしょう。と期待しています。終わったら、「餓狼伝」、「東天の獅子」、「キライ

マ」の、出版を早めにね。この「大江戸恐龍伝」もお薦めです。






2013年12月 8日 (日)

2013 「第3回島原半島伝承芸能まつり」~島原市・雲仙市・南島原市

Photo

以前、この「三市合同 島原半島伝承芸能まつり」に触れたことがありますが、今回が3回

目。島原半島1市16町だったのが、町村合併で三市に。それを機会に生まれたイベント

です。


三市回り持ちで、三市に残る伝承芸能が披露されます。歳取ると、J-POPより、こちらに

引かれる気持ちが強くなって・・・・


上の写真は、少し前紹介した、千々石町の「温泉神社秋季例大祭」で、北船津名が奉納

する、「トントンレッツン」。


島原こども狂言。オリジナルの「釣ろうよ」。島原の薪能でも出演して活躍しています。子ど

もたちが、背にタコ、フグ、タイを背負ってユーモアを誘います。


和道・深江太鼓。さすが、腹にしみ通る音。

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西有家長尾崎自治会の「浦安の舞」、通称「神楽舞」とよび、天満神社秋の例大祭でで奉

納されているそうです。


北有馬町浮流、島原の乱後、住民がほとんど滅亡したため、佐賀県川副から、北有馬折

木地区に移住した、宮田利兵衛から伝えられとされる面浮流が改良され、6地区に代々

受け継がれているそうです。衣装もこれだけ揃えば、見事なもの。

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瑞穂町尾崎自治会の「栗林荒踊り」。150年ほど前から伝えられているそうで、運動会、

八幡神社で八年に1度奉納されるそうです。


南有馬町の白木野少年先踊り、島原の乱で、荒廃した田畑の復興を祝って踊ったのが始

まりだそうです。350年以上踊り継がれているそうです。

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加津佐町の「棒踊り」。棒を、お互い打ちつけて踊りますが、間違うと、痛い目に・・・・気合

いが入って、見ごたえがありました。

日露戦争の凱旋祝いとして明治38年より伝承されているそうです。棒踊りの発祥は鹿児

島で、明治に各地に流布していったそうです。千々石にも、伝わっています。


島原と言えば、「島原の子守歌」。島原の民謡会「島原うがわ会」による、歌と踊り。

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深江町文化協会による、「釜蓋かぶせ」。昔は、結婚式場なんかなく、個人の家でやってい

ました。「嫁御どーい、嫁御どーい」の声で、一同歩いて婚家へ向かいますが、家の入り口

の敷居をまたぐとき、釜の蓋とか、写真のような、しょうけを頭にかぶせ、「ちょいとお待ち

よ、嫁御どん・・・・・・・・・・」と、嫁としての心構えを語ります。これ以前書いたな?詳しくは

釜蓋かぶせ」をご覧下さい。

真面目なのもあり、少しHなのも有り、今日は後者で会場の笑いを誘っていました。これ、

後継者が、なかなかいないんですよね。

私の結婚式も、やってもらいましたが、あの頃のカミサンが、今のカミサンになるなんて。

古人曰く「女は豹変する」。

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島原面浮流。佐賀県の龍造寺公を祭っている、二本木神社(島原市北門)に奉納されて

いたもので、佐賀県竜王崎方面の御祭礼に奉納されていたものを基にしているそうです。


島原七万石を踊る会(三市合同)。「七万石」は、島原に京都福知山より松平忠房公を迎

え、大分豊後高田三万石を合わせて(アバウト)七万石の島原藩が誕生したものに由来。

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有家町、相撲甚句。昔は相撲が盛んで、神社などに行ってみると、土俵の跡が残っている

ところもあり。有家では過去二回、地方巡業で、千代の山、若乃花(先代)の一行を迎え、

有家場所と銘うって興業相撲をおこなったそうですが、その頃の節で、有家町の名所、名

物などを織り込んでの甚句、甚句はあまり聞いたことがなかったのですが、なかなか面白

いものでした。


最後に、布津無双太鼓。郷土芸能の高揚と、町の活性化を目的に、昭和61年に、青年

団5名で発足、ご覧の通り、大きく育っています。

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伝承芸能は、大人から子どもへ、伝えられていくものですが、今や少子化。子どもは、ゲー

ムに、サッカー、野球。大きくなると、県外へ。


今回、見に行って、子どもたちの参加が、意外と多いことは嬉しい事でした。いつまでも残

していって、欲しいものばかりでした。   (参考・文引用:パンフレット説明より)








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