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2013年1月27日 - 2013年2月2日

2013年2月 2日 (土)

江東寺②松倉重政と板倉重昌の墓~長崎県島原市

Photo

               (Googleマップより)

昨日は、涅槃像を紹介しましたが、この左側に松倉重政と板倉重昌の墓があります。

長崎県以外の方には、分かりにくいので少し、くどい説明を。


島原半島は、有馬氏の領地で、赤の四角がその居城「日野江城」ですが、もう一つ、黄色

の四角が日野江城の支城の「原城」。この間に、一里近くの橋が架けられたという話も残っ

ていて、「からはし」の名前が残っているそうです。緑の四角が「島原城」があるところ。


有馬氏はキリシタン大名有馬晴信の時代に、岡大八事件(各自調べてね)に巻き込まれ、

甲斐国鹿野に追放、慶長17年、死を賜ります。このとき、切腹は自殺になるので、キリシタ

ンの自分は切腹できないという事で、首をはねさせたとの話がありますが、確たる資料は

残っていないとの話です。


それから、多少、話はありますが、長くなるので、省略。


その後、元和二年(三年説も有り)、大和五条城主松倉豊後守重政が、ここの領主になっ

たのですが、最初は日野江城に入りますが、その後島原の「浜の城」、(現在の霊丘公民

館近くの公園の一角に、記念碑があります。もちろん城を偲ばせるものは何もありませ

ん。寛政四年の大地震で眉山が崩れ、ここら一帯は埋もれてしまったといいます。)に入城

します。


元和四年、島原城(昔は森岳城と呼ばれていました。)に着手。その築城の時、日野江城、

原城の石垣を運んで作ったという話です。


新しく城を作った理由として、林銑吉氏の「島原半島史」によると、 ㈠ 徳川幕府が一国城

の制をしいたこと。 ㈡ 日野江城を中心として有馬地方はキリシタンの巣窟であったこ

と。 ㈢ 治城、交通の利便性  ㈣ 呂宋(ルソン)を攻略する遠望があった事。(これにつ

いては話が長引くので今日は省略)  ㈤ 松倉重政は築城に造詣が深く、理想の城を築

造したかった、との理由が考えられるそうです。


この頃、キリシタン禁教令がありましたが、重政は最初は寛大であったそうですが、寛永二

年、参勤の折、将軍家光から、この事に対し叱責され、それから弾圧が厳しくなったそう

で、水責め、火あぶり、烙印、指切り、穴つるし、硫黄攻め、針刺し責め、木馬責め、竹鋸

引き、子責め、温泉地獄責め、斬首、磔等、残忍を極めたそうです。


寛永七年、重政は小浜で死去しますが(これにも、暗殺等の話があって、これも今日は省

略。)重政は「勇武豪宕の資であって良く家臣士卒を撫育したので、綱紀緩まず、領民には

峻厳の中にも呻吟しながらも、乗ずべき間隙がなかった。」といいます。


その子、勝家が家督を継ぎますが、性愚鈍であったそうで、民に厳しく、原城の乱を起こす

原因となります。(どこかの本に、日本で二番目のバカ殿様と書いてありました。真実は知

りません。)


さて、江東寺ですが、北有村田平に開山。重政が島原に築城するに伴い、島原城下今村

に移転し、松倉城主の菩提寺になったそうです。


寛政四年雲仙岳の噴火、眉山の崩壊で寺も埋没したそうですが、25年をかけ浄財を集め

再建したそうです。

P2010245

重政の墓ですが、寛政の大震災によって流失したものを、当寺の実言和尚が文政11年に

再建したものですが、右側に半分欠けた墓石が最初の墓で、災害復旧工事中に掘り出さ

れたものだそうです。(写真撮るの忘れました。すみません。)


この墓の左に板倉重昌の墓があります。板倉重昌は、原城の乱の時、最初の総大将とし

て、討ち死にをしています。板倉重昌の派遣に関しては、大久保彦左とか、柳生但馬守宗

矩がからんでくる話もあるので、またいつか。

P2010252

寛永15年に寺の中に立てられたそうですが、これも、寛政の震災で埋もれて行方不明

に。


島原藩にいた三河の板倉家の血縁、家老の板倉勝彪(かつたけ)に再建を依頼し、文化

14年に正面の墓を立てたそうですが、古町の別当中村家で、井戸を掘っていたところ、地

中から、流失した墓が発見されたそうです。向かって右側の少し小さめの墓です。


知っていて見るのと、知らないで見るのとは、はやり違いますね。これだけ知っていると、

見るときに興味が湧いてくるでしょう。もっとも、ほとんど説明版に書いてある事なのですが

ね happy01 。


「松倉重政(しげまさ)」、「板倉重昌(しげまさ)」。名前も何となく似ているし、「島原の乱」

「寛政の大震災」両方とも関係があるし、その墓が並んでいるとことは興味深いですね。

                                      (江東寺編 おしまい)


(参考・文引用:「島原半島史~林銑吉著」 各説明版より)


今日は暖かく、お散歩していたら、梅の花がポチと咲いていました。

もうすぐ春~ですね。ポチッと気取ってみませんか。

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2013年2月 1日 (金)

江東寺①涅槃像~長崎県島原市

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今日は、島原の病院通い、ふと思い出して、「涅槃(ねはん)像」を見に。

島原に、「江東寺」というお寺があり、最近は、このお寺にある「涅槃像」を見に、観光客の

方も訪れているみたいです。


全長8m、高さ2m、鉄筋コンクリート造り涅槃像としては、日本最大のものだそうです。作

者は仏師として有名な、福崎日精氏だそうです。

P2010257_2

「涅槃」とは、辞書によれば、釈尊がすべての煩悩を無くし、高い悟りの境地に達し死んだ

こととなっています。(新明解国語事典)


亡くなるときは、頭を北にして、西の方を向いてそうですが、これが現在も「北枕」として、残

っています。西を向いていたので、浄土は西の方にあり、「西方浄土」という話も聞いた事

があります。


さて、ある学者が言っていた事ですが、この姿勢で寝るのが、一番体に良いとか。よく、北

枕で寝るのは縁起が悪いと避けますが、地球の磁力線は北極から南極に向かっているの

で、北を頭にして寝た方が体の道理に合っているとか。また、この姿勢で寝ると、心臓は上

の方になり、負担がかからないとか。お試しを・・・・


正面からだけ見た方には分からないでしょうが、一番上の写真、足の裏を見ると、なにやら

複雑な文様が彫ってあります。


「仏足石」といって、お釈迦様の足跡を石に刻み信仰の対象にしたそうですが・・・・

文様の一つ一つに意味があるみたいで、真ん中丸いのが「千輻輪相」、親指の下が「金剛

杵相」、魚みたいなのが「双魚相」。それぞれに意味があるそうです。ネットで流れています

から、各自学習を。「涅槃像」を見に来られたら、是非、足裏の方もご覧を。


さて、この横に、島原城を作った松倉重政と、島原の乱で総大将を務めた板倉重昌の墓が

ありますが、それは又明日。

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今日は雨が降って、猫さんもゆっくりと雨宿りでした。


私も、自分の足裏を見てみたら、ポチ臭かった。  

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2013年1月31日 (木)

女夫木(めおとぎ)の大スギ(国指定天然記念物)と十二支公園~長崎県諫早市

1

諫早に「夫婦木」という集落があり、そこの中に「女夫木(めおとぎ)の大スギ」があります。

説明版によると、高さ31m、幹廻り9m。樹齢600年。


昭和27年に県の天然記念物に指定。国内でも、優れていると言う事で、昭和50年に国指

定天然記念物に。杉の木で国の天然記念物は以前の記録では、40本ほどあるそうです

が、この杉は中くらいだそうです。もちろん長崎県内では一番大きいそうです。


昔は二本の大スギが夫婦のように自生して(ウチとは大違い)おり、そのため「女夫木」と

いう地名が生まれたそうです。


台風か落雷かで、今の姿になったようですが、平成4年出版、「諫早の文化財~諫早市教

育委員会著」には下のような写真が載っております。

Img

多分右の写真が、昔の大スギで、左の写真が、災害後の補修工事でしょう、昭和60年度

となっています。現在も。

2

このように、しっかりと補強がしてあります。


さて、この地に、安德天皇と二位尼の碑があるとかで、この先かなと思ってウロウロしてい

たら、このような看板があるので行ってみると、

3 4

「十二支公園  牛 平家と大杉の里」の標注が、少し上って行くと

6 5

広場があり、真ん中に石碑が。これが安德天皇の碑かと思って、駆け寄ったら「猿田彦」の

石碑で、明治31年の文字が彫られていました。ちょっとがっかり。


さて、この「十二支公園」、この立て札は、先日書いた「木秀一里塚」に行く道にも見たので

すが、ネットで調べると場所の紹介してあるブログはあるのですが、由来は全然分かりま

せん。そんなに古くもない立て札ですが、誰が立てていったのか?謎が謎呼ぶといとこ

ろ・・・


大スギは諫早の小栗小学校横の道を行って、刑務所横(中には入らないで!)の道を行く

とすぐに分かります。


「十二支公園」については→こちらをクリック→「諫早十二支公園」

さて、仁徳天皇、二位尼の碑については、また日を改めて、ということでお楽しみに。


この大スギが、夫か妻かは分かりませんが、一本だけで、大きいだけにポチと淋しそう・・・

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2013年1月30日 (水)

センゴク一統記②~宮下英樹

Img

やっと出ましたね。「センゴク一統記②」。今日、本屋さんに並んでいました。奥付を見ると

出版日は2013年1月4日。やはり、田舎に届くまでに時間がかかったみたい。老眼のせ

いで、私が、見そこなっていたのかな?


さて、本編はいよいよ毛利攻めになりますが、信長が毛利攻めの後に何を考えていたの

か、明らかになってきます。


この巻は、備中高松城の水攻めが中心になりますが、

Img_0002_5

こんな感じで、水攻めをしていきますが、右下の「秀吉堤」、「太閤記」では12㎞、伝承では

3㎞。この本の最後の付記にどうであったのか、研究によると・・・・少しばかり触れてありま

すが、歴史の本当の姿は、なかなか分かりませんね。後は、本をお読みください。上の図

には距離が書いてありますが、ネタバレになるのでカットしています。


さて、いよいよ、次回は「本能寺編~序奏~」に入っていきます。


明智光秀がなぜ、反乱を起こしたのか、諸説在り、日本史の謎の一つでしょう。真実は分

からないところでしょうが、この著者がどのような解釈をしていくか、楽しみですね。


光秀の若い時分は不明な所もあり、また、光秀は死んでなく、徳川家康の幕僚、「天海」に

なったという説も有り、日本史の中でも謎の多い人物で、興味を引くところです。


主人公の仙石権兵衛秀久は、まだまだウロウロしているところです。信長は、時々出て来

ますが、その一言々々、重みがあって、凄いですよ。


私も謎の多い人物で、なぜ私みたいないい男が、女性にもてないのか謎であります。ポチ

と不満を持っております。

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2013年1月29日 (火)

トルコライス名称異聞

P1280169

チャンポンに続き、食べ物の話です。「トルコライス」。長崎の人なら誰でも知っています

ね。多少、全国的に有名になってきたようですが、一つの皿に、ナポリタン、ピラフ、カツが

盛られたものが基本。うちが発祥の店だと、いろいろ宣伝しておりますが。


カロリーが高いので、随分ガマンしていたのですが、体重が3㎏ほど減ってきたので、まあ

たまには・・・お久しぶりね~あなたと会うなんて(古い唄! wobbly


入ったレストランのメニューに、「トルコライス メンズ レディース」と書いてあるではありま

せんか。しばし考えて、可愛いウェイトレスさんを呼んで


「トルコライス ハーフを」

「え?」

「ハーフだよ。はるな愛ちゃんとか、KABA.ちゃんとかの。」

「そんなのありません。」


「メンズとレディース、どう違うの?」

このウェイトレスさん、機転がきくお嬢さんらしく

「メンズは付いておりますが、レディースには付いておりません。」

今度は私が「え?」


一瞬、きょとんとしましたが、そう、男の子には付いていて、女の子に付いてないといえば、

あれの事ではありませんか。あれですよ。あまり、人を冷やかすものではありませんね。大

反省(catface)。


メンズのほうが、大盛りで、カツも大きいとか。体の事を考えて、レディースを。でも、男のく

せに、レディースを頼むのは、何となく気恥ずかしかった(coldsweats01)。なんとなく、オネエになった

気分。普通のトルコライスは、写真よりもっと分量があります。


さて、真面目な話に戻ります。ただし、以下の話は、私がある方から聞いた話で、私は責任

をもつ者ではありません。「トルコライス」の名称については説が多々あり、はっきりしてい

ません。なぜ「トルコ」なのか?


昔、ソープランドの事を「トルコ」、「トルコ風呂」と言っていましたが、トルコの国の方々から

抗議がおこり、1984年に「ソープランド」と改称しました。


これは、「トルコ」と言っていた時代、「トルコ」で有名な某県の話。

そこに勤務されておられた、あるお嬢さんが、ナポリタンとピラフとカツライスが大好きで、

これを、毎日、食堂に順番に頼んでいたそうです。


これを、店のコックさんが、それなら全部一緒に皿に盛ってやったら、という事で、一皿にナ

ポリタン、ピラフ、カツを乗せて持って行ったら、このお嬢さんの喜ぶ事。横で見ていたお嬢

さん方も、私も私もと大評判。


このコックさんが、どういうわけか、長崎に来たそうですが、店のメニューを作るとき、この

料理も入れたそうですが、名前を考えてなかったそうで、「トルコ」で評判だったから、それ

ならと、「トルコライス」と名前をつけたそうです。


重ねて、以上の話は、あくまで、私が聞いた話で、本当の事かどうかは不明です。でも、こ

の話が、他の話より信憑性があるようで好きですね・・・


ところで、これだけ食べるお嬢さん方は、よほどハードな労働なんでしょうね。私は天地神

明、誓って、通った事は無いので知りませんが・・・・ホントよ。


トルコライスを食べた夜、体重を量ると0.5㎏ほどポチと太っていました。

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2013年1月28日 (月)

上山(じょうやま)へ~長崎県諫早市上山公園

Photo

昨日は、とにかく寒くてたまりませんでしたが、今日は天気は良く、そんなに寒くは無く、カミ

サンは家にいないし、お出かけしました。


さて、どこへ行こうかと思っていると、昨年書いた、諫早の総合運動公園からの上山へ登る

道を思い出して、ちょっと登る事に。ただ、総合公園からの分かれ道がどうなっているのか

分からないので、東口から登る事に。


この上山公園は、諫早家に維持、管理された地域で、諫早家代々の直轄の山(留山という

そうです)だったそうです。


市が諫早家から取得し、平成18年には、本県から唯一、「日本の歴史公園100選」に選

ばれています。


入り口の所には、駐車場もあり、道も車が十分通れる広さ(入り口にチェーンが張ってあ

り車での出入りは禁止)。

Photo_2 Photo_4

標識も結構整備され、この「まむしがいます」には笑えますが、あちらこちら見るので、本当

に多いのでしょう(今は冬場だから無事)。

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一番頂上にある展望台。諫早を一望する展望台。写真は、クリックすると拡大します。

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大村湾、諫早干拓、多良岳、雲仙岳等、一望する景色の良さです。


さて、ここに登るにはルートがたくさんあり、下りはどれをとろうかと・・

Photo_18

赤色が展望台。黄色の所が登り口になります。今回は総合公園のへ降りる道を。

Photo_20 Photo_21

道は良いのですが、登りには多少きつい道になります。こちらから登っていれば、途中でく

たばっていたかも(なにせ老いの身)。「上山公園で遭難、問われる中高年の登山」なん

て、新聞の記事が目に浮かびます。たかだか、122.4mの山ですが・・・・


予定どうり、公園のローンボール場の上の方のタンクの所に出ました。赤い所に標識が立

っていて、分かれ道になってますが、標柱が中途半端な角度なので、右の登り道をとって

ください。


下ってみたら、競技場、完成間近というところでしょう。

Photo_22

多分私が通った道が、一番長いけれど、楽な道みたいです。子供連れにもってこいの、

安、近、短なレジャーですよ。


明日からは、ポチと温かくなるそうです。また、どこかにポチと出かけましょうかね。

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2013年1月27日 (日)

チャンポンと坂口安吾

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長崎の食べ物と言えば、チャンポンにカステラ。


先日、「坂口安吾の新日本地理 06 長崎チャンポンー九州の巻」にふれ、「金鍔次衛門」

の事を紹介しましたが、安吾はキリシタンについて、長崎に来てかなりの事を調べて行った

ようです。この、安吾の作品も、長崎チャンポンと題をつけながら、本質はキリシタンにふれ

たものです。


もちろん、チャンポンの事にも触れていますが、チャンポンについて、下記のように書いて

います。


「・・・・陶器製のカナダライに相違ない平鉢の中へ、高句麗の古墳の模型をつくって少女が

運んでくる。古墳の上側にかけてある物をしらべると多量のキャベツやらキノコや肉などを

原料に支那と日本の中間的なウマニに煮たものである。


・・・・カナダライに水をナミナミと満たした場合にはカナダライの内部が直接空気にふれる

空間というものはなくなるのであるが、日本のウドンと支那のウドンのアイノコの場合にお

いてはその空隙がないのみでなく更にカナダライの高さと同じぐらいのものが上へ盛りあ

げられており、更にその上にキャベツ一個分はないけれども一個の半分以下ではないらし

いキャベツとキノコと肉などが積み上げられているのである。


・・・しかし、その時おどろくべきものを見たなア。学校帰りの一四五ぐらいの女学生三人組

と、母親らしき女と十一二の男の子の一組が、ちょっとお八ツ代わりにチャンポンを食いに

来たらしき様子であったが、五六ぺん笑い声をたててお喋りしているうちに、みるみる古墳

の山をくずして、三食分のチャンポンをカステラのように平らげてそこにカラのカナダライが

なければまだ完璧に何も食べていないような顔でしたなア。実に私は目を疑ったね。おそ

るべき女学生がいる。おそるべきオカミサンとその子供がいる。


・・・ところがチャンポン屋に回を重ねて通ううちに、長崎の老若男女というものは実に一人

残らず同じような特別の胃袋の持ち主で、そこに例外は決してないということが、たちまち

明白になりましたね。・・・・」


これは昭和26年の作品ですが、これを読む限り、長崎チャンポンは、この頃までは全国的

に有名で無い事が分かりますね。


なお、長崎の人間としていいますが、そんなに長崎の人間の胃袋は特別のものでは無い

ですよ。確かにチャンポンは量はありますが。上の写真は、上品な盛りのチャンポンで、こ

の倍くらい盛り上げたチャンポンはザラです。


なお、安吾は中身を、キャベツ、キノコ、肉をあげていますが、カマボコ、いか、えび、あさ

り、牡蛎などもはいったりします。とにかく、美味しいので、長崎にお越しの折には、食べて

みてください。ただ、店は選んで・・・・あまり・・・・という店もありますから。


これだけ、入れば、栄養、野菜繊維文句なしでしょう。私の知り合いにも、昼食は毎日チャ

ンポンばかり食べていたのがおりました。


他県の男性の方にいっておきますが、長崎の女性の胃袋も普通ですから、安心して結婚

してください。


なお、長崎にはトルコライスというのもありますが、その名前の由来について、面白い話が

あるので、いずれまた、ポチとご紹介を。

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