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2013年8月18日 - 2013年8月24日

2013年8月24日 (土)

新築開店・移転・新発売★連三・イルマーレ・たまご屋さん・宅島海産~諫早市・雲仙市

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雲仙市国見町に、「連三(れんぞう)」というパン屋さんがありまして、私も国見町で勤務を

していたとき、「連三はどこですか?」と聞かれたことが、多々ありましたが、場所が分かり

にくくて説明に困りました。ネットで検索すると、たくさんの記事が見られます。


金・土・日が営業日。他の日は、全国への通信販売の日。石窯焼きの天然酵母パンで

す。


ウチのカミサンがここ数年、この食パンのファンで、いつも買いにやらされますが、車で15

分程度のところの、地場直産店にも出していたので、そちらに買いに行っていました。


今日、諫早の鷲崎交差点から有喜に至る、いつもの道を通っていたら、「天然酵母パン」

の幟があったので、いつもの興味半分で入ると、なんと「連三」。少し、店員さんと話をして

いたら、国見から、こちらに移転してきたとのことでした。

2階は、「連三カフェ」だそうで、今度は、カミサン以外の誰かと・・・・・


せっかくだったので、クロワッサン、ベーコンパン、食パン、米粉パンを買ってきましたが、

米粉パン、もっちりして美味しいですね。

今度は毎日営業するそうで、7時から18時30分までだそうです。

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こちらは、国道251号線沿い、橘湾を望む、イタリアンレストラン「イルマーレ」。

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数年前、台風で建物が大崩壊。意外と流行っていた店なのですが、数年間、手つかずで

そのまま。


新しくなったなと思ったら、オーナーが変わったみたいで、それから、確か2,3回変わった

と思います。


通りがけ、新装になったのが目に入り、家に帰ってもカミサンはいないし、入って見まし

た。店の向こう側は、橘湾の美しい海。二人で来るところです。


近ごろ、太り気味なので、生ハムとホーレン草のペペロンチーノの単品。まだ、他にもある

のですが、我慢、我慢。ローズマリーとミントのアクセントが効いてました。

生ハムといえば、食べたのは、生まれてから、2回目で、はやり美味しいですね。

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こちらはたまご屋さん。お店と言うより、少し上等の小屋みたいなもので、一日3回、車で

で運んで来て、売っていましたが、発売の時間になると、たくさんのお客さんが来て、並ん

で、場合よってはお一人、2袋なんて制限していましたが・・・


諫早市飯盛町の国道251号線の坂道にあり、車を停めて買う人もあり、危険性もあるの

か、あれだけ売れると、収益があったのか、2キロ先の同じく国道沿いに移転しました。

お店の名前、いつものように忘れました。ところで、「卵」と「玉子」は、どう違うんですか?

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いつも、干魚を買っていく、小浜の宅島海産ですが、なにか今日はないかと思っていたら

ご覧の看板。さっそく、「增兵衛」さんとやらを買って来ました。

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島原半島には、「六兵衛」という麺類の食べ物があり、サツマイモを切って、干して、粉にし

て、保存しておいて、小麦粉と混ぜ、麺にし、だしに入れます。


この「増兵衛」さんは、サツマイモの代わりに、地元特産品の「ジャガイモ」を練り込んだも

の。だし汁は、地元のエタリ(かたくちいわし)を使った、本格的特性スープ。


各店の味ですか?いつものように、自己責任で買って、食してください。


ところで、もう出ていました。新米。早場米でしょうが、やけに早いですね。

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あちらも、こちらも新装。私も、古妻から新妻へ、ポチ考え時かな?

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2013年8月23日 (金)

雲仙鉄道 26~汽車と自動車

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             (写真;小浜町資料館より)

慶長19年、三河から来た、本多親能(ちかよし)氏が小浜温泉の管理をし、藩主より小浜

庄屋と、小浜温泉の取締を命じられますが、城主の認可を得、長男の才兵衛親継(ちか

つぐ)氏を庄屋とし、次男、親次(ちかつぐ)氏を湯大夫(温泉の湯元、元締)とし、親次氏

が初代の湯大夫となります。


明治26年、南高来郡部長5代、金井俊行によると、「小浜ノ湯ハ六カ所ニシテ皆本多西男

氏(注;第十代目湯大夫)ノ所有に属ス・・・・」とあり、かなりの資産があったのでしょう。



この、本多西男氏が、自費を投じ小浜海岸を埋め立て、現在の小浜温泉の基礎を作りま

す。


鉄道跡を辿って、いろいろ話をすると、「この鉄道は、湯大夫さんが作ったもんじゃ」、と言

う話をたびたび聞いたことがあり、私も当然、鉄道建設当時から、湯大夫さんが係わって

いたと思っていたのですが・・・・・年代は、はっきりしませんが、雲仙小浜鐵道の社長とし

て、本多西男氏の子息、「本多親宗」氏の名前が見えます。


以前、愛野~小浜町の短い距離に、なぜ二つの鉄道会社があるのか、長崎日日新聞の

記事を紹介しました。→記事はこちらをクリック


ところが、二つの鉄道会社が出来たのには、他にも理由があったみたいで、昭和52年の

小浜町観光課発行の、「国立公園 雲仙観光圏」に次のような記事がありました。


「・・・・鉄道区間は最初から小浜まで走らせたかったが、それより少し先に小浜の本多湯

大夫氏が自動車会社を設立していたので湯大夫さんは参加しなかった。・・・・・しばらくは

自動車と汽車の競争が続いた。鉄道会会社は赤字が続いた。・・・・やがて本多氏も参加

することとなり鉄道は小浜まで延びた。・・・・」


「島原・南高の100年~監修・松尾卓次」にも、「当時小浜には『小浜自動車株式会社』と

『雲仙自動車株式会社』が営業していたため、当初は温泉鐵道は千々石までで止まっ

た。」とあります。

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         (島原・南高の100年~監修・松尾卓次より)


「国立公園 雲仙観光圏」には次のように書いてあります。「小浜自動車株式会社」は大正

元年、小浜町有志の共同経営で始まり、大正2年に株式会社に。


最高級大型レオ号、貸し切り車は、パッカード・カデック等の最高級者のみ30台を揃

え・・・・・・

社長は、鉄道の社長と同じく、「本多親宗」氏です。


これでは、湯大夫さん、すんなりと鉄道には参加するはずは無いのですが、なぜ、後年参

加をしたのか?参加の時期はいつ頃なのか?


汽車が、温泉街まで乗り入れず、2キロほど手前の北野で終点になります。資金不足と言

われていますが、自動車会社との関係を考えると、何か関係があるような気がするのです

が・・・・


ちなみに、愛野~小浜まで、自動車代は70銭。汽車代は80銭。汽車で行くと、温泉街ま

で、まだ距離があります。

(参考・引用:「島原・南高の100年」「国立公園 雲仙観光圏」「小浜町史談」)


久しぶりの雨。昔は相合い傘で・・・ポチと思い出しますね。カミサンとはしませんが・・・・

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2013年8月22日 (木)

またも出ました!不整脈!

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真っ白な、スッキリ伸びた、白魚のような指。惚れ惚れしますね。


初盆の疲れが残っていて、一昨日は、暑い中、あちらこちら調べに回っていた

ら、昨日の朝から、なんか変だぞ?と言うことで、病院へ行って、心電図を取る

と、出てました。不整脈。正式には心房細動と診断されています。


病院へ行ったときは、バタバタしていたので、ベッドへ寝ていて、脈拍が130程

度、落ち着いたら100程度まで下がりましたが、即入院。


いつもの、カラオケ、カウンターバー、バニーガール付きの、超VIP個室。なんて

言うのは、田舎の個人病院にはありませんが、病室に入って点滴開始。


ところが、血管には針は入るものの、2回打ち直しても、点滴液が入らず、手の

甲から点滴。「少し痛いですよ」、と言われましたが、以前書いたように、オ○

○ンの先っぽから、内視鏡を入れらた身。あれに比べれば、鯨とメダカの違い。


結局、心臓が、正常に戻るまで、18時間ほどかかりましたが、かくもあろうか

と、本を持ち込んでいたので、カミサンにも邪魔されずに、2冊ほど集中して読

書してきました。

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これ、黄色、緑、赤の線が付いていますが、信号機ではありません。この先に、

極が付いていて、胸に貼り、この機械から電波をナースステーションまで飛ば

し、脈拍を見るものです。


はやり、暑いせいなのか、私が入っている間にも、2,3名熱中症気味で、運び

込まれ、半日点滴を受けていました。若い美人なら、話しかけたのですが、おじ

ちゃんとおばちゃんで、残念でした。暑さがまだ続くようです。皆さんも、健康に

ご注意を。



と言うことで、今夜はポチ早めに、お休みなさい。


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2013年8月20日 (火)

結城城(金山城)★キリシタン大名ジョルジ結城弥平次と結城一族の墓(キリシタン墓碑?) その2~雲仙市国見町

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結城城から少し下った、小高い丘の奥の中に、結城一族の墓と呼ばれる、墓所

あります。

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入り口は少し急なところを登ると、少し広い山道に出ます。少し歩くと墓碑があり

ます。


説明版によれば、「じゅうごさん」、「姫の墓」と呼ばれていると書いてあります。


「じゅうごさん」といえば、漁民地区に見られる信仰で、海の神様と言われていま

す。吾妻町史によれば、「『ジュウゴ』(龍宮)とは「竜王」が訛ったものと思われ

が、はっきりしない。竜神と恵比須の習合信仰と解される。」と書いてありま

す。この場所は、海から随分離れた所なのですが、不思議です。


「姫の墓」については、国見町郷土史研究会、「国見町の忘れられた文化
財 第

二集」に「姫(注:結城弥平次の姫)は水に溺れて死んだと田中次男氏はいって

いる。命日は三月十七日、昔は近隣揃って供養していたが最近は一家でやっ

いる。」と書いてあります。墓所は田中氏の裏山にあります。


さて、この墓は裏が問題で

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赤い四角の所。「日本キリシタン墓碑総覧」には、「類似資料 結城キリシタン墓

碑」として取り上げられ、状況の説明の後、「本墓碑をキリシタン伏碑と断定せ

ずにあくまで類似資料として収録し、今後の検討を待ちたいと思う。」と記載され

ています。

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なお、この祠の正面は、結城城ではなく、海の方を向いていました。祠の中は空

っぽです。


なお、地元の方と話をしていたら、長崎へ去った結城一族が、この地を懐かし

、建てたのではないかと言われた方がいました。真実は謎です。

(この項終了)



今日の暑さは何だ!と言うところです。昔は夕立がありましたが、今年はありま

せん。明日は、ポチ、雨乞いでもしてみますか。


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2013年8月19日 (月)

結城城(金山城)★キリシタン大名ジョルジ結城弥平次と結城一族の墓 その1~雲仙市国見町

Photo

国見町の山というより、丘の上に、平山城があり、本丸、二の丸、石垣、土塁

認められるそうですが、ほとんどは、林、畑などになっています。


城主はキリシタン大名、結城弥平次。それ以前については、看板があるので読

でください。黄色の矢印が「結城城」、赤の矢印が、「結城一族の墓」

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さて、詳細については、前26聖人記念館長結城了吾(ディエゴ・パチェコ)氏が

かれた「九州キリシタン史」に書かれていますが、キリスト教が五畿内に入っ

たとき、ガスパール・ヴィレラ神父とイルマン・ロレンソを裁くために3名の侍が出

向きますが、かえってイルマン・ロレンソの弟子になり、その中に、洗礼名エンリ

ケ、結城山城守忠正がおり、五畿内きってのキリスト擁護者になります


息子の結城左衛門も受洗しますが1565年に不慮の死を遂げます。左衛門の

兄弟、岡山城主結城氏の家老結城弥平次は、20歳の時受洗。洗礼名ジョル

。城主結城氏も感化を受け、キリスト教信者になります。洗礼名ジョアン。


その後、結城ジョアンと弥平次は、キリスト教の発展に寄与しますが、小牧長久

の戦いで、結城ジョアンは戦死。


結城弥平次はその後、高山右近にも仕えたそうですが、1587年、「小西行長

の基に来た」とも言われ、一万石の知行を得、矢部の「愛藤寺城」の城代になり

ますが、愛藤寺城は当時、山城としては日本一の規模を有し、加藤清正が、「こ

れぞ天下無双の要害、後日用ふる事もあるべし」と、洩らしたと言われていま

す。


以後13年間矢部にいますが、関ヶ原の合戦で行長は敗戦。また、加藤清正の

キリスト教弾圧により、追放され、有馬の地に移ります。


有馬の地には、キリスト教大名有馬晴信が居り、知行3,000石を与えられ、有

の北方警護を司る結城城(金山城)の城主にむかえられます。


しかし、有馬晴信は岡大八事件に巻き込まれ失脚。息子の、有馬直純は三番

の奥方と別れ、家康の曾孫国姫と結婚。棄教してキリスト教を迫害しますが、

城弥平次には一目置いていたのか、手を出さなかったそうです。


結局、慶長18年追放され、結城城を去り長崎に行ったと記されてあるそうで

す。69歳。


国見町史談会の研究によるのでしょうか。城跡の説明に「その後 結城弥平次

は 末次平蔵の台湾派遣船に 浜田弥兵衛とともに乗船したとあるが その後

は消息不明である。84歳」とありました。


国見町郷土誌には次のように書いてあります。「この
金山の地に教会を建て、

宣教師を招き自らの信仰と神の恵みに感謝し、領民に信仰をすすめた。恐らく

当時この金山は朝な夕な、アンゼラスの祈りの鐘が鳴りわたっていたのであろ

う。」


小さな山城ですが、歴史のあるところです。

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城の入り口ですが、整然たる石垣は当時のものかな?回りに誰もいなかったの

で聞けませんでした。城跡は整地してあり、公園化してありました。

遺蹟があるということでしたが、捜しても分かりませんでした。

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左は馬頭観音。右は分かりませんでした。昔のものか?新しいものか?

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敷地の一番海側に十字架が建っていましたが、「入城四百年記念 ジョル

城弥平次」と書いてあり、平成十四年、国見町郷土誌研究会が立てたもので

した。


まだ、いろいろあるのですが、本一冊分になるので、興味ある方は、後は自学

自習で・・・・

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(参考・引用:「国見町郷土誌」「キリシタン文化研究シリーズ16 九州キリシタン

史研究 ディエゴ・パチェコ著~結城城主ジョルジ結城弥平次」「島原半島の

史~監修・松尾卓次」。現地説明板等より)



昨日の朝は少し涼しく、いつもの「脱パンツ健康法」をしていたら、先っぽがポチ

と寒かった。先っぽ?あそこです。


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2013年8月18日 (日)

真夏の地蔵祭り~雲仙市千々石町

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昨日も使った写真ですが、千々石橋のたもとに、二体の地蔵さんが建っていて、

いつも、何気なし見て通っいたのですが、盆が終わった16日、太陽がギンギ

ラギンに上がっていると、買い物帰り、通りかかったら、いつもと違う風景。

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柱が建ててあって、日よけがしてありました。

聞いてみたら、地蔵祭りをしているとか。当番の6~7名の方は、くたばり気味。


お地蔵さんは、田舎へ行けば、「石を投げれば地蔵にあたる」とか、「犬も歩け

ば地にあたる」とか言う、格言はありませんが、とにかく、お地蔵さんは、あち

らこち見られます。


お地蔵さんは、詳しく書けば長くなるので、釈迦の入滅後、56億7000万年後

(地が残っているのかな?)弥勒菩薩が出現するまで、六道(地獄道、餓鬼

道、畜生道、修羅道、人道、天道)を回って、人々を救う菩薩だとされています。

石なんか投げると、罰が当たります。我々に最も身近な、仏様と言えるでしょう。


しばらく、話をしていると、水神様だとか。千々石は、水に恵まれ、数十年前長

崎市が水不足になったとき、千々石で取水し、タンカーで長崎まで運んだことが

りま


お地蔵さんの足元を見ると、お供え物に上げられた、お酒がたくさん置いてあり

ました。(よほどの大酒飲みの地蔵さんかな?)


これを見るにつけ、お地蔵さんが、地域の中で生き、崇められ、大切にされてい

るのが実感出来ました。


皆さんも、お地蔵さんを見かけたら、じっくり見てください。同じようでも、表情、

形、いろいろあって、興味深いものです。


とにかく、この暑いのに、地蔵祭りとは、大変なものです。当番の方は、ご苦労

様でした。


ということで、終わる予定でしたが、今日18日、商店街を通り抜けて行くと、なん

と、あと二カ所、真夏の地蔵祭りをやっておりました。


こちらのお地蔵さんは、普段は外に祀ってあるので
すが、今日は自治会館の中

に祀ってありました。


こちらは中島(なかしま)自治会。

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こちらは上町(かんまち)自治会。ちょうど昼時でした。

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いつもは外で、雨風にさらされているお地蔵さんですが、今日は、一年一回の主

役の日でした。ちゃんと、お賽銭をあげて、お参りしてきました。



暑さが続きますが、歌でも歌って、ポチ暑さを忘れましょう。「もういくつ寝るとお

正月・・・・・」

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