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2013年8月11日 - 2013年8月17日

2013年8月17日 (土)

千々石の初盆~雲仙市千々石町

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昨年末、クリスマスに母が、ちょうど一週間後の大晦日に父が亡くなり、まあ、息

子が言うのも何ですが、仲が良かった夫婦だったので、かえって良かったのか

な、と思っています。八十九歳と九十歳でした・・・・


ということで、今年が初盆。初盆も場所によって、やり方が少しづつ違う所があ

ようで、盆前から、親戚、知人等から、角提灯、丸提灯が届き、室内に飾りま

す。ウチは少ない方で、多いところでは、部屋中提灯だらけになります。


夕方、丸提灯を持って、墓に飾り、お参りに来られる方を待ちます。8時頃、提灯

片付け、一緒に墓にいた親戚等、家に帰って飲食しますが、この準備は初盆

の家の女性軍の仕事。数が多いところは大変です。


しかし、家によっては、滅多に会えない、遠方の縁者の方が来られる事があり、

初盆が取り持つ、仏様のご縁でしょう。


これが、13,14,15日と三日間続きます。私も、三日間墓にいましたが、もう、

とへと。親戚一同も、時間がある方は、三日間一緒でしたが。町によっては、

14,15日の二日間の所、15日の一日間で終わらせるところもあるそうです。は

やり、三日間は長い!


さて、長崎のお盆といえば、花火。爆竹もならし、話し声が聞こえないほどです。

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ウチの長男の嫁が沖縄出身で、墓地で花火をするのを見て、ビックリしていまし

が、こちらは、昔から当然だと思っていたので、こちらがビックリしました。小さ

いときは、これが楽しみでしたが・・・・・

長崎は、華やかな精霊流しが有名ですが、昔は、千々石は精霊船の風習は無

ったそうですが、長崎の影響を受けたのか、近ごろ、少し増えてきています。

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長崎は、まだ大きいのが、延々続くのですが、千々石では、これが、まあまあ大

きい方。前の方に、お婆ちゃんの写真が飾られいました。ウチの提灯も、集積場

に持っていって、処分してもらいました。もったいない気もするのですが・・・



長崎市内では、298隻の精霊船と、8万人の人手があったそうです。千々石は

全人口集まっても、5000人くらいですから比べものになりません。


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2013年8月14日 (水)

諫早家第八代茂行(しげゆき)公の墓所~諫早市天祐寺

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この話、数十年前、聞いていたのですが、最近思い出したので・・・・


諫早家の墓所、天祐寺に行って見られると、分かると思いますが、墓碑を始め、

立派な石造物があります。諫早の石工さんの腕前が感じられる所です。


こちらは、初代領主家晴公の墓所で、全部、初代から十八代家興(いえおき)公

で、全部同じ形式で、中には、奥方、側室、子女まで同じ領主の墓地に祀られ

ているのを見ると、諫早家の家風が感じられます。

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墓所に入って左に向かい一番奥が、初代、続いて二代、三代と並んでいます

が、墓所に入って右に向かい、一番奥まったところに、一番上の八代目茂行公

の墓所があります。


見れば分かると思いますが、右側が、茂行公の墓碑で、他の領主の墓と違っ

て、一般の四角の形の墓です。


さて、佐賀鍋島藩には、世継ぎの問題があり、これに荷担したということで、茂

行公が巻き込まれ、隠居の上、蟄居させられ、領地四千石を没収。


事件の首謀者、鍋島藩支藩の蓮池藩はおとがめ無し。これに反撥した領民が、

諫早一揆を起こす原因になります(ここらあたりは、いろいろあり、現在勉強

中)。


十一後年、蟄居は解けますが、墓は自分の意思だったのかどうか分かりません

が、普通の墓石です。なお、左の立派な墓は、茂行の正室の墓碑、鍋島藩主の

姫君であったために、五輪塔を建ててあるそうです。諫早領民は、本藩佐賀の

鍋島藩の圧政を受けたと言う文章が、あちらこちらに見られるところです。

(参考・引用:「諫早史談~田中為市著」「諫早郷土館解説シート」「諫早を歩く~

山口八郎著」)       



盆に入って、千々石でもあちらこちら、ポチと爆竹の音が聞こえます。盆には長

崎と爆竹はつきものです。

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2013年8月12日 (月)

信長伝★宮下英樹

Img

どうも、宮下英樹なる字を見ると、本を取る癖が出て、初出が、YMKCDX「センコ

ク外伝 桶狭間戦記」③~⑤に加筆、編集したものだそうです。


今川家と織田信長の桶狭間の戦いを描いたものですが。「その通説には疑問

が残る。」


筆者は述べます。「戦争の本質ーそれは『戦争により飢餓が起こる」のではなく

『飢餓の回避から戦争がおこるこ』とい逆説である 寧ろ時の権力者が これま

での方法論で 飢餓に苦しむ民衆を統治できなくなった その結果として『応仁

の乱』がおこったのではないだろうか」


「では、日本史上かってない動乱を引き起こしたほどの 大飢饉の原因とは何か

ー」ここで、作者は気象学で言われる、「リトル・アイス・エイジ」と呼ばれる、「小

氷河期」に原因を求め、論説しています。

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桶狭間の戦いは、ご存じのように、永禄3年、大軍を率いた、今川家を、少数の

軍勢であった織田信長が破った、有名な戦いで、高校の日本史でも習ったと思

いますが、ウィキペディアを読むと、今川軍の総兵力、合戦場の場所、織田軍の

奇襲の問題等々、現在でも議論があっているみたいです。


さて、織田信長は、戦いに出るとき、2つの道のうち、「今川軍思うつぼでも!」と

いう、上道を選びますが、「しかしー実際現地に辿り着いたとき(現在の善照寺

砦跡:公園になっている)それだけでなかったことが推測できる、おそらく領外の

今川方は 知り得ないであろう信長の真意が はたしてその目で 何を見たか

ー 恐らくこの善照寺砦こそが 桶狭間の 最初にして最大の分岐点ー・・・・・」

後はネタバレになるので、480円出して買って読んでください。


今川軍の本隊と、支隊の見分け方も、槍の長さで判断していますが、これも、言

われてみれば、目から鱗ものでした。日本史の授業も、こんな風だったら、面白

かったのに。


次回は、姉川の合戦です。常識がまたも覆るか?


明日からお盆。ウチは初盆の上、孫ももやって来て、ポチ戦場になりそうで、ブ

グはポチ手抜きします。


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