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2013年7月21日 - 2013年7月27日

2013年7月27日 (土)

お目々大切に~PC用眼鏡・ピンホール眼鏡、買いました

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鏡を見るたびに、思うのです。二重まぶたで、なんと、つぶらな瞳だろう。「君の瞳は百万

ボルト」を歌いながら・・・・二重まぶたは、よく見ると、年齢による皺のようでしたが・・・


さて、今では完治していますが、高校の時は緑内障。昨年も、物が二重に見えるという現

象が起こり、かかりつけの眼科に行っても、原因が分からず、脳の方かもしれない、という

ことで、脳外科で、脳をMRIだったかで調べても異常なし、紹介され、国立病院に行って

も、原因が分からず。一週間ほどで回復しましたが。


ということで、目には、非常に過敏なところがあり、少し変だなと思うと、すぐ眼科に行きま

す。先日も行ったところ、「パソコンばかり、見っととやろ!」と怒られましたが。


調べると、パソコンからはブルーライトが発せられ、可視光線の中でもエネルギーが強く、

目の奥まで届く青色光だとか。


それで、ブルーライトをカットするという、上写真のパソコン用の眼鏡を購入。私、眼鏡をか

けているので、クリップオンタイプです。Lサイズのため、

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少し大きかったのですが、大は小を兼ねる。これなら、完全防備というところで、重さもそう

感じず、使った感想は、いつもより、目の疲れは少ないかな、という感じでした。すでに、仕

事などで、使用されている方もおられると思いますが・・・・・


さて、ついでに、値段がお安かったので、一緒に買ったのが、下のピンホールメガネ。

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サングラスみたいに見えますが、

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小さな穴が、たくさんあいています。これ、少し以前にも、健康関係の雑誌の附録に付いて

いて、使った事があるのですが、紙製だったために、すぐ壊れてしまい、最近、雑誌などで

取り上げられているので、少し頑丈なのを通販で購入。


効果として、目の毛様体筋を休ませること。ピンホールの効果が、虹彩筋を鍛える効果が

あること、だそうです。


メガネを外すとテレビの人物、文字が全然見えないのですが、これをかけると、はっきりで

はありませんが、ピンホールの効果か、人の顔、文字が分かるんですね。


まだ、二,三日ですが、10分ほどかけた後は、何となく、見え方がスッキリした感じでし

た。


これをかけて、カミサンを見たら、なんとそこに、天女様が、と言いたいのですが、いつも

の通り、二本のツノをはやした、カミサンが・・・立っておられました。・・・・オッカナイ。


皆さんも、目は大事に。歳取って、少し調子が悪くて眼科に行くと、「加齢現象でしょう。」と

しか言われませんから。


なお、上の2点、個人によって効果は違うと思いますので、各自、自己責任でご使用を。


「歯」、「目」、「○○」、といいますが、私も「目」まで来たようで、ポチと悲しい日々です。

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2013年7月26日 (金)

カステラの切り落とし

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先日は、センペイの子(耳)の事を書きましたが、上の写真は、カステラの切り落としです。

カステラを焼いた後、形を整えるため、端の方を切り落としますが、これが、カステラの切

り落としです。


15㎝ほどに切って、パックに入っていますが、昔は長いまま、ポリ袋に詰め込んであった

のを覚えています。農家の方が、間食に安くて、量が多いので、よく買ってきたそうです。


この、「カステラの切り落とし」が、どういわけか美味しくて、通(つう)の方は、本体より、こ

ちらの方をおいしいと好んでいます。


残念ながら、大手の老舗では、ほとんど置いてなく、地方のカステラ屋さん、お菓子屋さん

でカステラを焼いているところ、土産物屋さんに所々置いてあります。私が、買ったところ

は、1パック300円。3パックで500円のお買い得です。


さて、このカステラ、

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この本に、「カステラ文化と福砂屋」、「長崎カステラを全国にー文明堂の奮戦」、「長崎以

外には店は出さないー創意工夫の『松翁軒』」、「渡辺庫翁の『カステラ屋さん 覚え書き』」

と、カステラの歴史が詳しく書いてあります。


最初、南蛮菓子が入ってきたのが平戸。ポルトガルの「バンデロ」という菓子で、松浦の殿

様が、近隣諸侯、一族にお裾分けをしようとしたところ、膳部頭(料理人の頭)が、こんな

バサバサして固い物は出せないとして、砂糖湯で煮て出したところ、喜ばれ、これが、平戸

名物のカスタードのルーツだと言うことだそうです。この「バンデロ」が、いわば、「カステラ」

の大元(おおもと)だと書かれてあります。


「福砂屋」の始祖福砂屋寿助が、ポルトガル人の直伝を受け、菓子店を営んだのが、寛永

元年。6代目の福砂屋市郎次事大輔が安永4年に現在の所に店舗を移したそうです。

なお、「福砂屋」の商標は「蝙蝠」ですが、これは、明治初期中国で桃と同様に慶事のシン

ボルとして、「蝙蝠」を使っていたとの事だそうです。


「文明堂」は、カステラを全国的に有名にしますが、かなり宣伝に力を入れたようで、創始

者本人の「中川安五郎苦闘録」には、「・・・新聞広告はその日限りだが、旅客の往来する

鉄道沿線に立看板を出したならば、これは大衆的であり、且つ永久的であるので効果も

大きいに違いないと考え全国要所の鉄道沿線に、『長崎文明堂カステーラ』と黒地に白字

で浮かした大看板を大々的に意匠的に出したが、果たして衆目を驚かした・・・」と書いて

あります。


「松翁軒」は、八代目貞次郎のとき、明治33年、パリの大博覧会にカステラを出品し、日

本に与えられた二つの銀杯のうち、一つの名誉大金杯を受賞したそうです。


この、松翁軒は、昭和36,7年に天草から来た中年婦人の婦人から、地卵を仕入れたそ

うですが、その後婦人が来なくなって、困ったそうです。養鶏場からの赤卵では、カステラ

が、パサパサで粘りけが無かったそうです。なお、松翁軒の一門として、博多の千鳥饅頭

の方もおられたそうです。


今年、出版された本ですが、

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この本には、伊藤小七郎、後の村山等安が、カステラを創作したと書いてあります。


豊臣秀吉が佐賀の名護屋城(大陸への進攻を目指したときの前線基地)に来たとき、長

崎金屋町乙名として城を訪れた際、 多くの献上品と同時に、カステラの材料、道具を持ち

込み、秀吉に喜ばれたそうで、長崎の外町(長崎には古くからの内町、人口が増え新しく

出来た外町があります)の代官になります。


小七郎は、キリシタン(この頃、長崎はほとんどキリシタンでした)洗礼名、アントウニオ、

略してアントンと言っていましたが、秀吉から、アントンを逆さまにして、トウアンと名乗れと

言われたそうです。苗字は、母方の村山を名乗り、これ以後、村山等安と名乗ります。


この件については、「長崎町人誌」にも、「・・・長崎略縁起に村山等安はもと伊藤小七郎と

云う者で、南蛮菓子料理に長けていたと記していある。」と書いてあります。


なお、この本、当時の長崎の様子、イエズス会の模様、イエズス会と托鉢修道会との確

執、有馬晴信のデウス号攻撃のいきさつ、千々石ミゲルまで登場します。お薦めの本で

す。小説と言っても、他の史料と比べていくと、かなり調査して書いた本だと言うことが分か

ります。 

(参考・文引用:「長崎町人誌・第3巻」「NAGASAKI 夢の王国~典厩五郎著」)


カステラの切り落としから、ポチ脱線しましたが、いつものことですから、スミマセン。

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2013年7月25日 (木)

とめはねっ!鈴里高校書道部~勉強になりました

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私が愛読している、ビッグコミック・スピリッツです。表紙の子、可愛いですね。もう少し、年

増が私の好みですが。


今日は、表紙では無く、スピリッツ連載中の「とめはねっ!鈴里高校書道部」の事です。こ

の、作者、河合克敏氏は今まで、柔道を描いた「帯をぎゅうとね」、競艇の事を描いた「モ

ンキーターン」、今回は高校生の書道部を描いた「とめはねっ!鈴里高校書道部」です。

もちろん、ファンなので全部読みましたが。



作者は、漫画の材料としては、地味な方がお好きなようで、もっとも、この「とめはねっ!」

は、NHKでドラマ化されましたが・・・・


筋を書くと、とりとめが無くなるので・・・今回の舞台は、「鶴岡八幡宮」です。この神社に

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赤の四角で囲んだ様なところがあるそうで(行ったことが無いので知りませんが)、ここに、

酒造会社が奉納した樽があるとか。私、酒を止めましたから、関係ありませんが、問題

は、この酒樽に書かれた文字で、なんと、これ、有名な書家が書いているものが多いとか

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この月桂冠、「明治の三筆」の一人、日下部鳴鶴(めいかく)が書いたものだそうですが、

実に堂々たる(すみません訂正します)字ですね。鳴鶴は明治新政府初期の太政官書

記になりますが、信任していた大久保利通が暗殺されると、官を辞し書家として生きる道

を選んだそうです。



良く知っている?漫画に書かれていることを、要約しているだけです。書道は、自慢では

ありませんが、15級程度の腕前、小学生以下、幼稚園の子と一緒のレベルでしょう。自

分で書いた字が、あとで読めなくて・・・・

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「日本盛」は、中村不折(ふせつ)の作といわれているそうで、不折は元来洋画家で、夏目

漱石の「吾輩は猫である」の絵も描いているそうです。

「松竹梅」は、昭和の「かな」の書家、日比野五鳳の作。

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左から、「加茂鶴」は、金子鷗亭の作。近代詩文書を提唱したそうで、黒澤明監督の「蜘蛛

巣城」の題字も書いたそうです。


真ん中の「土佐鶴」は、昭和の三筆のひとり、手島右卿の作。


右の「壺中春」は、前衛書道のパイオニアの一人、上田桑鳩(正確には、この字では無い

のでが、私のPCでは出てこないので、各自自習してください。)の作です。


といったことで、この漫画、書道にはあまり興味が無い私でしたが、読んでいると、何か興

味が湧いてきました。このこと、もっと早く知っていれば、お酒がもっと旨く飲めたんです

が、ドクターストップがかかっている身としては、残念でした。


ところで、このブログを書くために、実物をということで、一斗樽3樽、酒4升ばかり買った

んですが、あと、どうしましょう。


(月桂冠は月桂冠株式会社、日本盛は日本盛株式会社、松竹梅は宝酒造株式会社、加

茂鶴は加茂鶴酒造株式会社、土佐鶴は土佐鶴酒造株式会社、壺中春は末廣酒造株式

会社の登録商標です。念のため。)


余談ですが、よく、字は「持って生まれたものだ。」といいますが、顔は「持って生まれたも

の」ではなく、いくらでも良くなります。古人曰く、「字は持って生まれたもの、顔は整形で良

くなる。」



漫画の「とめはねっ!」の題は、もちろん書道の「とめ」と「はね」のこと。でしょう多分。

(参考・文引用:「とめはねっ!鈴里高校書道部」より。写真は各酒造会社PR写真より)


明日から、幼稚園の子と一緒に、書道をポチポチ習ってみますか。

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2013年7月24日 (水)

スクイ(石干見)について その2~雲仙市吾妻町

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いつもお世話になっている、Google earthです。黄色の矢印は、話題の諫早干拓の堤

防。赤い矢印が、吾妻町のスクイです。緑の矢印も、どうも、らしいのですが、今回は海の

下だったせいか、確認できませんでした。


片方のスクイは眼鏡橋みたいにくっついた感じ。もうひとつ、右側のスクイですが、真ん中

あたりは、随分崩れていました。


下の写真、向かいの山が多良岳。写真左上にかすかに建物が見えますが、諫早湾干拓

の排水門、白い線が見えますが、干拓の堤防です。

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右側のスクイと、少し離れた所にあるスクイですが、真ん中あたりはほとんど崩れていまし

た。両方とも現在は使われていないのでしょう。

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このスクイについては吾妻町史に詳しく書いてありますが、昔は、各々の所有だったそう

ですが、昭和25年の漁業法の改定で、協同漁業権に変わり、組合が免許を出すようにな

ったそうです。


各家で、各々の図面を持っていたそうですが

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補修するのも、干潮時の3時間ほどしかできないので、多数の人を雇とっていたそうです。

造るのも、ただ単に、石を積むのでは無く。

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オロモトという排水溝も、小さすぎても、大きすぎてもできず、難しかったそうです。


なお、こんな原始的な方法で、どれだけ魚が捕れたかというと、昔は、現代の漁法みたい

に、大量捕獲もなく、海に多くの魚がいたみたいで、藤里氏の話として、「昭和14,5年に

はよく魚が入って、1回で何千斤もとれたという。このときはボラだけでも百斤ほどとれた。

こういうときは、隣近所の人を20人くらい雇いゴにしてスクイにいった。」と書いてあります

から、かなりの漁獲量があったことが分かります。


スクイに入った魚として、シクチ、イエッ、ボラ、ウナギ、シラス、シマウオ、オコゼ、スズキ、

ハダラ、グチ、イェガンチョー、カレイ、アミ、ムツゴロウ、コチ、エビ、赤貝、ミズイカ、ツガ

ネ。ワタリガネがあったそうです。方言が入っていますから、私も、分からない、魚の名前

もあるのですが・・・


このスクイも、昭和32年の諫早水害の折、崩壊し、修理の人夫賃が高い関係もあり、そ

のまま放置されたものがあり、「吾妻町誌」が出版されたのは昭和58年ですが、スクイを

保有者は昔は12人いたそうですが、石垣が崩れたり、ブルドーザーで押して海苔養殖場

にしてしまい、1人だけになったそうです。現在は、この方も、スクイはやっていないみたい

でした。


以前、この、スクイを再建しようとしたそうですが、残念ながら、いろんな関係で、ダメだっ

たそうです。見たところ、再建するのに、まだ間に合いそうな感じなのですが・・・・体験型の

観光資源としても、役立つと思うのですが・・・・・雲仙市は、何か、思い切ったことができま

せんね。(参考・引用:吾妻町史より)・・・・・・・・・・・・・・・スクイの項終了 



7月24日は劇画の日。1964年、青林堂が「ガロ」を創刊した日です。ポチ懐かしいナ。

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2013年7月23日 (火)

スクイ(石干見)について その1~島原市のスクイ

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Google earthから見た、島原城下です。緑で囲んだ所が、ざっと、昔の島原城跡。下の

枡から、本丸、二の丸、三の丸になりますから、島原城がいかに広大なのもだったかが分

かると思います。


今日は、島原城のことではなく、海の中、赤い矢印の所に、何となく、スジが見えますか?

以前、「すくい漁場~長崎県諫早市高来町水の浦」でスクイを紹介しましたが、島原市、雲

仙市にも、スクイがあり、そのスクイです。潮の加減で、海の下ですが・・・・

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スクイは古い物で、1707年に造られたそうですから、江戸時代中期、宝永年間になりま

す。明治25年の最盛期には200以上のスクイがあったそうです。


スクイは満潮になったとき、魚が入り、干潮になったとき、残された魚を捕るという、原始的

な漁法です。ただし、干潮、満潮の激しい所でしか、できない漁法で、同じ、島原半島で

も、有明海に面した所でしか無く、橘湾方面の海では見られません。


島原でも、ほとんど無くなり、形が確認できたのが、この、新田町のスクイだけだったそう

ですが、一部壊れていたため、平成18年から補修を始め、平成20年に、「みんなでスク

イを造ろう会」が結成され、年間2回程度、補修をおこなっているそうです。


現在、子ども達をを集め、スクイの体験をさせています。

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この石を積み上げて行くのですから、大変な労力です。


さて、このスクイGoogle earthで有明海沿岸をみていくと、スクイではないか?と思われる

ところが、所々ありますから、皆さんもヒマがあったら、見つけてください。意外と、面白い

ですよ。

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多分、赤い矢印の所もそうでしょう。潮の関係で、よく分かるところ、何となく分かる所あり

ますが、本当にスクイかどうかは、現場に行ってみないと、分からないのですが。


暑さが、薄れたら、見に行ってみようと思うのですが、スクイは見ていると、飽きませんね。

皆さんも是非見学を、ただし、潮の満潮干潮の時間を考えて、満潮の時は何にも見えませ

ん。


暑さが続きます。体重が増えるので、アイスクリームを我慢しています。ポチ食べたいナ。

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2013年7月22日 (月)

センゴク一統記第4巻★宮下英樹著~附録:「安珍清姫の鐘」と仙石秀久

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センゴク一統記第3巻 宮下英樹著」の事を書いたのが、今年の4月10日。やっと4巻

が出ました。3巻は、本能寺の変前夜の事でしたが、やっと本能寺の変について、描いて

あります。


前回のブログでは、本能寺の変の原因となる諸説を、紹介してみましたが、いよいよ、著

者宮下英樹の説が述べられています。内容を書くと、読まれるとき、面白くないので、後

は本を買って読んでください。


「上士に伝えよ、草摺(腰の所に付ける武具)を畳み、音を消し、馬には布を噛ませ嘶(い

ななく)せぬように、下士に伝えよ、互いに合印と合い言葉を確認、篝火(かがりび)をつけ

ず、夜目になれておくように、冑は無用、もはや守るものなし。」明智光秀の言葉ですが、

臨場感あっていいですね。「恐るる勿れ、何(いず)れが神か天魔かは後世がきめるこ

と。」「敵の御座(おわ)すは、本能寺に候。」


本能寺についても書いてあり、現在の位置は、豊臣秀吉政権期に移設したもので、江戸

期には、本来の所在は不明だったそうですが、京都埋蔵文化財研究所の近年の調査研

究によると、「本能寺文書(もんじょ)」「熊谷家文書」の文献と「洛中洛外図」の絵図と照ら

し合わせ、発掘調査したところ、濠がが発見されたということです。ちゃんと地図も書いて

あります。

敷地、建物の配置などについても書いてありますから、興味のある方は、読んで見てくださ

い。


さて、明智光秀はこの後、下記のような考えを持っていたのではないかと、著者は書

いています。

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明智光秀は、柴田、徳川、羽柴、丹波等に囲まれていますが、この包囲網を、その後か

ら、上杉、北条、長宗我部、毛利等と組み、攻めるように考えていたとのことです。秀吉の

中国大返しのため、夢破れますが・・・・・・これは、第5巻で出てくるでしょう。


さて、本編にも、主人公、仙石秀久は2コマしか出てきませんが、調べて見ると、仙石秀

久、あの、「安珍と清姫」に出てくる「鐘」に関係があるようで・・・・・


この話は、「顕本法菓宗 総本山妙満寺」のホームページ、その他にも書かれているとこ

ろですが、以下に簡単にまとめると、


「安珍清姫」のお話しは、ご存じだと思いますが・・・・・知らない?

修験道、安珍に懸想した清姫が、逃げる安珍を追いかけ、日高川にかかると蛇になり、

(小さな蛇ではありません。大蛇です。)、道成寺の鐘に隠れた安珍を見つけ、鐘に巻きつ

き、炎を吐き、安珍を焼き殺し、自らも日高川に身を投じたというものです。


この伝説以来、道成寺には鐘が無かったそうですが、正平14年(1359)に源万寿丸の

寄進で、二度目の鐘が完成したそうですが、この時、白拍子が現れ、舞いつつ鐘に近づ

き、蛇に姿を変え、鐘を引きずり下ろしたそうです。白拍子は清姫の怨念です。


その後、鐘も怨念のためか音も悪く、近隣に災厄などが続き、山林の中にうち捨てられた

そうです。


その200年のち、秀吉の根来攻めのとき、家来の仙石秀久が拾って、陣鐘(合戦の時に

合図として使う)として使い、京都の妙満寺に鐘を治めたそうです。


なお、妙満寺のホームページによれば、「道成寺」を演じる芸能人、市川雷蔵、若尾文子

等も参詣されているそうです。


本能寺の変がなかったら、私がカミサンと結婚してなかったら、歴史はポチ所ではなく、大

きく変わっていただろう・・・・

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