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2013年4月28日 - 2013年5月4日

2013年5月 4日 (土)

雲仙モーモーフェスティバル みずほ2013~長崎県雲仙市瑞穂町

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お~すごい巨乳。おっぱいが4つあるのが気になるのですが・・・・


今日は、瑞穂町で「雲仙モーモーフェスティバル みずほ2013」があるというので、出か

けて見ました。


いろんなコーナーがありましたが、これは、乳しぼり体験コーナー。私も巨乳とあっては、

黙っておれず、乳もみではなく、乳しぼりをしてきました。気持ち良かった。

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私に乳を揉まれてじゃなく、しぼられてうっとりした表情の牛さん。子どもたちも、以外と平

気で、乳しぼりをしていました。


田舎のイベントだからと思って、ゆっくり出かけたら、人出の多いこと。ここは銀座か六本

木かという賑わい。遠くの駐車場に車をとめて、シャトルバスで会場へ。

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島原農業高校の生徒さんでしょう、小動物園をやっていました。

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子牛、モルモット、ロバ、ミニチュアホース、羊、やぎ、写真に撮れませんでしたが、バンダ

にゴジラに象にキリン(これはもちろん冗談 happy01 )。


動物とのふれあい、良いですね。子どもたちは喜んで、餌をやったり触ったり。動物も

可愛いもんですね。ウチのカミサンと違って。


こちらも負けずと、長崎国体マスコット、がんばくんとらんばちゃんにミルクちゃん。

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なお、、会場はパワースポットで有名な、岩戸神社から下にくだった「みずほの森 渓流公

園」です。渓流沿いに公園が作ってあり、これからのシーズン、子どもたちを連れて、水遊

びに絶好の場所でしょう。モミジも意外と多く、秋の季節は紅葉がきれいな感じで、その時

には、また報告を。

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各種団体の出店も多く、大盛況。右のお酒は、こちらの岩戸米を使って、湧き水を使った

ものだそうです。牛乳をもらい、牛肉の試食。おいしかったので、5,6回並んで食べて来

ました。

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卵は島原農業高校の生徒が売っていたもの。生徒さんが可愛かったので、つい買ってし

まいました。横にあるのは、「どんだへ」と書いてありましたが、芋餅です。柔らかい餅と、

サマイモのふかしたものを、混ぜ合わせて、きな粉を付けたものです。


会場で知人に会って話をしていたら、西郷小学校の近くに、「雪屋」というお菓子屋さんが

あって、丸ぼうろがおいしいよ、とのこと、寄って買って来ました。右の写真です。


丸ぼうろは、佐賀が有名ですが、小麦粉、卵、砂糖を主に作ります。単純なだけに、その

店の特徴が出てきます。ケーキと違い素朴な味で、「雪屋」さんのもおいしかった。

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確かこのイベントは、雲仙市が合併する前から始まったのではないか、という記憶があり

ますが、ここまで大きくするには、ボランティアの皆さんの努力があったからだと思います。

来年も頑張ってください。


なお、このほか、餅まき、アイスまき、ニジマスのつかみ取り、瑞宝太鼓と多彩なイベント

が実施されていました。皆さんも来年は是非、足を向けてください。


あの巨乳の感触が、まだこの手に、ポチと残っております。今夜は、手を洗わずに寝よう

かな。

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2013年5月 3日 (金)

土井口番所・原口番所■島原藩・佐賀藩の境~長崎県雲仙市愛野町

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    (島原藩主 長崎監視の道~島原殿さん道の会著より)

愛野町は、旧愛津村と野井村が合併した町です。ちょうど島原半島の入り口になる町であ

り、島原藩と佐賀藩諫早領の境にあたるところです。


愛津は古い地図など見ると、合津、会津などと書いてあり、聞いたところでは、昔は、橘湾

と有明海とが、今より内地に入り込んでおり、両方の海が近くで、津、すなわち、海岸、船

着き場が出会うようなところであり、合津、会津といったようです。


もう一説、江戸時代、対岸の唐津に相対する港として合津、会津、愛津になったと言いま

す。この愛津が、昔の交通の要所であり、諫早から来ると愛野で島原へ行く街道と、千々

石、小浜方面への街道に分かれます。


藩の境でもあり、両藩の領土の問題もあり、ここを通るのはかなり厳しかったみたいで。番

所が三カ所あり、上の地図の、原口番所、土井口番所、唐比にも番所があったようです

が、これは見つけきれませんでした、

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島原半島ですが、ネックのところが愛野町。緑の○が有明海。干拓で広がっていますが、

昔はずっと奥の方まで海でした。赤の○が橘湾。これも内陸部まで海だったと言います。

こうしてみると、ここが交通の要所だと言うことが分かると思います。

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原口番所跡は、ジャガイモ畑の中、いつか書いた首塚からまっすぐ行って、少し左側にあ

ますが、小さな石柱が建っているばかりです。知らなかったら、見逃すでしょう。

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土井口番所は、愛野から千々石に行く坂から少し入ります。左の写真、矢印の方が、愛

野から、千々石に行く道に出ます。赤のところが番所跡です。

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こちらも、小さな石柱が立っていますが、○○市会議員の後援会の看板が立っていて、見

えません。まったく、常識を疑うという感じで、こんな方が市議だと思うと、我が市の文化に

対する姿勢がよく分かります。なお、近所のおばさんに、場所を訪ねたところ、知りません

でした。悲しかった weep 。


さて、一番上の古図。見ていただきたいのが、番所間にかいてあるもの。竹矢来です。こ

の竹矢来、現代の地図に書き直してありましたが、

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            (同書より)


緑の下線が番所。地図に書かれた青い線が竹矢来です。海の所まで伸びています。こ

うしてみると、この愛野町、特に、愛津が当時の交通の要所であり、取り締まりが厳しかっ

たことが分かるかと思います。勝海舟、坂本龍馬が辿った道で、この番所を通ったことは

間違いないところです。



(参考:「長崎藩主 長崎監視の道~島原殿さん道の会」「愛野町郷土史」「新島原街道を

行く~松尾卓治著」)


いよいよ連休後半。歳取ったので、ポチと墓参りでもして、番茶を縁側で飲んでました。

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2013年5月 2日 (木)

パソコン~ちょっとしたワザを

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今日の写真は、モアレが入って、ちょっと見にくいと思いますが・・・


昨日、身に覚えのない、英文のメールが届いておりまして、英語といえば、中、高、大学、

10年間勉強したのでありますが、未だに言えるのは、「I am a pen」、「This is a boy」、くら

いのもの。


ひょっとした、先日、変なサイトを見ていたので、高額請求書ではないかと思い、焦った、焦

った。


とにかに、何が書いてあるか分からない事にはどうしようもなく、ひょっと思い出したのが、

Googleの翻訳機能。ここらへんは、私、まだ呆けてない証拠。Googleをだして

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翻訳の所をクリックすると、画面が変わりますが

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赤の四角の所に、先ほどの文章をコーピーして、貼り付けると、

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右側に、立派な和訳が。数年前、翻訳のソフトを入れて試したところが、英文より訳が分か

らない日本語が出てきましたが、これなら立派なもの。


中身は、カミサンが数年前アメリカに行ったとき、パソコンでパスポートの申し込みをし、そ

の期限が切れるので、渡航の時は再更新をというもので、メールのアドレスを書き込んで

いたので、その連絡でした。変なところからではなく、本当にほっとしました。


あとで、気づいたことですが、最初のメールの画面で、右クリックすると

赤で囲んだところに、ボックスが出てきて、この中に、「翻訳」という項目がありますから、あ

とは、少しめんどくさいのですが、とにかく、適当にやってみたら

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ちゃんとした、日本語になります。名文とはいきませんが・・・・

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なお、音声機能があるパソコンでしたら、音声入力しても翻訳文がでます。ただし、正しい

発音でないと無理みたいですが。


「I am a good boy(私は良い少年です)」と音声入力したら、「ウソはつかないでください」と

翻訳されました。

でも、このコンピューターどこまで進化していくんでしょう。先日も、プロ棋士がパソコンに負

けてしまうし。そのうち、人間なんていらなくなるんじゃないのかな?


なお、翻訳できる言語として、アイスランド語、アラビア語、イタリア語、スワヒリ語、ベラル

ーシ語等々、世界中の言語が翻訳できそうです。長崎弁はありませんでしたが。


明日からゴールデンウィークの後半戦。行くところもなく、ポチと寂しい連休です。

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2013年5月 1日 (水)

寺山修司 没後30年

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今日、地元の本屋さんに、週刊朝日を取りに行ったら、「没後30年 寺山修司をかたりつ

くす」という、記事があり、寺山修司といえば、私も一時ファンというより、憧れを持っていた

ものですが、「没後30年」という字を見たとき、もう、そんなにたったのかと、呆然としまし

た。つい、先頃みたいな感じだったのですが。

長崎の片田舎に住んでいたので、当時はあまり良く知りませんでしたが、上京し


■マッチ擦るつかの間の海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

■ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

■北一輝その読みさしのページ閉じ十七歳の山河をも閉ず

■人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

■リンゴの木ゆさぶりやまず逢いたきとき

■便所より青空見えて啄木忌

■車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて

■秋風や人差し指は誰の墓

■恋地獄草矢で胸を狙い打ち

■方言かなし菫に語り及ぶとき


ほとんど覚えている俳句、短歌ばかりです。これを東京に来て読んだとき、寺山修司の才

能に羨望したものでした。


寺山修司は、中学生、高校生時代に俳句、大学時代に短歌、以後、詩、演劇、ラジオドラ

マ、映画などに活躍し、特に、演劇では、劇団「天井桟敷」を主宰し、当時の言葉で言え

ば、「アングラ演劇」と呼ばれていました。

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   (1991年「太陽」9月号より)


第一作品集が、「われに五月を」ですが、昭和32年出版。

一番上の写真は昭和60年、寺山修司没後三年目に、新装版として出版されたもの。こ

の本の最初の見開きに

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お母さんが、自筆で書かれた、「五月に咲いた花だったのに 散ったのも五月でした 母」

と、厚めのトレッシングペーパーで書かれており、次のページに寺山修司の写真が印刷さ

れ、透けて見えるようにしてあります。お母さんと、寺山修司の関係を暗示しているみたい

な感じです。


■花売車どこへ押せども母貧し

■大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

■母は息もて竃火創るチエホフ忌


お母さんと寺山修司の関係については、各種の本に出ていますので、お読みください。

何かの本で読んだのですが、寺山修司は五月という月が好きだったそうです。生まれたの

は戸籍上十二月十日になっていますが、これについては、曖昧な部分があるようですが、

亡くなったのは五月四日です。この本の出版日も、五月四日です。再版も翌年の五月四日

です。


■目つむりいても吾を統ぶ五月の鷹


「われに五月を」の最初にある詩が、「五月の詩・序詞」であり、最後の方に、「・・・二十才

僕は五月に誕生した・・・」のフレーズがあります。


書けばきりがないので、最後に私の好きな詩を。「ロング・グッドバイ」、長編詩なので、最

初の方だけ。


詩の中のA列車は、デューク・エリントン楽団が演奏(作曲は、楽団のピアニスト、ビリー・ス

トレイホーン)をし、ジャズのスタンダード・ナンバーとなった曲。クリフォード・ブラウンはジ

ャズトランペッーターとして不出世の天才です。


「ロング・グッドバイ」

血が熱い鉄道ならば

走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓をとおるだろう

同じ時代の誰かが

私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の最後のページをめくる男だ

合い言葉は A列車で行こう だ

そうだ A列車で行こう

それがだめなら走って行こう

               ・・・・・・・・・・・・・・


本当に、寺山修司死して、ロング・グットバイになりましたが、私の東京時代の一つの大き

な思い出です。


30年・・・・ポチどころではありませんね。私はその間、何をしていたのか・・・・・

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2013年4月30日 (火)

医療、信じるや否や?

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昔は、お医者さんというと偉いもので、診療には口出しできませでしたが、今や誤診、医療

ミスで裁判に。お医者さんに対する信頼も、昔ほどではない感があります。


著者は、慶応大学医学部放射線科講師。乳房温存療法のパイオニアだそうです。以前、

「患者よ、がんと闘うな」という本も出版しています。読んでみて、「う~む。」といったところ

でしょうか、書いていることは分かるが、自分が患者になったとき、どうなのかな。


6章からなっておりまして、「どんなときに病院に行くべきか」、「患者よ病気と闘うな」、「検

診・治療の真っ赤なウソ」、「100歳まで元気に生きる『食』」、「100歳まで元気に生きる

『暮らし』の心得」、「死が怖くなくなる老い方」。


中身が少し過激で、「医者によく行く人ほど、早死にする」、「『血圧130で病気』なんてあり

えない」、「がんほど誤診の多い病気はない」、「がんの9割は治療するほど命を縮める。放

置が一番」、「断食、野菜ジュース、免疫療法・・・・医者たちの『がん詐欺に注意』」、「体

重、コレステロールを『減らさない』健康法を選ぶ」、「コラーゲンでお肌はぷるぷるしない。

グルコサミンはひざに直接届かない」、等々。


現代、延命措置を望まない人が増えてきています。私も、父母続けて亡くしたときに、お医

者さんに、延命措置をするかどうか問われ、悩んだことがありました。


私たちは、医療に関してプロではありません。この本に対しては、賛否両論あると思います

が、医療というものに対して一石を投じる本でしょう。

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ちょうど同じ頃出た、文藝春秋五月号、「医療と健康の常識を疑え」。こちらの本はそんな

に過激ではありませんが「腸内細菌が寿命を縮める」、「がんは本当は減り始めている」、

「高齢者はやせすぎで早死にしている」、「ひざ痛はグルサコミンより専門医」、等々。


面白かったのが、「高血圧 医者の診断は気にするな」

昔は、「年齢+90」が高血圧の基準。60歳では上が150までは問題にならなかったそう

ですが、現在の診断基準は70代でも、80代でも同じ140だそうです。その基準値も、

2000年の日本高血圧学会のガイドラインでは、80歳代160だったそうで、20も下がり、

高血圧と診断される方は激増でしょう。「医者に殺されない47の心得」のなかにも、同じよ

うな内容が書かれています。


少し軽い話題を、こちらも現代医学の先端、遺伝に関係ありますが

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「大研究 遺伝するもの、しないもの」

もちろん、週刊現代ですから、それなりに、「味覚」、「利き手」、「性欲」~これ、以外と遺伝

するらしいですよ、「早漏」~?、「寿命」、「浮気性」、「暗記力」、「足の速さ」、「ハゲ」、「足

の長さ」、「巨乳」、「アトピー」、「加年齢黄斑」、「虫歯」、「花粉症」、各種の「ガン」、「認知

症」、その他諸々というところで、気になる方はお読みください。


久しぶりに週刊現代買いましたが、巻末のグラビアがいいですね。「新体操 全国2位 神

野千奈 大開脚で奇跡の恥丘を見せた」、「後藤理沙 ベッドシーンを独占公開!」、「水島

裕子 幻のヘアーヌード」。昔は、毛が見えたの、見えないの大騒ぎしましたが、今や、見

せて当然。世の中変わりました。良い世の中に生まれたと感謝しています。


圧巻なのが、「史上初 ○○器の『検定試験』」。○○の所はとても書けません。知りたい

方は買って読んでください。


でも、こんなん見てもポチとも興奮しない歳になりました。(ウソつけhappy01 )  

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2013年4月29日 (月)

コーヒー禁止だよ!

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実に,一年半ぶりでした。昔の彼女と出会ったわけではなく、心房細動がでました。


普通、心臓は「ドク、ドク、ドク」と動きます。時々、「ドク、ドク、ドドクドク、ドク、ドク」と一

瞬動きが、変になることがある方も、おられると思いますが、これは期外収縮というらしく、

私のは,「ドク、ドドック、ドクク、ドックン」と、長時間にわたって、不整脈が(30分~20時

間)続くやつで、心房細動と診断されています。


今日、諫早に行って、出たなと思って、急いで帰って、かかりつけの病院に行って心電図

をとってもらうと、間違いなし。じっと寝ているだけで脈拍が120。薬を打ちましたが、脈拍

を抑えるだけで、不整脈事態は止まらないとのこと。


お医者さんと話をしていると、季節の変わり目は、やはり多いとのこと。要するに、自律神

経が狂いやすいとのこと。漢方薬医さんも曰く、「この時期は、自律神経が狂いやすく、漢

方も限界がありますね。抵抗せずに、静かにしていることですよ。」と同じ事を言っておら

れました。


あと、酒、たばこ、睡眠。コーヒーが体にいいと聞き、最近飲んでいましたが、「コーヒーは

どうですか?」、「酒と一緒ですから、控えた方がいいでしょう。」、「先生、女は?」

「・・・・・・・・」ということでコーヒーもやめました。


酒、たばこも止め、パチンコも止め、大好きなケーキも止め、コーヒーも止め、食事とカミ

サンには気をつかい。私の人生どうなるの?といったところですか。


皆さんも、体にはご注意を、いつどんな病気が出るかわかりませんから。今日は、早め

に、お休みなさい。


今日はポチと厄日でした、心臓はまだポポチポチポチチチと不整脈を打っています。

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2013年4月28日 (日)

天祐寺~諫早家二代目直孝(なおのり)公夫妻の墓

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以前、諫早家墓所、「天祐寺」のことを書きましたが、十年ほど前、少し面白い話を聞いた

のですが、はっきりした資料が無かったので忘れていましたが、「諫早郷土館 解説シート

(歴史編)」に載っていたので紹介を。


諫早は元来、西郷氏が治めていたのですが、佐賀の龍造寺に攻め落とされます。佐賀の

龍造寺家晴が諫早の初代の領主となり、この、天祐寺を菩提寺にしています。


上の写真は、二代目の直孝(なおのり)の墓ですが、龍造寺氏から諫早氏に改めますが、

このとき伊佐早藩(当時は諫早でなく伊佐早でした。)が、佐賀藩の支藩、いわば家臣にな

ります。


森山町郷土誌によると、直孝が病弱で参勤交代に耐えられなかった、また、参勤交代に

要する膨大な出費の問題。佐賀藩の強化策、野望もあったことなどがあったそうです

が、はっきりした事は分からないそうです。ですから諫早藩ではなく、佐賀藩諫早領という

ことになります。直孝の時代、慶長十六年に一万石、元和七年に三千石を佐嘉藩に召し

上げられます。要するに、取り上げられたわけです。


その直孝の墓から、見上げたところ、少し小高い所に、立派な石室の立派な墓がありま

す。

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これが、二代目直孝公の後室、龍造寺に取って代わった鍋島家開祖直茂の姫の、長寿

院の墓です。

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直孝公の墓と比べれば石室に入った立派な墓です。ここから下を見下ろすと

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直孝公の墓が下に見えます。直孝公の後に墓が見えますが、主君が亡くなったとき、追い

腹を切った家臣の墓です。手前の墓は、歴代ご住職さんの墓です。


さて、何故このような位置に墓が建てられたかというと、後室長寿院にとっては、自分が龍

造寺にとって代わった鍋島家(佐賀藩)の姫であるということ。その、本藩の出身だという

意識があったのでしょう。諫早領は格下になりますから。


「直孝公の墓碑建立の時も、同列埋蔵を拒んで、単独墓とし、自分の墓は佐嘉背振山山

系の御影石を運んで、台地の上に墓を建てよと指示したといわれています。」(諫早市郷

土館 解説シートより抜粋)


さて、この長寿院の横にもう一つ、こちらはご夫婦で入っておられますが、

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四代目茂眞(しげざね)公の墓ですが、どうして茂眞公の墓が、立派で外の墓とは別の所

に建っているかについては「諫早を歩く~山口八郎著」には次のように書いてあります。


「『この人はどろがみさん(カミナリ)がえすかった(怖い)とげなたい。おいが死んだら、絶

体大丈夫の所に埋けとけと、遺言しんしゃったとげにゃばい。』と、まことしやかな話が残っ

ています。」という事だそうです。


人間死んでからもいろいろありますね。私も仲良くカミサンと入りたいのですが、ひょうっと

したら、私を見下すような所に、自分だけの墓を作るんじゃないですかね。

(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早郷土館 解説シート(歴史編)」「森山町

郷土誌」より)

諫早、伊佐早。佐賀、佐嘉と少しごっちゃに書いていますが、お許しを。


茂孝公のお墓を見ていると、自分のこととダブって、ポチと侘びしくなります。 

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