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2013年3月10日 - 2013年3月16日

2013年3月16日 (土)

北村西望特別展~南島原市南有馬町

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今日は天気も良く、カミサンが家にいるので、何かないかと思っていたら、「北村西望特別

展」が、西望記念館(北村西望の生家)で開催されていました。これ幸いと、「行ってきま

す」。北村西望は、日本を代表する彫刻家の一人です。


カミサンも、私がいるのが鬱陶しいのか、行き先も聞かずに黙っていました。


写真は、パンフレットですが、長崎の平和祈念像を作っているところです。こうして見るとす

ごいですね、。長崎の原爆記念日の慰霊祭は、この像の前でおこなわれます。

庭には、現物の四分の一の像が置いてあります。

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西望記念館は西望公園の一角にあります。西望の生家です。庭も整備され、作品が10点

ほど展示してあります。

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この敷地内に、先ほど書いた生家が、記念館としてあります。庭の作品を鑑賞するのは、

ただですが、記念館に入ると、入場料を取られます。もちろん中には西望の作品が置いて

あります。


何回か入ったことはあるのですが、今日は特別展だとかで、ちゃんとお金を払って入りまし

たが、平和祈念像の試作品が2体おいてあり、ひとつは、写真のような座像、そして、もう

一つは、立像でした。これは、珍しかった。写真撮影禁止のため、写真は撮れませんでし

た。


何十年か前、大分県の「朝倉文夫記念館」に行ったことがありますが、その時、長崎から来

たと言うことで、北村西望の話が出て、朝倉文夫は明治16年生まれ、北村西望は明治17

年生まれ。


朝倉文夫の猫の彫刻が、今でも目の奥に残っていますが、朝倉文夫は1,902年、25歳

の時に第2回文展で、最高賞の2位(最高賞が2位みたいです)、次の年も2位、次の年は

3位と天才ぶりを発揮します。


これに対し、北村西望が文展最高賞を取ったのが、1,915年(大正4年)。朝倉文夫に遅

れること13年です。北村西望は、朝倉文夫に対しライバル感を持っていた、との話を聞い

た覚えがあります。


北村西望は、「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」という言葉を残していますが、まさ

に努力の人と言えるでしょう。亡くなったのが104歳。こちらの方も、まさに、かたつむりの

歩みでしょう。


さて、記念館の入り口

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かわいい彫刻が立っていますが、名称は「将軍の孫」。自分の子どもだったか、孫だったか

がモデルだそうです。


赤い四角の所、以前は確か、「将軍の孫」となっていたのですが、この平和な時代に、とい

うことでしょう、「今日わ」になっていました。こちらの方が、入り口に飾られるものとしては、

ふさわしいでしょう。なお、中に、同彫像がありますが、こちらは「将軍の孫」になっていま

す。


いつもは、見られないものがありますから、春の一日ゆっくり、鑑賞してはいかがでしょう

か?庭でゆっくりしていくのも良いですよ。


明日も天気が良さそうだし、カミサンはなにもなさそうだし、ポチポチどこへ行くか、考えま

すか。

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2013年3月15日 (金)

桜だより~長崎県雲仙市千々石町橘公園・小浜町とけん山公園

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このところ、暖かい日が続いていたので、桜はどうかと思ったら、橘神社の桜、この調子だ

と例年より、早くなりそうです。

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橋の下の桜、毎年ライトアップするメインの桜ですが、咲きかかっています。

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花見の宴会をする所は、日当たりのせいか、もう一歩ですが、日当たりの良い方は、もう満

開の桜が一本。外の桜も、ちらほらと開花しはじめています。


小浜町のとけん山公園。ボンボリの準備は出来ていました。さくらは、蕾が膨らみもう一

歩。多分この調子なら、こちらも去年より早めの花見ができそうです。

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春といえば、何となくウキウキ。天気は良いし。ガールハントに出かけたら、いつもの通り

空振り。明日も晴天の予報なので頑張るぞ。


桜の季節には、いつも思い出します。電報。「桜散る再起乞う」。ポチと寂しい文句ですね。

 

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2013年3月14日 (木)

私は「これ」で痩せました。

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「これ」と言えば、「これ」しかありませんよ。「これ」、「努力」のみ。


良く、「これ」を飲んで痩せました、という宣伝がありますが、本当に効くなら、百万人が百

万人、全部飲んでいるでしょう。これだけ、多種多様の健康食品があるところをみると、完

全に効いているものは、無い証拠でしょう。


さて、前にも書きましたが、血液検査で大異常がおき、国立大村病院(正式名称:独立行

政法人 国立病院機構 長崎医療センター)を紹介され、診察して貰ったのが昨年の11月

2日。その時、完全な肝障害とされ、とにかく太り過ぎだから、少し痩せるように指示をう

け、その時の体重が、69,8㎏。あわや70㎏。


とにかく、脂肪肝もあるということで、それからの涙ぐましい努力、運動と食事節制。

ノルディクウォーキング、雨の日はスローステップ運動、日に3回のラジオ体操。甘い物は

拒否。ケーキ、もちろんコーヒーはノーシュガー、女の子からの甘い言葉も拒否。間食も拒

否。


あれから、約4ヶ月半。体重計を見てください。64,8㎏。5キログラムの減量。体を動かす

のが楽になりました。お腹周りも、少し細り、おかげで、お腹が邪魔で見えなかった、可愛

いチンコも、少しは見えるようになりました。病院の検査結果も、ほぼOK.。


よく、標準体重を出すのにBMIを使います。体重(㎏)÷身長(㎝)×身長(㎝)です。BMI

の理想は20~24ですが、現在の私のBMIは25,3。少し太り気味。しかし、議論はあるよ

うですが、少し太り気味の方が長生きしている人が多いそうです。


とはいっても、はやりもう少し、脂肪肝が解消するまでは続けるつもりです。とりあえずの目

標60㎏です。


お医者さんに褒められたので、自分へのご褒美にケーキでも、と思ったのですが、自分に

も「甘く」しないということで、我慢しました。痩せたいなら「努力」の二文字しかないでしょ

う。でも、無理はしないでネ。


あ~、今日はポチ気持ちが楽になりました。家に帰ってちゃんと、ウォーキングしました。

 

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2013年3月13日 (水)

「なぬかもりの石」と徳利淵~長崎県雲仙市瑞穂町

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国道58号線(愛野~島原に行く開拓道路・今のグリーンロードの一段上の山側を走ってい

ます。)の道の側、独立行政法人種苗管理センター雲仙農場の横の空き地に石がありま

す。


どこにでもあるような石ですが、この石には話があります。

この事は、瑞穂町史談会で出している、「みずほ史談」の、「生活文化部長 前田晴夫氏」

が「『なぬかもり』の石」という事で書かれております。


昔、藩と藩の境には、藩境の藩境石、藩境石塚などがありますが、その他にも、川、あるい

は、大きな石を目印に境界をしていたそうです。


瑞穂町には、「天草石」と呼ばれる大きな石があり、吾妻町と瑞穂町の境界であったそうで

すが、林道拡張に伴い、一部が割り取られたそうです。


そして、現存しているのが、この「なぬかもりの石」だそうです。以前は、ここらあたりは、野

芝に覆われ、「にしばる」と呼ばれ、遠足の場所であったそうです。大小2個の石があり、

「めおと岩」と呼ばれ、大きい方が上の写真、「なぬかもりの石」と呼ばれ、小さい方は、育

苗センターの防風林の中にあります。フェンスで入れないので外の方から

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分かりにくいと思いますが、四角で囲んだ石です。


この、前田晴男氏が書かれたものによると、「なぬかもりの石」には、次のような話があり

ます。


昔、何故か、赤子がこの岩の傍に捨てられていたそうです。赤子は泣くじゃくっていました

が、「不憫に思われた神様が人間に姿を変えて現れ、石の角から顔を見せて泣く子をあや

し、近づいてくると反対側の角に移動し、近づいたら移動しの繰り返しで七日間おもりをさ

れたが与える乳もなく、食べさせる物もなく、ついに赤子は動くことも出来なくなってしまい

ました。」。「なぬかもり」は、「七日守り」の事でしょう。


この話を読んで思い出したのが、以前書いた、雲仙の「七日回りの石」。昔の雲仙は女人

禁制。子どもを僧房に預けたが、どうしても会いたく、赤ちゃんを連れて、「七日回りの石」

まできて、休んでいると、いつの間にか、赤ちゃんがいなくなり、泣き声が岩の反対側から

聞こえてくる。そちらに行くと、赤ちゃんの姿はなく、泣き声が、岩の反対側から聞こえてく

る。また、そちらに行くとまた姿はなく、反対側から泣き声が聞こえてくる。母親は狂ったよ

うに、岩の回りを7日7晩回り、息絶えてしまった。


「なぬかもりの石」「なぬかまわりの石」。題も似ているなら、中身も似ている。雲仙の話が

こちらに伝わったという事も考えられますが、「七日」と「回る」。何となくひっかかりますね。


「初七日」、「七日参り」、「七五三」、「七七・四九日」など「七日」というのが多いですね。

「回る」も「輪廻転生」、「胎内巡り」、「巡礼」など、「回る」と同じようなものであり、この「七

日」、「回る」、何か、仏話の話に出てきませんかね。二日ほど捜しているのですが・・・


さて、この石の存在も、話も忘れられていくのでしょうが、せめてもは、名称を書いた標識で

ほしいものです。


ここから、しばらく走ったところに徳利淵というのがあります。

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流れが徳利に似ているところ、濡れた部分が徳利に似ているので、徳利淵と名付けられた

のでしょう。平成23年に地域の人が、道路からでも見えるように整備したそうです。

この、上の方には水神様が、祀られています。年代は分かりませんでしたが、鳥がいたず

らしないようにか網が張ってありました。

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何となくホットするようなお顔でした。

(参考・引用:「みずほ史談 第8号~「なぬかもりの石」 前田晴男著」より)


さて、今日もカミサンは、何とか会で、昼のお食事会。料理代を聞いたら、なんと、5,000

円。私は500円のコンビニ弁当。ポチどころか、随分と羨ましかった。

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2013年3月12日 (火)

すくい漁場~長崎県諫早市高来町水の浦

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「すくい漁」と呼ばれる、漁法があります。潮の干満の差が激しい所で、それを利用して、魚

を捕る干潟地域特有の、原始的な漁法です。


満潮になったとき、すくいに入った魚が、干潮に伴い残され、それを捕獲するものです。有

明海沿岸に、江戸時代から明治の中頃まで、200以上あったそうですが、今はこの「水の

浦」が県内唯一の「すくい」だそうですが、島原の新田町に2006年、復元されたものがあ

るそうです。島原の資料には「石干見」と書いてあり、「いしひみ」、「いしひび」、などともよ

ばれるそうです。


行って見たのが、丁度昼頃、考えも無く行ったのがバカで、丁度満潮の時。

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なにも見えません。時間をかなりずらしていったら、お~ありました。

Photo_6

赤い四角で囲ったところです。

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かなり、大きめの石が、円形に積んでありました。ちょっと、分かり難いので、自家用飛行

機を飛ばして、空から写すと

Sukui2

本当は、Googleの写真ですが、赤の四角の所に、丸くなった所、ここが「すくい」です。


場所は諫早干拓堤防のすぐ近くの、高来町、水ノ浦バス停から海側にに10分程度歩いた

所です。国道に、「水の浦のスクイ漁場」の小さな標注が立っています。車でも行けるところ

です。駐車場はありませんが・・・・道端にでも止めて。一番上の写真、上の方にかすかに

写っているのが、諫早干拓の堤防です。


さて、今日はカミサンが留守で、久しぶりの、孤独のグルメ。

Photo_14 Photo_15

このお店、橘湾の道沿いの所にありますが、結構流行っていたのですが、三度ほど、経営

者が変わったみたいです。なにか、スパゲティとか、カレーとか、ピザとか、スープとか、サ

ラダとか、食べ放題のコースになっているみたいです。


ハンバークとステーキが売り物みたいで、ハンバークを頼みましたが、ハンバークってこん

なに大きかったのですかね。うちのハンバークは、いつも、この三分の一くらいなんです

が・・・・


今日は、ポチと体重が増えたかな?

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2013年3月11日 (月)

「まだれいな」銘キリシタン墓碑~島原市杉谷寺町山寺名

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島原で有名な、「まだれいな」のキリシタン墓碑です。正面に干十字「カルワリオ十字紋」

現在は、「カルワリオ罪標十字架」という方が多いみたいですが、彫ってあります。なお、

「カルワリオ」とは、イエス・キリストが十字架に架けられた丘の名前で、普通は、「ゴルゴ

タの丘」といっていますが、ラテン語では「カルワリオ」というそうです。


この、墓碑は、山寺名の共同墓地の中にあり、

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多分、保護のためのコンクリートの覆い、標注がなければ分かり難い所でしょう。墓碑の入

り口には、六地蔵が置いてあります

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6体以上ですが、置いてある土台を見れば、後の2体はあとから、作られた物と思われま

す。


なお、後の2体のお地蔵さんの首は、とれてしまっています。こちら方面、お地蔵さんの首

が取れたのが多いのですが、キリシタンによるものか、明治の神仏分離に伴う廃仏毀釈運

動の影響によるものか、よく分からないところがありますが、六地蔵さんだけが無事だとい

うのは少し奇異な感じがしました。


さて、この「まだれいな」の墓碑は、説明版によれば、慶長19年(1614)以前のものと思

われると書かれてあります。


「日本キリシタン墓碑総覧」によれば、「飯島宗義氏により発見され、大正15年、森豊造氏

との共同調査で世に出たと。」書いてありますが、出典は、昭和17年、片岡弥七氏著「長

崎縣下發見キリシタン墓碑総䌫」です。


なお、詳しい説明は「日本キリシタン墓碑総覧」を読んでもらえればと思いますが、墓碑は

キリシタン特有の伏墓ではなく、立碑として作製され、製作時期も、1620年頃、禁教時代

に於ける、一時的な、キリシタン信仰の高揚を示唆する、貴重な資料である、ということだ

そうです。


なお、一般的には「まだれいな」と言っていますが、上の写真の赤い四角の所に文字が書

かれているのですが、発見当時の状態です。

Img_3

  (島原半島史上巻~林銑吉著から)


「日本キリシタン墓碑総覧」にも、同じ写真が載っていますが、多分、片岡氏所蔵の写真で

しょう。


さて、十字の左の横の文字~一番上の写真の赤で囲んだ所です。下の左の写真は「島原

半島史」の写真を拡大したもの。右がこのたび拓本を取ったもの。

Img_2_2 Img_0001_3

「日本キリシタン墓碑総覧」では、これまでは、「まだれいな」と判読されていたが、本稿で

は拓本から『またれいな』とする。」となっていますが、難しいですね。風化して、肉眼では

ほとんど読めない状態です。


なお、「ぶらっとさらく島原~松尾卓次著」には、「記録では慶長18(1613)年、原城下で

林マダレイナ外7名が火あぶり刑にされているが、その関係は分からない。」と書かれてあ

ります。

(参考・写真:「日本キリシタン墓碑総覧~企画 南島原市教育委員会 監修 大石一久」

「ぶらっとさらく島原~松尾卓次著」「島原半島史~林銑吉著」「説明版」より)



14日のホワイトデーまで、もうすぐ。なにをお返しするか、頭が痛いですね。送る相手?私

にもポチいますよ。もちろん、カミサン以外。ヴィトンか、エルメスか、シャネルか、ポチ頭が

痛いですね。

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2013年3月10日 (日)

橘中佐銅像後日談 その2~長崎県雲仙市千々石町

Photo_2

橘中佐の銅像の行方については、千々石町郷土誌によれば、「終戦後、占領軍の進駐に

より軍国主義の表徴であるとして撤去の運命に迫られたが、志のある町民の人々はこれ

を隠ぺいし・・・」とありますが、この「隠ぺい」した場所については2説あり、銅像が立ってい

たあたりを上山(じょうやま)といいますが、この林の中に隠したと言う説、もう一説は、白い

布に包んで、海岸に埋めていたという説があり、近所の方、高齢者の方に尋ねても、確た

る返事は得られませんでした。


郷土誌には、「志のある町民」、とは書いてあるものの、あれだけの銅像、運ぶのも大変な

ら、隠した場所も明確にならないなら、多分、強固な、口の固い団体か、組織が関係した

か?


あの当時、そのような関係団体なら、「在郷軍人会」あたりかと、調べて見たのですが、な

にせ、昔のこと、どうにもお手上げ状態。


ところが、郷土史家のS氏と話をしていたら、S氏もそのことを調べたことがあり、砂浜に埋

めたとばかり思っていたところ、やっと関係者を調べ、聞いたところ、やはり、「在郷軍人

会」が絡み、それに、青年団が加わっていたそうです。両方とも、上下関係が厳しく、これな

ら人力的にも問題なく、秘密保持の面でもしっかりしていたのでしょう。


なお、隠したところは、現在の小学校のプール(以前は保育園があったところ、昭和27年

に開設になっています。)あたりだということでした。一番上の写真がプールがあるところで

すが、二宮金次郎の銅像も残っています。多分、今の子どもは誰も知らないでしょうが。

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昭和40年頃の第一小学校の航空写真ですが、終戦直後とはあまり変わっていないでし

ょう。黄色の道路は現在の国道。右側が橘神社の方向になります。


現在は、国道方面の校舎が運動場になり、校舎は3番目の校舎の方に移り、鉄筋三階建

てになっています。広い空き地に見えるのは運動場でしょうが、現在は体育館になってい

ます。


赤く囲んだ所が、プールあたりになり、多分、ここらあたりに隠されていたのでしょう。

なお、この後、昭和22年に橘中佐の生家に隠され、昭和29年に現在の橘神社の入り口

に移設されました。


ということで、橘中佐銅像のいきさつが分かりました。残念ながら、隠された日付は分かり

ませんでした。


余談ですが、橘神社駐車場に

Photo_4

手すりの向こう側に、コンクリートで作った、柱があります。昔は、これに鎖が付いていたの

ですが、何に見えますか?私のチンコはこんなに立派ではありません。


橘中佐が軍人だったということもあり、大砲の弾丸を模して作ったそうです。数十年前、こ

の事を聞いたことがあり、この事はどこにも書いてありませんが、多分本当の事でしょう。


この話も、段々知る人も無くなり、風化して無くなる事でしょう。私たちの回りから、どんどん

忘れらてしまう話が増えてきました。淋しい限りです。   (この項おしまい)

(参考:写真~「千々石町郷土誌」「千々石町懐しい故郷写真集~千々石町老人クラブ」)



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