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2013年10月10日 (木)

「長崎くんち」・知ったかぶり

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今年の、「くんち」(長崎では「おくにち」と言わず、単に「くんち」と言います。)は台風のた

め、日程がずれ、本日終了しました。


上の写真は、「コッコデショ」(太鼓山)、これは、今年はありませんでした。私が、数年前に

撮った写真です。台を上へ放り上げ、また、受けとります。豪快なものです。


さて、本日の題は、「長崎くんち・知ったかぶり」と書きましたが、本日の以下のブログは、

長崎の人なら、知らない人は無い、丹羽漢吉氏が、長崎の「くんち博士」と言われる、山下

誠氏の話を聞きながらまとめた本、「長崎くんちの栞」(初版昭和五十九年、私が手に入れ

たのは、平成十二年の再改訂版三版)を読みながら、いかにも「知ったかぶり」で書いたの

で、標題のようにしました。


長崎と言えば、ある郷土史家によれば、100%近くキリスト教の時代がありました。もちろ

んこの頃は、神社等荒廃していたことでしょう。


この中に、長崎村小島郷の住吉神社、長崎村森崎の森崎大神(現県庁所在地)が、あった

そうですが、肥前唐津の金重院青木賢清という修験道が、長崎に来、里民の隠し祭ってい

た諏訪大社のため、西山郷円山(現、松の森天満宮)に社殿を作るようにしたそうですが、

何しろ、キリシタンの地。用材、工人もすべて他地方に求めたそうです。この時、諏訪、森

崎、住吉の三社が合祀されます。


なお、この造営には、長崎代官の初代末次平蔵の援助があったそうです。末次平蔵もキリ

シタンでしたが、、後棄教し仏教に転宗し、長崎奉行長谷川権六のキリシタン弾圧に手を

貸します。


その後、キリシタンの禁教令が出ますが、(禁教令は一つでなく、秀吉の禁教令から、江

戸時代まで数回出されていますが、これ書くときりが無いので、また)今度は、神仏崇拝に

転向する人が増え、手狭になったため、玉園山(現在の諏訪神社)に社寺を開いて、慶安

四年(1651)に正遷宮が挙行されたそうです。拝殿については、長崎奉行の3代目末次

平蔵が寄進をしています。


長崎奉行が、諏訪神社と関係をしているのを見ると、キリシタン弾圧との関係が分かると

思います。


さて、寛永三年、初めて神楽を奏し、湯立神事(釜で湯をたぎらせ、その湯で神事を行うこ

と、「湯立神事」、又は「湯神楽」)を行います。


諏訪神社大祭の最初は、寛永十一年ですが、この年、「出島」の埋築が着工され、「眼鏡

橋」が架けられています。


この時の社地は玉園山に移る前の、円山であったそうですが、九月七日、太夫町(現丸山

町)の虎屋の遊女であったという、高尾、音羽の両人が神前に、謡曲小舞を奉納。


のち、長崎の遊郭は分散していたものを、集結命令がでて、丸山町と寄合町が誕生します

が、この両町は高尾・音羽の故事により、くんち踊り奉納に、先頭を務める特権を与えられ

ています。


くんちは六月一日の「小屋入り」から始まりますが、昔は実際に小屋を建て、身を清め練習

をしたそうです。


十月三日が庭見世。各踊町で、表格子、木戸を開放し、衣装、小道具等を誰にでも見れる

ようにしますが、説によれば、「当家には十字架やマリア像を、ひそかに祭ったりなぞして

いません」ということを示しているそうです。


十月四日が、人揃い(にいぞろい)。早くいえばリハーサルになります。


十月七,八,九日が、くんちの本番。七日が、奉納。戦前は、最初に大波止御旅所、次に

諏訪神社、伊勢宮、八坂神社だったそうですが、昭和60年から都合により、伊勢宮奉納

は中止。


この本が書かれた時は、諏訪神社、公会堂前、御旅所等で奉納をしています。なお、この

奉納場所は、単に「場所」と呼んでいるそうです。


奉納が終わると、庭先回り。踊町の家、市内の主だった家、公官庁等に踊りを呈上して行

きます。

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各踊町の方、子どもさん等を連れ、お母さん方と一緒に回りますが、お母さんの衣装が立

派で、お金がかかっていますね。


天狗さん。どこの祭りでも、多分先頭を歩いて行くと思います。でも、何故、天狗さんなの

か?役小角(えんのおづの・おづぬ・おつの)→修験道→神社、繋がりか?

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何とも言えない、格好ですね。とくに、頭のシャッポがカッコ良い。

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これも、以前撮った写真で、今年は出演していません。上に乗った子が、丸眼鏡をかけて、

可愛らしかった。

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さて、先ほど書いた「庭先回り」。私が小学校の時は、大体、駅前→知事公舎→新大工町

→寺町→正覚寺下→丸山花月→湊公園の範囲ですが、実を言うと、最後に回る、湊公園

の目の前が、私の母の実家でお店屋さん。


有名なお店屋さんでしたから、傘鉾、蛇踊り、阿蘭陀陀漫才、コッコデショ等、全部回ってき

て店先で演じてくれ、また、湊公園でも演じるので、特等席の2階からゆっくり眺めたもので

した。


良く、長崎では、くんちに限らず、すぐれた演し物等の時に、「モッテコーイ」と言いますが、

奉納の時、囃子の音などが聞こえてくると、「首を長うして待っとるぞ。早く来い」との気持ち

の、「モッテコーイ」。演技のアンコールの時は、「ショモーヤレ」、「所望するからもう一つや

れ」の意味。


一度退場したものを呼び戻すときは、「ショモーヤレ」ではなく、再度「モッテコーイ」。使い

分けがあります。なんでもかでも、「モッテコーイ」では、ありません。


小さいときの、くんちの楽しみは、出店とサーカス。昔は、今どころではなく、大変な出店で

した。サーカスは、「木下大サーカス」、「キグレサーカス」だったかな?毎年、代わり替わり

に来ていた記憶があります。


がまの油売りも来ていて、本物の真剣で、「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚

が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が百と二十八枚、上へ吹

き上げれば、比良の暮雪か嵐山は落花の舞。」「前のお嬢ちゃん、スカートは下ろしてね。

パンツが見えてるよ。」なんて、こちらの方が、くんちより覚えてますね。フーテンの寅さんも

来ていました


くんちのもう一つの楽しみ。小屋入り後、各町で練習をしますが、踊りは室内でできます

が、川船等は各町の路地の広いところなど練習します。この練習風景が、桟敷席見るの

とは違い、汗が飛び散ってくるような、目の前で見られるので、大迫力。練習は各自仕事を

持っていますから、夕方から始まります。来年は是非ご覧を。


忘れていました。諏訪神社には、諏訪幼稚園がありますが、私はこの幼稚園の中退です。

暴力、酒、煙草ではありません。女関係です。あの頃は、可愛くて、もてまくっていましたか

ら・・・・・

(参考・文引用:「長崎くんちの栞~長崎伝統芸能振興会」から)






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コメント

>天狗が先頭
これは猿田彦でしょうから多分高天原の伝説からではないでしょうか・・・

>湊公園の目の前が、私の母の実家でお店屋さん。
新地側だと薬局あたりかな・・・くんちの時期には羨ましい立地ですね(^^)

私も子供の頃には何度か大波止のサーカスは見に行きましたが「見世物小屋」には入れませんでした・・・オートバイの曲芸が懐かしいですね

゚調べたら、そうみたいですね。さすがm(_ _)m。

薬屋は、ビンゴですね。2階から見ると、最高の場所でした。最も昔は、あの並びには、お店屋さんが並んでいましが。

後で、思い出しましたが、「お化け屋敷」もあり、子どもには結構怖かった。連れていった、従兄弟が泣きました。

ここ数年くんちには行ってってませんが、TV等で見ると、昔の方がまだ、にぎやかだったのかな?
昭和30代年あたりの、くんちの写真を見ると、もっと人出が多かったみたいです。あの頃は、今みたいに、観光客は来ていなかった時代でしたから、ほとんど、地元の人間ばかりだったのでしょうが・・・・

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