西田平キリシタン墓碑&潜伏キリシタン(隠れキリシタン)墓碑?~南島原市北有馬町
先日、日野江城の発掘調査を見学した折、日野江城から、1㎞ばかり行ったところの、西
田平キリシタン墓碑を訪れてみました。長崎県の文化財指定になっています。
きれいに成形された墓碑で、
回りには、前面、上部、背面に縁取りがしてあり、この形式はこの墓碑だけだそうです。
前面には、見事な花十字
背面には、文字が陰刻で刻んであり、
写真では、分かりにくいと思いますが、「慶長拾伍年 流しや 生年 二十才 拾一月十七
日」と掘ってあるそうです。
「日本キリシタン墓碑総覧」には
「伝承として『ジョロウの墓』とされており・・・・・墓碑が「寝ているので昔から女郎の墓」と言
われたそうだが、発見に関わった北有馬村尋常高等小学校校長八木次朗氏は『身分の
高い女官『女﨟』のことだろう」と解釈されている・・・・・同じく新村出氏も「上﨟様」と解釈さ
れたことを受け、松田毅一氏は『場所柄、日野江城の有馬家に由緒のある人の墓であろ
う』としている」と書かれています。
また、同書によると、この地は、中世石塔など近世以前の墓碑形成を示す遺品・遺蹟など
が確認されないことから、当初はキリシタン専用墓碑として形成された可能性があるという
ことです。
なお、ここは、北有馬町西田平(中屋敷)という所ですが、現場の説明版には、「天正15年
はキリシタン大名有馬晴信の代で11月はその子、直純が先婦人を別離、徳川家康の曽
孫女、国姫を妻に迎えた月であることに思いを馳せたい。
なお、中屋敷は有馬家の中屋敷跡を指し、流しやの流は「る」の替字である。」と記されて
います。
さて、帰ろうかと思い、この上の段を見ると、
いわゆる、塚墓、あるいは、この形のものとして、斗升墓、トーマス墓と云われるものがあ
りますが、ここで見るとは、おまけに、見るのは初めてで、ビックリしました。なお前面に
上部は分かりませんでしたが、「辰」と書いてあるようですから、年号を表す文字でしょう
が、その後に「年」の代わりに「天」の文字。いわゆる。「天年号」といわれるものです。
塚墓、また、年号に「天」と言う文字が使われていると、潜伏キリシタン(現在は、江戸時代
の禁教時代、信仰を守った方を、潜伏キリシタン、キリシタン禁教がとかれても、密かに
自分たちで信仰した方を、隠れキリシタンと区別して研究されています)を研究されている
郷土史家の方は、潜伏キリシタンと結びつけて考えておられます。
潜伏キリシタンの遺跡については、識別が非常に難しく、明らかに、キリシタンと分かって
ては処罰があるし、まったくキリシタンの物と分からなくては意味が無いし、いろんな議論
があるところです。私も、これには悩み多き青年というところです。
(参考・文引用:「日本キリシタン墓碑総覧~企画・南島原市教育委員会 監修・大石一久
「有明の歴史と風土」・現場説明版より)
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紀年銘に「年・稔・秊」等とともに「天」を用いたものは、まだキリスト教と関係ない時代の仏教信仰により造立された石造文化財に、室町時代後期から見ることが出来ます。また、江戸時代後期に多く造られている、庚申塔や、石碑、石灯籠等にも見ることが出来ます。
投稿: stjtomo | 2013年12月18日 (水) 02時17分
天年号とキリシタンに関しては、色々論議があって、難しい所です。
例えば、素人的に、強引に説をもっていくと、潜伏キリシタン(隠れキリシタン)は「年・稔・季・歳・天」等を知っていたが、自分たちに一番近い、「天」を使用した。故に、キリシタン伝来前に、「天」が存在しても、それを理由に、キリシタンとは関係無いとは言えない。とも言
えるのではないか。(少し強引すぎるかな (゚ー゚; 。
キリシタン時代に作られた墓碑を見て行った感じでは、紀年銘を持ったものは、「年」ばかりでした。
私の立場は、肯定派でもなく、否定派でもなく、懐疑派なのですが・・・・
肯定派、否定派、どちらも「天」の文字のみに、とらわれすぎではないのかと思います。墓の形状、従前からあったものか、移設したのか?墓碑の家系は?墓地の状況、歴史は?墓地所有の地区の歴史は?など、巨視的に見て行かないと、真相は分からないと思うのですが・・・・・・
さて、私の頭を悩ませているのは、「天」。以下お教えいただければ幸いです。
1,「天」のという文字が何故使われるようになったか、その意味する物は何か?
2、江戸時代、「年」が普通使われていたのに、何故わざわざ「天」をつかったのか?
3,「天」は現在使われて居ませんが、いつ頃現れ、いつ頃まで使われたのか?
4、「「天」の字が使われている地方について、全国的なものか、地方的な物か?資料がありましたらご紹 介を。こちらも、墓、鳥居、石碑、神社の御手洗に書いてありますが、庚申塚は見た事がありません。
「天」が非常に気になっており、分かる範囲で教えていただければと思います。以上、ご迷惑とは思いますが・・・・
投稿: sugikan | 2013年12月18日 (水) 21時20分
はじめまして。故郷は九州です。 天の字については私も知りたいと思っていました。
うちの先祖代々の墓地には文政年間の最初まで全て〔戒名、年代が読み取れるもののみですが〕の墓石に天の年号が書かれていました。
念、歳もありました。 おまけに墓石前に扇型〔正確には紙の部分の型〕の水入が全体の80%に彫られています。
残っているのが元禄からなのでそれ以前のものは一箇所に積み上げられ上に三界萬霊の塔が建てられています。もちろんそれにも天はあります。
ほかにこの地方には庚申等、灯篭、西国巡礼・・という塔にも有ります。神社の祠にも有ります。 そして仏閣修験者の皆様の書いた各寺などに立ち寄ったとう「書」にも天年号が有るのを見ました。
ただ、うちの先祖がそうでなかったという確証もありません、、。またあったという言い伝えも何も残っていません。 庚申塔もその講中の人全てがそうであることも無理がある気がしました。
きっと中には「天」の字は特別で、隠れキリシタン関係に使われているのもあるかもしれませんが、それ全てを=隠れキリシタンと結びつけるのは無理があるのではと思いました。
すみません、私の個人的意見です。
投稿: れもん香 | 2014年1月13日 (月) 08時43分
情報ありがとうございます。
さて、年号の「歳」「念」「天」「年」の歴史的なものについて、文献を探しているのですが、残念ながら、まだ、研究がなされていないみたいです。
こちらは、島原の乱の土地なので、「天」については、潜伏キリシタンということで、肯定的な意見が多いみたいですが、私としては、全面的には、賛同できないものがあるところです。
かって、織部灯籠がキリシタンと結びつけられましたが、現在は、疑問が持たれている例もありますし・・・・
とにかく、年号に「天」が、なぜどうして使われているのか、由来と歴史的変遷を知りたいと思っているのですが・・・・
投稿: sugikan | 2014年1月14日 (火) 22時58分