雲仙鉄道 27~昔の汽車は弱かった・・・
(「島原半島の歴史~監修松尾卓次」より)
「島原半島の歴史~監修松尾卓次」の本を見ていると、「雲仙鉄道計画路線」と題して、上
の地図が載っており、説明に、「計画では小浜温泉街まで乗り入れるようになっていたが、
資金難で北野までとなり、目論見が大きく崩れた、難工事と経済性が危ぶまれていた計画
のようであった。」と書いてありましたが、前回少し書いたように、当時、小浜には自動車
会社があり、温泉街まで乗り入れると、自動車は用事が無く、北野からだと、あと2,3キ
ロで温泉街。多分、乗客は利用するでしょう。何となく、考えると裏があるような気がするの
ですが・・・・
さて、この地図の太線が計画路線になるのですが、見ていると、あれ!?
小さなところでは、駅の位置、路線が少し違う所があるのですが、特に、赤の矢印のとこ
ろ。
ざっとした書き方ですが、実際の線路は、山王さんを赤い点線のように、ぐるっと回って行
くのですが、計画図では、愛津から、愛野町の中野地区を通ることに
赤の矢印が、山王さん、計画図では、山王さんに沿って走るようになっていますから、大
体、黄色の所から入るのかなというところです。家が見えますが、これは新興住宅です。
こちらが、出口の中野地区になります。
考えると、山王さんからぐるりと回っても、人口が大きな地区があるわけではなく、唐比地
区がありますが、ここは「水晶観音」駅を利用すれば問題は無し。
後は、土地所有者の問題か工事の問題かと思ったのですが・・・・思わぬ事からヒントが
「島原鉄道100年史 夢ある未来をめざして」のなか、「駅今昔」の「大三東(おおみさき)
駅」の記事の中に、次のように書いてあります。
「湯江(ゆえ)~大三東間の境の松付近、大三東~三会間の松尾・鼻の先付近は、島鉄に
は珍しい急勾配。といっても1,000メートルいって15.2メートル上がる程度だから、いま
のディーゼルなら何のこともない。だが、十数年前のSLにとっては大変な”心臓破りの丘”
だった。上がりにかかるとシュシュシュシュ・・・・・と車輪はカラ回り。やむなく駅まで引き返
して”再出発”したものだ。
『おかげで乗り遅れた汽車に間に合った』と喜ぶ人も多かったらしい。」
雲仙鉄道も、同様で、「旅する長崎学 第29回 レトロな旅路 小浜鐵道」、「木津の浜
駅」の所に、小店屋(今は廃業しているみたいです)さんをしている、橋本さんの話として、
「修学旅行の団体客が小浜に向かうとき、客車を連結していましたが、坂道で重くて進ま
ずに、大人たちは降りて押していたのだとか。」
また、別のブログにも、「車掌をしていた父の話によると、時々坂道を登らず、お客と一緒
に列車を押していたらしい。(車掌をしていたお陰で、鉄道ネタでは何度かローカルテレビ
にでた)」という話があり、当時の汽車の力は弱かった。(私と一緒)
話を元に戻して、原図の所に行って見ると、少し急な丘を越えていくことになり、とても、昔
の汽車では越えきれないでしょう。トンネルを掘るか、堀切にするかでしょうが、経費の点
から見ると、山王山を回った方が安くついたのでしょう。
こうして見ると、愛野から小浜まで、特に、千々石から小浜間、難工事と言いながら、線路
を見直してみると、坂を避け、苦労して、敷設計画したことが分かります。
また、台風接近。ウチのカミサンもどういうわけか、今日はポチ台風気味でした・・・・
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TOKです。
「縦断面図」はデフォルメされてますね。猿葉山が大きめに描かれています。駅の位置も違うところがあったり、当時の方が何を考えていたのか、想いを巡らせると楽しいですね。
コメントを少しずつ付けていきます。
○計画では「愛津駅」は「土井口番所」付近だったのか?あるいは、実際に置かれた港の場所だったのか?いずれにせよ駅を東西方向に置いたため、線路は「竹矢来」に沿うためその先でUターンしなければならなくなった。
○「原口番所」付近に駅を置く計画だった。
○海岸沿いに駅がふたつ計画されている。目的が判らない。
資金調達のための計画図だとすれば、判る気もします。
投稿: TOK | 2013年9月 5日 (木) 09時24分
この地図あくまで、申請書等に作った地図だと思います。
>駅の位置も違うところがあったり
地図が小さく分かりにくいのですが、○印の所には、愛野駅には何も書いてありませんが、次の所から、1M,2M、3M・・・・・と順に書いてあり、多分、距離のマイルでは無いでしょうか。
愛野から北野まで17,3㎞、1マイルは約1,6㎞、割れば10,81。約11になり、区間も、愛野~北野間まで、11あるように書いてあります。
>線路は「竹矢来」に沿うため
「竹矢来」は土井口番所から原口番所をを通り、海岸まであった、竹矢来のこと?
島原半島には、佐嘉藩(佐賀藩)の飛び地領、鍋島領があり、藩境石がありましたが、廃藩置県になり、打ち捨てられたそうです。貴重なものだと言うことで、個人の家に持っていって庭にあります。
もう一つ、佐嘉藩と島原藩の境石は、唐比の天満宮本殿を改修したとき、基礎石として使ってありました。「從是西佐嘉領」と彫ってあります。多分、番所にあたりにあったとのと思いますが。
明治以降、藩の境はこのような扱いを受けたのでしょう。竹矢来など通行の邪魔で、薪にでもされたのでしょう。
なお、竹矢来は「島原藩主 長崎監視の道」に書いてあり、土井口番所~深浦庄屋跡付近~中島~坂を登って、ジャガイモ畑~原口番所~浜駅付近であり、愛津駅の方角には行っておりません。
不完全ですが、江戸時代、藩庁に報告したと思われる地図の写しが残っていますが、竹矢来は、愛津駅方向には向かっていません。
Uターンしたのは、当時の汽車の力を考え、丘を越えるため、土堤を作って傾斜を作るためでは?
>原口番所」付近に駅を置く計画だった。
無理でしょう。原口番所までは、当時の汽車の能力から見てあの丘を越えるのは無理。原口番所に駅を置くとしても、唐比方面への急坂、逆に千々石方面へ下る急坂。どちらの方面に行くにしても、昔の汽車の力から無理です。
>海岸沿いに駅がふたつ計画されている。目的が判らない。
先ほど書いたように、マイル表示でしょう。特に断層下に駅を作っても、家も何もなく、意味がありませんから。
投稿: sugikan | 2013年9月 7日 (土) 23時59分
TOKです。
目を凝らすと○は一里塚ですね。それにしても実際の駅の位置に近いこと。ふしぎです。
「街道沿いに線路を引く」との考えで「竹矢来」を引用しましたが、無理があったようでです。ご指摘ありがとうございます。
当時、鉄道を引こうと考えた方々の想いを想像するとワクワクします。
投稿: TOK | 2013年9月10日 (火) 11時59分
一里塚は、街道に設置してあるもので、現在、長崎街道では、森山町の唐比と木秀しか残っていません。
とくに、千々石から小浜までは、海岸沿い(汽車道)は、街道はありません。
せいぜい、木津~富津は集落を結ぶ、生活道路があったくらいでしょう。
○印は上のコメントに書いたように、距離のマイルの表示でしょう。
投稿: suzikan | 2013年9月11日 (水) 20時37分