女人堂の「道音」について~雲仙市千々石町木場
「女人堂」については、昨年3月13日に書いた所ですが、昨日、諫早の資料館に行ったと
ころ、諫早史談会の牟田五月男氏が書かれた、「温泉山満明寺『女人堂』跡の河原道音の
板碑について」(諫早史談 第十一号)のコピーをいただきました。
調べると、根井浄氏の、「修験道とキリシタン」にも、この事が言及してありましたので、少し
ばかり、紹介を。
明治12年の「千々石村村誌」には、女人堂について以下のように書いてあります。
「『道知べ』ノ立テル空地アリ此ノ空地ハ一乗院女人堂デアリシ所ナリト傳フ・・・口碑ニ依レ
バ女人ノ登山ヲ茲にて巌禁シ制札ヲ建テリ居タリト・・・當時一乗院ノ盛大ナルコトハ想像外
ニシテ一千余人ノ僧侶ヲ養ヒ・・・男女参詣スルモノ數レズ此ノ女人堂ニモ参詣の婦人ノ婦
人群ヲナシテ参詣シ夜晝読経ノ声絶テザリシト云フ。」
要するに、雲仙は昔、修験道の霊山で、女人禁しであったが、ここら付近(現在、板碑以外
遺物はなし)に,女人堂をたて、女性の方はここで参詣し夜昼なく読経をしていたということ
です。
さて、ここに、板碑が数枚残っていますが、右の写真の下の方に
右に、「妙圓」、左に、「道音」と彫られています。
この「道音」について、牟田五月男氏、根井浄氏は、「深江文書」(佐賀市重文指定)の、
「安富寂献泰長(注:右に泰、左に長の、左右一行書き)本物返田地等売券」の文書の最
初の出だし、「奉活渡河原道音御房所本物返田畠肥前国伊佐早庄船越村・・・・・」。に注目
をしています。
文書内容は、ざっと言えば、安富泰長が河原道音に田畑を抵当に入れ、米、五十石を借り
たとの証文です。
詳しく書くと、切りがないので、この「道音」が、この石碑の「道音」であり、「奉活渡河原道
音御房所」は牟田五月男氏によれば「僧侶である。」と言うことであり、根井浄氏によれば、
千々石、諫早市には、温泉四面神社(千々石町、有家町、吾妻町、諫早市)があり、伊佐
早地方(現諫早市)は、満明寺一山(雲仙市雲仙)の修験道が集中しており、道音について
は、「十四世紀ころに活動した温泉山徒修験の一人であった、といってよいだろう。したが
って、千々石の温泉山の一画に、妙圓とともに板碑を建てたことも理解できると思われ
る、」と書かれております。
なお、牟田五月男氏は、これを踏まえながら、「その氏姓からおして当時伊佐早庄区内で
あったと思われる川原村(現長崎半島の三和町)の土豪出身で彼はこれら温泉山満明寺
と関係のあった諫早地方の前記三ヵ寺の何れかに在院した僧と推考したい。」と書かれて
います。なお、氏は「妙圓」は「道音」の妻室ではないかとも書かれています。
さて、これに対し、「千々石ミゲル」の墓を発見した、大石氏は、「道音」について,「同じ法
名は、例えば五十五名の法名を陰刻した東彼杵郡法音寺の文安四年銘宝篋印塔などの
ようによく使用される。・・・・宝篋印塔では男性の項に陰刻されている・・・・二名の法名を併
記した場合、右に男子(大)の法名を陰刻する場合が通常であることから、右側の「妙圓」
が女性とすれば、左側の「道音」もともに女性の可能性も完全には否定できないように思
われる。・・・・この板碑に陰刻された「道音」と元徳二年の河原道音を直接結びつけること
にはもう少し検討が必要かと思われる。」、と書かれています。
さて、どちらが正確なのか、歴史は推理とロマンですね。私は、単なる野次馬ですが・・・
(参考・引用「諫早史談 十一号」「修験道とキリシタン~根井浄」「大石一久氏」~書名失
念、すみません。)
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