南島原市南有馬町八幡神社 その2~肥前鳥居と供養塔
昨日の続きですが、この八幡神社には、供養塔があります。最初は、場所が分
からず、通りかかった近所のおばさんに聞くと、「見たことないな」と。
境内を捜すと、本殿の横にあるではありませんか。
木立の中で、少し分かりにくいのですが、興味の無い方には、興味が無いので
しょう。
説明版には次のとおり書いてあります。「島原の乱 原城の供養塔 島原の乱
10年後(1684)荒廃した原城付近を見た代官鈴木三郎九郎重成は嘆き悲し
み窮状に同情して首塚と思われる地に供養塔を建て乱当時の死者の霊を慰め
る共に窮状に同情して首塚と思われる地に供養塔を建て乱当時の死者の霊を
慰めると共にこの地の清浄息災五穀豊穣を祈願した 碑文は天草東向寺住職
中華叟珪の撰文である 南有馬町文化財保護審議会」
鈴木三郎九郎重成は、島原・天草の乱に幕府側として、参加しています。寛政
16年、天草の荒廃の様子を見、寛永18年、天草・高来の代官になります。
しかし、土地の荒廃を見るにつけ、慶安元年、天草・高来の僧侶を集め、供養
塔を建て、3日3晩、「金剛般若経」を読経させ、法要を営んだそうです。
碑文は、かなりかすれていますが、何とか読めるところもあります。大石一久氏
(現・長崎歴史文化博物館)が取られた拓本です。
「九州路肥之前州高来郡原之城者寛永十四白丁丑中冬鬼理志丹之宗徒楯籠
處古城也・・・・」、よく読めるな?「有馬町郷土誌」に全部書いてあります。写し
ているだけです。長いのではしょります。
「原之城」は「原城」のことです。「鬼理志丹」は「キリシタン」。禁教前は、「吉利
支丹」とも書いていましたが、禁教後は、「切死丹」、「鬼理死丹」等を使っていま
す。
「肥後住人益田四郎」という文字も見えます。「天草四郎」のことです。
「補数万頡作三分天草当郡長崎三処理」。雲仙市愛野町に、「首塚」があり、昔
は、島原の乱の犠牲者が埋められたとしてありましたが、、これを読むと、埋め
られたのは、現南島原市、天草、長崎だった事が分かると思います。
全部は書き切れないので、ここらで止めますが、ひっそりと建っている碑です
が、大きな歴史を語っている碑です。 (この項終了)
(参考・引用:「南有馬町誌」「島原半島の歴史~監修 松尾卓治」)
あまり暑いので、クーラーを一つ買い換えましたが、ガンガン入れると、ポチど
ころではなく、寒くて、こたつを入れようと本気で思いました。近頃のクーラーは
性能が良くて・・・
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