結城城(金山城)★キリシタン大名ジョルジ結城弥平次と結城一族の墓 その1~雲仙市国見町
国見町の山というより、丘の上に、平山城があり、本丸、二の丸、石垣、土塁が
認められるそうですが、ほとんどは、林、畑などになっています。
城主はキリシタン大名、結城弥平次。それ以前については、看板があるので読
んでください。黄色の矢印が「結城城」、赤の矢印が、「結城一族の墓」
さて、詳細については、前26聖人記念館長結城了吾(ディエゴ・パチェコ)氏が
書かれた「九州キリシタン史」に書かれていますが、キリスト教が五畿内に入っ
たとき、ガスパール・ヴィレラ神父とイルマン・ロレンソを裁くために3名の侍が出
向きますが、かえってイルマン・ロレンソの弟子になり、その中に、洗礼名エンリ
ケ、結城山城守忠正がおり、五畿内きってのキリスト擁護者になります。
息子の結城左衛門も受洗しますが1565年に不慮の死を遂げます。左衛門の
従兄弟、岡山城主結城氏の家老結城弥平次は、20歳の時受洗。洗礼名ジョル
ジ。城主結城氏も感化を受け、キリスト教信者になります。洗礼名ジョアン。
その後、結城ジョアンと弥平次は、キリスト教の発展に寄与しますが、小牧長久
手の戦いで、結城ジョアンは戦死。
結城弥平次はその後、高山右近にも仕えたそうですが、1587年、「小西行長
の基に来た」とも言われ、一万石の知行を得、矢部の「愛藤寺城」の城代になり
ますが、愛藤寺城は当時、山城としては日本一の規模を有し、加藤清正が、「こ
れぞ天下無双の要害、後日用ふる事もあるべし」と、洩らしたと言われていま
す。
以後13年間矢部にいますが、関ヶ原の合戦で行長は敗戦。また、加藤清正の
キリスト教弾圧により、追放され、有馬の地に移ります。
有馬の地には、キリスト教大名有馬晴信が居り、知行3,000石を与えられ、有
馬の北方警護を司る結城城(金山城)の城主にむかえられます。
しかし、有馬晴信は岡大八事件に巻き込まれ失脚。息子の、有馬直純は三番
目の奥方と別れ、家康の曾孫国姫と結婚。棄教してキリスト教を迫害しますが、
結城弥平次には一目置いていたのか、手を出さなかったそうです。
結局、慶長18年追放され、結城城を去り長崎に行ったと記されてあるそうで
す。69歳。
国見町史談会の研究によるのでしょうか。城跡の説明に「その後 結城弥平次
は 末次平蔵の台湾派遣船に 浜田弥兵衛とともに乗船したとあるが その後
は消息不明である。84歳」とありました。
国見町郷土誌には次のように書いてあります。「この金山の地に教会を建て、
宣教師を招き自らの信仰と神の恵みに感謝し、領民に信仰をすすめた。恐らく
当時この金山は朝な夕な、アンゼラスの祈りの鐘が鳴りわたっていたのであろ
う。」
小さな山城ですが、歴史のあるところです。
城の入り口ですが、整然たる石垣は当時のものかな?回りに誰もいなかったの
で聞けませんでした。城跡は整地してあり、公園化してありました。
遺蹟があるということでしたが、捜しても分かりませんでした。
左は馬頭観音。右は分かりませんでした。昔のものか?新しいものか?
敷地の一番海側に十字架が建っていましたが、「入城四百年記念 ジョルジ結
城弥平次」と書いてあり、平成十四年、国見町郷土誌研究会が立てたもので
した。
まだ、いろいろあるのですが、本一冊分になるので、興味ある方は、後は自学
自習で・・・・
(参考・引用:「国見町郷土誌」「キリシタン文化研究シリーズ16 九州キリシタン
史研究 ディエゴ・パチェコ著~結城城主ジョルジ結城弥平次」「島原半島の歴
史~監修・松尾卓次」。現地説明板等より)
昨日の朝は少し涼しく、いつもの「脱パンツ健康法」をしていたら、先っぽがポチ
と寒かった。先っぽ?あそこです。
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