島原城余談~島原市
昨日、島原へ行った折、島原城の堀にも確かハスがあったなと、寄り道をしてみました。
時間が遅かったので、しぼんだのか、今から咲くのか、花は終わってしまったのか、蕾は
ぼちぼち上がっていましたが・・・でも、ハスの葉がこれだけあると、お城に似合いますね。
このお城も、明治6年の「廃城令」、正式には、「全国城郭存廃の処分並兵営地等撰定
方」によって、明治9年には天守閣まで解体されてしまします。
(島原・南高の100年~松尾卓次監修;大正末期の島原城)
島原半島は、キリシタン大名、有馬晴信が治め、居城は北有馬町の日野江城だったので
すが、岡大八事件に巻き込まれ、甲斐へ移封、死罪になります。その後、有馬直純が後
を継ぎますが、幕府に願い出て、慶長19年、日向延岡に5万3千石を与えられ、移ってい
きます。
直純は、棄教をしており、日向延岡に付いていった家臣は、わずかだったといいます。
後の家臣は、信心を捨てず、野に下りますが、この家臣が後の、天草・島原の乱に加わ
ったといいます。なお、この乱のとき、直純は兵を率い幕府方として、戦っています。
なお、直純の後妻は、家康の養女・国姫であったため、島原半島4万石に、1万3千石を
増加して、延岡に移封されたものと考えられます。
主無き島原半島に入ってきたのが、関ヶ原、大阪夏の陣で活躍した、松倉重政。4万3千
石を与えられます。
最初は、有馬家の日野江城に入ったのですが、島原に築城します。これについては、「島
原半島史~林銑吉著」によれば、①元和元年一国一城の制がしかれたこと。②日野江城
を中心とした有馬地方はキリシタンがほとんどだった事。③治城の位置として適当な土地
を選んだ。④松倉重政は、呂宋(ルソン)を攻略する考えがあったこと。(注:キリシタンを
取り締まっても効果が無く、日本へ密入国する神父の本拠地を、占拠した方が効果があ
るとの説)。⑤松倉重政が築城にすぐれ、理想に叶った城を作りたかった。等が考えられ
るそうです。
(島原ぢゃんば~渋江鉄郎著:注 氏名は元治2年、原図は中川熊勝氏 島原第三小学
校作製による。)
黒の四角が、観光で来られるところの入り口ですが、本来は、黒の矢印が、大手門になり
ます。赤の矢印が本丸。天守閣があり、皆さんが見学される所。青の矢印が、二の丸、現
在文化会館、森岳公民館が建っています。灰色の矢印が、三の丸、現在、島原第一小学
校、島原高校が建っています。お殿様の住居です。
本丸には、5階建ての天守閣、3階建ての櫓3カ所、2階建ての櫓7カ所、平櫓6カ所があ
ったそうです。
本丸と二の丸の間には堀を設け、廊下橋を架け、いざというときは、これを切り落とし、敵
を入れないようにしたそうです。
左の写真、赤の矢印が本丸、青の矢印が二の丸。右の写真、青の矢印が二の丸、赤の
矢印が三の丸、現在の島原第一小学校です。
さて、この城は、「島原風土記創刊号~木田正巳氏・島原城余聞」によれば、4万3千石の
大名にしては、分不相応の城だそうで、軍役構成にしても10万石以上の軍役負担をして
いたそうです。
江戸城馬場先門修築のときは、10万石の公役に服したいと申し出たそうですが、この負
担は、庶民にかかってきて、天草・島原の乱に繋がってきます。
昨年、崩れた石垣を修理しているところです。手前の石を人手で積み上げると、どんなに
大変な事か。まして、島原城の石垣全部を人手で積み上げると、どんなに苦役で、費用が
かかったことか・・・・・
参考・写真・分引用
「島原半島史~林銑著」、「南島原町郷土誌」、「島原ぢゃんば~渋江鉄郎」、「島原風土
記創刊号・島原城余聞~木田正巳著」、「ぶらっとさらく島原~松尾卓次著」、「島原・南高
の100年~松尾卓次監修」
動物は冬眠をします。人間は「夏眠冬動」が良いようで、こう暑くては。・・・ポチ、バテた。
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