« 車、買い換えました~車に思う | トップページ | 南串山町の力石~雲仙市南串山町 »

2013年6月 4日 (火)

雲仙鉄道 その22~訂正・そして山はどこ?

1

先日出したばかりの写真です。後ろの山を雲仙岳と紹介しましたが、TKOさんからコメント

で、線路の形状から、雲仙岳ではなく、諫早方面の山ではないかと、ご指摘を頂きました。

ここらあたりで、後ろの山のような大きい山は、諫早の多良岳、島原半島の雲仙岳しかな

いのですが、

2 3

左が諫早の多良岳、右が雲仙岳。雲仙岳の左側が高いようですが、雲仙岳の噴火により

盛り上がったものです。


多良岳とは全く形が違います。右の雲仙岳は、吾妻方面から撮ったものです。

一番上の写真、奥の山が、妙見岳、国見岳、前の山が吾妻岳と判断したのですが、現場

に行って、同じような所から写真を撮ると

4

ここらあたり、家が建て込み、一番上の写真とは全く、変わっています。愛野駅に向かう道

がありますが、この写真の家の表側が旧道になります。線路左側、赤い三角屋根が少し

見えますが、これが、愛野駅です。


こうしてみると、どうも、一番上の写真のような高い山はない。駅の屋根の上側が少し見え

ていますから、少し高台から撮ったものでしょう。ローアングルなら山が高く見えますが・・・


と考えながら買い物をしていると、なんと愛野の郷土史家で、愛野を一番ご存じのO先生

とばったり遭遇。やはり、酒は飲まず、タバコは吸わず、パチンコは止め、女は騙さず、お

まけに甘いものも止め。こういう立派な人間に、天は味方するもの。


ちょうど写真も持っていたので尋ねると、やはり、吾妻町方向から、森山町と愛野町の方

向を撮ったもので、四角の赤いあたりが、諫早東高校付近(森山町)に当たるということで

した。O先生の言うことですから、間違いはないでしょう。


でも、山は?多分、写真のアングルが違うのか?似ている感じの山もあるのですが・・・・

ひょっとしたら、誰か削ったのか?山の形の再検討が必要でしょう。


さて、AKOさんが、機関車の事について触れていたので、

Img

          (島原半島の歴史~監修:松尾卓治)

明治41年に島原鉄道株式会社が設立され。植木元太郎氏を先頭に4年間をかけ開通。

この時走った汽車が、上の写真の機関車ですが、なんと、「汽笛一声新橋を・・・」で歌わ

れた、東京~横浜を日本で一番最初に走った機関車だそうですが、この機関車が、島原

鉄道も走り、島原でも第1号だったそうです。20年間走り続けたそうです。「島原駅とシマ

テツ列車 客車と貨車を一緒に牽引している1号機関車」の説明文が書いてあります。


現在、さいたま市鉄道博物館に所蔵され、車体には「1」と、「惜別無量 昭和五年六月為

記念 島原鉄道社長植木元太郎 識」との銅板が飾られているそうです。国の重要文化

財です。


さて、愛野駅に寄ったところ、少しあれっと

7 8

左が今の愛野駅ですが、赤の四角所の木。

右が以前出しましたが、「長崎県衛生公害研究所報」に載っていた写真。「雲仙山岳後援

会発行 昭和2年 小浜町観光ホテル蔵」との注が入っています(観光ホテルは倒産しまし

た)。これにも同じような木が立っています。多分、この当時からの木ではないでしょうか?

ただ、現在は2本寄り添うように立っており、多分、婚活に成功したのでしょう。

(参考・文引用:「島原半島の歴史~松尾卓治監修」「長崎県衛生公害研究所報」より)



今日もカミサンは留守。でも、新車で一日中ドライブしました。もちろん隣には、かわいい

女の子。AKB48の女の子のグラビアですが。それでもポチと楽しかった。グラビアにポチ

ポチ話しかけたりして・・・・・

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




« 車、買い換えました~車に思う | トップページ | 南串山町の力石~雲仙市南串山町 »

雲仙鉄道」カテゴリの記事

コメント

 あれ?愛野駅の同じ写真だ!とビックリ。愛野駅のレポートをありがとうございます。

 山が消えた理由は「同じような所」が駅に近すぎる為だと思います。「焼肉ヤマト」近くの踏切あたりで、山全体が入るように撮れば同じような絵になると思います。また、屋根の上で撮ったのかも知れませんね。
 グーグルアースで地上に舞い降りて眺めてみると諫早方向も雲仙岳と山の形状が似ているので、間違えるのは止む得ないです。

 鉄道博物館の1号機関車は復元回収されており、ボイラー上のこぶの形状が異なっていますが、ピカピカに磨き上げられ客車を牽引している状態で展示されています。機会が有れば会いに行って下さい。

 もうひとつ、愛野駅の外装のことです。2010年に日本ロマンチスト協会の呼びかけで現在の外装に塗り替えられました。白い背景にピンクのクローバーの模様です。
 そう、「ももいろ」のクローバーです。今流行りのアイドル「ももいろクローバーZ」に関係あるのかなとググってみると「ももクロ「長崎クローバー大使」就任、稲佐山でライブ開催」と言うのも出てきますが、時期的に見て「ももクロ前」。クローバーの数が26(=Z)なら「立派な町に、天は味方するもの」です。
 足りなかったら「ももいろクローバーZ」に来てもらって、クローバーを足してもらうと更に運が高まるでしょう。

「焼き肉ヤマト」をご存じなら、愛野の方かな?

行って見ましたが、住宅ばかりで全然見えないので、少し先の海側に行って見ましたが、な
んか似ているような、似てないような?

あそこの所では、望遠を使わないと、駅はちと小さくしか映らない感じです。
さて、全線開通といえば、大正2年、1913年。一眼レフが各種発売されtのが1890年頃。多分高価な一番レフか、暗箱カメラか?果たして二願レフか?どうも、そちらの方に興味があります。

機関車の件、イギリスから輸入され、改造されているようで、輸入したてのころとは全く違ってますね。
その後も、随所に、「1911年島原鉄道の開業用に譲渡され・・・・蒸気ドーム覆いは、円筒形の不細工なものに交換された。・・・・」
「長年にわたる使用期間中、各所に改造が加えられており、製造時の形態からは相当な変化が生じている。」
「一時期、5000形から取り外した蒸気ドーム覆いを「付けたこともあったが、現在は外されている」
「鉄道博物館では、明治30年頃の仕様で展示している。」など、書かれてあります。こちらの変遷の方が、面白そうですね。
鉄道博物館に行かれたくらいなら、ご存じですね?

愛野駅、あのときは、新聞、テレビなどで評判になったこと、覚えています。
ところで、とんがり帽子の駅になったのが、昭和61年、1986年。このときの写真を見ると、駅の左側に赤字で「ロマンの街」、入り口の所、上に「AINO」、その下に黒字で、「あいのえき」。右に黒字で大きく、「愛しの吾妻」。もちろん、「愛」の上には「いと」とふりがな。「吾妻」の上にも「わがつま」とふりがな。その下に、愛野吾妻間の切符のイラスト。そういえば、屋根の上の、ハート型した風見形もありませんね。
ところで、この写真には、昨日書いた木が写っていません。また、チョンボですね。いずれまた訂正しますが・・・

あの頃は、全国的に愛野駅が有名になった頃で、あれから、もう26年ですか。
ところで、新資料を見つけましたので、また。

 住宅で見えませんか、、、
 グーグルマップで「全線開通の頃の…」の写真の左側の道路の曲がり具合と線路のポイントの位置を観て、ポイントの位置が「全線開通の頃の…」と変わらない。撮影場所はポイントから離れた場所で、踏切なら線路が見通せるだろうから、近くのランドマーク(?)「焼き肉ヤマト」と書きました。踏切の位置では「全線開通の頃の…」の写真にはなりませんが、、、
 残念ながら愛野の街は知りません。旧野井村が現在の愛野の街だと想像していますが、どんなものでしょうか?

踏切は2カ所しかありません。果たして、撮った位置が、どの位置からかは、鉄路に立ち入って見なければ分からないでしょう。あと、写真のレンズと画角との関係。

あそこあたりの家を全部買い占めて、平地にすればすぐ分かるんですが・・・・
まあ、謎もあった方が少しは面白いでしょう。

愛野は、おっしゃるとおり、明治22年に愛津村(昔の地図に会津の表記もあり)と野井村が合併して、愛野村になり、昭和24年に愛野町制施行で「愛野町(あいのまち)」になります。

会津はご存じ、会津駅がある方面です。濱駅のある、竹火、愛野の展望台あたりも愛津名。

なお、昔はかなり奥まで、海であったらしく、三軒茶屋、幸町あたりも、18世紀江戸中期の干拓、山王さんの周囲も干拓地として載っています。駅周辺は江戸後期、明治時代の干拓地になっています。今見れば考えられないことですが・・・

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 雲仙鉄道 その22~訂正・そして山はどこ?:

« 車、買い換えました~車に思う | トップページ | 南串山町の力石~雲仙市南串山町 »

フォト
2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

ブログランク参加中ポチしてね(^o^)

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ