「助けぼぅっさん」★土橋多助(貞恵翁) その1~土橋家墓所
森山町に4年ばかりいるとき、毎年「土橋貞恵翁祭」が行われ、薄れた記憶によれば、町
内の2つの小学校4年生以上と中学生全員が、東小学校に集まり、貞恵翁の遺徳を偲ん
だものでした。
貞恵翁の説明については、各3校の持ち回りで、劇にしたり、校長先生の講話にしたり、と
いう形でしたが、なにせ、小学校の4年、5年、6年、中学校の1年、2年、3年と同じ話を6
回聞くわけになるわけで、これでは、いやでも郷土の先覚者の事を覚える事になり、郷土
を深く理解させるには、こういう徹底さが必要だなと感じたことでした。
諫早市でも、諫早小学校、北諫早小学校、丸尾=上諫早小学校の児童が集まり、顕彰碑
に集まり、訓示のあと、「多助まんじゅう」という、紅白まんじゅうを貰っていたそうです(今
もかな?)。
さて、土橋多助は安永五年、諫早の長田に生まれ。苦労しながら、多良の金泉寺で読み
書きを学び、佐賀の諫早藩で下僕をし、その後、長崎の医者吉松道硯に医術を学び、32
才の時、森山町杉谷で開業します。
このときは、「土橋永春」の看板を掲げていたそうですが、医術の優秀さと、その人格か
ら、寸暇も無いほど多忙を極めたそうです。
そのため、資産が増え富豪となりますが、これらの財産は、森山、諫早地方の架橋、道路
の改修、ため池の築造等に使われています。
万延元年、諫早領主から士族に列せられ、「貞恵」の称号を受けます。晩年には剃髪し、
「知足庵」と称し、仏門に入ります。
晩年にいたり、墓地の準備にかかり、地開きをしたり、墓碑を刻んだそうです。墓碑は森
山東小学校の脇の道から入りますが、案内板があるのですぐ分かります。
ここまで登ってくるのがちとつらい、という感じですが道はちゃんと整備されていました。
墓地は、三段になっています。入り口に、六地蔵。
立派なもので、「先祖代々有縁無縁三界萬靈墓」と刻んであります。
最下段は土橋家の墓。貞恵翁の墓もどこかに建っているのでしょうが・・・・
最上段は三つの尊像。中央が阿弥陀如来、左が大黒天、右が薬師如来。
この、三段に各々カメがいけてあります。
このカメは小鳥が水を飲みに来るために、いけてあるそうですが、深くて鳥がおぼれない
ように、小石を入れて浅くしてあるそうです。濁って中は見えませんでしたが、貞恵翁の
心が感じられるような墓所でした。
(参考・引用:「森山町郷土史」「諫早史談~田中為一著」「高城の歴史散歩~山口祐造
著」より)
新車買って3日目。半日ドライブしていたら、何となく、カミサンより、ポチ心が通じるような
気がしてきました。
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