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2013年6月 8日 (土)

「多助ぼぅっさん」★土橋多助(貞恵翁) その3~くじら橋 

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いま、諫早の眼鏡橋は菖蒲の盛りです。今日は、この眼鏡橋でなく、眼鏡橋の間に見え

る、小さな橋のことです。


くじら橋といい、これも貞恵翁が架けた橋です。この橋については、元来この場所ではな

く、他の所に架けられていたのですが、その変遷を、「高城の散歩道」を書かれた、諫早

高城会の山口裕造氏が発掘されています。


この橋は、旧諫早市役所庁舎のすぐ横に、安政二年(1856)に生活通路として架けられ

たものだそうです。


「くじら橋」の名前については、不明だそうですが、旧市役所庁舎の近くには、本明川が流

れています。ひょっとしたら、このあたりまでくじらが上って来たのかな?

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じっくりと見ると小さいながら趣のある橋です。


昔はここに架かっていたそうで、緑の矢印が市役所。新庁舎。

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赤の矢印の所に欄干が見えます。上の写真の「くじら橋」と比べると、随分大きさが違うみ

たいですが、この橋には「くじらばし」の名前が残っています。


横から見ると、こんな感じ。眼鏡橋横の「くじら橋」で十分渡れるのが分かると思います。

この割堀は、本明川の山下淵から、沖中の方に水を引いた用水路だそうです。

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写真では少し分かりにくいと思いますが、「くじらばし」と平仮名で書いてあります。


この橋は、明治6年、諫早小学校を建てるので、旧道をつぶしたため不要になり、諫早公

園作りが完成をし、登り口に木橋を架けますが、木陰で腐食が早く、くじら橋を解体して、

移築したそうです。


諫早水害の後、眼鏡橋を現在の諫早公園に移築しますが、登り口を盛り土したため、再

度撤去されますが、このとき、良い橋だと言うことで、現在の池の所に移築されたものだそ

うです。


このとき、誰も「くじら橋」とは知らなかったそうですが、山口裕造氏が古老から聞いた話

で、貞恵翁が架けた「くじら橋」だということが分かったそうです。


山口裕造氏は、その著書に、「諫早市民はくじら橋の謂われを知りませんので、石橋の景

観を壊さないよう説明板を据えてもらいたいものです。」と書かれていますが、

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今では、写真のように、立派な説明板が建ててあります。


旧市役所庁舎の前に、頌徳碑が建ててあります。旧庁舎時代はあまり目立たなかったの

ですが、旧庁舎が解体されたため、目立つようになりました。諫早の偉人、福田渭水と土

橋貞恵の頌徳碑です。

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右が土橋貞恵翁の頌徳碑です。碑の廻りには、貞恵翁の功績をたたえる文章がびっしり

と彫り込んであります。  (「多助ぼぅっさん」、お終い)

(参考・引用:「高城の歴史散歩~山口裕造著」、ブログ「fwd-net長崎・諫早」より)


一週間ばかり、舌がヒリヒリするので、耳鼻咽喉科かな?歯科かな?と思っていたら、口

腔外科というのがあるそうで、見て貰ったら、ただ単に舌に水分が不足して、乾いている

とのことで安心しました。ところで、私の舌、誰かポチとでも舐めて、水分補給してくれませ

んか。男はだめよ。

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