「多助ぼぅっさん」★土橋多助(貞恵翁) その3~くじら橋
いま、諫早の眼鏡橋は菖蒲の盛りです。今日は、この眼鏡橋でなく、眼鏡橋の間に見え
る、小さな橋のことです。
くじら橋といい、これも貞恵翁が架けた橋です。この橋については、元来この場所ではな
く、他の所に架けられていたのですが、その変遷を、「高城の散歩道」を書かれた、諫早
高城会の山口裕造氏が発掘されています。
この橋は、旧諫早市役所庁舎のすぐ横に、安政二年(1856)に生活通路として架けられ
たものだそうです。
「くじら橋」の名前については、不明だそうですが、旧市役所庁舎の近くには、本明川が流
れています。ひょっとしたら、このあたりまでくじらが上って来たのかな?
じっくりと見ると小さいながら趣のある橋です。
昔はここに架かっていたそうで、緑の矢印が市役所。新庁舎。
赤の矢印の所に欄干が見えます。上の写真の「くじら橋」と比べると、随分大きさが違うみ
たいですが、この橋には「くじらばし」の名前が残っています。
横から見ると、こんな感じ。眼鏡橋横の「くじら橋」で十分渡れるのが分かると思います。
この割堀は、本明川の山下淵から、沖中の方に水を引いた用水路だそうです。
写真では少し分かりにくいと思いますが、「くじらばし」と平仮名で書いてあります。
この橋は、明治6年、諫早小学校を建てるので、旧道をつぶしたため不要になり、諫早公
園作りが完成をし、登り口に木橋を架けますが、木陰で腐食が早く、くじら橋を解体して、
移築したそうです。
諫早水害の後、眼鏡橋を現在の諫早公園に移築しますが、登り口を盛り土したため、再
度撤去されますが、このとき、良い橋だと言うことで、現在の池の所に移築されたものだそ
うです。
このとき、誰も「くじら橋」とは知らなかったそうですが、山口裕造氏が古老から聞いた話
で、貞恵翁が架けた「くじら橋」だということが分かったそうです。
山口裕造氏は、その著書に、「諫早市民はくじら橋の謂われを知りませんので、石橋の景
観を壊さないよう説明板を据えてもらいたいものです。」と書かれていますが、
今では、写真のように、立派な説明板が建ててあります。
旧市役所庁舎の前に、頌徳碑が建ててあります。旧庁舎時代はあまり目立たなかったの
ですが、旧庁舎が解体されたため、目立つようになりました。諫早の偉人、福田渭水と土
橋貞恵の頌徳碑です。
右が土橋貞恵翁の頌徳碑です。碑の廻りには、貞恵翁の功績をたたえる文章がびっしり
と彫り込んであります。 (「多助ぼぅっさん」、お終い)
(参考・引用:「高城の歴史散歩~山口裕造著」、ブログ「fwd-net長崎・諫早」より)
一週間ばかり、舌がヒリヒリするので、耳鼻咽喉科かな?歯科かな?と思っていたら、口
腔外科というのがあるそうで、見て貰ったら、ただ単に舌に水分が不足して、乾いている
とのことで安心しました。ところで、私の舌、誰かポチとでも舐めて、水分補給してくれませ
んか。男はだめよ。
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