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2013年6月

2013年6月30日 (日)

2013 唐比ハス園(6月30日)満開&唐比蓮祭のお知らせ

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今日は、朝から風雨にもかかわらず、日曜日のせいか、唐比のハス園には、大勢の人。


蓮の花は、長い茎の上に咲き、大きな花弁のため、雨、風には弱く、少し乱れ気味。御髪

が風に乱れるのと一緒(光頭の方には関係ありませんが・・・)。


天気が良ければ

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こんな素敵な花が鑑賞できるのですが。

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写ガールさんが、良いカメラをぶら下げて、被写体さがしているのですが、お花が少し乱れ

て残念。しかし、全種類のハスの花が満開で、見事なものでした。


さて、先日「唐比すれんの会」の方からコメントをいただき、今年の「唐比蓮祭り」は、7月7

日、午前10時から開催、イベントが10時30分からです。


ひょっとこ踊り、琉球太鼓、諫早のんのこ、天満太鼓、釣り大会などイベントがあるそうです

が、雨天中止だとのことだそうです。ポスターをみかけたので。

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問い合わせは、「唐比すれんの会~電話 36-1872」、又は「諫早市森山支所~電話

36-1111」だそうです。是非、お越しを。


今日で6月が終わり、ポチ早すぎませんかね。スローライフの時代なんだから・・・  

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2013年6月29日 (土)

小さな町の小さな書道展★文化を担う人~雲仙市千々石町

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「天才とは1パーセントの才能と99パーセントの努力だ」、だったか、「天才は1パーセント

のひらめきと99パーセントの努力だ」、だったか、「天才は1パーセントのひらめきと、99

パーセントの汗だ」だったか、いろいろ翻訳されているようですが、書道に関して言えば、

私、1パーセントの才能はあったのですが、99パーセントの努力をしなかったために、天

才になり損ねました。(ウソだよ?疑ってますね。本当です。イエス様もいっているではあり

ませんか。「信じるものは救われる」。もっとも、オレオレ詐欺の時代、伊奈かっぺいさんに

よると、「信じるものは騙される」。


さて、今日と明日、千々石町公民館で、書道愛好会による書道展が開催。6~7年前に、

公民館講座で、「書道教室」を1年間実施したのがきっかけで、愛好会ができ、ずっと続い

てきたもの。


今ままでは、公民館祭りで、講堂の一角に展示されていたのを、書道展のみで開催でき

ないかと、今年が第1回の書道展になりました。

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先生の書は、真ん中のですが、長崎県展で、記憶によれば県知事賞だったか、とにかく、

大きな賞を取られた方。本職は、公務員。


本職があって、書道に打ち込むのはなかなか難しく、私の知っている学校の先生も、書道

をとるか、本職を取るかで、一人は学校を止め、書道を取られましたが、今や長崎県書道

界の重鎮です。もう、一人の方は、書道をあきらめ、学校の校長先生にまでなられました。


この書道愛好会の先生も、定年を少し残して、今年3月退職をされましたが、これで、書道

に専念できるでしょう。長崎県書道界では、若手ながらも、大活躍されておられます。


さて、最初の頃は皆さん、それなりにだったのですが、精進の甲斐あってか、随分、上達さ

れていました。「継続は力なり」という言葉、本当ですね。

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参観者も少ないと思っていたら、ひっきりなしに、お客さんが。自分の作品の前で写真を

撮って貰う人。


以前は、東京、福岡まで、絵画展などを見に行っていたのですが、あの華やかさに比べれ

ば、地味ではありますが、素朴で、各人の努力のあとが感じられる書道展でした。こうい

う、地方の人の頑張りが重なって、日本文化を支えていると思っているのですが・・・


宮沢賢治も、草野心平等に見いだされなければ、単なる、一地方文化人だったのですか

ら、地方の文化を大切にしたいものです。


「字」は持って生まれたものといわれますが、私の「痔」は高校時代からです。ポチとも関

係ないか。

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2013年6月28日 (金)

おバカな私と幻の長崎和牛ステーキ

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今回は、良い勉強をしました。何でも、よく調べていくこと。早合点は禁物。


今週、長崎新聞に、

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という記事が出ておりまして、前にも書きましたが、昨年、「第10回全国和牛能力共進会」

が長崎県で開催され、長崎は「肉牛の部」で、日本一の「内閣総理大臣賞」を受賞し、長

崎和牛の名が知れ渡ったのですが、なにせお値段が・・・・・


この新聞を読んで、どういうわけか、「長崎和牛ステーキ半額」、「県農協のエーコープ」、

「午前11時半から」、「23日から」と、こればかりが頭に残り、私の頭の中では、「諫早のエ

ーコープで長崎和牛が半額で買えると。」いう事になった次第でありまして・・・・


諫早の「エーコープ」と言えば、上の写真。カミサンにもたまに、良い思いをさせようと、し

かっりと二人分1960円を握りしめ、少し早めに出かけ、諫早の若奥様に混じり、肉売り

場を中心に、ウロウロと。なにせ、30食の限定。


肉売り場には、肉牛ののぼり旗などありまして。ところが、11時半になっても何の動きもな

し。さてはて?そういえば、諫早には、まだ他にエーコープがあったなと。場所を間違えた

かと、家に帰って新聞をよく読んだら、「エーコープのレストラン」で、「ステーキセット」を半

額で食べさせてくれるとのこと。あ~、なんの為に、わざわざ諫早に行ったんだよ。バカな

私。


ということで、本日はカミサンがいなかったので、一人で食べに出かけました。もちろん、

30食限定ですから、無くなるといけないので少し早めにお出かけ。

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このレストラン以前にも紹介したと思いますが、表には、「祝 日本一 長崎和牛」の旗、中

に一歩入れば、これまた、「第10回 全国和牛能力共進会 日本一(肉牛の部) 内閣総

理大臣賞受賞」の旗。


これは、間違いないと思って、テーブルに着くとメニューが

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でも、どこにも、ステーキのメニューがない。


可愛いウェイトレスさんが来たので、

「ステーキセットは?」

「昨日で、終わりました。」

「え~マジ」

「私、小学の時から、学級委員長をしておりましたので、マジです。」

「じぇ、じぇ、じぇ、じぇ、。ホントかよ、そんなら、代わりに、あなたの太ももあたり、かじらせ

てよ。」

「店長さん。警察呼んでください~」


ということもなく、、またも例によって、一番安い、日替わり定食を・・・・

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これはこれで、お肉(残念ながら牛肉ではありません)と野菜がたっぶりで、マーボードー

フ付きで、580円也(だったなか?)。


なお、長崎店でもやっているそうで、明日は長崎まで行こうかと思って、新聞読んだら、今

日、28日までだとのこと。残念。ホントにおバカな私で、2日間を無駄に過ごしました。「幻

の長崎和牛ステーキ」。今日は本当に落ち込んでおります。


「人生は失敗によってのみ学ぶことができる」、誰の言葉だったか、ポチと心に沁みます。

 

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2013年6月27日 (木)

この一曲~ねむの木の子守歌

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今日は山沿いの道を、愛車VW Up!で走っていたら、久しぶりに、ねむの木を見かけま

した。昔、写真を撮っていたころは、よく被写体にしていたものですが。


近くで見ると

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何とも言えない自然の造形美。いつまで見ていても飽きません。


見ているうちに、ふと、頭の中に歌が・・・・・「ねんねの ねむの木 眠りの木・・・・・・」

そう、美智子皇后殿下作詞、山本正美さん作曲の歌です。山本正美さんは、作曲家、指

揮者、山本直純さんの奥さんで、作曲家です。


山本直純さんといえば、髭をはやし、「大きいことは いいことだ それ!」の森永エールチ

ョコレートのCMで有名でしたが、若い方は知らないか・・・


美智子皇后殿下というより、私たちは、ミッチーというのが身近に感じられ、今の天皇陛下

と結婚される前は、特に、美智子様がつけていたヘアバンドが流行り、日本中の女性、婆

様方も真似をされ、ミッチー・ブームを起こしたものでした。


結婚式の時のパレードも、馬車に乗って、もちろん上の屋根はなし。いわば今でいうオー

プンカーですが、テレビ(白黒、リモコンなしでチャンネルをガチャガチャするやつ)で実況

中継があり、国民全部テレビにかじりついて見たものでした。


さて、美智子皇后殿下は子供の読書にも、造詣が深く、過去2回、IBBIY(国際児童図書評

議会)で、おことばを述べておられます。この、おことばは、宮内庁のホームページでも読

むことができます。→「皇后陛下のIBBYにおけるおことばなど」


美智子皇后殿下もIBBYと1980年ころに、つながりを持たれたらしく、この、おことばの中に

面白いエピソードが。


IBBYの日本支部、JBBYが1990年国際ハンス・クリスチャン・アンデルセン賞の候補者とし

て、日本にも、こういう詩人がいいることを知ってほしいと、まど・みちおさんを選び、その

翻訳を美智子皇后殿下に委嘱され、まど・みちおさんの詩集が数冊送られてきたそうで

す。添えられた手紙の末尾に、こう書き加えられてあったそうです。「翻訳料は、なしで。」



「ねむの木の子守歌」

ねんねの ねむの木 眠りの木

そっとゆすった その枝に

遠い昔の 夜(よ)の調べ

ねんねの ねむの木 子守歌


薄紅(うすくれない)の 花の咲く

ねむの木陰で ふと聞いた

小さなささやき ねむの声

ねんね ねんねと 歌ってた


故郷(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は

今日も歌って いるのでしょうか

あの日の夜(よる)の ささやきを

ねむの木 ねんねの木 子守歌


6月28日号週刊朝日の記事に、美智子さまの病状について載せてあり、そのなかで、

「・・・・訪問先に到着された際、お着物でもお洋服でも、お召しものの背中に、しわが寄っ

ているのを見たことがない。ということです。他の女性皇族は正面はきれいでも、後ろ姿

は、しわが寄っていることもすくなくありません。・・・・・」。早いご回復を願うものです。


さて、この歌、You Tubuでも聞かれますので、ぜひお聞きを。いい歌ですよ。


ご夫妻、本当に仲が良いですね。多分、日本で一番、仲が良い、ご夫妻でしょう。私も、ポ

チ見習いたいものですが、カミサンが・・・・・

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2013年6月25日 (火)

湯煎餅★たかが湯煎餅されど湯煎餅 最終回~雲仙市小浜・雲仙

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こちらの、容器には「入徳」と書いてあります。包み紙の、黒い四角の所、ここにも「入徳」

と書いてあります。この絵柄に「入徳」と書いてあるのは、この店だけです。

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「入徳」と書いて、「にっとく」と読みます「頴川入徳」。中国人。漢方医であり、僧侶。中国名

「陳明徳」。


明朝末期の乱を逃れ長崎にきます。この来た時期、説明版には、慶安年間(1648)とあ

りますが他の本には、寛永4年との記述もありますが、はっきりは分かりませんでした。


さて、入徳は小浜へ来ますが、小浜温泉が病気の治療に効ありと、広くPRし、いわば小浜

溫泉の恩人です。「頴川入徳師翁碑」が小浜の伝妙寺にあり、墓は長崎市夫婦川の春徳

寺にあるそうです。


入徳が、ここらあたりで入浴したであろうという場所があります。

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ほとんどビルの蔭になりますが説明版があり、ここの坂を上がると、小浜歴史資料館(旧

湯大夫本多氏邸)があり、途中に「豊後湯跡」があり、島原城主松倉豊後守重政が気に

いったらたしく、しばしば訪れています。


松倉重政は、島原城を築城しますが、そのための重税、苦役等が、後の島原の乱の原因

となっていきます。寛永七年、入浴にきたおり変死します。これは、いろいろ話があるの

で、又後日。


さて、湯煎餅の美味しい部分

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焼いた後、丸く形成しますが、その時できる不要の部分。意外と美味しいですよ。ただし、

この部分、普通、土産物屋さんには置いてありません。湯煎餅を作っているとこにしかあり

ません。


ただ、この部分、昔は一枚一枚焼いており、この部分が、今のより少なく、美味しいらしく

「長崎県溫泉誌(Ⅱ)」には、次のように書いてあります。


「センペイの子、今頃の人々はセンペイの耳というが機械焼きでは出てこないので(注:多

分昔と今では機械が違っていたのか?)手焼きしか出てこない。これも特有の味があり美

味しいしい。一週間前から注文していないと手には入らない。」


とのことで、昔、一枚一枚、おじいさんが焼いていたという、小浜神社裏にいったら、

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ご覧の通り、家さえありませんでした。神社で、小浜を良く知った方に出会い、聞いたとこ

ろ、小浜には一枚一枚焼いているところは、今は無いという事でした。ただ、前に書いたよ

うに雲仙にあるので、そのうちと思っています。


そういえば、カステラも焼き上げた後、端の方を切り落とし形成しますが、あの切りとった

部分が美味しんですよね。


小浜に来られたら、湯煎餅の耳。長崎に来られたら、カステラの切り落とし。捜してみて下

ださい。これも、旅の楽しみでしょう。


長々と、湯煎餅の話を書きましたが、たかが湯煎餅にも、いろんな事があることを知って

いただければと思い書いてみました。私は小浜の隣町の人間なので、まだ、いろんな話が

あるようでしたが、一応は、これにてお終い。


(参考資料:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド」「ふるさと散歩~小林正著」「長崎溫

 泉誌(Ⅱ)」より)


食べ比べてみると、耳の方がポチ美味しいみたい。あなたの、美味しいそうなお耳も、ポ

チしゃぶってみたいな。

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2013年6月24日 (月)

湯煎餅★たかが湯煎餅されど湯煎餅 その3~雲仙市小浜・雲仙

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湯煎餅は、食べるのも楽しいけれど、この、包装紙を見るのも楽しみのひとつ。


基本的には同じでも、少しづつ違うのが分かるかと思います。この絵柄は鳥瞰図といい、

空に舞い上がった鳥が、大地を見たとしたら、どう見えるかです。この中には、富士山、

東京まで書き込んであります。これも、各店によって、地名の書き込みが違っています。

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この原画については、明治26年発行「小浜温泉」説と、大正10年5月発行の温泉(うんぜ

ん)観光案内の鳥瞰図が使われたとも言われています。(長崎温泉誌(Ⅱ)より)


上から2枚が小浜温泉の分、その下3枚が雲仙温泉の分ですが、一番新しいのが一番上

の絵柄だと思います。黄色い矢印の所。「平成新山」と書いてあります。後で付け加えた

のでしょうが・・・他のにはありませんでした。


さて、小浜歴史資料館で、「大正の広重」と言われた、鳥瞰図の大家「吉田初三郎」展をや

っています。

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本物はまだ小さい絵だそうですが、大きく引き伸ばして展示してあります。写真には全部

入りきれませんが、「日本八景雲仙嶽交通圖繪」。まさに、じぇ、じぇ、じぇ、です。

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ちゃんと、神戸、大阪、京都、名古屋、富士山、東京まで書き込んであります。


もう一点、これは別館の方に飾ってありましたが、

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これは、作者名がありませんでした.、別の方が書いたものでしょう。他にも、別なところ

で、雲仙を中心とした鳥瞰図を、何点か目にしたとがあります。


この絵で面白かったのが、左端に書いてある文字。「昭和十四年三月一日 長崎要塞司

令部御檢閲済」。時代を感じさせますね。


なお、この包装紙の絵柄、前書には、昨日書いた井手上英雄氏の昭和62年の談話とし

て、「雲仙岳から東京までの包装紙は各店で作ったこともあったが、今ではセンベイ組合

でまとめて印刷している。・・・・・」とありますが、少しずつ違った図案を見ると、共同で作っ

た包装紙を、現在では各店アレンジして作っているような感じでした。


さて、今日になって私も気づいたことです。感の良い方は分かったと思いますが、

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よく見てください。「YUSENPEI」と「YUSEMPEI」です。片方は「N」もう一つは「M」です。この

「M」で書いたお店屋さん、上の5軒のうち2軒です。理由を聞こうと思ったのですが、「昔

から使っとって、よう分からん。」という返事が返ってくるのは分かっているので、あえて聞

きませんでしたが・・・・


小浜へ来られた節は、2個ほど別の店のを買って、包装紙を見比べて下さい。子供と競争

で、違っているところを捜すと、頭の体操にも良いですよ。食べて美味しく、頭の訓練。一

石二鳥といったところで。年を召したあなたには、ぼけ防止。


長々、湯煎餅の事ばかり書きましたが、明日は最終回です。


今日6月24日は美空ひばりさんの命日です。平成元年です。梅雨時、ポチとしんみりした

日でありました。

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2013年6月23日 (日)

湯煎餅★たかが湯煎餅されど湯煎餅 その2~雲仙市小浜・雲仙

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さて、雲仙の湯煎餅と小浜の湯煎餅の違い、すぐ分かるのが外観です。左が雲仙の湯煎

餅、右が小浜の湯煎餅。


雲仙のは入れものが多角形、小浜のものは円形です。雲仙の入れものは、現代的という

か、組み立て式の入れもの。雲仙のは厚紙の手作りです。

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小浜のせんぺい屋さんに寄ったら、店先で親子3人、右側の箱をせっせと作っていました。

この上に、包装紙を貼り付けていきます。ほかの店も覗いたら同様でしたが、これを作る

方が、湯餅を焼くのより時間がかかるんじゃないのかな?


この湯煎餅、「長崎温泉誌Ⅱ」に大正9年生まれの、井手上土産品支店の井手上英雄氏

の話として、「昭和40年頃に四角のセンペイも」焼いたが、湯センペイの形は丸とお客さ

んが思い込んでいるので、全く人気がなく、止めてしまった。・・・・・金属製の缶は4~5年

前まで(注:聞き取りは昭和62年12月になっています)使っていた。・・・・・コストが高くなっ

たので、防湿防止のためにビニール袋に内装し、紙箱に入れて売っている。」との話が載

っていました。


さて、もう一つの違い、昨日書きましたが、創案者が誰であったかよく分かりませんが、

「・・・溫泉が体に良いことから、・・・・」という言葉がありますが、上記の「長崎溫泉誌」に

は、小浜の湯煎餅は温泉水を冷やして使用するそうですが、「雲仙地区では、硫黄の濃い

温泉水であるため使用できず、湯せんぺいの味にも微妙なちがいがある。」とあります。


雲仙の湯煎餅の材料のレッテルです。店によって原材料は少し違いはありますが、原則

的に、卵、小麦粉、砂糖が主になります。 

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小浜煎餅です

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赤線を付けていますが、「食塩泉」と書いてあるのが分かると思います。小浜の湯煎餅に

は、「食塩泉」が入っているということです。


「食塩泉」とは、広辞苑によれば、「水分中に食塩一分以上を含有する鉱泉。浴用して慢

性リューマチ・痛風・血管防止に飲用して慢性消化器病に有効。湯河原・熱海・塩原な

ど。」と書いてあります。温泉水のことです。


良く考えてみれば、溫泉の「湯」を入れているから「湯煎餅」ですね.。


材料の配分については、各店によって秘伝があるそうです。 

さて、どれくらい違うか、食べてみましたが、五箱も食べ比べすると、どれがどれだか分か

らなくなってしまい、とにかく、結論から言うと、どれも、おいしかった。

(参考:「長崎県溫泉誌(Ⅱ)~長崎県衛生公害研究所・長崎県自然保護課」より)


今日は、どういわけか、カミサンと歴史博物館の歌川国芳展へ。お食事は、館内の、長崎

の方なら良くご存じの、レストラン「銀嶺」へ。「トルコライス」。

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久しぶりのお肉は美味しゅうございました。ただ、カミサンと一日一緒だと、ポチどころか、

緊張のあまり、ドット疲れました。

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2013年6月22日 (土)

湯煎餅★たかが湯煎餅されど湯煎餅 その1~雲仙市小浜・雲仙

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小浜町には、海に近い小浜地区と、山の雲仙地区とがあります。小浜温と雲仙温泉で

す。観光に訪れた方は多いと思いますが、「湯煎餅」をお土産に買われた方も、多いと思

います。


ちなみに、煎餅は、「せんべい」ではなく、「せんぺい」と言います。新村出編の「広辞苑」で

は「せんべい」はありますが、「せんぺい」では、出ておりません。まあ、一種の方言だと思

えばですね・・・・湯煎餅の表は各店違っていますが、裏は

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「YUSENPEI」と共通に書いてあります。「YUSEMBEI」ではありません。


さて、この「せんぺい」、由来がはっきりしないところがあり、昭和53年発行の「小浜町史

談」には「小浜温泉にて湯煎餅発売(本多西男氏の委嘱により小高三郎氏制作)。」とあ

ります。


昭和52年の小浜町観光課から出された、「国立公園 雲仙観光圏 雲仙・小浜資料総

括編」には、「名物の湯煎餅は、本多小高商店にて、旧島原藩主、松平氏への献上品とし

て、本多家先代西男氏の指揮のもとに創製したもので、・・・・・」と書いてありますが、同書

にもう一カ所、湯煎餅について記述があり、これには、「明治初年、旧島原藩主松平公が

小浜に滞在中、温泉が体に良いことから、温泉を冷やして小麦粉をといた煎餅を創らせた

もので・・・・」と、違うように書いてあります。どちらが本当なのか?

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こちらの湯煎餅の袋には由来が書いてあり、「雲仙湯煎餅は明治初年、旧島原藩主松平

公が当地に湯々治に来られご入浴の同藩主のすすめにより雲仙温泉が人体に特効があ

る雲仙温泉を使用して湯煎餅を創案しました。」と書いてあります。

要するに、島原旧藩主の松平氏が創案したのか、本多西男氏(小浜の湯本、本多家の当

主で、明治時代、小浜の海岸等を自費で埋め立てるなどの事業を行い、小浜の発展に寄

与した方)が創案したのかですが、まあ、出典が書いてないのでよく分かりません。


実際に作って売り出したのは、「小高商店」みたいですが、昭和37,8年頃に店を閉じたと

いうことです。


昔は、一枚一枚焼いていたのですが、今は、

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このように、数枚一緒に焼き、冷えてから耳を取り、成形していきます。


一枚一枚焼いているところがないか、小浜を調べたのですが、どうにも分からず、雲仙に

行ったら、ありました。「ウチも機械を使ってますが、手焼きをしているのは、雲仙ではウチ

一軒になりました。」との事でした。

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これが、昔の湯煎餅を焼く道具です。型に種を流し込んで挟んで、両面をひっくり返しなが

ら焼いていきます。


さて、一口に、同じ湯煎餅といっても、小浜の湯煎餅、雲仙の湯煎餅、少し違ったところあ

るのですが、おあとがよろしいようで・・・・又ね。

(参考:「小浜町史談」「長崎県温泉誌(Ⅱ)~長崎県衛生公害研究所・長崎県自然保護

 課」1998年版)


これ書くために、五箱ほど買ってきて、調べながら、一人でポチポチではなく、ポリポリ食

べながら書いていますが、美味しいですよ。でも、五箱は多すぎるな。

 

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2013年6月21日 (金)

島原鉄道最後のSL~島原市

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オー!やはり、蒸気機関車の実物はすごいもんですね。昔、子供たちに、大人になった

ら、何になりたいという質問に、「機関車の運転手さん」という子が多かったのですが。


さて、先日、島原鉄道さんへ行ったことは書きましたが、「島原鉄道100年史」を読んでみ

ると、靈丘公園にSLが保存してあるとか。


あいにくの台風接近でしたが、昼には温帯低気圧に。ちょうど島原の病院通いもあって、

雨が小降りになったので、寄ってきました。場所は靈丘公園の中央児童遊園の所です。


汽車はC12型。機関車はABCDと頭に符牒が付いていますが、これは、動輪の軸数を表

しているそうで、C型は動輪が3軸になるそうです。D型は動輪が4軸になるのかな?


島原鉄道がC12型を導入したのは、島鉄改革に取り組んだ、故宮崎康平氏の尽力があ

ったようで、「『都会へ食料を送るために努力している農民が輸送不足に悩んでいる』と訴

え続け『12型機関車』を導入」と記されています。


このC12型は、昭和23年に2両、続く24年に3両、計5両を購入。番号はC1201、

C1202、C1203、C1205、C1206。C1204がとんでいますが、「4」と言う字を嫌ったので

はないでしょうか。


横道にそれますが、昔は郵便局が電話業務も取り扱っており、郵便局の電話番号が意外

と「○○42」と付くところがあり、これは、「42番」すなわち「死に(しに)番」に通じ縁起が悪

いため、郵便局が「42」番をとったものと思われます。本当かどうか分かりません。私の独

断と偏見の考えです。パチンコ屋の台の番号も確か「4」は無かったかと思います。

パチンコは止めたので、現在は分かりませんが、昔の記憶です。ところで、この間、

「4444」のナンバーを付けた車が走っていましたが・・・・・あれは、どんな人間なのかな?


C1203号機関車の写真です。

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C1206号機関車の写真です。さすが、今の汽車と違って迫力が違いますね。

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天皇陛下が島原へご巡幸されたのが、昭和24年5月25日。そのとき、お召し列車を牽引し

たのがC1205号車だったそうです。


昭和43年、蒸気機関車はディーゼルカーにバトンタッチします。この時4両が解体されま

すが、せめて一両だけでもということで、3年ばかりかけて、外装を塗り直し、島原市へ寄

贈をし、現在の所に保存されているそうです。


なお、保存されている汽車は、本当は、C1206号車で、番号をC1201に書き換えてある

そうですが、当時を偲ぶためでしょう。


なお、昭和43年、島原鉄道は列車集中制御装置CTCを採用しますが、これは、九州で最

初だったそうです。島鉄が先進的な鉄道だったことがうかがえます。


思えば、高校の修学旅行、大学受験。蒸気機関車に牽かれて行ったものでした。トンネ

ルに入ると、煤煙が窓から入り込むので、そのたびに窓を閉めていた思い出があります。


汽車がお好きな方のために、C12型の車両竣功図表を

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なお、1号車は853,096.3キロ、2号車は682,944.1キロ、3号車は726,229.3キロ、5号

車は749,006.6キロ、6号車は754,537.5キロ走り、ほとんどが月までの往復の距離を走

ったことになるそうです。


なお、諫早~南島原駅の距離が約42.3キロ。ほぼマラソンと同じ距離ですが、開通当時

は3時間を要したそうです。マラソン選手より遅いみたいですが、停車や、貨車の荷物の

入れ替えに時間を要し、一時間以上の遅延もあったとの事だそうです。


(参考・写真・文引用:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」から)


台風もたいしたことは無く、我が家も今日はポチ平穏無事でした。

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2013年6月20日 (木)

小浜のいぼとり地蔵さん~雲仙市小浜町

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雲仙市小浜町の伝明寺の近くにある「いぼとり地蔵」さんです。他に、近くでは唐比にも、いぼ

とり観音があり、これは、諫早一揆(百姓騒動との記述もあり)のリーダー若杉春后の妹婿に

なるそうですが、この話はいずれ・・・口之津にもあるような話しでしたが、これは確認できま

せんでした。


さて、お地蔵さんは、どこにでも見かける仏様ですが、「石の宗教~五来重(ごらいしげる)

著」から抜粋すると、「・・・・地蔵菩薩は田植えを手伝ってくれたり、戦のあいだにに矢を拾

ってくれたり、刀で切られる身代わりにもなってくれる。田植え地蔵とか矢取り地蔵、身代

わり地蔵はこの信仰を表している。」


「また夜泣き地蔵や子育て地蔵などは子供の守護仏とされ、子供に引きずりまわされて喜

ぶという伝説もついている。・・・・」


「・・・阿弥陀如来のように往生だけを叶えるより、一段下等な仏のように見られたことも事

実である。万屋、スーパーマーケットと高級専門店の相違である。しかし、一般庶民は万屋や

スーパーマーケットに親しみを感じ、手軽に願いをかける。地蔵菩薩はどんな些細で我儘な

願いでもきいて下さると信じているからである。」


こうして読んでみると、我々庶民の信仰の根源的なものが、なんとなく分かるような感じが

します。阿弥陀如来様に、「いぼを取ってください。」と、気軽に願い事はできませんからね。


さて、この「いぼとり地蔵さん」ですが、願い事をするとき、「いぼをとってください。」ではダ

メだそうで、「このいぼとれ」と、言うそうです。


願い事をするのに、偉そうに言うものですが、「このいぼをとってください」では、「このいぼ

とって」というのと、「(このいぼを)ください」。「このいぼをとって、ください」と二つの意味

になり、いぼがとれても、又、いぼができてしまうそうです。お礼参りとして、オカラをあげる

そうです。


書いているうちに、美空ひばりさんの「花笠道中」を思い出しました

「これこれ 石の地蔵さん 西へ行くのはこっちかえ だまっていては わからない・・・・・」

この唄、歌える方は、ほとんどいないだろうな?


(参考・文引用:「石の宗教~五来重著(講談社学術文庫)」より)


台風が近づいて来ています。台風前の静けさというか、最近のウチのカミサンの感じとポ

チ似てますね。

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2013年6月19日 (水)

千々石の田植え風景~雲仙市千々石町

Dscf1903

昨年も、田植え風景を載せましたが、こんな広い田も機械ですれば、ほとんど人手いら

ず。

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Dscf1915 Dscf1917

苗を植えるのも田植機で、ただ、植え残しがある所は、人の手で。

Dscf1907 Dscf1909

苗も今では農協などで、左の写真のように、育苗したのもを使います。右が余り苗。苗が

風で倒れたり、根付かなかった時に使いますが、ほとんどが、そのまま枯れてしまいま

す。


役に立つときがあれば良いのですが・・・・これを見るたびに、自分の身と比べて、何とな

く、侘しくもあります。

Dscf1912

日本人の勤勉さでしょう。こんな狭いところにも、ちゃんと植えてあります。


勿体なや昼寝して聞く田植唄   一茶

風流のはじめや奥の田植えうた   芭蕉


今や、田植唄なんて、ありません。ラジオをガンガンかけて、田植えをやっています。


さて、

Img

   (「目で見る 島原・南高の100年~監修 松尾卓治」より)


牛に鋤を引かせて田起しをしている風景です。島原の昭和33年の写真と書いてあります。

後ろに見えているのが、眉山。島原大変肥後迷惑で崩落した山です。


そういえば、ウチのカミサンの実家にも、牛を飼っていましたが・・・・美味しそうでした。


これも珍しい写真で、耕耘機の実演風景だそうです。昭和30年代の写真だそうで、この

頃から農業の機械化が始まりかけたのでしょう。

Img_2

                 (同書より)


昔は、お米は、八十八回(米という字を分解すると八十八になります)という、手間をかけ

て苦労して育てたものだから、大切に食べなさいと習ったものですが、今の農業の機械化

を見ると・・・・


農家にとっては、機械化したほうが楽で、農業はつらいものと、昔のイメージが残っている

ため、なかなか嫁がこなくて、40歳代で独身はざらです。都会のお嬢さん方も農家へ嫁ぎ

ませんか?何よりも土に親しむのは楽しい事ですよ。


久しぶりに、森山町上井牟田のため池に行ってみたら、オブジェが変わっていました。

Dscf1971

多分、サッカーのワールドカップ出場を祝ってのものでしょう。後ろのお馬さん。ここも米所

で、田植え時期なので、農耕馬をイメージしたものかな?

(参考・写真:「目で見る 島原・南高の100年~監修・松尾卓治」)


台風が近付いてきています。皆さんもポチご注意を。ウチのカミサンの台風に比べれば、

ポチとも比べものにならないけれど・・・

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2013年6月18日 (火)

やまぼうし、今が最高~雲仙市小浜町雲仙

1

今日は朝から、長崎の漢方医さんへ。4月から時間予約制にしたので、いつもより待ち時

間は少なくてすみましたが、相変わらず、若い奥様風の方が半分。東洋医学のブームで

すね。数年前までは、年寄りの患者さんばかりでしたが・・・


診察が終わると、すぐに、30分ほど車で走って車屋さんへ。1000㎞の点検です。異常な

し。異常があるのは私の体だけ。


さて、小浜・雲仙の湯煎餅の話を調べていると面白く、すぐに引き返し、小浜と雲仙へ調

べに。小浜と雲仙の湯煎餅、同じようで違うんですね。この話は、また後で。


湯煎餅は、以前は一枚一枚焼いていましたが、現在はまとめて何枚か焼いていきます。

この、一枚づつ焼いているところがないか、小浜を走り回ったのですが、見つけきれませ

ん。ならばと、愛車VW Up!を走らせて、雲仙へ。1000㏄ながら、MTモードで走らせる

と、山道をよく走ること。制限速度を(少しオーバーして)守りながら、お山雲仙へ。


ところが、途中にヤマボウシが、あちらこちらに咲いていました。今が盛りです。花の盛り

は良いもんですね。女盛りと一緒。おまけに、回りは霧の中。素敵な風景でした。

3 Dscf1957

下界の小浜では、ジャカランダフェスタを実施していますが、こちらのヤマボウシ、色が白

いうえに、霧の中。何となく、もの悲しい風情が漂っていました。とにかく、今が見頃です。

とくに、小浜から雲仙に上る道と、西有家から上る道が交差するあたり、最高でした。


そういえば、昔、銀行員だった人の唄にありますね。「真綿色したヤマボウシほど 清(す

が)しいものはない 出逢いの時の 君のようで・・・・」。全くその通りの姿でした。唄の歌

詞がチト違ったかな?


帰りに、千々石岳地区の棚田をちょっと覗きに。

Dscf1962

展望台からですが、前の木が邪魔。本当は、まだ田は広がっているのです。休耕田がいく

つか見えます。昨年は田植えをしていたところですが・・・はやり跡継ぎがいないのかな?


湯煎餅のことですか?ヤマボウシの花を見ていたら、ポチとどうでもよくなりました。

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2013年6月17日 (月)

雲仙鉄道 その24~愛野村駅★英語をしゃべる駅長さん

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      (「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」より)


昭和初期頃の愛野村駅です。スキャナーに入らないので、写真で撮りましたので、少し分

かりにくいところもあるかと思います。同書より同じ愛野村駅。

Img_0001

駅舎、プラットフォーム、駅名の標記の位置、柱の位置等を見れば、ほぼ同じ時期に撮ら

れた写真でしょうが、現在と違っているのが、駅舎と向かい側にあるプラットフォームの位

置。


この写真を見るかぎりでは、駅舎と向かい側のプラとフォームが、真向かいでなく、斜めに

位置しています。

現在は

Dscf1940 Dscf1941

駅舎の向かい側のプラットフォームは、ほぼ前の方にあります。駅舎の位置が変わったの

か、プラットフォームの位置が変わったのか、両方とも変わったのか?


何回も出している写真ですが、開通当初の愛野村駅の写真

1

       (「目で見る島原・南高の100年~松尾卓治監修」より)

大正2年頃の写真だそうです。最初の写真が昭和初期の写真ですから、ずいぶんな変わ

りようです。


話しは少し変わりますが、雲仙鉄道を調べているうちに、少し、おや?と思うことがあって、

あちらこちら調べたのですが、どうにも分からず、結局、島原鉄道の資料を見せて貰わな

ければと考え、寄ってみたのですが、丁重な応対と、貴重な冊子をいただき、こちらにな

い、写真、文章も載っており、島原鉄道さんには心から感謝する次第です。


この話は、この冊子の中に出てくる話しです。

雲仙は、昔、外人の避暑地で、大勢の外人客が来ています。

Img_0002_2

    (「目で見る島原・南高の100年~松尾卓治監修」より)


説明にはこう書いてあります。「仮装ダンスパーティー(小浜町・昭和初期)明治初期より

長崎に居留する外国人だけでなく、シャンハイ、ホンコンをはじめロシアなどからも訪れる

避暑地であった雲仙。県公園事務所の隣に『雲仙娯楽館』が大正2年に開館。外人避暑

客の日曜日の礼拝、ダンスパーティーなどに利用された。(社)雲仙観光協会所蔵

『UNZN』より」。


と言うことで、かなりの外国人がやってきますが、「島原鉄道100年史」には、「昭和初期

には、本諫早、愛野駅、島原湊駅では外国人旅客が多く、外国金貨で切符を買うことも多

かった。『とくに愛野駅は雲仙登山行きで外人乗客が多かったので、駅長は英語ができ

なければならなかった。・・・2等車には通訳が乗っていたと言う。』(島鉄ニュース「浜木

綿」)。別の記事には「英語を話せなければ駅長がつとまらなかったというわけだ。同駅

には当時の名残を示すように、朽ち果てた木製の様式トイがいまも残っている。」(太字は

私)


時代を考えると、現代の中学校、高校に進学できるのはわずかな人で、この時代、英語

を話せる駅長をがいたとは、愛野村駅はかなり、重要で、先進的な駅だったことがうかが

えます。


「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」は、平成20年の出版ですから、まだ、木製の

トイレが残っているのではないかと、急いで行って見たのですが、残念ながら新しいのと取

り替えてありました、ついでに出してきましたが・・・・


島原鉄道さんには、ヨレっとした風体の人間が突如お邪魔したにも関わらず、丁重な応対

と、貴重な資料をいただきましたことを改めてお礼申しあげます。

まだ、貴重な写真等載せてありますので、順次紹介をしていきたいと思います。

(参考・文引用:「島原鉄道100年史~夢ある未来をめざして」「目で見る島原・南高の100

 年~松尾卓治監修。)


今日は植木屋さんが来て、植木の剪定。暑い中を大変な作業です。顧みて、毎日ゴロゴロ

している時分の身を、ポチ反省。

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2013年6月15日 (土)

2013 第8回小浜温泉ジャカランダフェスタ★昼のジャカランダ・夜のジャカランダ~雲仙市小浜町

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去年も書きましたが、今年も雲仙の小浜町で、ジャカランダフェスタが開かれています。期

間は、6月1日~30日まで。


今日が6月15日ですが、23日(日)は、小浜のマリンパークでイベントが開催されるようで

す(内容は観光協会へお尋ねを)。


熱帯3大花樹のひとつだそうで、高さが2mから30mになるそうです。

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前町長が30年ほど前、口之津出身で、アフリカ諸国の政治顧問を務めた方から種をもら

い、植え付けたのが始めだそうです。


大きな木が、国道沿いに2本ありますが、雨に打たれたのか、花の終わりなのか、かなり

散っていました。

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現在、町の中央部だけでなく、段々と国道沿いに定植していますが、若い木には花が付き

にくいのか、今から咲くのか分かりませんが、あまり花がついていませんでした。大きな木

なると、花が付きやすくなるのかな?


夜もライトアップがあるとかで、出かけました。昔は、よく小浜までタクシーで飲みに行った

もんですが。ドクターストップがなかったら、寄りたかった・・・古人曰く、「花より女性。」


ライトアップは、上の写真の木の所だけでしたが、これはこれで、風情があるもの

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この木を背景に写真を撮っている、観光客の方が大勢おられました。


なお、踊りを踊っているお姉さんですが、小浜民謡の「女よい節(おなよいぶし)」を踊って

いるところです。婚活中です。


昔、青年小屋・娘小屋があった頃、海で漁業に励み、小屋で一日の疲れを癒やしながら、

歌った地唄が、この「女よい節」になったということです。この唄、昨年も紹介しましたが、

昨年は3番だけだったので、今年は1番だけ。来年は2番を紹介します。


おどんがえん父やんたちゃ

石合(いしあい)浜ん沖でヤーンサホイ

波に揺られ手繰網(てぐり)ひくヨーイヨイ

 女よい 籠(ぼら)もってこい


(参考:「小浜町史談」・説明板より)


昨年のブログを見たら、一番上の写真、まったく同じ角度から撮っていました。ポチとも進

歩がないこと・・・・・ポチ反省・・・・・

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2013年6月14日 (金)

USB扇風機の使い方~決定版

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今日は諫早の病院へ。一番心配している、前立腺の検査です。親族に前立腺癌がいる方

は、前立腺癌にかかる確率が高いとか。私の父も前立腺癌でしたから、なんとなく心配。


検査結果は、癌の測定値、PSAが5.9。前回が5.8。ほとんど変わらない状態。上限値

が4.0なので、高めといえば高め。


「どうしますか?」生体検査をするかどうかのことです。「いやだ」。「そしたら、もう少し様子

をみますか?」。「お願いそうして」。ということで、また、3か月後に血液検査を。

つでに、「なにか、注意することは?」と聞くと。「医者に来ることです」。ごもっとも。


癌ならば、この値がだんだん上がっていくのですが、高止まりで、なんとなくすっきりしない

感じ。


最近の病院は、カルテもパソコン入力で、横目で見ていると、「ガンの疑い」と書いていま

した。ということで、今日は、心が落ち着かないので、くだらないことを・・・・・


以下については、少し、不愉快な思いをされる方もおられますと思いますので、読まれる

方は自己責任で・・・・


上の写真は、USB扇風機です。夏にパソコンを使うとき利用しています。980円也。ただ、

USB利用のためか、以前のものより、風力は増しましたが、力が若干弱く、風のあたる範

囲が狭く、顔あたりに風が当たる程度。


何とか、いい方法はないかと、試行錯誤の結果、行きついたのが、この方法

Dscf1823

お~なんとむっちりしたお股。そそりますね。私ですが・・・・


股火鉢ならぬ、股扇風機。もちろん上も下もスッポンポンです。でも、涼しいこと。以前、

脱パンツ健康法」なる本の紹介をしましたが、あれと一緒ですね。


○玉にあたる、そよそよとした、風の心地よさ。毎日、パンツの中に幽閉されている○玉

も、大喜びのご様子。これ、文句なく気持ちいいですよ。是非、お試しを。ただし、一人の

時に限ります。家族に見つからないように。一生軽蔑されますから。特に娘さんには。



女性の方ですか?まさか、こんな恰好、できないだろうし。そこは、大和撫子。我慢しまし

ょう。古人曰く、「よくぞ男に生まれけり」。


今日も、検査に昼までかかったので、節電とやらで、病院内のクーラーの温度設定も高く

してあり、暑かったので、昼食は病院の食堂で冷やし中華。検査結果が思わしくもなく、お

味の方はよくわかりませんでした。


なお、ご注意ですが、上の黒く塗りつぶした部分、消しゴムを使っても消えません。もっと

も、見せるほど、立派なものではないし。昔、キャバクラで握られて、「わ~可愛いい。」と

言われた程度のものです。

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今、上のような写真の格好で、ブログ書いていますが、ポチ恥ずかしいな・・・・

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2013年6月13日 (木)

2013 大村公園の菖蒲&国立大村病院~長崎県大村市

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今日は、国立大村病院へ(前にも書きましたが、正式名称、独立行政法人国立病院機構

長崎医療センター)。3ヶ月ぶりの検診です。以前にも書きましたが、特定健診の肝臓の

検査で、AST(GOT)とALT(GTP)と、何とかかんとかの値が異常に高く、紹介されてきたも

のです。


あれrから、半年、2回目の検診ですが、本人の努力の甲斐あって、どちらとも、異常なし

(本当に私は偉い)。この値が高いと、肝脂肪、急性肝炎、慢性肝炎、肝硬変、肝臓がん、

原発生胆汁性肝硬変、薬剤性肝炎、アルコール性肝炎が疑われるそうです。ASTが高い

場合は、心筋梗塞も疑われるそうです。皆さんも、主治医を持って、定期的に検診を。


「あなたは安心すると、また太って、値が上がるだろうから、気を引き締めるために、又、

半年後に来なさい。」との、ありがたいお言葉を頂きました。その時、肝臓のエコーも撮る

そうで、肝臓に付いた脂肪はなかなか落ちないそうです。


さて、ほっとして、終わったのがお昼頃。食堂が10階(9階だったかな?)にあるので、お

昼ご飯。いつもの、一番安いランチ。どこへ行っても、お昼には一番安いランチを食べま

す。


これには理由があって、お昼の安いランチに手抜きをする食堂はろくな所はない(金がな

いということもありますが)、という私の哲学でありまして。そのような店は、夜には利用は

しないと・・・・

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飯食って、同じ階に空中庭園なるものがあるとかで覗いたら、一番上の写真。雰囲気良い

ですね。患者さんの心を和らげるために作ったのでしょうが、季節の良い時なら、眺めは

良いし最高でしょう(ビアホールにすれば、まだ最高でしょうが・・・・)。何となく、恋の語ら

いをという感じ。


ちょうど、ドクターヘリが飛んできて、最近大活躍という感じです。千々石にも時々飛んで

きます。患者さん無事なら良いんですが・・・・


さて、どうせ、家に帰ってもすることもないので、大村公園へ菖蒲を見に。これも昨年書き

ましたが、年取ると、同じ事を繰り返すことが多くなって・・・

3

昨年は、ちょうど盛りの時来たのですが、菖蒲の見頃は、5月下旬から6月中旬。今年は

来るのが少し遅くなって、盛りは過ぎていましたが、まだまだ十分楽しめました。


左は私の好きな風景で、「穴門」。肛門ではありません。何のために、このようにしたの

か、説明板もないので分かりません。穴が好きなお殿様がいたのかな?(嫌いな人は少

ないけれど)

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右は、桜並木。と言っても花は咲いていませんが。オオムラザクラ、ソメイヨシノ、玖島(ク

シマ)桜。この公園は、玖島城です。よく大村城と言われる方もおられますが。桜の頃、ま

た来ることに。

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城に菖蒲、以外と良いですね。もう少し花が咲いていたら良かったのですが。残念というと

ころ。先日、島原城の菖蒲園も紹介しましたが。お城には、桜も似合うし、梅も似合うし。


道元禅師の和歌ですが

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり

自然って良いもんですね。私は、若い女性の方が好きですが・・・・


ところで、桜の説明板を読むと、桜はバラ科なんですね。トゲのないバラ科もあるんです

ね。ウチのカミサンもトゲが無ければ、ポチ可愛いものを・・・・・

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2013年6月12日 (水)

雲仙鉄道 その23~富津トンネル修復跡の謎

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この話、以前書こうと思っていて、すっかり忘れていました。

数ヶ月前、小浜町の観光ボランティアのMさんから、富津を案内していただいたとき、聞い

た話です。


上千々石駅から肥前小浜駅まで、3つのトンネルがあります。汽車道を車で走られた方

は、トンネルが狭いので怖い思いをされたことと思います。


この各トンネルには名前がついていません。「千々石ネット」によると、千々石から、第1ト

ンネル、第2トンネル、第3トンネルと呼んだり、長崎大学の調査では、千々石側から、第2

トンネル、第1トンネル、富津トンネルであったとか、小浜側から、第1トンネル、第2トンネ

ル、第3トンネルと呼んでいたとか・・・どれが本当か分かりません。


とにかく、上の写真は、一番小浜側の富津の所にあるトンネルです。

さて、このなかにMさんから案内され、

Dscf1621

明らかに、補修した跡があります。さて、これは、なんでしょう?と言うのが、Mさんの謎か

けでした。


もちろん、トンネルが古くなって、危険になったための補修だと誰でも思うでしょうが、なん

と、これが大違い。ここに防空壕が掘ってあって、それを塞いだ跡だそうです。少し長い防

空壕であったそうです。終戦直後、浮浪者が住んでいて、Mさんが子供の時、ここを通る

のが怖かったそうです。


橘湾周辺には、加津佐の岩戸山の砲台跡、南串山町の震洋の基地、富津の山の上のが

っくり石の砲台(重機?)、千々石側のトンネル砲台跡、愛野の展望所下の砲台跡とあり、

戦中の方と話しをしていると、千々石の山の中に、随分、防空壕を掘ったそうですが、終

戦直前の本土決戦に備えたものでしょう。


多分ここもそうなんでしょうが、これは地元の人にしか分かりませんね。まだまだ、私たち

の回りに戦争の跡が残っているようです。なお、ここは狭くて、以外と車が多いので、入る

ときはご注意を。


明日、明後日は病院の検査。今日はポチと早めに、お休みなさい。

 

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2013年6月11日 (火)

安勝寺(あんしょうじ)の時鐘(じしょう)~長崎県諫早市

Photo

私の古くからの知人に、「十人十色、そのひとつ」という、高尚なブログを書いているのが

おりまして、人間、年取れば、かくも老成するものかと、我が身を反省しているところであり

す。


ブログを読むと、昨日が時の記念日だったとか。そちらのブログに、時の記念日の由来が

書いてありますのでご覧ください。なお、時の記念日を制定したのは、「東京天文台」と「生

活改善同盟会」。大正九年のことです。


それで、思い出して、いつかは見てみようと思っていた、[安勝寺の時鐘」へ。時鐘は字の

通り「時を告げる鐘」のことです。


昔はみんな機械式腕時計をしていたもんですが、クォーツの時計に変わり、また、機械式

時計が、じわりと復活をとげていますが、今の若い方、ほとんど時計はしていませんね。

携帯があれば、時刻はすぐ分かりますから。さて、大昔は時計なんかありませんでしたか

ら・・・・・・・


「諫早を歩く~山口八郎著」によれば、明け六つの鐘が午前六時、六つ半の鐘が七時、五

つの鐘が八時と、当時の時刻は深夜零時の九つから、二時間刻みで数を減らし、十一時

が四つ半、十二時に元の九つに戻ったそうです。昼の九つが昼食時。暮れ六つの鐘で家

路についたそうです。


さて、この安勝寺、本明川沿いにあり、

Photo_2

手前が本明川ですが、雨が少ないせいか、細くなっています。その向こう側にこんもりした

木立が見えます。その間に建物が少し見えると思いますが、これが、上の写真の、「時鐘」

です。


元来、諫早には「時鐘」がなかったのですが、はやり不自由。ということで、要望があり、第

七代茂晴公のとき、享保五年九月十八日から時の鐘をつくようになったそうです。


といっても、機械の自動式ではありませんから、人とお金が必要。五十石を商人に貸し付

け、利息十石を安勝寺に渡し、寺男にその役を命じたそうです。


さて、鐘をつくといっても、時計があるわけでなし、珍竹(ちんちく、竹の一種だそうです)を

細く割って火縄を作り、目印をつけ、それを目安に、時刻の鐘をついたそうですが、なにぶ

んにも寺男のすること、時には鐘をつくのを忘れて、役所から怒られたこともあったそうで

す。


なお、一番上の写真のように、鐘の音が遠くまで響くように、鐘楼を建て、高いところから、

鐘をついたそうです。

Photo_3 Photo_4

なお、このお寺は、諫早家初代家晴の時代から、領内真宗総道場の辞令を受けた、名刹

です。シーボルトの宿舎にも使われたそうです。


境内に立派な常夜灯が2基。文政九年(1826)と寛政四年(1792)のもので、寛政四年

と言えば、雲仙の大噴火が起こった年です。


さて、しばらくウロウロしていると、いかにも由緒あるという感じの猫さんのお出迎えと、変

な看板・・・

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話し変わって、近くに、高城橋がありますが、欄干に10個ばかり、小さな銅像が設置してあ

ります。「なかよし兄弟」、「サッカー少年」。

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本を読む少女。何の本か覗いて見たら、「ルツゲーネフ」の「初恋」でした。昔の若かりし時

を思いだいますね。「星を見る少女」。この彫刻、見ていると何となく、癒やされました。とこ

ろで、私も諫早市に一つ彫刻を寄付することにしました、「ネオンサインを見る老人」。

Photo_9 Photo_8

今日も又、カミサンは留守、これじゃ、高齢者の独居老人状態。弁当は飽きたし、帰り道、

いつか紹介した、森山町図書館近くの慶師野のレストランへ(名前、また、忘れました)。

いつもの孤独のグルメ。これで、650円ですから、お安いものです。

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(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「高城の史跡散歩~山口裕造著」より)


今週の木曜日は病院で、また再検査、PSAの値が高かったら、また、あの、いやな前立腺

生体検査が待ち受けており、ここ2,3日、ポチ憂鬱な日であります。

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2013年6月 9日 (日)

2013 島原城菖蒲園&唐比ハス園(6月9日現在)~島原市・諫早市森山町

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島原まで用事の帰り、島原城に寄ってみたら、菖蒲の花が盛りでした。まだ、芽があがっ

てきているので、今月いっぱいは楽しめそう。

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お城の石垣に菖蒲。似合いますね。


もっとも、この城を築城するため、膨大な資金と人力を要し、島原・天草の乱へとつながっ

ていく原因になるのですが。


この石垣には、島原の乱の原城、キリシタン大名有馬晴信の日之江城からも石を運んで

来ています。当時の重機もなかった時代、すごいものです。


ついでに、諫早市森山町の唐比ハス園へ。先日も紹介しましたので、様子を見に行って見

ました。

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咲いているのは、まだ、ほんの一角。他の所は、まだ小さな蕾があがってきている状態。

右はスイレンですが、こちらも、まだまだと言う状態でした。

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晴れていて、ハスの花が咲いていたら、ここからの風景が一番良いんですけれど

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後ろの連なった山が、妙見岳に国見岳。かすかに、小さなとんがりが見えますが、平成

新山。少し下がったところが、九千部岳、一番左が吾妻岳。九千部岳と吾妻岳の間には

田代原という、牛の放牧場があります。キャンプ場もあり、夏は涼しく、良いところです。

左の平らな丘のような所が、千々石断層。ずっと先の方まで続いています。


この山々、元気なときは毎週登っていたのですが・・・・特に九千部は好きな山で、何十回

登ったことか。皆さんも、機会があったら是非どうぞ。他県からも、バスを使い、団体で良く

登山に来ています。


今日もカミサンが留守で、有明海の見えるレストラン(スミマセン、店の名前忘れました)

で、パスタランチ。良い雰囲気でしたが又孤食で、例のごとくポチと寂しい昼食でした。

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2013年6月 8日 (土)

「多助ぼぅっさん」★土橋多助(貞恵翁) その3~くじら橋 

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いま、諫早の眼鏡橋は菖蒲の盛りです。今日は、この眼鏡橋でなく、眼鏡橋の間に見え

る、小さな橋のことです。


くじら橋といい、これも貞恵翁が架けた橋です。この橋については、元来この場所ではな

く、他の所に架けられていたのですが、その変遷を、「高城の散歩道」を書かれた、諫早

高城会の山口裕造氏が発掘されています。


この橋は、旧諫早市役所庁舎のすぐ横に、安政二年(1856)に生活通路として架けられ

たものだそうです。


「くじら橋」の名前については、不明だそうですが、旧市役所庁舎の近くには、本明川が流

れています。ひょっとしたら、このあたりまでくじらが上って来たのかな?

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じっくりと見ると小さいながら趣のある橋です。


昔はここに架かっていたそうで、緑の矢印が市役所。新庁舎。

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赤の矢印の所に欄干が見えます。上の写真の「くじら橋」と比べると、随分大きさが違うみ

たいですが、この橋には「くじらばし」の名前が残っています。


横から見ると、こんな感じ。眼鏡橋横の「くじら橋」で十分渡れるのが分かると思います。

この割堀は、本明川の山下淵から、沖中の方に水を引いた用水路だそうです。

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写真では少し分かりにくいと思いますが、「くじらばし」と平仮名で書いてあります。


この橋は、明治6年、諫早小学校を建てるので、旧道をつぶしたため不要になり、諫早公

園作りが完成をし、登り口に木橋を架けますが、木陰で腐食が早く、くじら橋を解体して、

移築したそうです。


諫早水害の後、眼鏡橋を現在の諫早公園に移築しますが、登り口を盛り土したため、再

度撤去されますが、このとき、良い橋だと言うことで、現在の池の所に移築されたものだそ

うです。


このとき、誰も「くじら橋」とは知らなかったそうですが、山口裕造氏が古老から聞いた話

で、貞恵翁が架けた「くじら橋」だということが分かったそうです。


山口裕造氏は、その著書に、「諫早市民はくじら橋の謂われを知りませんので、石橋の景

観を壊さないよう説明板を据えてもらいたいものです。」と書かれていますが、

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今では、写真のように、立派な説明板が建ててあります。


旧市役所庁舎の前に、頌徳碑が建ててあります。旧庁舎時代はあまり目立たなかったの

ですが、旧庁舎が解体されたため、目立つようになりました。諫早の偉人、福田渭水と土

橋貞恵の頌徳碑です。

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右が土橋貞恵翁の頌徳碑です。碑の廻りには、貞恵翁の功績をたたえる文章がびっしり

と彫り込んであります。  (「多助ぼぅっさん」、お終い)

(参考・引用:「高城の歴史散歩~山口裕造著」、ブログ「fwd-net長崎・諫早」より)


一週間ばかり、舌がヒリヒリするので、耳鼻咽喉科かな?歯科かな?と思っていたら、口

腔外科というのがあるそうで、見て貰ったら、ただ単に舌に水分が不足して、乾いている

とのことで安心しました。ところで、私の舌、誰かポチとでも舐めて、水分補給してくれませ

んか。男はだめよ。

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2013年6月 7日 (金)

「多助ぼぅっさん」★土橋多助(貞恵翁) その2~多助橋と貞恵翁堀

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昨日の続きですが、当時は、今のように道路状況等も良くなく、今でいう公共事業を貞恵

翁は私費でおこなっています。


橋がなく困っている人のために、諫早から森山町にかけ、半蔵橋、田代橋、くじら橋、段道

橋、多助橋、また、灌漑用水に困っているところにはため池、藩校好古館には学校田など

の寄付をしています。

森山町には、多助橋、貞恵翁のため池が残っているので、ぶらりぶらりと・・・・多助橋は慶

師野川沿いと言うことで・・・・こちらは、事前に調べると、コンクリート橋に変わっていると

か。


まあ、場所が分からないので、川沿いに行くと、建物があって、その前になにやら胸像

が・・


ここは正式名称、「諫早市健康福祉センター森山分館・森山保健センター・諫早市南部地

域包括支援センター」。3回読むと舌をかみそうな名前。四角いところに胸像があり、ひょ

っとしたらと思い、寄ってみたら、案の定、上の、「土橋貞恵翁」の胸像。はやり、郷土の先

覚者として、いまも名を残しているのでしょう。

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多分、ここの職員さんなら知っているかと入って見みると、美人の職員さん。お茶でも誘お

うと思ったのですが、どうせ振られると分かっているので、多助橋の場所を聞いたら、すぐ

そこの橋。予想どうり、架け変わっていました。河川改修がおこなわれたためでしょう。

せっかくなら、どこかに保存して欲しかった。

Dscf1407

以前調べたときは、橋の名前もなかったそうですが、現在は

Dscf1404 Dscf1405

ちゃんと、橋の名前が入っています。せっかくなら、説明板と昔の写真が欲しいところ。


今度は、ため池の方に。場所は森山町図書館から国道の方角の反対側に歩いて行くと、

町営住宅(今は合併で市営住宅かな?)のすぐそば。

Dscf1425

意外と大きく、費用もかかったことでしょう。

四角の赤の所に、2体石仏が祀ってあります。

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左は首が取れ、他の石をつないでありますが、例によって、廃仏毇釈運動の犠牲でしょ

う。

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森山町図書館の調査カードによれば、左の台座には、「文久元年(1861) 施主 知足庵 

庄屋 次助 横目 和?」と彫ってあるそうで、「知足庵」とは、昨日書きました、貞恵翁が

晩年、仏門に入ったときの名前です。

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右の石仏は「倶利伽羅明王」。倶利伽羅竜王、倶利伽羅不動ともいうそうで、上に巻き付

いているのは、うなぎではなく、竜です。


調査カードには、「右手に剣をを持ち、左手には宝珠を持っており、頭上には、倶利伽羅

明王本来の姿である、竜王が刻まれている。」とありました。

ため池も、他にもあるらしいのですが、残念ながら分かりませんでした。

(参考・引用:「森山町郷土誌」「高城の散歩道~山口裕造著」より)


この倶利伽羅さんの竜、目付きが鋭く、生きているような感じで、ポチとビビりました。

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2013年6月 6日 (木)

「助けぼぅっさん」★土橋多助(貞恵翁) その1~土橋家墓所

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森山町に4年ばかりいるとき、毎年「土橋貞恵翁祭」が行われ、薄れた記憶によれば、町

内の2つの小学校4年生以上と中学生全員が、東小学校に集まり、貞恵翁の遺徳を偲ん

だものでした。


貞恵翁の説明については、各3校の持ち回りで、劇にしたり、校長先生の講話にしたり、と

いう形でしたが、なにせ、小学校の4年、5年、6年、中学校の1年、2年、3年と同じ話を6

回聞くわけになるわけで、これでは、いやでも郷土の先覚者の事を覚える事になり、郷土

を深く理解させるには、こういう徹底さが必要だなと感じたことでした。

諫早市でも、諫早小学校、北諫早小学校、丸尾=上諫早小学校の児童が集まり、顕彰碑

に集まり、訓示のあと、「多助まんじゅう」という、紅白まんじゅうを貰っていたそうです(今

もかな?)。


さて、土橋多助は安永五年、諫早の長田に生まれ。苦労しながら、多良の金泉寺で読み

書きを学び、佐賀の諫早藩で下僕をし、その後、長崎の医者吉松道硯に医術を学び、32

才の時、森山町杉谷で開業します。


このときは、「土橋永春」の看板を掲げていたそうですが、医術の優秀さと、その人格か

ら、寸暇も無いほど多忙を極めたそうです。


そのため、資産が増え富豪となりますが、これらの財産は、森山、諫早地方の架橋、道路

の改修、ため池の築造等に使われています。


万延元年、諫早領主から士族に列せられ、「貞恵」の称号を受けます。晩年には剃髪し、

「知足庵」と称し、仏門に入ります。


晩年にいたり、墓地の準備にかかり、地開きをしたり、墓碑を刻んだそうです。墓碑は森

山東小学校の脇の道から入りますが、案内板があるのですぐ分かります。

ここまで登ってくるのがちとつらい、という感じですが道はちゃんと整備されていました。


墓地は、三段になっています。入り口に、六地蔵。

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立派なもので、「先祖代々有縁無縁三界萬靈墓」と刻んであります。

最下段は土橋家の墓。貞恵翁の墓もどこかに建っているのでしょうが・・・・

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中段が先祖高柳家の祖と、師匠の墓

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最上段は三つの尊像。中央が阿弥陀如来、左が大黒天、右が薬師如来。

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この、三段に各々カメがいけてあります。

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このカメは小鳥が水を飲みに来るために、いけてあるそうですが、深くて鳥がおぼれない

ように、小石を入れて浅くしてあるそうです。濁って中は見えませんでしたが、貞恵翁の

心が感じられるような墓所でした。

(参考・引用:「森山町郷土史」「諫早史談~田中為一著」「高城の歴史散歩~山口祐造

 著」より)


新車買って3日目。半日ドライブしていたら、何となく、カミサンより、ポチ心が通じるような

気がしてきました。

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2013年6月 5日 (水)

南串山町の力石~雲仙市南串山町

1

南串山町の雲仙歴史資料館南串山展示館です。ここは、南串山町の馬場庄屋の跡地に

なります。左右はもっと広い敷地なのですが・・・・・


馬場庄屋の屋敷が古くなり、解体することになり、何かあればと言うことで、調査をしたそ

うですが、つづらがあったそうです(昔話の舌切り雀に出てくる「つづら」です)。


その中を見ると古文書がぎっしり入っていたそうです。調べると、島原の乱後、人手がな

かったために、小豆島あたりからも移住者が入ってきますが、その人数、南串山町に何名

入ってきて、どの集落に何名住むようになったかと言うことまで書いてあったそうです。


現在、ボランティアの方で、解読中ですが、全部解読するには10年はかかるだろうな。と

言うことでした。このことは、また後日紹介します。本当は、こちらのことを聞きに来たので

すが・・・・


さて、この中に入ろうとしたとき、玄関脇、四角の赤いところに、石が二つ。何だろうと思う

と力石。以前、力石のことを書きましたが、一回調べたことと美人にはすぐに目がいくも

の。

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片方が、百二十斤、もう片方が九十六斤。ちゃんと彫りつけてありました。


「金(きん)」、失礼、いつも金がないので・・・「斤」の重量についてはなかなか難しいところ

があるようですが、600グラムになるそうです。ちなみにパンの1斤は340グラムだそうで

す。


片方が120斤ですから72㎏、もう片方が96斤で57.6㎏。

以前にも書きましたが、昔は米一俵が60㎏。義兄弟と話をしていると、「米一俵かつぎゃ

えんもんは、一人前じゃなかったもんな。」という話。この石だいたい一俵の重さになりま

す。


全国の力石の研究をされている本を読むと、力石の重量は75㎏~112.5㎏だそうで

すが、米一俵を基準にしているということらしいです。

3 4

石の持ち方、競技方にもいろいろあって、説明すると長くなるので方法名のみ。「石担

ぎ」、「石ざし」、「片手留」、「曲持ち」、「降りさし」、「石回し」、「襷掛け」、「足ざし」、「石

立」、「石投げ」、「地きり」等あるそうです。


力石をみると、みんな丸い形をしていますが、これは、わざと持ちにくくしたと言う説、丸い

方が体を傷つけないと言う配慮も考えられるそうです。


相撲の土俵も、一段高くなって、素人は、転がり落ちたときに、危ないじゃないかと思うの

ですが、あれが返って怪我をしないそうです。昔の人の試行錯誤の結果でしょうが、力石

の丸いのもそうではないでしょうか。


この力石、近所の家にあったのを持ってきたそうですが、字が彫って無ければ、ただ単に

庭石くらいにしか思われなかったでしょう。多分、昔はこの石を囲んで、近所の若者たち

が、力比べをして、賑わった事と思います。まさに、庶民の歴史が染みこんだ石です。



なお、この資料館、毎日開いていないので、行かれるときは、雲仙市の教育委員会まで

ご連絡を。   

(参考:九州・沖縄の力石~高島愼助著)


私?持ち上げようとしたら、ポチとも動きませんでした。古人曰く、「色男、金と力はなかり

けり。」 

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2013年6月 4日 (火)

雲仙鉄道 その22~訂正・そして山はどこ?

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先日出したばかりの写真です。後ろの山を雲仙岳と紹介しましたが、TKOさんからコメント

で、線路の形状から、雲仙岳ではなく、諫早方面の山ではないかと、ご指摘を頂きました。

ここらあたりで、後ろの山のような大きい山は、諫早の多良岳、島原半島の雲仙岳しかな

いのですが、

2 3

左が諫早の多良岳、右が雲仙岳。雲仙岳の左側が高いようですが、雲仙岳の噴火により

盛り上がったものです。


多良岳とは全く形が違います。右の雲仙岳は、吾妻方面から撮ったものです。

一番上の写真、奥の山が、妙見岳、国見岳、前の山が吾妻岳と判断したのですが、現場

に行って、同じような所から写真を撮ると

4

ここらあたり、家が建て込み、一番上の写真とは全く、変わっています。愛野駅に向かう道

がありますが、この写真の家の表側が旧道になります。線路左側、赤い三角屋根が少し

見えますが、これが、愛野駅です。


こうしてみると、どうも、一番上の写真のような高い山はない。駅の屋根の上側が少し見え

ていますから、少し高台から撮ったものでしょう。ローアングルなら山が高く見えますが・・・


と考えながら買い物をしていると、なんと愛野の郷土史家で、愛野を一番ご存じのO先生

とばったり遭遇。やはり、酒は飲まず、タバコは吸わず、パチンコは止め、女は騙さず、お

まけに甘いものも止め。こういう立派な人間に、天は味方するもの。


ちょうど写真も持っていたので尋ねると、やはり、吾妻町方向から、森山町と愛野町の方

向を撮ったもので、四角の赤いあたりが、諫早東高校付近(森山町)に当たるということで

した。O先生の言うことですから、間違いはないでしょう。


でも、山は?多分、写真のアングルが違うのか?似ている感じの山もあるのですが・・・・

ひょっとしたら、誰か削ったのか?山の形の再検討が必要でしょう。


さて、AKOさんが、機関車の事について触れていたので、

Img

          (島原半島の歴史~監修:松尾卓治)

明治41年に島原鉄道株式会社が設立され。植木元太郎氏を先頭に4年間をかけ開通。

この時走った汽車が、上の写真の機関車ですが、なんと、「汽笛一声新橋を・・・」で歌わ

れた、東京~横浜を日本で一番最初に走った機関車だそうですが、この機関車が、島原

鉄道も走り、島原でも第1号だったそうです。20年間走り続けたそうです。「島原駅とシマ

テツ列車 客車と貨車を一緒に牽引している1号機関車」の説明文が書いてあります。


現在、さいたま市鉄道博物館に所蔵され、車体には「1」と、「惜別無量 昭和五年六月為

記念 島原鉄道社長植木元太郎 識」との銅板が飾られているそうです。国の重要文化

財です。


さて、愛野駅に寄ったところ、少しあれっと

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左が今の愛野駅ですが、赤の四角所の木。

右が以前出しましたが、「長崎県衛生公害研究所報」に載っていた写真。「雲仙山岳後援

会発行 昭和2年 小浜町観光ホテル蔵」との注が入っています(観光ホテルは倒産しまし

た)。これにも同じような木が立っています。多分、この当時からの木ではないでしょうか?

ただ、現在は2本寄り添うように立っており、多分、婚活に成功したのでしょう。

(参考・文引用:「島原半島の歴史~松尾卓治監修」「長崎県衛生公害研究所報」より)



今日もカミサンは留守。でも、新車で一日中ドライブしました。もちろん隣には、かわいい

女の子。AKB48の女の子のグラビアですが。それでもポチと楽しかった。グラビアにポチ

ポチ話しかけたりして・・・・・

 

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2013年6月 3日 (月)

車、買い換えました~車に思う

Dscf1529

お~かっこいいですね。昔の歌で、「・・・真っ赤なポルシェ・・・」と言うのがありましたが、こ

うして見ると、ビートルの赤も良いですね。


考えれば、私の自動車歴。最初に乗ったのが、ケンメリのスカイライン、もちろん中古で、

純正クーラーなしの、外付けクーラー。まったく効きませんでした。次が、あまり評判の良く

ない、バイオレット。あと、金がなかったので、中古の軽自動車。もちろんクーラーなし。山

越えの通勤で、7年間、3台つぶしました。一台は途中でタイヤが外れたことも・・・・


次に、せっかくなら、一生に一度はと思い切って、3代目のゴルフを買いましたが、故障、

リコールは多く、維持費は高く・・・・あの頃の外車は、だいたいそんなもんでしたが・・・


最後、JAFのレッカー車にひかれていくとき、「故障が少ない車ない?」「外車は故障が多

いですね。あと、高級車。いろんな装備が付いてますから。故障が少ないのは、安いカロ

ーラあたりですね。」と言うことで、すぐにカローラに買い換えましたが、仕事柄、荷物を運

ぶことが多いので、カローラフィルダーを購入。

Dscf1522

これ、7年で15万キロほど乗りましたが、故障一つ起こりませんでした。


無理して、山道の悪路を走らせたりしましたが、愚痴も言わずに良く走ってくれました。右

を向けと言えば、一日中、右を向くような、良くできた妻という感じ。(ウチのカミサンの反

対)


この間、ミニバイク4台、ホンダのエルシノア、オフロードです。カワサキのZ400。

一台はモンキーでしたが、あれは面白かった。ホンダのエルシノア、座席が高いのか、私

の足が短いのか、赤信号で止まると、足が地面につかない。

その間、仕事の関係で大型免許をとり、マイクロバスを良く運転しました。思えば、結構、

車関係乗ってますね。


さて、フィルダー、まだ乗るかどうか迷い、車屋さんを回ったら、ちょうど3月の決算時期。

まける事、まける事。結局、諫早のディラーさんを回って、試乗車10台くらい乗りました。


日本の自動車、良いですね。足元、剛性、ハンドリング、内装、外装、加速感、シートのふ

にゃふにゃ感もほとんど無くなりました。


来年の車検、エコ減税の廃止、多分重量税値上がりと、消費税の値上がり、円安による

車の値上と考え、買い替えにしようかと。


ただ、結局、まあ、どれを選んでも同じだなと。あとは、値引きの問題だけ。これでなくては

という車もなく、何となく買う気が失せかかり、思い出したのがVW。


でも、高いし、ディラーまで遠いなあと思いながら、暇だから行って見ました。もちろん、車

の下調べは十分していきましたが・・・それで、選んだのが、残念ながら、上のビートルで

はなく好評、悪評半ばするUP!VWでは一番お安いやつ。

Dscf1527

試乗して、まあ、そんなにひどい悪評まではないなと、なにしろ、教習所のトラックに乗った

ら、ハンドルは重いし、クラッチは、どっこいしょと踏まなければならないし、ギアは入らな

いし、一時間の教習で3キロは痩せました。あの思いをすれば可愛いもの。


もう一回、日本車各社に試乗して回って、最後にまたUP!に試乗して、はやりこれだな

と。不便なところたくさんあります。

Dscf1547

運転性のドアの所ですが、普通は運転席で、全座席のウィンドー開閉できるのですが、

運転席は運転席、助手席には助手席しかついてません。後ろのウィンドー、上下には開き

ません。ポップアップ式というか、斜めにほんの少しばかり開くだけです。


でも、昔のウィンドーは各ドアに小さな取っ手みたいなのがあって、それをぐるぐる回して

開けていたのにくらべれば・・・


物を入れるポケット類が少ないです。でも、今は断捨離の時代。いらないものは乗せない

こと。



騒音、気にするほどではありません。バイクに比べれば・・・雨にも濡れないし。

悪評を読んでいて感じるのは、みんな贅沢にというか、車に対するに要求が多くなったこ

と。日本車に試乗して、車に乗っているのではなく、車に乗せられているという感じです。


A×B=Cは習いましたね。Aが車の安全性。Bが車の快適性。Cが車の価格で、Cを一定

だとすると、Aが高ければ、Bは低くなるし、Aが低ければ、Bは高くなるし。UP!は前者の車

です。


この車は、元来MTが基本になって、日本ではATがほとんどだから、ATを付けたという感

じで、MT(アクセルペダルなしの、いわゆるツーペダル)、ATでも運転できますが、AT限定

免許取られた方、ギアチェンジがどうして行われているのか、知識がないと戸惑うでしょ

う。ATでの悪評は多いですね。MTで運転したら面白いほど走りました。


高速を運転したら、走り方が、ぐっと違ってきて、はやりアウトバーンの国、制限時速なし

の車だという実感はしました。市街地で、リッター17キロ強。高速、バイパスで20キロ超。

ガソリンはハイオクですが、今までのが12~13キロですから、多分安くつくでしょう。


さて、ここ数年、機械式の時計が流行ってきました。私もカミサンには内緒で3個ほど持っ

ていますが(なにしろ、クォーツの時計と一桁違いますから、見つかったら離婚もの。)毎

日、リューズは巻かないといけないし、私の知人のロレックスは一日4分狂います。おまけ

に数年に一度の分解掃除。○万円はとられます。一時全滅状態の、あの不便な機械式時

計が、なぜ増え始めたのか?故障が多い、イタ車の人気があるのも、同じようなものか

な。不便も一つの魅力。悪女はモテる。


この車、再度書けば不便なところがたくさんあります。でも、バイクでさえ、1200cc,

1500ccがある時代、999ccのエンジンで一生懸命走っていると思うと、なんとなく、いとお

しく思えてくるのです。明日は晴れだし、少しドライブでも・・・「お嬢さん(35歳以下、美人、

話し上手に限る)ドライブしませんか?」


これ欲しい方、ネットで評判読んで、少なくとも3回くらいは試乗してみてください。そうでな

いと、後で不満がでてきます。


島原半島、諫早方面でキュートな車に乗った、可愛いおじさんを見かけたら、それは、私

です。目立つ色を買いましたから。カミサンからは、ポチどころではなく、こんな派手なの

を!と怒られましたが・・・

 

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2013年6月 1日 (土)

千々石の飛び石~雲仙市千々石町

P4080516 P4080521

この写真、以前にも出したもので、すみません。手抜きです。

さて、この間、諫早市本明川の飛び石のことを書きました。千々石にも、飛び石がありま

す。左が温泉神社付近の飛び石、こちらは間違いありません。


右の写真は、河川公園が作られ、ちょっとした東屋が作ってあり、そこにある飛び石。これ

が、風情を付けるために作ったものかどうか?


向こうの方はドン詰まりになっています(私の人生と一緒)。ここらあたりも、昔とは、ずい

ぶん変わっていますから、本当の飛び石かどうかよく分かりません。


という事を話していたら、自然の家の知人が、「ウチの近くにもあったよ、小さい頃渡って

いた」という話。


昭和49年に、千々石川の河口付近に、「元江橋」ができ、それまで、飛び石をつたって、

渡っていたそうです。これが、「元江橋」。

Dscf1356

またしてもGoogleの写真ですが、

Google

赤の四角が「元江橋」。黄色い四角が飛び石のあるところで、これで、行ったり来たりして

いたそうです。


実際見に行ったら・・・・下流の方です。

Dscf1291_2

自然石を使ったものですが、こちらの方は、満潮時には水の下に隠れてしまい、見えませ

んでした。干潮時を見計らって、写したものです。


上流の飛び石も、こんな感じかと思ったら

Dscf1294

使われないためか、途中から無くなっていますが、立派な飛び石。これなら、満潮時にも

に使われ、ほとんどこちら側が使われていたのでしょう。


残念なのは、途中から無くなっていること。用がないので、壊したものでしょうが、惜しいも

のです。この飛び石の存在、段々と忘れられてしまうのでしょう。


こうして、私たちの先祖から伝わってきたものが、ひとつひとつ無くなってしまってしまうの

でしょうが、庶民の歴史の悲しさです。英雄、有名人の話は、無くなりませんが、庶民の歴

史は消えていくばかりです。


今日も外は雨、「雨、雨、ふれふれ、もっとふれ、私のいい人、連れて良い。」、なんて、い

い話ポチとでもありませんかな。

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