寺山修司 没後30年
今日、地元の本屋さんに、週刊朝日を取りに行ったら、「没後30年 寺山修司をかたりつ
くす」という、記事があり、寺山修司といえば、私も一時ファンというより、憧れを持っていた
ものですが、「没後30年」という字を見たとき、もう、そんなにたったのかと、呆然としまし
た。つい、先頃みたいな感じだったのですが。
長崎の片田舎に住んでいたので、当時はあまり良く知りませんでしたが、上京し
■マッチ擦るつかの間の海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
■ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな
■北一輝その読みさしのページ閉じ十七歳の山河をも閉ず
■人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ
■リンゴの木ゆさぶりやまず逢いたきとき
■便所より青空見えて啄木忌
■車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて
■秋風や人差し指は誰の墓
■恋地獄草矢で胸を狙い打ち
■方言かなし菫に語り及ぶとき
ほとんど覚えている俳句、短歌ばかりです。これを東京に来て読んだとき、寺山修司の才
能に羨望したものでした。
寺山修司は、中学生、高校生時代に俳句、大学時代に短歌、以後、詩、演劇、ラジオドラ
マ、映画などに活躍し、特に、演劇では、劇団「天井桟敷」を主宰し、当時の言葉で言え
ば、「アングラ演劇」と呼ばれていました。
(1991年「太陽」9月号より)
第一作品集が、「われに五月を」ですが、昭和32年出版。
一番上の写真は昭和60年、寺山修司没後三年目に、新装版として出版されたもの。こ
の本の最初の見開きに
お母さんが、自筆で書かれた、「五月に咲いた花だったのに 散ったのも五月でした 母」
と、厚めのトレッシングペーパーで書かれており、次のページに寺山修司の写真が印刷さ
れ、透けて見えるようにしてあります。お母さんと、寺山修司の関係を暗示しているみたい
な感じです。
■花売車どこへ押せども母貧し
■大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
■母は息もて竃火創るチエホフ忌
お母さんと寺山修司の関係については、各種の本に出ていますので、お読みください。
何かの本で読んだのですが、寺山修司は五月という月が好きだったそうです。生まれたの
は戸籍上十二月十日になっていますが、これについては、曖昧な部分があるようですが、
亡くなったのは五月四日です。この本の出版日も、五月四日です。再版も翌年の五月四日
です。
■目つむりいても吾を統ぶ五月の鷹
「われに五月を」の最初にある詩が、「五月の詩・序詞」であり、最後の方に、「・・・二十才
僕は五月に誕生した・・・」のフレーズがあります。
書けばきりがないので、最後に私の好きな詩を。「ロング・グッドバイ」、長編詩なので、最
初の方だけ。
詩の中のA列車は、デューク・エリントン楽団が演奏(作曲は、楽団のピアニスト、ビリー・ス
トレイホーン)をし、ジャズのスタンダード・ナンバーとなった曲。クリフォード・ブラウンはジ
ャズトランペッーターとして不出世の天才です。
「ロング・グッドバイ」
血が熱い鉄道ならば
走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓をとおるだろう
同じ時代の誰かが
私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の最後のページをめくる男だ
合い言葉は A列車で行こう だ
そうだ A列車で行こう
それがだめなら走って行こう
・・・・・・・・・・・・・・
本当に、寺山修司死して、ロング・グットバイになりましたが、私の東京時代の一つの大き
な思い出です。
30年・・・・ポチどころではありませんね。私はその間、何をしていたのか・・・・・
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