小野(諫早市)の金比羅山 その2~長崎県諫早市小野
昨日の続きです。山門をくぐると少し広いところがあり、左側に建物の礎石があります。こ
れが性圓寺(しょうえんじ)の跡地になります。
戦時中は、金毘羅さんには出征兵士が、武運長久を祈願に来ていたそうですが、戦後は
参拝者も少なくなり、例祭もなくなり、お寺も朽ち果ててしまったそうです。
これが、当時の性圓寺だそうです。
(「写真集・明治・大正・昭和・諫早」より)
写真には「性園寺」と書いてありますが、ほかの資料では「性圓(円)寺」とありますから、多
分「圓」の方が正解でしょう。
ここから、「金毘羅山鎮護大権現」への参道が続きます。
石畳が切れたところあたりから、左右に石仏が並びますが、普通の地藏さんではなく、
地藏さんの右側、じゃれているのは犬ですね?
まだたくさんあるのですが、ほかの写真は手振れしてしまって、お見せできないのが残念。
見たい方は、足を運んでください。さて、こんなものも
島原半島で潜伏キリシタン(現在の研究では、江戸時代の禁教後、キリスト教を信仰され
た方々を潜伏キリシタン。明治になって、禁教が解かれた後も教会に戻らず、自分たちだ
けで信仰を守られた方々を、隠れキリシタンと分けています。)を研究しておられる方は、
金毘羅さん(または琴平さん)というと、キリスト教でいう、「コンヒサン(コンピサン)」(告白、
告解)に語呂合わせしたものとして考えています。
蟹については、前にも書きましたが、フランシスコザビエルが海に落とした十字架を、蟹が
咥えて持ってきたという話しから、金毘羅神社の燈籠、手水鉢等に蟹が彫ってあると、潜
伏キリシタンの可能性を考えているようです。
ただ、この蟹さんの横には、「南高來郡山田村(注:現雲仙市吾妻町)字永中黒田○○○
○太郎」と彫ってあります。
平成の町村合併以前は、南高来郡と北高来郡に分かれていたのですが、ずっと古くは同
じ高来郡であり、明治11年(1878)の郡区町村編成法で北高来郡と南高来郡に分割して
います。ということで、この蟹さん明治11年以降のもので、キリシタンとはあまり関係ない
でしょう。
かえって、この金毘羅さんには漁師さんもお参りする方が多かったそうで、旧山田村といえ
ば有明海に面した所で、有明海は蟹がよく取れる所。豊漁をねがって蟹の石造物を奉納し
たんじゃないかと思うんですが・・・・・「金比羅山大権現」まで、もう一息です。
(写真;「ふるさとの思い出 写真集・明治・大正・昭和・諫早~諫早史談会編」より)
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コメント
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突然すみません、偶然このブログにいきつきました。栄太郎さんは、僕の江戸時代生まれのご先祖様でこのカニの石像は、栄太郎さんが子の幾蔵さん(孫ですが養子縁組した)の台湾出征の武運長久のために奉納したものです。戦死した幾三さんのお墓が馬場名というところにあります。突然の書き込み失礼しました。
投稿: 黒田栄太郎の子孫です。 | 2013年12月12日 (木) 22時25分
情報ありがとうございました。
この寺(現在はありませんが)、出征兵士の武運長久を祈願に多くの人が、来ていたと言うことは、資料に書いてあるのですが、そういう事情とは知りませんでした。
しかし、見事なカニでした。カニを奉納してあるのは初めてで、推測で、上のような記事になりました。よろしかったら、また、何かの折にブログで紹介をしさせていただきたいと思っております。
でも、なぜ奉納するのに、カニにされたのか?灯籠等なら分かるのですが、もし、ご存じなら、お教え下さい。
投稿: sgikan | 2013年12月12日 (木) 23時20分
大変失礼な書き込みにご返事いただきありがとうございます。親父に聞いてみたところ有明海の守護神が蟹で、蟹は堅い甲羅に覆われているので鉄砲の弾も跳ね返すとか卵もたくさん産むので子孫繁栄祈願とからしいです。ご先祖様の蟹の石像についての記事を見つけてとても嬉しかったです。ありがとうございました。金毘羅さんを検索してたら偶然に入ってしまいお墓参りにこいとのお告げかもしれません。現在、香川県の高松市に在住してましてなかなか島原へご先祖様のお墓参りにもいけてないです。またブログの方拝見させていただきます。
投稿: 黒田栄太郎の子孫です。 | 2013年12月14日 (土) 21時44分
お忙しい中、お返事いただきありがとうございました。
これで、なぜ蟹が奉納されたか分かり、すっきりいたしました。
もし、この蟹をご覧でなかったら、一度はご覧ください。立派なものでした。金毘羅さんの頂上付近までは車でいけます。
今回は、いい勉強をさせて頂きありがとうございました。感謝の一言です。
蟹を奉納してあるのは珍しく、後日、私のブログで、いきさつを紹介させて頂ければと思います。ご了承頂ければ幸いです。
投稿: sugikan | 2013年12月14日 (土) 23時23分
こんにちは。だいぶ昔の記事のようですがたまたま見つけましたので足跡を残しておきます。
祖父がここの寺の三男として生まれましたが跡取りが居ない親族に戸籍上は養子に行きました。
性圓寺は昔は宿坊も備え修行僧がたくさん居たとも聞きました。50年ほど昔今は亡き父と山頂へ登り先祖が使っていた朽ち果てた鍬とかを探した記憶があります。
性圓寺はその後麓に下りて(天満宮の近く)で長年お勤めしておりましたが近年ご本尊を天祐寺へ移してお寺としては無くなりました。(天祐寺のお位牌同堂の奥にある黒い観音様)
しかし祖父は子供の頃は富川渓谷の大雄寺で生まれ育ったと聞いていますが大雄寺も今や無人の寺で、大雄寺・性圓寺・天祐寺の曹洞宗の寺は昔は繋がりがあったのでしょうが今は知る人も居なくなってしまいました。
先祖は佐賀からやって来た武家であった話は聞いていましたので繋がりを思い浮かべております。県外に住んでおますので非常に懐かしかったです。
投稿: 性圓寺の末裔の者です | 2018年8月14日 (火) 10時55分
コメントありがとうございました。
性圓寺は、諌早に関する本を読むと、かなり栄え、参拝者も多かった旨の事が書かれてありました。
「諌早を歩く★山口八郎著」にも「寛永元年(1624)天佑寺の末社として性圓寺が開かれ、江戸時代には領主の祈祷所として維持されました。」との記載もあり、かなり重要なお寺でもあったようです。
礎石しか残されていないのが誠に残念なことです。
貴重な情報、重ねてありがとうございました。
投稿: sugikan | 2018年8月14日 (火) 21時54分