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2013年5月

2013年5月31日 (金)

もう一つの眼鏡橋~長崎県諫早市

Dscf1448

何回も出しますが、この風景が好きで。手前がこの間から紹介をしていた「ミニ眼鏡橋」、

奥に見えるのが、本来の眼鏡橋。国の重要文化財です。新緑に包まれていいですね。


諫早には、このほか、もう一つの眼鏡橋があります。

Dscf1484

人が渡るだけの橋です。どこが、眼鏡橋だよ、と言われても・・・正面を見ると

Dscf1485 Dscf1483

右の写真、3枚の銘板があります。左は「本明川」と書いてあり、右には、橋の由来が書い

てあります。真ん中、一段高いところ

Dscf1482

誰が読んでも、「眼鏡橋」.何回読んでも「眼鏡橋」、間違いなしの「眼鏡橋」。なぜ、ここに

「眼鏡橋」があるのか、察しの良い方はお分かりだと思いますが、橋の由来が書いてある

銘板を引用します。これについては、諫早市内の方くらいしかご存じないと思いますの

で・・・・ 


眼鏡橋の由来

「ここは、郷土諫早の象徴として市民に親しまれてきた、名橋眼鏡橋(二連拱式石橋)が本

明川の清流にその優美な影を宿していたところである。・・・・・・・」


そのあと、眼鏡橋の由来、昭和32年の大洪水の折、この石橋が流木をせき止め、濁流が

両岸からあふれ、市街地に流れ込み、人命と財産が失われた事が書いてあり・・・・


「まもなく本明川の改修工事が国の直轄で施工されることとなり、眼鏡橋は撤去のやむ

なきに至ったのであるが、昭和33年11月重要文化財の指定を受け、現在地から四五〇

米上流の諫早公園に、昔の姿そのまゝに移築復元を完了したのである。

市民に親しまれてきた歴史的大石橋、眼鏡橋の名にちなんで再び、この橋を眼鏡橋と命

名する。

                 昭和41年3月竣功      諫早市長 早 川 員      」


ずっと以前、私は、諫早公園の近くに架かる橋が眼鏡橋跡だと思っていたのですが、あれ

は「公園橋」で、本来の眼鏡橋は下流にあったと聞き、場所が気になっていたのですが、

他の事を調べに、ぶらぶら歩いていたら、思わぬ出会いでした。

Img

 (「ふるさとの思い出 写真集 明治大正昭和 諫早~諫早史談会」より)

本明川に架かる、昔の眼鏡橋です。美しいですね。


この界隈、飲み屋さんが多く、私も何回も通ったはずなのですが、今日まで気づきません

でした。諫早早公園から、下流450m地点ですから、諫早公園に行かれたら、散歩がてら

にいかがでしょうか?この間書いた、本明川の「飛び石」も風情があります。


昔、通ったスナックを覗いたら、不況のせいか、つぶれていました。ポチと美人ママさんの

顔を思い出しました。歩きながら昔を思い出し、ポチと感傷にふける、ロマンティックな私で

ありました。

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2013年5月29日 (水)

雲仙鉄道 その21~昔の愛野村駅風景

1

             (「愛野町閉町記念誌~愛野」から)

昨日、やっと愛野駅まで到着したのですが、これで終わったと思った方は甘い。


上の写真は、以前、別の本から複写したものを出しましたが、「愛野町閉町記念誌~愛

野」にも同じ写真が載っていました。(愛野町の方は、多分この冊子お持ちだと思いま

す。)


説明によれば、島原鉄道が全線開通した当時の写真ですが、当然ながら、雲仙鉄道はま

だ開通しておりません。後ろに見える山が雲仙岳です。右の建物が愛野村駅でしょう。


島原鉄道は、明治44年(1911年)に、本諫早駅ー愛野村駅が開業し、徐々に線路を延

ばし、大正2年(1913年)に、諫早ー島原湊間に全線開通していますから、その頃の写

真だと思われます。

2_2

            (「愛野町閉町記念誌~愛野」から)

昭和12年、雲仙鉄道が廃線になる前年の愛野村駅の様子です。前の写真とは違って、

かなり大きな駅になっているのが分かると思います。現在は、また小さな駅になっており、

当時の面影はありません。


写真ではホームに人があふれていますが、手に手に旗を振っている様子がうかがえま

す。この年には支那事変がおこっており、多分、出征兵士を送っているのではないでしょう

か?


雲仙市役所愛野支所で話をしていると、この手前の方の線路が、雲仙鉄道の線路だった

ということです。


この雲仙鉄道に関しては、資料、写真があちらこちらに分散しており、調べるのに手間が

かかりますが、新しい情報があったら、また、書き続けていきたいと思っております。


と思っていたら、また、新しい情報が。また、まとまったらポチポチと、しつっっこく書いてい

きます。

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2013年5月28日 (火)

雲仙鉄道 その20~愛野駅まで

Photo_3

Google

写真は昨日の続きの所です。


上の写真、水色の矢印が、」汽車が畑に入る込むところ。昨日書いた所です。赤い矢印

が雲仙鉄道跡、昭和22年の写真ですから、雲仙鉄道が廃線になって9年目の写真です。

もちろん線路は撤去されていたのでしょうが、跡はまだ整理ができていない状態。黄色の

矢印が島原鉄道、四角の所が愛野駅。


下の写真、例によって、Googleの写真です。赤の線が畑へと入り込むところ。青の矢印

が、チンコ屋さん、すみません、パチンコ屋さん、左と後ろの空き地みたいに見えるのが駐

車場。パチンコ屋さんより、駐車場が広いこと。都会のパチンコ屋さんとは大違い。「4」の

所が愛野駅です。


この間の、おじいさんの話によれば、汽車はこのパチンコ屋さんの後ろの駐車場あたりを

走っていたそうです。まだ、ここらあたり、三分の一程度は畑になっております。

Photo_4 Photo_5

右の写真。私が鉄道跡だと勘違いしていた、有明川の堤防から撮った、パチンコ屋さんの

裏側の駐車場です。ここらを走っていたのでしょうが、あとは、住宅あり、倉庫あり、アパー

トありで、面影もありません。

Photo_6

あと、気になるところが、鉄道の合流地点。


2番目の写真「3」、ピンクの矢印の白いところが、国道251号線と、国道57号線が重複

するところです。白い線の右側、少し長細く見えるのが、農協の集荷場。ここらあたりを、

横切って合流したのでしょうが・・・・この国道のすぐ横を川が流れており、

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右側の道が国道です。国道の右側の建物の後ろが島原鉄道。この川に、鉄橋が架かって

おり、愛野町がこれを利用し、橋を架けたと仮定したとすればの話ですが、鉄道の合流地

点も少しは正確にわかるのですが・・・・・・・例によってGoogleで見ると

Photo_9

クリックすれば大きくなります。


分かりにくいのですが、2つの橋が架かっています。「1」の橋は少し斜めに、「2」の橋は

川と直角に架かっています。黄色の矢印が島原鉄道。


愛津のおじいさんの話では、橙色の矢印、派出所の方から入っていたということですが、

どうも、地図で距離を測ってみると「1」の橋の方が正解みたいな感じ。あくまで、鉄橋を利

用して橋を架けていたらの話です。近所の方にも尋ねたのですが、分かりませんでした。


派出所の横の所から、線路まで行ける道があります。

Photo_10

諫早方面の線路です。多分ここのどこかに合流地点があったのでしょう。

Photo_11

こちらが島原へ続く線路です。赤い四角が愛野駅。さて、AKOさんからいただいたコメント

から始まった、千々石駅~愛野駅まで、やっと終点を迎えました。

AKOさんには感謝いたします。これで、雲仙鉄道の、特に愛野側の線路跡が分かりまし

た。  (参考・写真:「愛野町閉町記念誌~愛野」・Google earthより)


昨日から、長崎も梅雨入り、梅雨が明けたら、灼熱の恋の季節。青春時代の、ひと夏の恋

の事をポチ思い出します。今は、ポチ、老いらくの恋。  

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2013年5月27日 (月)

雲仙鉄道 その19~愛津駅周辺

Photo_2

Google_3

今日は、山王さんを抜けてから、愛津駅周辺のことを。山王さんを抜けると、畑が広がりま

す。


上の写真は、愛野町閉町記念誌より、昭和22年の写真。下の写真はGoogleから現在の

写真です。


赤い矢印が雲仙鉄道跡、茶色の矢印が多分愛津駅だと思われます。駅に至る道が、畑

の中に見えます。「1」の部分は、畑で、Googleの写真でも分かるとおり、鉄道跡はすっか

り消えています。

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この畑の中を雲仙鉄道が通っていたのです。

Photo_6

愛津駅の記念碑ですが、この後ろの赤の印のあたりに、愛津駅が建っていたそうです。小

さな駅だったという話でした。


ここから、少し行ったところに自動販売機があり、こちらから汽車が入り込んでいたそうで

す。


ここは、家が立て込んでいるため、少し行ったところから左折します。この道を行くと、私が

以前、ここを汽車が通っていたと、偉そうに間違ったことを言った、有明川の土手に出ま

す。

Photo_7 Photo_10

ここから入り込んだ道と有明川の間あたりを汽車が通っていたそうで、以前はデンプン工

場などもあったそうです。ちょうど空き地があったので・・・

Photo_11

赤の矢印が、有明川の堤防に行く道。白い屋根の建物の後ろ、黄色い矢印が有明川。

この間を汽車が通っていた事になります。写真の「2」あたりです。(少し左だだったか

な?)


さて、住宅地を抜けて、また青の矢印「3」の部分から畑の中に、入って行くわけですが、

この場所が、どうにも分からない。


住宅街を抜け、右手に行けば温泉神社、その数メートル先だと思うのですが、通うこと数

日(暇だし、カミサンとは顔を合わせたくないし)。

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どうも、写真の距離から見ると、ここかなと思うのですが、

Photo_13

どうにも狭すぎる、写真の線路跡と比べれば、入り方が急角度過ぎる。まあ、撤去された

のだろうと、自分で納得しながら帰ろうとしたら、また、おばちゃんが登場。


すぐ近所の方でしたが、親切に教えていただきました。

まあ、驚くべき話で、ここが畑に入り込む所だったそうで、もっと角度が緩やかに広かった

そうです。


役場の方で、その跡を整備して、橋を架けたそうですが、ある事情で撤去して、現在ある

橋にしたそうです。そう言われてよく見れば、このコンクリートの部分がそうではなかった

のかなと言う感じでありました。これで、又一つ謎が解けたわけです。

(参考:「愛野町記念誌~愛野」・Google earthより)


我ながらポチと素晴らしい、調査能力。興信所でも開こうかな。浮気専門の。  

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2013年5月26日 (日)

有喜UKI(うきうき)ビーチ★安心安全だよ~諫早市有喜

Photo

今日はとにかく暑く、梅雨を飛び越して、夏になった感じ。と言うことで、お気に入りの海水

浴場のご紹介を。

プールではありません。この間、有喜の祭り、有喜貝塚について書いたとき、たまたま見

つけたところです。思わず、おじさんも、「かわゆ~い」と言葉が出るくらいの小さなビー

チ。

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回りには、階段状の観覧席が作ってあるので、イベントもありそうな感じ。平成16年にオ

ープンした、ビーチです。

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この澄んだ海。

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砂浜は狭い感じですが、子ども連れなら、目も十分に行き届き、大きな海水浴場より、安

心でしょう。とくに、幼稚園、小学校低学年の子どもは、あちらこちら走り回って、迷子にな

りがちで、心配なものですが、この広さなら安心。もちろん、水上バイクは進入禁止ですか

ら、事故に巻き込まることもありません。安全です。周囲は堤防に囲まれているので、高波

の心配もなさそう。

Photo_5 Photo_6

監視室、シャワー、更衣室、駐車場完備です。

遊泳期間が7月15日~8月26日まで。遊泳時間が、午前9時~午後5時30分まで。今

日は遊泳期間でなかったので、料金は取られませんでしたが、多分、期間中は駐車料金

は必要な感じ。でも、子どもの安心、安全を考えれば、たいしたことは無いでしょう。

蛇足ですが、丁度、漁船の手入れをやっておりました、これ、男の子が見たら喜ぶでしょ

う。

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ビーチから見える派手な建物。以前は、ホテルでしたが、今はちょっと違って、○○テル。

以前、若いのをつかまえて、「わい(標準語で「あなた」「君」)、あそこに入ったことがある

やろ。どげんやった(標準語で「どうだった」)」と聞いたところ、「良かったです」との返事。

私、泳げませんから、ビーチより、こちらの方が良いのですが・・・・相手がいれば・・・・

忘れていましたが、千々石の海水浴場にもお越しを。こちらも、監視人付きで、そんなに混

んではおりません。二人で眺める夕日がとってもきれいです。一応、千々石の住人として

ポチ宣伝を・・・


(追伸)

安心、安全で記事を書いたのですが、2年後の平成27年7月20日、小学5年生の男児が

事故で亡くなりました。ご冥福を、お祈りいたします。

さて、ここを紹介したのは、海水浴場をあちらこちら見に行った時、ここが、一番安全だと思

ったからです。事故のニュースに接した時は、まさかあそこでと、びっくりしました。

安全の理由として、①海水浴場が小さく、保護者の目が他の海水浴場より目が届くこと。

②堤防で囲まれ、外海の波、海流の影響を受けずに、波、潮にさらわれずにすむむこと。

③海との接触口に網が張ってあり、外海には出られないこと。④深いところには、ブイで表

示してあること。⑤水上バイクが入れないことでした。

さて、私、数十名の子供を連れて、野外活動を指導していましたが、ある時、海水浴に連れ

ていき、監視役を置き、海の水がヘソから上には行かないこと、など注意をしましたが、一

名溺れかかりました。皆がいる所でです。誰も気がつきませんでした。

唯一人、気づいた方がいたので、難をのがれる事ができましたが、あの時ほど海の怖さを

肌で感じた事はありませんでした。海は、溺れて、水面下に入れば、誰にも気づかれませ

ん。

それ以来、安全な海を捜していたので、上の様な記事を書いたわけです。

以上のように、水の事故は、プールでの事故をみても分かるように、他の事故とは違って

分かりにくいものです。

特に、子供を連れて、海水浴、川、プールに行かれる保護者の方は、目を離さないように、

注意をしていただきたいと思います。

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2013年5月25日 (土)

足型測定しました

Img_2_3

今日は、というか、今日もカミサンがいないので、用事もないのに、諫早までお出かけしま

した。


途中、最近できた、大型スポーツ店によって、ビキニの水着なんぞをチラチラ見て、お

目々の保養。


と思っていたら、「足型測定をおこなっております」のアナウンス。何だろうと思って行って

みたら、ほとんど人がいなかったので、早速申し込み。住所等聞かれて、後でダイレクトで

も来るのかと思ったら、名前のイニシャル(草刈正雄のイニシャルで、MKと答えましたが)

と年齢を聞かれただけ。


あとは、裸、失礼、素足になって、米粒くらいの金属片を足に付け、脛の中間程度の、下

がガラス板でできた、金属のボックスに足を入れ、光が入らないように遮光して、電光管

で足裏をスキャン。要するに、コピーの機械にに足をのせコピーするのと同じ要領。


足の裏のスキャンだけかと思ったら、プリントアウトしたものが、上のプリント。じつに、裏

から横からスキャンしてありました。あと、係員さんからの説明。


これ見て、右と左の足の長さが違うんですね。左足が229.9㎜、右足が233.4㎜。足

が遅かったのは、このせいか?係員さん曰く、「ハンサムですけど、足は短いですね。」


気になったのがプリントの、右下。かかとの傾斜。左足はまっすぐ立っていますが、右足

が右方向へ傾斜気味。


そういえば、以前ジョギングしていて痛めたのが右足。家に帰って、靴の裏を見ると、

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あきらかに、右足の方が減っています。こちらの靴も右足の方が減っています。

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今までの靴は、3Eの靴を使っていたのですが、結果を見ると2Eのサイズの靴があってい

ると出ていました。


ウォーキングを毎日しているので、早速、買い換えるつもりです。かかとの傾斜は、少しお

値段は高いですが、靴底が売ってあり、補正できますから、併せて購入予定です。皆さん

も、機会があったら足型の測定してもらって見てください。面白いですよ。


なお、このお店の測定会は、今日と明日だけだそうです。諫早方面の方はお試しを。

でも、こんなにきちんと測定値がでるとは、思いもよりませんでした。


古人の言葉を、ポチと思い出しました。「靴とカミサンは新しいほど良い」。

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2013年5月24日 (金)

2013 唐比(からこ)ハス園(5月24日)&「長崎和牛のレモンステーキ重」食しました

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今日は、唐比のハス園を覗いてきました。予想どうり、まだまだ。昨年は、6月15日にも、

書いていますが、そのときが、やっと蕾があがってきた状態。あと、一ト月半ぐらいしたら、

立派な花が見られると思います。時々、情報を流しますので、お見逃しなく。


スイレンも、ほんの少しだけ

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蓮の実が、あちらこちらに落ちていますから、きれいに洗って、着色なんかすれば、いい

室内インテリアになるんでないでしょうか?私は図画の成績は「2」しか取れませんでした

から(学校の先生が私の才能を見抜けなかったのでしょう)、しませんが。


今日のところは、看板の写真で勘弁を。時期になったらぜひお越しください。美しい花が

見られます。

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左がハスの花。右がスイレンの花です。


さて、帰りがけ、コンビニで、買っちゃいました。「佐世保名物!長崎和牛のレモンステー

キ重」。

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横道それます。この「佐世保」。一時、「させほ」と読むか「させぼ」と読むかで、話題になり

ましたが、「ほ」と読むか「ぼ」と読むかの問題です。「させほも、させぼも、『ほ』『ぼ』同じじ

ゃない」、と言う人もおられました。


我が尊敬する、伊奈かっぺいさん曰く、濁点が有るのと無いのでは大違い。

「私、ためになる人、あなただめになる人」。言われてみれば、濁点一つで全く正反対の意

味。


閑話休題。この、ステーキ重、今日の長崎新聞に載っておりまして、残念ながら、東京の

地方新聞には載ってないでしょう。


昨年、長崎で「全国和牛能力共進会」が開催され、「肉牛の部」で日本一になったことを記

念し、長崎和牛を使って発売されたもの。県内の店舗で3週間の予定だそうです。県外の

方は長崎まで・・・


まあ、カロリーを計算して、どうしようかと思ったのですが、この、のぼり旗を見てはです

ね・・・・

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入れものの左側のラベル、「日本一 内閣総理大臣賞 長崎和牛」。なんか、「この紋所が

目に入らぬか!」と言う感じですが、結局は、私の目ではなく、腹の中に入ってしまいまし

た。お味ですか?自分でお確かめください。


今日は、ポチとうれしいことがありまして、国見町の美女(正真正銘)と親密なお話がで

き、ポチ、ポチ、ポチと幸せでした。人生こんな日もあるんですね。

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2013年5月23日 (木)

雲仙鉄道 その17~空から見れば

雲仙鉄道、まだまだ続きます。

TOKさんから、コメントで航空写真のことを教えてもらったのですが、今の地図に落とす必

要があるなと、雲仙市愛野支所まで出かけ、地図を求め、雲仙鉄道の事を話していたら、

「こんなのも、有りますよ」、と見せていただいたのが、愛野町が雲仙市に合併するときに

作った、「愛野町閉町記念誌『愛野』」。


これ見せてもらっていると、ビックリしました。愛野町の空中写真。昭和22年撮影ですか

ら、多分、TOKさんが指摘したものでしょうが、同じ角度から写した現在のものも・・・・・

Img_3

           (愛野町閉町記念誌「愛野」より)

昭和22年の空中写真です。クリックすると拡大します。「山王さん」と書いているのが、昨

日の記事にしたところ。赤い矢印を所々付けていますが、これが雲仙鉄道。昭和22年の

撮影です。


鉄道がなくなったのが、昭和13年ですから、鉄路は外したものの、まだ跡地としては

残っていたのでしょう。


支所の50代の方と話をしていると、「僕が役場に入る頃は、まだ跡があったよ。」と言うこ

とで、次回書きますが、この鉄道跡付近に住んで知る方に聞いても、20~30年前まで

は、まだ鉄道の跡が残っていたとのことです。


さて、赤い矢印が雲仙鉄道、黄色の矢印が島原鉄道。黒い矢印のところで、島原鉄道と

温泉鉄道が交わっています。


平成17年の写真です。鉄道跡は全然ありません。

Img_0002_2

           (愛野町記念誌「愛野」より)

見比べてすぐ分かるのが、有明川がほとんどなくっていること。写真の左下の海の所が

干拓地になっていることが分かると思います。

Dscf1261

現在の有明川です。左右に堤防があるのが分かると思います。

この有明川、昔は相当に広かったみたいで、近所の方と話をしていると、ここらあたりのこ

とを「有明海が・・・」と話をされていました。


この上流、山王さん付近、三軒茶屋という所がありますが、そこまで船が通い、船着き場

があったそうです。いまでは、撤去されてあるそうです。


さて、Googleの地図で見ると

Google_2

ざっと言えば、鉄道は、山王さんから、畑の中を通り、パチンコ屋の裏を通りながら、カー

ブして、最初の写真の合流地にいくわけです。赤の矢印は島原鉄道です。写真の角度が

違うので分かりにくいと思いますが・・・・


少し横道にそれて、愛野を通って、島原、小浜方面に行くには、昔は青の線の道路を使っ

ていましたが、島原方面と小浜方面に行く道が渋滞するため、黄色の線のバイパスを作

りました。昭和51年の時です。

Photo_2

           (愛野町記念誌「愛野」より)

左に行く道が、バイパスです。写真で見るように、ガランとしていますが、いまでは陸橋の

右にマルキョウが建ち、ナフコ、大型ドラッグスストアー、パチンコ店などが並んでいます。


雲仙市愛野支所の方には、昼食時にもかかわらず、情報を頂いたことを感謝します。



次回は、また地上に戻って、線路を辿ります。

なお、以前「雲仙鉄道は その3~愛津駅はここだった」で、偉そうに、川沿いの堤防に汽

車が走っていたように書きましたが、これは全面撤回です。申し訳ありません。


今日は、墓の花替えに。墓に行くとだんだん知っている人が多くなって、「メル友」ならぬ

「墓友」が増えました。ポチと楽しいですね。でも、じいさん、ばあさんばかりで・・・・

 

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2013年5月22日 (水)

雲仙鉄道 その17~鉄道、山王神社参道を走る(雲仙市愛野町)

Photo_19

さて前回の続きからですが、昨日途中まで書いたところ、パソコンがフリーズして、書きか

けの原稿が、全部パーになりました。どうも、ウィンドウズ8さん、気むずかしいようで・・・


昨日、書いた道を行くとすぐに、山王公園(山頂付近に公園ができています)の駐車場。

多分ここの駐車上は、公園化したときか、繊維工場ができたときに広げたものでしょう。


ここで、ウォーキングをしている60代くらいの女性出会い、もう少し若かったら良いな、と

思いながらも、雲仙鉄道の事を聞くと、他所から嫁いできたのでよく分からないとのこと。


この女性、後で重要な役割を果たしますから、仮に美代子さんと呼んでおきます。なぜ美

代子さんにしたか?私の憧れの女性でしたから。人妻でしたけど・・・・(;ω;)


この写真から少し行くと

Photo_20 Photo_21

左の写真、赤の矢印が、神社への参道(階段)、黄色の矢印が、繊維工場へ行く道。駐車

場へ行くと、端の方、草が生えていましたが、道がありました。

Photo Photo_3

とにかく、どんど行くと、山道にしては広すぎるな、という感じ。ひょっとしたら、この先北口

の参道がありますから、先ほどの参道と参道を結ぶ道かと・・・・


北口の参道です。左に鳥居、右に神社へと上る階段。イノシシが出るせいか、柵がしてあ

って、現在登れません。

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道が終わるかと思えば、まだまだ道は続きます。

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が、しかし道は左の写真のように、途中で切れてしまいます。住宅、林があり、横から確

認しにくいにですが、一部、空き地があるので、横から見ると、右のような感じになります。

道は、山の一部を回るようになっているわけです。

Photo_8 Photo_10

さて、ここで「TOK」さんのコメント、「日吉神社に向かう線路は山の手前から築堤で高度を  

取っているようで・・・」の文章。


この、道が切れたところから、家が数軒建っていますが、その先は畑になっています。と

言うことは、この道、線路道の可能性が高いという所ですが、疑問が一つ。神社の参道を

汽車が横切ることがあろうか、と言うことです。


あとは、警察と一緒で証人探しですが、この日は運が良かったのか、下に戻ってヨロヨロ

歩いていると、向こう側から、自転車を押してヨタヨタと歩いている、80年代の老人の方。


少し、呆けているような感じだったのですが、「雲仙鉄道は・・・・・」と聞くと、事なげもなく、

「この上を・・・」と、私が歩いていた道の方向を指すではありませんか。証人1。


先ほどの道が切れたあたりの下の家で、花壇を手入れしている、60年配の女性の方。ま

あ、知らないだろうと思って、聞くと、先ほどの道が切れたあたりを指さして、

Photo_11

「ここを通って、先の方の白い家の辺りまで道があったんですけどね」。証人2です。

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赤で囲んだ所に数軒白い建物とか、この後ろに白い塀の家がありましたから、多分ここら

あたりまで線路の土手が積み上げられて、手前の畑の方へ、走りこんでいたのです。

こんもりしたところが、山王さんです。



さて、空中写真を見ながら、うろうろしていると、「おーい、おーい」と呼ぶ声。振り向けば

さっきの美代子さん。「当時の事を、知っている人がいるから来て。」


行ってみれば、87だったかのお爺さん。美代子さんと同じ自治会の同じ班の方だとか。

やはり、汽車は山王さんを通って、こちらの畑に走り込んでいたとのこと。証人3です。こ

れだけそろえば証拠十分という所でしょう。


でも、神社の参道を横切る汽車があったとは・・・・・・さて、それから後の鉄道線路を聞く

と、私が思っていたのとは全然違っていて・・・又次回


しかし、何ですね。線路の土手が残っていたら、間違いなく近代化産業遺産に指定されて

いたのでしょうが・・・山王さんの線路跡の道だって、立派な近代化産業遺産だと思うんで

すが・・・もう少し整備と宣伝ができれば良いのですが、・・・・


今日は暑くて、ドクターストップがなければ、ビール一本飲んでいたんですが、はと麦茶で

ポチ我慢しました。でも、ビール、飲みたい、飲みたい、飲みたい。ポッチっとで良いから

飲みたい。  

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2013年5月20日 (月)

雲仙鉄道 その16~千々石駅から山王さんへ

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以前、旧小浜鉄道(千々石駅~肥前小浜駅)のことを、書きましたので、今回から、千々

石駅~愛野駅の温泉軽便鉄道のことを書きます。この二つの鉄道は、以前書いたよう

に、昭和8年に合併し、雲仙鉄道になりますから、最終的な名称、「雲仙鉄道」で表記を統

一します。


さて、赤の所が、千々石駅の祈念碑があるところなのですが、この祈念碑の右側にプラッ

トフォームがあったとか、黄色の消防小屋のところで、「駅の跡」といって遊んだとか、もう

少し後ろの方だったとか、今のところ調べ中です。


さて、ここから左の方向、諫早方面に行くと、大きな坂道にかかりますが、この下の道に入

ります。この大きな道の下に、旧道が見えます。


先へ進むと、千々石断層が見事に見えてきます。現在でも、台風の後など落石があり、通

行止めになりますから、鉄道が通っていた頃は、不通になることも再三再四だったでしょ

う。なお、この道は、数十年前までは、舗装もなく草に覆われている道でした。

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この道をまっすぐ行くと、濱駅があります。右側に建物が続いていますが、大正15年(ま

だ雲仙鉄道は通っていました。)の地図を見ると、多分、この建物の所を通っているようで

す。

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この道を行くとすぐにカーブミラーがありますから、右折。すぐにまたカーブミラーがありま

すから左折するとまっすぐな道に出ます。汽車道です。ここを進むと、国道251号線と合

流します。

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空中写真、大正15年の地図を見ても、この251号線、はっきりとは分かりませんが、

251線は,1956年(昭和31年)に、長崎口之津諫早線として2級国道の指定。1965

年(昭和40年)に一般国道になりますから、汽車が通っていた頃は、まだ、十分な道で

はなかったのでしょう。もっとも、あの時代、まだ車は今のように普及していませんから。

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           (「愛野町閉町記念誌」より)

さて、この251号線を長崎方面にすこし少し走ると、「水晶観音駅」です。

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聞くところによれば、この横の店の所に駅があったとのことです。これからすぐに、唐比の

交差点にでます。ガソリンスタンド、セブンイレブンが建っていますが、本来の汽車道は、

この手前から入ります。

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黄色がガソリンスタンド、正面にセブンイレブンがあります。赤の線の道が、線路道です。

途中までは、車で行けますが、途中から歩行者道路になります。車の走れる道路には出

られますが・・・

途中、線路跡の盛り土が見られます。

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道が終わる頃、日吉神社がある、地元では「山王さん」と呼んでいる、こんもりした小さな

山が見えてきます。黄色の所が、山王さんです。


この道が終わって、そのまま右手に、歩道がありますが、この歩道が、登るような感じで、

いつも不思議に思っていたのですが・・・・

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何となく変な感じの歩道で・・・少しばかりの上り坂です。

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ここから、昨年、TOKIさんから頂いたコメント、「ところで、反対方向、日吉神社に向かう線

路は山の手前から築堤で高度を取っているように見えます。現在は残っていませんが、

昔の人はスゴイですね。」


この言葉が、どんな意味か、ずっと心に引っかかっていたのですが、この歩道を歩いて行

くと・・・・お後がよろしいようで、又、次回。


今週は、長崎と島原の病院へ。病院通いもポチと疲れますね。

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2013年5月19日 (日)

最後のキリシタン王国「有馬」~長崎県南島原市

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今日は少しお勉強をと。南島原市で、シンポジュームがあるとかで、出かけました。正式に

は「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』世界遺産登録シンポジューム 最後のキリシ

タン国「有馬」 ~キリシタンの繁栄から殉教の地、南島原から世界遺産を~」


会場に入ったら、ゆるキャラクターのお迎え。左が口之津町の身長3.5mの、ベイガ船

長。右が、「お名前は?」と聞いたら、「ハルッピー」と答えました。北有馬、日之江城の城

主、キリシタン大名の名は「晴信」。

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最初ご挨拶があって、これは省略。

次に、「公益財団 ながさき地域政策研究所 理事長」の脇田安大氏の基調講演。世界遺

産登録の話。観光とどう結びつけていくか、今後の課題など。経歴をみたら、日本銀行長

崎支店長を勤めた方。分析力が違いますね。


続いて、有馬家第27代、有馬匡澄(まさずみ)氏のご挨拶。世が世であれば・・・

右は、福井県丸岡市の大雲寺にあるという、有馬晴信の木造のレプリカ。似てますかね。

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南島原市では今年、「平成遣欧少年使節」をイタリア、ポルトガルに派遣をしています。そ

の朗読劇(報告)。


以前、少年使節を派遣した関係市町、千々石町、大村市、大分市合同で少年使節を派遣

したことがありました。大村市は確か続いているみたいですが、わが雲仙市は、なにやっ

ているの?他人にアイディア取られて・・・・合併したから、市としては関係ないか。

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続いて、シンポジューム。最初にパネリストの意見を。


最初に、東京大学名誉教授、聖トマス大学大学院教授の五野井孝史氏。次に鹿児島県

谷山カトリック協会司祭、バリニャーノ研究家のムイベルガ・ヨゼフ氏。少年使節はなぜド

イツに行かなかったのか?マルチンルター、プロテスタント協会の源流を作った人の国で

す。(少年使節を連れていった、ヴァリニャーノはカトリックでイエズス会に属していました

たから。)と言うような話を混ぜて、ユーモアのある話。スクリーンに映っているのが、ヴァリ

ニャーノです。

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三人目が、第17回松本清張賞を受賞された、小説家の村木嵐(らん)氏。少年使節の

千々石ミゲルを主人公にした、「マルガリータ」で受賞です。新聞の写真と違って、美人な

ので、写真は大きく

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あとは、九州国立博物館長、前文化審議会文化財分科会世界遺産特別委員、三輪嘉六

氏をコーディネーターとして、4名でのシンポジューム。最後に、世界遺産指定への宣言文

の採択。

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おもに、世界遺産指定に関しての内容でしたが、それなりに勉強になりました。ただ、質問

の時間が無くて・・・・準備していたのですが。


特に、島原の乱に対して、協会側はどのような評価をしているのか?(答えは大体分かり

ますが・・・)。ここは、世界遺産指定にかかわって来ると問題だと思うのですが・・・・・・

帰りがけ、雲仙を通っていたら、山道の霧のすごいこと。前が全然見えませんでした。ポチ

私の人生みたい。

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2013年5月18日 (土)

iPhone5で遊びました~ドライブカメラ

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最近、車事故の時、画面を記録するドライブカメラが流行っているとか。私も、どうかなと

思ったのですが、懐の具合が・・・・先日、ネットを見ていたら、iPhoneのアプリを使って、こ

れができるとか。早速このアプリをインストールして、試してみました。

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ダッシュボードに吸着盤で設置。家電屋さんで1300円也。後はスタートスイッチをタッチす

ればOK。


しばらくは、画面が映っていますが、しばらくすると,脇見運転しないように、画面が変わり

ます。

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本当に作動するのか、ぶっつけても良いような、安い車を物色(冗談です、スミマセン)。

前の車に近づきすぎると、接近注意のアナウンスが流れます。


考えてみて、少し乱暴運転をしてみようかと、車にスピンかけたり、ドリフトやったり、する

腕はないので、急ブレーキくらいならできるかなと、田舎とは思えない、車の来ない立派な

道路でやってみました。(よい子の皆さんはしないでしょうが、悪い子の皆さんは真似しな

いように。)

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急ブレーキを踏むと、上の画面と同時に、「衝撃を検知しました、事故の場合はけが人の

救護、路上での危険防止をしてください。」のアナウンス。しばらくすると、画面は救急車、

警察、保険会社の連絡先に変わります。タッチすると多分電話が通じるのでしょう。

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さて、家に帰って、録画リストを見ると

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録画リストをタッチすると

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画面左半分の所、黄色の三角の所が急ブレーキを踏んだところ。少し左の青い車のイラ

ストが、私の車が走っている場所で、右がその画面。緊急事態が起こった前後10秒ずつ

記録されるようになっています。

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緊急事態が起こったところと、車が重なっています。急ブレーキを踏んだところです。事故

現場の地図(GPSが拾えないところはでません)。車の速度、時刻等出ていますが、車の

ショックのGで、緊急事態を察知するようで、0.5G以上の所がリストにあげられていまし

た。

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なお、運転成績も出るようになっており、この日は試しに乱暴運をしたためか、ランクはC

でした。このアプリ、損保ジャパンで検索すると出てきます。


ただ、iPhoneをダッシュボードに置いていると、今日あたりもでしたが、かなり熱くなってお

り、夏場は特に、この点心配なところです。夏は使わない方が無難でしょう。


固定器具を買うのがもったいなかったら、別の方にしっかり、iPhoneを持ってもらって、一

度試してはいかがでしょうか。


今日は久しぶりに床屋さんに行ってきました。もちろん女性の床屋さんです。ポチと幸せ

でした。

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2013年5月16日 (木)

2013 雲仙つつじ速報(5月16日)~長崎県雲仙市小浜町雲仙

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下界は、つつじが散ってしまったかと思ったら、ここ雲仙岳は標高が高いせいか、つつじが

満開状態。

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仁田峠の駐車場。上の山は妙見岳です。絨毯を敷きつめたようなつつじ。

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この雲仙は昔から、島原藩に大切に守られ、元禄六年には、次のような制札が建てられて

いたそうです。(これ、以前書きましたかね?年とともに、同じ事を繰り返し言うようになっ

て・・・・・)


一、宮廻不浄之儀有へからず、並ニ放火申す及ばす、たばこ火までも無沙汰に取り散らか

   す間敷事

二、参詣或いは見物、或は湯治之輩 辨等酒魚用いる事くるしからず、但乱酒みだりに之

   儀有へからざる事

三、当山つつじ一枝折取ることも堅令停止事

右之通可相守者也

元禄六年四月廿一日


要するに、たばこはポイポイ捨てるな、弁当、酒は良いが、よって乱れるな、つつじは、一

枝でも、折り取ることはならぬ。ということで、これ、現代にも当てはまりますね。


帰りに、宝原(ほうばる)公園まで行くと、平日だというのに、駐車場がいっぱい。こちらも、

見事なつつじでした。

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あ~カミサンも連れてくればよかったな、(真っ赤な嘘です)と思いつつ、コンビニで買って

きた弁当を一人、ぼそぼそ食べました。

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ゴルフ場付近の、公園を覗いたらこちらも満開。

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向こうに見える山は、矢岳です。


多分、来週には散りかかるでしょうから、今週の土、日は天気も良いようだし、出かけられ

てはいかがでしょう。ただし、早めに行かれないと、駐車場はいっぱいですよ。

途中、山の中に咲いている、ヤマボウシも楚々として、若葉の中にアクセントを加えていま

した。  (参考:小浜町史談)


タバコに酒、昔から不心得者がポチポチいたんですね。

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2013年5月15日 (水)

お庭で散歩

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今日は、電気屋さんに室内工事を頼んだので、出かけるわけにも行かず、かといって部屋

にいたら邪魔になるし、お庭を散歩して見て回りました。


本来なら、夏野菜を植えてた時期なのですが、昨年末から、いろいろあって、意欲がわか

ず・・・


まあ、サツマイモが今からですから、植えてみますか。といっても、ウチのカミサン、田舎育

ちで、小さい頃、サツマイモばかり食わされ、見るのもイヤという状態だしなあ。


写真のヤマボウシ、植木が一本枯れたので、その代わりに去年植えたら、その年から花を

つけ、今年も咲いてくれました。この花、下から見るとあまり目立たないのですが、二階か

らみると、昨年より、花数が増えていました。


月桂樹。西洋料理に使う、「ローリエ」。小さな苗木をもらったのですが、いつの間にか、庭

の片隅を占めるまでになりました。重宝しています。ただ、増えすぎて・・・

ツワブキ。春先になると若芽が出てきて、食卓にのぼります。これ、皮をむくのが面倒くさ

く、指先が黒くなってしまうので・・・・山で採ってきて、植えていたらいつの間にやら、増えて

きました。

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日本ヒイラギ、家を建てるとき、「日本ヒイラギは魔除けになるよ。」と言われ、植えたもの。

カミサン除けになる木はないものか?

ミント。まあ、増えますね。根がどんどん広がって、あっという間に畑の一角を占めたので、

ほとんど処理して、少しだけ片隅に植えました。根が広がらないように、ビニールの板を植

え込んで、囲っています。

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庭の片隅にひっそりと咲いていた花。名前はよく知りません。昔、子供に「お父さん、あの

鳥、なんていう鳥。」と聞かれて、「小鳥だよ。」と答え、バカにされましたが・・・・

「名のない草はない。」と言ったのは、確か昭和天皇たっだと思います。

柿の木、大きくなりました。下に立つと、太陽の光を通した葉の緑が、気持ちいい。リラクゼ

ーションにもってこいの場所です。

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昨年、里芋を掘ったとき、残っていた里芋の芽があちらこちらに伸びていました。

シャクナゲ。2~3年前、シャクナゲ見物に行って買ったものですが、土が合わないのか、

咲きそうで、咲きません。(見えそうで、見えないパン○○○と一緒かな?)

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またも来ました、タマネギです。これで3軒目、今年はタマネギの値が安いのか、タマネギ

農家は困っているそうです。あちらこちら配って、それでも、あまった分は、どこかに捨てに

いくとか。どうも、ジャガイモの値もあまり良くないらしく、困ったもんです。

ニンジンの堀り忘れがあったので掘ってみたら、葉っぱばかりでしたが、この葉っぱ、天ぷ

らにすると、美味しいんですよね。好物です。

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アジサイはぼつぼつ蕾をつけてきました。沖縄は梅雨に入ったそうですが、アジサイが咲

き始めると梅雨。ぼちぼち正月の準備ですね。

昨年、いただいたジャガイモですが、全部は食べきれず、いつの間にか芽が出ていまし

た。

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ろくな手入れもしないのに、良く育つもんです。たまには庭のお散歩も良いもんですね。季

節が感じられました。

今日はポチとゆっくりした日でした。例によって、カミサンはお留守だし。

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2013年5月14日 (火)

雲仙鉄道 その15~記念碑にご注意 その2

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昨日、書き忘れていましたが、このような記念碑等には普通、設置年月日、設置者等が書

いてあるのですが、裏を見ても、横を見ても、なんにも表記されていませんでした。不思議

といえば不思議。


千々石駅です。ここまでは「小浜鉄道」と表記してありましたが、ここからは「温泉鉄道」に

変わっています。「温泉軽便鉄道」とするのが本当なのでしょうが・・・・


ローマ字で、「TIJIWAEKI」と彫ってあります。今なら「CHIJIWAEKI」になるのでしょうが、こ

の「TIJIWA」の表記は、戦前に使われた、「日本式ローマ字」。昭和12年には、日本式ロー

マ字を基にして、内閣訓令第3号として「訓令式ローマ字」が公布されます。


縦の行「aiueo(あいうえお)」、横の行「akasatana(あかさたな)」を単純に組み合わせたも

の。「き」は「k」と「i」の交わるところで「ki」。「千々石」の「ち」は、当然「t」と「i」が交わるとこ

ろで「ti」になります。


試しにパソコンで、「t」「i」と打っていただくと、「ち」と出ると思います。あなたのパソコン、出

ない?それ安物のパソコンでしょう?


訓令式ローマ字は、「日本式ローマ字」ですから、戦争で負け、米軍が日本に入ってきたと

き、英語に準拠した、「ヘボン式ローマ字」に代わられます。


話を元に戻します。上に書いてある、「唐比浜」、「上千々岩」。もちろん「浜」、「上千々石」

で、これは間違い、その証拠に、昭和5年10月号の時刻表ですが、「千々石」、「上千々

石」、「濱」とちゃんと書いてあります。

Img_0003 Photo

次の駅は「浜駅」ですが、ここは、開業が大正15年7月になっています。愛野~千々石の

開業は、大正12年ですから、この駅だけが開業が遅れています。理由については、残念

ながら分かりませんでした。

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お~ここは良いですね。ちゃんと旧字で「濱」。しかも、「温泉軽便鉄道」となっているではあ

りませんか。惜しむらくは、「鉄」を「鐵」に。ここも、設置年月日、設置者の名前なし。


次は、「水晶観音。」先ほどの時刻表には「水晶觀音」と旧字で書いてありました。

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ここも、ちゃんと、「温泉軽便鉄道」、「濱」の字。良いですね。「観」の字が「觀」にして欲し

い。


次が「愛津駅」ですが、ここにきて、やっと設立年月日、設置者が分かります。

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横の方に、「平成六年二月建立 愛野町」。


デザイン的にも全部同じ記念碑。そろっていますから、多分、各町で話し合って、設置した

ものなのかな?内容は、各町で業者に発注したものと思えます。


さて、最後の愛野駅です。

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やはり、ここも「平成六年二月建立 愛野町」となっておりました。


こうしてみると、我が千々石町の記念碑が間違いが多く、町民を代表して陳謝いたします。


おまけです。

千々石の記念碑の横に、写真を焼き付けた石碑がありますが、

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左の駅名の看板、「千々石と」書いてあるのが分かると思います。そういえば、戦前は横書

きの場合は、写真のように右から左に書いていましたから、各記念碑も昔風に右から左に

書けば、いっそ風情があったものと思います。


暇なので、もう一つおまけです。上の時刻表、全国の地図が載っており、別冊に九州だけ

の地図が付いていますが、

Img Img_0001

片方は単なる間違いでしょうが、「喜々津駅」が出発駅になっていました。なお、この地図

の地名は、新漢字表記です。


また、この時刻表、「朝鮮及滿洲」、「薹湾(わんは難しい字なのですが、私のパソコンでは

出てきません。私のパソコンも安物なのかな?)」の地図と時刻表ものっており、時代を感

じさせるものでした。

以上、「記念碑に注意」を終わり、次回から、千々石駅~愛野駅まで、現場を回ります。


今日は、町内放送で、78才の男性が行方不明で、容姿などを説明しており、見かけたら

連絡をして欲しい旨の要請があっておりました、私もポチポチ年なので、もうすぐこうなるの

かな。実感として聞いておりました。

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2013年5月13日 (月)

雲仙鉄道 その14~記念碑にご注意 その1

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一応、温泉鉄道の歴史をおさらいしたいと思います。


大正9年7月(1920年)   温泉軽便鉄道株式会社創立

大正10年8月(1921年)  小浜鉄道株式会社創立

大正12年5月(1923年)  愛野~千々石間の温泉軽便鉄道開通

昭和2年3月(1927年)   千々石~肥前小浜間の小浜鉄道開通

昭和2年6月(1927年)   温泉軽便鉄道、小浜鉄道、島原鉄道三社で諫早より直通運 

                  転開始

昭和7年11月(1932年)  赤字経営により三社直通運転解消

昭和8年7月(1933年)   温泉軽便鉄道と小浜鉄道合併し、雲仙鉄道となる

昭和8年11月(1933年)  諫早より直通運転再開

昭和13年8月(1938年)  雲仙鉄道解散           (以上説明板より)


なぜ、愛野~小浜間の短い距離の間に、2つも鉄道会社があったのか、これは以前詳しく

書いていますので省略します。


温泉鉄道の事を再開しようと、旧駅跡を訪れたとき、千々石の「上千々石駅」の記念碑を

見ていると、なんだか変だぞと・・・


「上千々」が「上千々」に。おまけに、下の方、次の駅を書いてある所。

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「木津ケ浜」ではなく、正確には「木津の浜」。「下千々岩」なんて駅はありません「千々石」

です。


この、記念碑、誰が建てたのか、この碑の下に、銘板がはめこんであります。

「幼かった頃 ふるさとの歴史を きざんで ここに鉄道が通っていた 懐かしい当時を偲ん

で   平成元年11月 建碑贈」となっており、氏名が彫ってあり、多分、この方が全部を

寄贈されたのかと思ったのですが、寄贈年月日が平成元年、後で書くように、この駅の記

念碑が各町に建てられたのが平成6年頃。


多分、下の部分だけ建てられ、上の部分は後で建てられたのではないかと、近所の方、

2、3にあたったのですが、返事は「さあ?」でした。


ということもあり、小浜に用事で行った帰りに、各記念碑を見て回りました。

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「肥前小浜駅」です。「小浜駅」ではありません。これについては以前書いたので省きます。


上に「旧 小浜鉄道」と書いてありますが。ここは昔を偲んで、「旧 小浜鐵道」と、旧漢字で

かいて欲しかったですね。「小浜」も「小濱」で。ここは少し高いところにあるので、写真が撮

りにくくて。「わたしゃ、もう少し背が欲しい」。


「木津の浜駅」。ここも、「木津駅」ではなく、「木津の浜駅」。これも以前書きましたから省き

ます。「木津の濱駅」。旧漢字が良いのですが・・・・


この駅だけ、「近代化産業遺産」のプレートが嵌まっています。ここは、はっきりとプラットホ

ームが残っていますから、ここだけが指定かなと思って調べると。


「近代化産業遺産」の「観光の部門」で、雲仙市は「雲仙観光ホテルと雲仙観光関連遺産」

の名称で、「雲仙観光ホテル」、「雲仙ゴルフ場」、「旧小濱トンネル群」が指定となっていま

す。


トンネルがあるのは、「上千々石駅」から「小浜駅」の間。残念ながら、他の旧駅は「近代化

産業遺産」には入ってないようですね。次は、「上千々石駅」で、上に書いたとおりです。


次の駅も、少し問題のある記念碑の「千々石駅」ですが、ちょうどウォーキングの時間にな

ったので、またね。


今日は、銀行に行って、振り込みをしたら10万以上は、身分証明書になるものをと言わ

れ、TSUTAYAのカードを出しましたが、断られました。やはりTSUTAYAでは、まだ、ポチと

通じないんですかね。最近できた、武雄市の図書館では、TSUTAYAのカードが図書カード

としても使えるそうですが・・・・ポチと残念。

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2013年5月12日 (日)

雲仙鉄道 その13~愛野周辺の1944年の航空写真について

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さて、懐かしの切符です。「愛野から吾妻ゆき」。「愛野」を「いとしの」と読み、「吾妻」を「わ

がつま」と読み。続けて「愛しのわが妻」。(ウチはまったく関係ありませんが・・・・・)。遠

くから買いに来られる方、結婚式の記念に、大量に買われた方、一時は全国的なブームに

なった切符です。



ところで、久しぶりの「雲仙鉄道 その13」です。

雲仙鉄道のことを書き始めたのは、昭和2年、千々石から小浜に至る、小浜鉄道が開通し

た時の長崎日日新聞の特集を読んだのがきっかけでした。



千々石~小浜間を主に書いて、終わりにするつもりでしたが、昨年一月「TOK」さんから、

その3の「愛津駅はここだった」で、以下の貴重なコメントをいただきました。少し長くなりま

すのでポイントを



「畑の中の鉄道は国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧で見ることができます。米軍が194

7年に撮った写真です。USAーRー153ー43

・・・・町並みを抜けた鉄道は畑の真ん中を通っています。跡地は畑になっています。・・・

ところで、反対方向、日吉神社に向かう線路は山の手前から築堤で高度を取っているよう

に見えます。現在は残っていませんが、昔の人はすごかった。」

この航空写真を見たところビックリ、自分が思っていた線路とは全く違う線を辿っていたの

です。そのほか信じられないような所もみつけ、自分が書いた記事の訂正も含め、飛び飛

びになるかもしれませんが、調べたことを少し書いていてみたいと思います。

から検索できますが、少し変わりづらいかもしれません・・・・

と、ここまで書いたら、パソコンの調子が悪くて、というより機能が多すぎて、変なボタンを

押したのか、途中から書きかけの記事が消滅し、書き直す意欲もないので、今日はここま

で。



新しいWindows8は、ポチ難しい。
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2013年5月11日 (土)

小野(諫早)の金比羅さん その3~長崎県諫早市小野

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さて、少し参道の坂道を上りつめたところに、「金比羅山鎮護大権現」のお社があります。

このお社をぐるっと囲む石仏。三十三観音像です。

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これには、ちょっと迫力がありました。古くは明和3年(1766)、他は安永(1772~

1780)が多いそうです。


この社の裏から少し下ったところに、展望所、八天狗があります。

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八天狗ですが、向かって左の石に、「八天狗」と刻んで祀ってあります。元禄八年だと言う

ことです。ここの所、巨石が多く、巨石信仰を伺わせるものがあります。


なお、八天狗とは、愛宕、比良、大山、大峰、鞍馬、飯綱、彦山、白峰に住む天狗のことで

す。


島原にも八天神社などありますが、諫早地方には、永昌、土師野尾、八天町公園など、八

天狗が各地に祀られています。これは、「諫早を歩く」によれば、伊佐早西郷家の家老山

崎丹後守が、佐賀塩田の塩田八天社の出身で、戦国時代から塩田と諫早は深いつながり

あったと言える、ということだそうです。


この脇に少し広いところがありましたが、雨乞い浮流をした所だそうで、ここからの風景は

雲仙、橘湾を見渡せるところですが、この日は曇って残念でした。


さて、この神社に千々石からも灯籠が奉納されています。

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写真では分かりにくいのですが、左側、「願主千々石住人永田喜?冶眞」とあり、弘化三

年。右は「願主千々石住人宮嵜九郎右衛門延高」。なんと、以前の書いたことがある、

「山武士神社とは?」に出てくる、宮崎九郎さんではありませんか。ただ、山武士神社は

「千々石里正(郷里制の下における里の長。庄屋。)宮崎九郎右衛門延髙造立」と刻んで

あり、こちらとは若干違いがありますが。


天保十三年(1842)の奉納ですが、これも以前書いた、「平松かぶり★千々石騒動」が起

こったのが、弘化四年(1847)。


「宮崎」姓と言えば、千々石の庄屋でしたから、これから考えると、この宮崎九郎さん、平松

かぶりの時の庄屋さんではなかったんでしょうか?九郎さんだけに苦労(オヤジ駄洒落で

すみません  )されたんでしょうね。


しかし、千々石、昨日書いたように、山田村(吾妻町)等からも奉納があり、この金比羅さん

の当時の隆盛が忍ばれるところです。   


とにかく、こんな山の中に、といった感じですから是非行ってみてください。何となく、パワー

スポットの感じのする霊場でした。  (参考:「諫早を歩く~山口八郎著)  以上終了


今日はカミサンが一日家にいて、しぇからし(せからしいの長崎弁)かったので、私がポチ

外出してお調べものでした。いろいろ捜してきたので、またネ。

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2013年5月10日 (金)

小野(諫早市)の金比羅山 その2~長崎県諫早市小野

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昨日の続きです。山門をくぐると少し広いところがあり、左側に建物の礎石があります。こ

れが性圓寺(しょうえんじ)の跡地になります。


戦時中は、金毘羅さんには出征兵士が、武運長久を祈願に来ていたそうですが、戦後は

参拝者も少なくなり、例祭もなくなり、お寺も朽ち果ててしまったそうです。


これが、当時の性圓寺だそうです。

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         (「写真集・明治・大正・昭和・諫早」より)

写真には「性園寺」と書いてありますが、ほかの資料では「性圓(円)寺」とありますから、多

分「圓」の方が正解でしょう。


ここから、「金毘羅山鎮護大権現」への参道が続きます。

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石畳が切れたところあたりから、左右に石仏が並びますが、普通の地藏さんではなく、

地藏さんの右側、じゃれているのは犬ですね?

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まだたくさんあるのですが、ほかの写真は手振れしてしまって、お見せできないのが残念。

見たい方は、足を運んでください。さて、こんなものも

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まぎれもない蟹さん。奉納で蟹の石造物とは珍しい。


島原半島で潜伏キリシタン(現在の研究では、江戸時代の禁教後、キリスト教を信仰され

た方々を潜伏キリシタン。明治になって、禁教が解かれた後も教会に戻らず、自分たちだ

けで信仰を守られた方々を、隠れキリシタンと分けています。)を研究しておられる方は、

金毘羅さん(または琴平さん)というと、キリスト教でいう、「コンヒサン(コンピサン)」(告白、

告解)に語呂合わせしたものとして考えています。


蟹については、前にも書きましたが、フランシスコザビエルが海に落とした十字架を、蟹が

咥えて持ってきたという話しから、金毘羅神社の燈籠、手水鉢等に蟹が彫ってあると、潜

伏キリシタンの可能性を考えているようです。


ただ、この蟹さんの横には、「南高來郡山田村(注:現雲仙市吾妻町)字永中黒田○○○

○太郎」と彫ってあります。


平成の町村合併以前は、南高来郡と北高来郡に分かれていたのですが、ずっと古くは同

じ高来郡であり、明治11年(1878)の郡区町村編成法で北高来郡と南高来郡に分割して

います。ということで、この蟹さん明治11年以降のもので、キリシタンとはあまり関係ない

でしょう。


かえって、この金毘羅さんには漁師さんもお参りする方が多かったそうで、旧山田村といえ

ば有明海に面した所で、有明海は蟹がよく取れる所。豊漁をねがって蟹の石造物を奉納し

たんじゃないかと思うんですが・・・・・「金比羅山大権現」まで、もう一息です。

(写真;「ふるさとの思い出 写真集・明治・大正・昭和・諫早~諫早史談会編」より)


久しぶりの雨、心なしか、ポチと落ち着いた一日でした。カミサンもいなかったし・・・

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2013年5月 9日 (木)

小野(諫早市)の金比羅さん その1~長崎県諫早市小野

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金比羅山といえば、あちらこちらにある山ですが、ここ小野の金比羅山は、富川渓谷、永

田の御手水観音と並んで、諫早の三大名勝地だそうです。


金比羅山に大権現のお社があるとかで、一度出かけましたが、山頂には何にも無く、狐に

つままれたような感じで、その日は帰りましたが、調べてみると、山頂から少し下った所に

史跡がいろいろあるとか。また、出直しましたが、何でもちゃんと調べていくもんですね。


小野の金比羅山は標高約250m位の山で、少しきついかなと思っていったら、何のことは

ない。車で山頂のすぐ下まで行くことができ、トイレ完備。横には広場まで。


さて、この金比羅山は、金比羅大権現が祀ってあり、寛永元年には天祐寺の末社として性

圓寺(しょうえんじ)が建てられた、神仏混交の霊場であったそうで、諫早領主の祈祷寺で

もあったそうです。


この場所には、性圓寺跡、松尾社、常夜灯、八天狗、石仏、供養塔、芭蕉の句碑等が林立

しています。行基の伝説もあるそうですが、行基さんと弘法さん、あちらこちらで忙しいです

ね。


戦前は三月十日、十月十日の例祭には、登山口の所に市が立ち、賑わっていたそうで

す。


ここが、どうなっているかというと、古びた看板ですが

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クリックすると少しは広がります。


駐車場から少し登って右手、松尾社があります。松尾社は京都の嵐山の松尾神社を勧請

奉祭したもので、もちろん酒に関係する神様です。文化六年(1809)年に建立されたも

の。

Photo_4 Photo_5

この松尾神社の左手の方に、一番上写真の大きな常夜灯があり、文政五年に建てられた

ものですが、橘湾で漁をし、夜、帰港する船の目印になったと言われています。


ここから、右手の道を辿れば、翁塚があり、「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」という芭蕉の

句が刻んであります。芭蕉がここに来たわけではなく、芭蕉を尊敬する方が建てたのでしょ

う。雲仙にも、「芭蕉塚」と書かれた自然石の碑があります。


ここから先に進んだところに、唐風の山門があります。

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まだまだ先があるので、今日はこのへんで・・・


場所は、諫早市の小野小学校横にマルキョウがあり、その横の道から山手に登って行っ

たところです。ちょっと分かりにくい所があるので、聞き合わせて行ってください。

(参考:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早の文化財」「写真集・明治・大正・昭和・諫早~諫

早史談会編」。説明板より )


今日は少し暑く、ビールを飲みたいのですが、ドクターストップで、ポチと悲しい人生。

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2013年5月 8日 (水)

世界で一番美しいレントゲン図鑑~Nicy Veasey著

Img_2

写真集にもいろいろありますが、これは、X線を使って、いろいろなものを撮った写真集で

す。といっても、スタジオは、イギリス・ケント州にある冷戦時代のレーダー基地を改修し

たものだそうです。場合によっては、500枚以上の写真をスキャンし、コンピューターで再構

成したものもあるそうで、ちょっと写した、という写真と違っています。


さて、著者はこのように書いています。

「・・・僕たちは見た目にとらわれた世界に生きている、自分たちの容姿や服装、どんな家

に住み、どんな車にのるか・・・。僕は表面の下にあるものを見せることによって、そのよう

な表面的な外見へのとらわれに対抗したいと思っている。・・・・だが僕は、内面に隠された

驚くほどの美しさに光を当てることで、無意識に行われるそうした外見に対する反応に挑

戦したい。・・・」

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いや、本当に美しいですね。テニスのサーブをしているところでしょうが、著者のいう、内面

に隠された驚くほどの美しさでしょう。

Img_0002_2 

こうしてみると、女性がいかに無理して、美しく見せるために、ハイヒールを履いているの

かが分かります。足に負担がかかるはず。著者曰く、「・・・ファッション哲学というより拷問

の道具のようにさえ見える。」


このような写真がふんだんに載っており、人物に限らず、動植物、機械まで撮ってありま

す。

Img_0003

レモンの葉だそうです。

こうしてみると、いつも見つけているものが、普段とは違う姿を現してきます。


人の、心もこんな風に、写せないものでしょうかね。特に、ウチのカミサンの心の中を覗い

て見たいのですが・・・・・イヤ、見ない方が、良いのかな・・・・・おっかなくて。


そういえば、以前、マリリンモンローの、28歳の時のレントゲン写真がオークションに出さ

れ、約402万円で落札されましたが、あれ、退職金で買っとけばよかった。残念。


私のレントゲン写真も、買う人があったらポチと安くしておきますよ。内面の美しさが良く分

かります。鍛え上げた体ですから。(本当かな?)

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2013年5月 7日 (火)

絵馬いろいろ~雲仙市千々石町橘神社

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連休が明けたとは言え、こちらは365日の連休。天気も良いし、久しぶりに散歩がてら橘

神社へ。


一昨年だったかも、絵馬のことを書きましたが、今日も少し読んでみると、面白のも結構あ

ったりして。


前は就職のことが、多かったのですが、アベノミックスとやらで(何のことやらよく分かりま

せんが、ミックスジュースなら分かりますが・・・・)、最新、就職率も少しは良くなったのか、

就職に関しては比較的少なめ。


相変わらず多いのが、結婚、進学、健康、家庭の幸せ。

一言、「結婚」、きっぱりして良いですね。

Photo Photo_2

まあ、こんな、のろけているのもありますが、私も結婚前は、こんな気持ちを持っていたも

んですが、結婚して数十年。いつの間にか、こんな思いも吹っ飛んで。お二人さんも、私と

同じ道を歩かないように祈ります。


と思えば、「今年こそ再婚できますように」。いくら離婚率が多くなったからといって、こんな

事、神様にお願いするなんて・・・私も本当は・・・・

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高校生か中学生でしょうか。身に覚えがありますね。かわいい感じ。

頭が良くて美人。絵馬には願い事を書くのですから、この子、書いてあるのとは違うんでし

ょうね。

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こちらは、ちゃっかり組。「願うことがすべて叶うと同時に・・・」。神様だって、そんなに都合

の良いこと、聞いちゃくれませんよ。

試験で、「分からなかったときに、まぐれで当たりますように!」。まあ、合格は無理でしょ

う。

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絶対の誤字に気がついたところが偉い。東大とはまた、豪勢な。ところで、合格したんです

かね。

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ほかにも、おじいちゃんの体を心配したり、ご主人の事を心配されたり(ウチのカミサン絶

対ありませんが・・・)、絵馬を読んでいくと、世相、人の心がわかるもんですね。神社へ行

かれたとき、暇があったら読んでみてください。

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最近は、都会の各地に、監視カメラが設置されていますが、田舎はあまり犯罪もなく、予算

不足で、「監視犬」を設置しております。


こちらはの犬の名前は、「ポチ」です。下のバナーも,、よろしくポチしてね。

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2013年5月 5日 (日)

肥前鳥居発見~長崎県雲仙市瑞穂町西郷・八幡神社

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昨日のモーモーフェスティバルの帰り、「雪屋」さんへ丸ぼうろを買っての帰りがけ、道が分

からないので、適当に走っていたら、「八幡神社」というのがあり、古い神社には興味があ

るのですが、新しそうなので、どうしようかと思いながらも、ちょっとお参りに。

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鳥居をくぐった所の左側に、もう一つ、鳥居と石祠が。この、鳥居を見たとん、愕然。先日

話題にした、肥前鳥居ではありませんか。上の写真です。肥前鳥居について、もう一度復

習しますが、

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鳥居の一番上の部分が、「笠木」、その下の部分が「島木」。柱を貫いているのが「貫」、立

っているのが、私の○○ポ、ではなく、「柱」。右の写真は、諫早市で唯一残っている、肥

前鳥居。諫早市有形文化財・建造物に指定されています。


佐賀県大百科には肥前鳥居について、次のように書いてあるそうです。

「肥前鳥居は、一般的な明神鳥居に比べ、どっしりした落ち着きのある風情を醸し出して

いる・・・・・佐賀を中心とする肥前一帯のほか、長崎県や福岡県の一部にも分布する。そ

の特徴は笠木・島木・貫が原則とし2,3本つなぎで組み立てられ、笠木と島木が一体化

し、木鼻が舟底状に流線型をなしている。また、柱の下部が張り出して作られ埋け込みと

なり、明神鳥鳥居などにみられる亀腹がもうけられていない。さらに柱の上端の笠木・島

木を支える部分に台輪が必ずつけらており、楔を設けることがない。・・・」


一番上の写真とぴったりするのですが、これには島木無しのもので、佐賀の肥前鳥居の

写真をみると、これと同じように島木無しのもあるようです。もちろん3本継ぎです。

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確かに、貫の部分には楔はありません。


ただ、上部を支える台輪がありません。さらに。貫が柱の所で終わっていて、外側に出て

いません。風化か?。また、柱をみると、2本継ぎですが、普通は継ぎの部分は、左右で

高さを同じにしてあるのですが、左右の継ぎ目の高さが違うこと気になりますが。なぜなの

か?


多分、奉納者の氏名、奉納年月日、石工名等が彫ってあったのでしょうが、風化のためか

残念ながら分かりません。額束には「八幡大菩薩」と書いてありました。


ひょっとしたら、この鳥居、初期の肥前鳥居ではないのかな、と思えるほどの素朴な風格

を持っていました。しばらく、鑑賞していきました。市の文化財に指定しても良いんじゃない

のかな、とは思いますが、諫早、佐賀では指定してあるし・・・


ところで、今日、写真を整理していると、灯籠の文字で気になることが

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「享保十一年丙牛天」。享保十一年は丙牛ですから間違いはありませんが、「年」ではなく

「天」の字が。


隠れキリシタン研究者では、天号年といって、墓などに「天」と言う字が彫ってあると、隠れ

切支丹だと言っています。「天」は「天国」に通じるということです。議論のあるところです

が・・・


ただ、わたしも、年号に「天」の字が入ったのを、いくつか見つけ、専門家の方に写真を見

ていただいたら違うだろう、という返事でした。でも、この灯籠、「年」ではなく、なぜ「天」を

使っているのでしょう?


まあ、昨日は巨乳には触れるわ、肥前鳥居は見れるし、人生たまにはポチと良い日があ

るもんですね。

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2013年5月 4日 (土)

雲仙モーモーフェスティバル みずほ2013~長崎県雲仙市瑞穂町

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お~すごい巨乳。おっぱいが4つあるのが気になるのですが・・・・


今日は、瑞穂町で「雲仙モーモーフェスティバル みずほ2013」があるというので、出か

けて見ました。


いろんなコーナーがありましたが、これは、乳しぼり体験コーナー。私も巨乳とあっては、

黙っておれず、乳もみではなく、乳しぼりをしてきました。気持ち良かった。

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私に乳を揉まれてじゃなく、しぼられてうっとりした表情の牛さん。子どもたちも、以外と平

気で、乳しぼりをしていました。


田舎のイベントだからと思って、ゆっくり出かけたら、人出の多いこと。ここは銀座か六本

木かという賑わい。遠くの駐車場に車をとめて、シャトルバスで会場へ。

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島原農業高校の生徒さんでしょう、小動物園をやっていました。

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子牛、モルモット、ロバ、ミニチュアホース、羊、やぎ、写真に撮れませんでしたが、バンダ

にゴジラに象にキリン(これはもちろん冗談  )。


動物とのふれあい、良いですね。子どもたちは喜んで、餌をやったり触ったり。動物も

可愛いもんですね。ウチのカミサンと違って。


こちらも負けずと、長崎国体マスコット、がんばくんとらんばちゃんにミルクちゃん。

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なお、、会場はパワースポットで有名な、岩戸神社から下にくだった「みずほの森 渓流公

園」です。渓流沿いに公園が作ってあり、これからのシーズン、子どもたちを連れて、水遊

びに絶好の場所でしょう。モミジも意外と多く、秋の季節は紅葉がきれいな感じで、その時

には、また報告を。

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各種団体の出店も多く、大盛況。右のお酒は、こちらの岩戸米を使って、湧き水を使った

ものだそうです。牛乳をもらい、牛肉の試食。おいしかったので、5,6回並んで食べて来

ました。

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卵は島原農業高校の生徒が売っていたもの。生徒さんが可愛かったので、つい買ってし

まいました。横にあるのは、「どんだへ」と書いてありましたが、芋餅です。柔らかい餅と、

サマイモのふかしたものを、混ぜ合わせて、きな粉を付けたものです。


会場で知人に会って話をしていたら、西郷小学校の近くに、「雪屋」というお菓子屋さんが

あって、丸ぼうろがおいしいよ、とのこと、寄って買って来ました。右の写真です。


丸ぼうろは、佐賀が有名ですが、小麦粉、卵、砂糖を主に作ります。単純なだけに、その

店の特徴が出てきます。ケーキと違い素朴な味で、「雪屋」さんのもおいしかった。

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確かこのイベントは、雲仙市が合併する前から始まったのではないか、という記憶があり

ますが、ここまで大きくするには、ボランティアの皆さんの努力があったからだと思います。

来年も頑張ってください。


なお、このほか、餅まき、アイスまき、ニジマスのつかみ取り、瑞宝太鼓と多彩なイベント

が実施されていました。皆さんも来年は是非、足を向けてください。


あの巨乳の感触が、まだこの手に、ポチと残っております。今夜は、手を洗わずに寝よう

かな。

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2013年5月 3日 (金)

土井口番所・原口番所■島原藩・佐賀藩の境~長崎県雲仙市愛野町

Photo

    (島原藩主 長崎監視の道~島原殿さん道の会著より)

愛野町は、旧愛津村と野井村が合併した町です。ちょうど島原半島の入り口になる町であ

り、島原藩と佐賀藩諫早領の境にあたるところです。


愛津は古い地図など見ると、合津、会津などと書いてあり、聞いたところでは、昔は、橘湾

と有明海とが、今より内地に入り込んでおり、両方の海が近くで、津、すなわち、海岸、船

着き場が出会うようなところであり、合津、会津といったようです。


もう一説、江戸時代、対岸の唐津に相対する港として合津、会津、愛津になったと言いま

す。この愛津が、昔の交通の要所であり、諫早から来ると愛野で島原へ行く街道と、千々

石、小浜方面への街道に分かれます。


藩の境でもあり、両藩の領土の問題もあり、ここを通るのはかなり厳しかったみたいで。番

所が三カ所あり、上の地図の、原口番所、土井口番所、唐比にも番所があったようです

が、これは見つけきれませんでした、

Photo_2

島原半島ですが、ネックのところが愛野町。緑の○が有明海。干拓で広がっていますが、

昔はずっと奥の方まで海でした。赤の○が橘湾。これも内陸部まで海だったと言います。

こうしてみると、ここが交通の要所だと言うことが分かると思います。

Photo_3 35

原口番所跡は、ジャガイモ畑の中、いつか書いた首塚からまっすぐ行って、少し左側にあ

ますが、小さな石柱が建っているばかりです。知らなかったら、見逃すでしょう。

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土井口番所は、愛野から千々石に行く坂から少し入ります。左の写真、矢印の方が、愛

野から、千々石に行く道に出ます。赤のところが番所跡です。

Photo_6 Photo_7

こちらも、小さな石柱が立っていますが、○○市会議員の後援会の看板が立っていて、見

えません。まったく、常識を疑うという感じで、こんな方が市議だと思うと、我が市の文化に

対する姿勢がよく分かります。なお、近所のおばさんに、場所を訪ねたところ、知りません

でした。悲しかった  。


さて、一番上の古図。見ていただきたいのが、番所間にかいてあるもの。竹矢来です。こ

の竹矢来、現代の地図に書き直してありましたが、

Img_0001

            (同書より)


緑の下線が番所。地図に書かれた青い線が竹矢来です。海の所まで伸びています。こ

うしてみると、この愛野町、特に、愛津が当時の交通の要所であり、取り締まりが厳しかっ

たことが分かるかと思います。勝海舟、坂本龍馬が辿った道で、この番所を通ったことは

間違いないところです。



(参考:「長崎藩主 長崎監視の道~島原殿さん道の会」「愛野町郷土史」「新島原街道を

行く~松尾卓治著」)


いよいよ連休後半。歳取ったので、ポチと墓参りでもして、番茶を縁側で飲んでました。

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2013年5月 2日 (木)

パソコン~ちょっとしたワザを

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今日の写真は、モアレが入って、ちょっと見にくいと思いますが・・・


昨日、身に覚えのない、英文のメールが届いておりまして、英語といえば、中、高、大学、

10年間勉強したのでありますが、未だに言えるのは、「I am a pen」、「This is a boy」、くら

いのもの。


ひょっとした、先日、変なサイトを見ていたので、高額請求書ではないかと思い、焦った、焦

った。


とにかに、何が書いてあるか分からない事にはどうしようもなく、ひょっと思い出したのが、

Googleの翻訳機能。ここらへんは、私、まだ呆けてない証拠。Googleをだして

3

翻訳の所をクリックすると、画面が変わりますが

4

赤の四角の所に、先ほどの文章をコーピーして、貼り付けると、

45

右側に、立派な和訳が。数年前、翻訳のソフトを入れて試したところが、英文より訳が分か

らない日本語が出てきましたが、これなら立派なもの。


中身は、カミサンが数年前アメリカに行ったとき、パソコンでパスポートの申し込みをし、そ

の期限が切れるので、渡航の時は再更新をというもので、メールのアドレスを書き込んで

いたので、その連絡でした。変なところからではなく、本当にほっとしました。


あとで、気づいたことですが、最初のメールの画面で、右クリックすると

赤で囲んだところに、ボックスが出てきて、この中に、「翻訳」という項目がありますから、あ

とは、少しめんどくさいのですが、とにかく、適当にやってみたら

Dscf0743_3

ちゃんとした、日本語になります。名文とはいきませんが・・・・

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なお、音声機能があるパソコンでしたら、音声入力しても翻訳文がでます。ただし、正しい

発音でないと無理みたいですが。


「I am a good boy(私は良い少年です)」と音声入力したら、「ウソはつかないでください」と

翻訳されました。

でも、このコンピューターどこまで進化していくんでしょう。先日も、プロ棋士がパソコンに負

けてしまうし。そのうち、人間なんていらなくなるんじゃないのかな?


なお、翻訳できる言語として、アイスランド語、アラビア語、イタリア語、スワヒリ語、ベラル

ーシ語等々、世界中の言語が翻訳できそうです。長崎弁はありませんでしたが。


明日からゴールデンウィークの後半戦。行くところもなく、ポチと寂しい連休です。

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2013年5月 1日 (水)

寺山修司 没後30年

Img

今日、地元の本屋さんに、週刊朝日を取りに行ったら、「没後30年 寺山修司をかたりつ

くす」という、記事があり、寺山修司といえば、私も一時ファンというより、憧れを持っていた

ものですが、「没後30年」という字を見たとき、もう、そんなにたったのかと、呆然としまし

た。つい、先頃みたいな感じだったのですが。

長崎の片田舎に住んでいたので、当時はあまり良く知りませんでしたが、上京し


■マッチ擦るつかの間の海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

■ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

■北一輝その読みさしのページ閉じ十七歳の山河をも閉ず

■人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

■リンゴの木ゆさぶりやまず逢いたきとき

■便所より青空見えて啄木忌

■車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて

■秋風や人差し指は誰の墓

■恋地獄草矢で胸を狙い打ち

■方言かなし菫に語り及ぶとき


ほとんど覚えている俳句、短歌ばかりです。これを東京に来て読んだとき、寺山修司の才

能に羨望したものでした。


寺山修司は、中学生、高校生時代に俳句、大学時代に短歌、以後、詩、演劇、ラジオドラ

マ、映画などに活躍し、特に、演劇では、劇団「天井桟敷」を主宰し、当時の言葉で言え

ば、「アングラ演劇」と呼ばれていました。

Img_0003

   (1991年「太陽」9月号より)


第一作品集が、「われに五月を」ですが、昭和32年出版。

一番上の写真は昭和60年、寺山修司没後三年目に、新装版として出版されたもの。こ

の本の最初の見開きに

Img_0001

お母さんが、自筆で書かれた、「五月に咲いた花だったのに 散ったのも五月でした 母」

と、厚めのトレッシングペーパーで書かれており、次のページに寺山修司の写真が印刷さ

れ、透けて見えるようにしてあります。お母さんと、寺山修司の関係を暗示しているみたい

な感じです。


■花売車どこへ押せども母貧し

■大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

■母は息もて竃火創るチエホフ忌


お母さんと寺山修司の関係については、各種の本に出ていますので、お読みください。

何かの本で読んだのですが、寺山修司は五月という月が好きだったそうです。生まれたの

は戸籍上十二月十日になっていますが、これについては、曖昧な部分があるようですが、

亡くなったのは五月四日です。この本の出版日も、五月四日です。再版も翌年の五月四日

です。


■目つむりいても吾を統ぶ五月の鷹


「われに五月を」の最初にある詩が、「五月の詩・序詞」であり、最後の方に、「・・・二十才

僕は五月に誕生した・・・」のフレーズがあります。


書けばきりがないので、最後に私の好きな詩を。「ロング・グッドバイ」、長編詩なので、最

初の方だけ。


詩の中のA列車は、デューク・エリントン楽団が演奏(作曲は、楽団のピアニスト、ビリー・ス

トレイホーン)をし、ジャズのスタンダード・ナンバーとなった曲。クリフォード・ブラウンはジ

ャズトランペッーターとして不出世の天才です。


「ロング・グッドバイ」

血が熱い鉄道ならば

走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓をとおるだろう

同じ時代の誰かが

私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の最後のページをめくる男だ

合い言葉は A列車で行こう だ

そうだ A列車で行こう

それがだめなら走って行こう

               ・・・・・・・・・・・・・・


本当に、寺山修司死して、ロング・グットバイになりましたが、私の東京時代の一つの大き

な思い出です。


30年・・・・ポチどころではありませんね。私はその間、何をしていたのか・・・・・

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