有喜貝塚遺跡~長崎県諫早市有喜・松里町
昨日から、有喜の松里町の祭りのことを書きましたが、本来は有喜貝塚遺跡を見に来た
のが目的でした。
たまたま、祭りをやっており、弘法さんの祭り→普賢菩薩祭の浮流→貝塚遺跡→普賢菩
薩・烽火台跡という順に回ってきたわけですが、本日は有喜貝塚遺跡のことです。
とにかく、場所が分かりませんでした。
こんな所を、行ったり来たり、聞くこと3度。2度目に聞いたときは、丘の上と聞き、丘の上
の墓地の横を行くと道が途切れ、それでも頑張って林の中を迷いながら行きましたが、こ
れ冗談だろうと思ったら、本当に冗談、全く違うところでした。危うく遭難。
3度目の正直でやっと行き着きましたが、一番上の写真です。多分、左の説明版がなかっ
たら、分からずに行き過ぎたでしょう。
シートが敷いてあり、発掘調査の時は、現状維持のため、埋め戻しをするので、それかな
と思っていたら、畑の所に80歳くらいの婦人の方が。
聞いてみたら、ここの所有者の方で、この横の所に家がありました。聞いてみると、シート
は単に草が生えないように敷いているとのこと。
話をしばらくしていると、この方の祖父の方が、畑にするため掘ってたら、貝殻が足の踏み
場も無いくらい出てきたそうです。祖父の方が興味があったらしく、発掘物を随分集めてお
られたということですが、ご婦人が興味がなく、見学者が結構多いらしく、そのたびに差し
上げていたら、残り少なくなったそうです。
これが、貝塚から出てきた貝殻ですが、なかに、石器、黒曜石の細石器も混じってありま
した。
この裏にも畑があるのですが、こちらの畑を耕していると土器がたくさん出てきたそうで
す。
ネットで「長崎県の遺蹟大百科」にも説明してありますが、1921年(明治45年・大正元
年)に発見。1925年(大正14年)に、京都帝国大学(当時)の浜田耕作氏を中心に調査
がなされ、その時、箱式石棺2基、人骨も3体発掘されたそうですが、ご婦人の祖父の話
によると、かなり大きな骨であったそうです。
諫早市の説明版には、「この人骨一体の胸部から鉄のやじりが出土したことにより、縄文
時代人が鉄器使用の人たちに征服され、その年代は西暦一世紀以降、三~四世紀に近
いものとされ、当時の学会の注目を浴びました。」とあります。
2回目の調査が昭和58年度。このときも、石器、土器等も出土したそうです。なお、説明
板には書いてありませんが、「長崎県大百科事典」には、「箱式石棺墓と人骨、鉄鏃につ
いては、弥生時代以降のもので、縄文文化と弥生式時代の二時期があったことが判明し
た。」と書いてあります。
資料所在地は、京都大学、諫早市教育委員会とありますから、多分諫早市郷土館に展示
してあるのかな?
なお、現地は少し小高い所にあり、昔はすぐ下の方は、海であったとのことです。
帰りがけ、あなたも一つもっていかれませんかと言われましたが、「そんな貴重なものを、
数も少なくなっているし、取って置かれた方が良いですよ。」と言いつつ・・・・
土器を眺めつつ、これが太古の人が作った物かと思うと、ポチ感動しますね。
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