天祐寺~諫早家二代目直孝(なおのり)公夫妻の墓
以前、諫早家墓所、「天祐寺」のことを書きましたが、十年ほど前、少し面白い話を聞いた
のですが、はっきりした資料が無かったので忘れていましたが、「諫早郷土館 解説シート
(歴史編)」に載っていたので紹介を。
諫早は元来、西郷氏が治めていたのですが、佐賀の龍造寺に攻め落とされます。佐賀の
龍造寺家晴が諫早の初代の領主となり、この、天祐寺を菩提寺にしています。
上の写真は、二代目の直孝(なおのり)の墓ですが、龍造寺氏から諫早氏に改めますが、
このとき伊佐早藩(当時は諫早でなく伊佐早でした。)が、佐賀藩の支藩、いわば家臣にな
ります。
森山町郷土誌によると、直孝が病弱で参勤交代に耐えられなかった、また、参勤交代に
要する膨大な出費の問題。佐賀藩の強化策、野望もあったことなどがあったそうです
が、はっきりした事は分からないそうです。ですから諫早藩ではなく、佐賀藩諫早領という
ことになります。直孝の時代、慶長十六年に一万石、元和七年に三千石を佐嘉藩に召し
上げられます。要するに、取り上げられたわけです。
その直孝の墓から、見上げたところ、少し小高い所に、立派な石室の立派な墓がありま
す。
これが、二代目直孝公の後室、龍造寺に取って代わった鍋島家開祖直茂の姫の、長寿
院の墓です。
直孝公の墓と比べれば石室に入った立派な墓です。ここから下を見下ろすと
直孝公の墓が下に見えます。直孝公の後に墓が見えますが、主君が亡くなったとき、追い
腹を切った家臣の墓です。手前の墓は、歴代ご住職さんの墓です。
さて、何故このような位置に墓が建てられたかというと、後室長寿院にとっては、自分が龍
造寺にとって代わった鍋島家(佐賀藩)の姫であるということ。その、本藩の出身だという
意識があったのでしょう。諫早領は格下になりますから。
「直孝公の墓碑建立の時も、同列埋蔵を拒んで、単独墓とし、自分の墓は佐嘉背振山山
系の御影石を運んで、台地の上に墓を建てよと指示したといわれています。」(諫早市郷
土館 解説シートより抜粋)
さて、この長寿院の横にもう一つ、こちらはご夫婦で入っておられますが、
四代目茂眞(しげざね)公の墓ですが、どうして茂眞公の墓が、立派で外の墓とは別の所
に建っているかについては「諫早を歩く~山口八郎著」には次のように書いてあります。
「『この人はどろがみさん(カミナリ)がえすかった(怖い)とげなたい。おいが死んだら、絶
体大丈夫の所に埋けとけと、遺言しんしゃったとげにゃばい。』と、まことしやかな話が残っ
ています。」という事だそうです。
人間死んでからもいろいろありますね。私も仲良くカミサンと入りたいのですが、ひょうっと
したら、私を見下すような所に、自分だけの墓を作るんじゃないですかね。
(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早郷土館 解説シート(歴史編)」「森山町
郷土誌」より)
諫早、伊佐早。佐賀、佐嘉と少しごっちゃに書いていますが、お許しを。
茂孝公のお墓を見ていると、自分のこととダブって、ポチと侘びしくなります。
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