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2013年4月28日 (日)

天祐寺~諫早家二代目直孝(なおのり)公夫妻の墓

Photo

以前、諫早家墓所、「天祐寺」のことを書きましたが、十年ほど前、少し面白い話を聞いた

のですが、はっきりした資料が無かったので忘れていましたが、「諫早郷土館 解説シート

(歴史編)」に載っていたので紹介を。


諫早は元来、西郷氏が治めていたのですが、佐賀の龍造寺に攻め落とされます。佐賀の

龍造寺家晴が諫早の初代の領主となり、この、天祐寺を菩提寺にしています。


上の写真は、二代目の直孝(なおのり)の墓ですが、龍造寺氏から諫早氏に改めますが、

このとき伊佐早藩(当時は諫早でなく伊佐早でした。)が、佐賀藩の支藩、いわば家臣にな

ります。


森山町郷土誌によると、直孝が病弱で参勤交代に耐えられなかった、また、参勤交代に

要する膨大な出費の問題。佐賀藩の強化策、野望もあったことなどがあったそうです

が、はっきりした事は分からないそうです。ですから諫早藩ではなく、佐賀藩諫早領という

ことになります。直孝の時代、慶長十六年に一万石、元和七年に三千石を佐嘉藩に召し

上げられます。要するに、取り上げられたわけです。


その直孝の墓から、見上げたところ、少し小高い所に、立派な石室の立派な墓がありま

す。

Photo_2

これが、二代目直孝公の後室、龍造寺に取って代わった鍋島家開祖直茂の姫の、長寿

院の墓です。

Photo_3

直孝公の墓と比べれば石室に入った立派な墓です。ここから下を見下ろすと

Photo_5

直孝公の墓が下に見えます。直孝公の後に墓が見えますが、主君が亡くなったとき、追い

腹を切った家臣の墓です。手前の墓は、歴代ご住職さんの墓です。


さて、何故このような位置に墓が建てられたかというと、後室長寿院にとっては、自分が龍

造寺にとって代わった鍋島家(佐賀藩)の姫であるということ。その、本藩の出身だという

意識があったのでしょう。諫早領は格下になりますから。


「直孝公の墓碑建立の時も、同列埋蔵を拒んで、単独墓とし、自分の墓は佐嘉背振山山

系の御影石を運んで、台地の上に墓を建てよと指示したといわれています。」(諫早市郷

土館 解説シートより抜粋)


さて、この長寿院の横にもう一つ、こちらはご夫婦で入っておられますが、

Photo_6

四代目茂眞(しげざね)公の墓ですが、どうして茂眞公の墓が、立派で外の墓とは別の所

に建っているかについては「諫早を歩く~山口八郎著」には次のように書いてあります。


「『この人はどろがみさん(カミナリ)がえすかった(怖い)とげなたい。おいが死んだら、絶

体大丈夫の所に埋けとけと、遺言しんしゃったとげにゃばい。』と、まことしやかな話が残っ

ています。」という事だそうです。


人間死んでからもいろいろありますね。私も仲良くカミサンと入りたいのですが、ひょうっと

したら、私を見下すような所に、自分だけの墓を作るんじゃないですかね。

(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早郷土館 解説シート(歴史編)」「森山町

郷土誌」より)

諫早、伊佐早。佐賀、佐嘉と少しごっちゃに書いていますが、お許しを。


茂孝公のお墓を見ていると、自分のこととダブって、ポチと侘びしくなります。 

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