高城神社の猩々の石造 その2~長崎県諫早市高城神社
昨日、「その2」を書こうと思ったのですが、人生思わぬ事もあるもので、美女の方から、食
事に誘われ、あるところに行って、ある事をして、帰るのが遅くなり、書けませんでした。今
日続きを書きます。何をしたか?大人のあなたなら分かるでしょう。(てなことじゃ、な
かったんですが・・・・)
さて、この猩々さん、よく見ると良いお顔をしておられます。現代の小顔美人ではないけれ
ど、ふっくらした、癒やし系の女性で、こんな方と一緒になれたら、楽しいだろうなと言う感
じ。いくら見ても、見飽きないので、しばらく見ていました。
この像と水瓶を作ったのは、諫早下町の石工田島卯之助だそうで、モデルは娘さんの、
「つね」さんと考えられているそうです。作ったのが明治15年。
向かって右側に氏名。右側に作製年が書いてあるのですが、石造のかげになっていて、よ
く見えません。
この石造を囲う、上家を寄進したのは、旧諫早家上士喜多官八郎で、左右の柱に、氏名と
年月日が彫ってあります。
さて、この像の仕掛けですが、「諫早市郷土館 解説シート」に、次のように書いています。
この高城神社は昨日書いたように、諫早水害で、移設されたものですが、「昔この像は、神
社横のチンチク竹叢のそばを流れる小川から水車と掛樋で引いてきた水を柄杓の先端か
ら水瓶に垂らすようになっていたということです。」
肩口に水の受け口があり、この穴から水を入れ、
こちらの手の方から水が出るようにしたのでしょう。今は水道を引いているようですが。
それにしても、能の「猩々」と関係ある石造、そしてこの洒落た仕掛けと、可愛らしいお嬢さ
ん。よほど優れた石工さんだったのでしょう。神社の説明版にもこの事は書いてありません
から、是非、ご覧になってください。
さて、この神社は諫早家初代家晴を祭神にしていますが、神社ができたのが明治15年。
えらく年代が離れていると思っていたら、諫早十二代茂洪が天保13年(1842)に家晴を
追慕して城山の頂上に、家晴神社を祀ったそうですが、本明川畔の旧領民がこぞって寄付
と奉仕によって神殿を移して、高城神社と改称したそうです。残念ならら、旧神社は水害に
よって大破しました。 (この項 終わり)
(参考・文引用「諫早市郷土館 解説シート(歴史編)」「諫早街道をたずねて~高来町教育
委員会著」)
カミサンが同窓会だとか、夜遅くなるから、ゆっくりできるなと思っていたら、8時にご帰宅、
また恐怖の時間が・・・・ポチゆっくりして来れば良いのに。
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