有喜・松里町浮流・普賢菩薩・烽火台跡~諫早市有喜・松里町
昨日の続きです。弘法さんの祭りの、お接待を受け、お喋りしているとき、笛、鉦、太鼓の
音がどこからともなく。聞けば、「普賢菩薩」の祭りとか。
本来は、日程が違うらしいのですが、子どもたちの学校もあるとかで、弘法様の祭りと、普
賢菩薩の祭りがダブったということでした。
長崎県教育委員会の民俗芸能調査には、「有喜浮流は有喜町の伝承芸能であるが規模
の大きな本浮流を仕立てる場合には有喜川を間に隣接する松里町と組むことが多くなっ
てきている。」と書いてあり、当日は、その松里町独自の祭りの浮流です。
この浮流を演じているところ、島原街道と長崎街道を結ぶ有喜街道であり、多分、勝海
舟、坂本龍馬一行が、島原から長崎へ駆け抜けて行った道でしょう。
なにせ、4ヵ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するための旅ですから、水戸黄門さんみたい
に美女を連れた漫遊記とは違います。
浮流を見たあと、有喜貝塚へ回り、帰りがけ、国道にでると普賢菩薩の幟が。
さっきの浮流を演じていた方が、左の写真の所から登っていたので、私も、菩薩様でも拝
もうと、気軽に思ったのが、大間違い。なお、この入り口に「普賢山頂 烽火台跡 登り口」
の標柱が。
これを見たら、登らないわけにはいかない。幟の間の急坂。これのすぐ上に、菩薩様が祀
ってあるのかと思ったら、「上り坂を登ったら、そこは上り坂であった」という感じで・・・
途中、広場があり、浮流の方がいたり、テントが張ってあったりで、ここにあるのかと思っ
たら、「まだ上ですよ。」
ここらあたりになると、もうヘロヘロ。帰ろうかと思ったのですが、上から、年寄りの方も結
構下ってきていたので、必死こいて登ってきましたが、結局は頂上まで登りました。
逆光で良く撮れませんでしたが、意外と小さな鳥居でした。というより、ここらあたりには
石材がなく、下から担ぎ揚げたのでしょう。たいしたものだと思います。
右側に、「安政四丁己歳」、「有喜村 庄屋?八 役中」。左に、「三月吉日辰」、「施設人
佐藤彌太(六?)エ門 田中徳治郎」、「石工 辰五郎」。カッコ良い名前ですね、「辰五郎」
「松里 津 右者中(?)」と読めました。
頂上の普賢菩薩です。雲仙半島に近いので、雲仙の普賢岳に関係あるのかと思ったら、
小耳にはさんだ所、どうも、長崎の矢上の普賢岳。古くから信仰の地であり、そちらの関
係みたいでした。一番右は比較的新ようでした。左の二体は年代書いてないようでした。
鳥居が安政四年ですから、その頃か、それ以前から祀られていたのは確かでしょう。
諫早市史等もあったって見たのですが、掲載はしてありませんでした。
なお、ここは国土地理院の三角点地点です。よい子の皆さんは、いじくらないように。地図
が狂いますから。
烽火台。のろしを上げるところです。残念ながら、標識も説明版も何もなし。いつの時代
に、何のために作られたのか、調べて見ましたが資料は見当たりませんでした。ただ、橘
湾を一望するところでしたから、橘湾を見張っていたのでしょう。本当にヘロヘロになって
いて、海側の写真撮るのを忘れていました。
知らない方が見ても、烽火台とは分からないでしょう。下に標識があるなら、こちらにも欲
しいところです。
鳥居の所でお土産をいただきました。
帰りがけ、広場の所で浮流の披露をしていましたが、もう疲れはてて、見る気も失せて、下
だって帰りました。
なお、入り口の所が急坂のため、車はいけないと思っていたら、広場の所まで役所の公用
車(シーマですから、市長車でしょう。挨拶にきていたみたいです)が登ってきていて、軽自
動車だったら鳥居の所までいけるようです(行かれるは自己責任で)。
これだけ疲れると、ポチどころか、布団に入ったとたん10秒もたたないうちに、深い眠りの
底でした。
« 有喜・松里町弘法さん祭~諫早市有喜・松里町 | トップページ | 有喜貝塚遺跡~長崎県諫早市有喜・松里町 »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 日本音楽の面白さ(2024.10.01)
- 台風10号~確かに通ったはずなのですが?(2024.08.31)
- 島原半島に関する三冊の本(2024.05.05)
- 勝手に開花宣言~橘公園(令和6年3月28日)(2024.03.28)
- 観桜火宴のお知らせ(2024.02.19)
「祭り」カテゴリの記事
- 日本音楽の面白さ(2024.10.01)
- 祭りだよ~笛を吹くよ~(^▽^)(2024.07.31)
- デビュー決定!!(2024.07.14)
- 令和5年 橘神社七草粥振る舞い(2024.01.07)
- 令和五年度「清福招来千々石大門松(橘神社大門松)」竣工清祓い式(2023.12.26)
コメント