幻の肥前鳥居 その3~南島原市有家町・島原市
千々石の桜も、ほとんど散ってしまいました。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりし」。若
い女性の方は、せいぜいお遊び下さい。え?遊びまくっている。時代が違いますからね。
さて、「有明の歴史を語る会」から「ありあけの歴史と風土」という機関誌を出しています
が、第16号で、杉本伸一氏が「殿様の鳥居」という記事を書いておられます。
元文元年(1763年)に島原藩三代藩主松平忠俔(ただみ)が、雲仙岳登山道路3合目に
作ったそうですが、この方は信心深く、同年、護国寺三十番神も建立されたそうです。
この写真と、杉本氏の記憶を元に書いたのが下の左図です。右の図は、諫早愛宕社の入
り口に書いてある、肥前鳥居の図。笠木と島木が一体になっています。
ほとんど一緒ですが、上の写真も斜めから撮ってあるために、もう一歩よく分かりません。
ひょっとしたら、これ肥前鳥居ではと思い、島原の専門家に聞くと、残念ながら、この鳥居、
平成4年7月30日の土石流で流されますが、一部発見され、眉山ロードの途中の広場に
展示してあり、説明版にも昔の写真があるとのこと。
島原に用事があったついでに寄って見ると、
左に写真がありますが・・・・
ほとんどボロボロで、しかも大事な、笠木、島木の端が木に邪魔されて、はっきりとは確認
できませんでした。
掘り出された鳥居の柱が三本立っていましたが、この柱には「吉日」と彫ってありました。
鳥居の大きさは、高さ4,3m、幅4,4m、柱の周囲2,3mだったそうです。
その右に建ててあるのは
上の写真に比べれば、少し細く、彫ってある文字を読むと、どうも「大正七」と、読めるよう
な文字もあり、殿様の鳥居とは違うみたいな感じでした。他に建てられていたのが、土石流
で流されてきて、一緒に掘り出され、ここに建てられたものでは・・・・・・?
土石流に流されていなければ、肥前鳥居だったのではと、広場を後にしましたが。とにかく
残念でした。まさに、幻の肥前鳥居です。島原半島に、肥前鳥居が残っていないのか、ボ
チボチ回って調べてみるつもりですが、情報がありましたら・・・
(幻の肥前鳥居編 終了)
昨日もカミサンとバトルで、毎日いじめられる私、これってDVではないですか。ポチと可哀
想な私。
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