« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013年4月

2013年4月30日 (火)

医療、信じるや否や?

Img_2

昔は、お医者さんというと偉いもので、診療には口出しできませでしたが、今や誤診、医療

ミスで裁判に。お医者さんに対する信頼も、昔ほどではない感があります。


著者は、慶応大学医学部放射線科講師。乳房温存療法のパイオニアだそうです。以前、

「患者よ、がんと闘うな」という本も出版しています。読んでみて、「う~む。」といったところ

でしょうか、書いていることは分かるが、自分が患者になったとき、どうなのかな。


6章からなっておりまして、「どんなときに病院に行くべきか」、「患者よ病気と闘うな」、「検

診・治療の真っ赤なウソ」、「100歳まで元気に生きる『食』」、「100歳まで元気に生きる

『暮らし』の心得」、「死が怖くなくなる老い方」。


中身が少し過激で、「医者によく行く人ほど、早死にする」、「『血圧130で病気』なんてあり

えない」、「がんほど誤診の多い病気はない」、「がんの9割は治療するほど命を縮める。放

置が一番」、「断食、野菜ジュース、免疫療法・・・・医者たちの『がん詐欺に注意』」、「体

重、コレステロールを『減らさない』健康法を選ぶ」、「コラーゲンでお肌はぷるぷるしない。

グルコサミンはひざに直接届かない」、等々。


現代、延命措置を望まない人が増えてきています。私も、父母続けて亡くしたときに、お医

者さんに、延命措置をするかどうか問われ、悩んだことがありました。


私たちは、医療に関してプロではありません。この本に対しては、賛否両論あると思います

が、医療というものに対して一石を投じる本でしょう。

Img_0001

ちょうど同じ頃出た、文藝春秋五月号、「医療と健康の常識を疑え」。こちらの本はそんな

に過激ではありませんが「腸内細菌が寿命を縮める」、「がんは本当は減り始めている」、

「高齢者はやせすぎで早死にしている」、「ひざ痛はグルサコミンより専門医」、等々。


面白かったのが、「高血圧 医者の診断は気にするな」

昔は、「年齢+90」が高血圧の基準。60歳では上が150までは問題にならなかったそう

ですが、現在の診断基準は70代でも、80代でも同じ140だそうです。その基準値も、

2000年の日本高血圧学会のガイドラインでは、80歳代160だったそうで、20も下がり、

高血圧と診断される方は激増でしょう。「医者に殺されない47の心得」のなかにも、同じよ

うな内容が書かれています。


少し軽い話題を、こちらも現代医学の先端、遺伝に関係ありますが

Img_0003

「大研究 遺伝するもの、しないもの」

もちろん、週刊現代ですから、それなりに、「味覚」、「利き手」、「性欲」~これ、以外と遺伝

するらしいですよ、「早漏」~?、「寿命」、「浮気性」、「暗記力」、「足の速さ」、「ハゲ」、「足

の長さ」、「巨乳」、「アトピー」、「加年齢黄斑」、「虫歯」、「花粉症」、各種の「ガン」、「認知

症」、その他諸々というところで、気になる方はお読みください。


久しぶりに週刊現代買いましたが、巻末のグラビアがいいですね。「新体操 全国2位 神

野千奈 大開脚で奇跡の恥丘を見せた」、「後藤理沙 ベッドシーンを独占公開!」、「水島

裕子 幻のヘアーヌード」。昔は、毛が見えたの、見えないの大騒ぎしましたが、今や、見

せて当然。世の中変わりました。良い世の中に生まれたと感謝しています。


圧巻なのが、「史上初 ○○器の『検定試験』」。○○の所はとても書けません。知りたい

方は買って読んでください。


でも、こんなん見てもポチとも興奮しない歳になりました。(ウソつけ )  

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ





2013年4月29日 (月)

コーヒー禁止だよ!

Dscf0697

実に,一年半ぶりでした。昔の彼女と出会ったわけではなく、心房細動がでました。


普通、心臓は「ドク、ドク、ドク」と動きます。時々、「ドク、ドク、ドドクドク、ドク、ドク」と一

瞬動きが、変になることがある方も、おられると思いますが、これは期外収縮というらしく、

私のは,「ドク、ドドック、ドクク、ドックン」と、長時間にわたって、不整脈が(30分~20時

間)続くやつで、心房細動と診断されています。


今日、諫早に行って、出たなと思って、急いで帰って、かかりつけの病院に行って心電図

をとってもらうと、間違いなし。じっと寝ているだけで脈拍が120。薬を打ちましたが、脈拍

を抑えるだけで、不整脈事態は止まらないとのこと。


お医者さんと話をしていると、季節の変わり目は、やはり多いとのこと。要するに、自律神

経が狂いやすいとのこと。漢方薬医さんも曰く、「この時期は、自律神経が狂いやすく、漢

方も限界がありますね。抵抗せずに、静かにしていることですよ。」と同じ事を言っておら

れました。


あと、酒、たばこ、睡眠。コーヒーが体にいいと聞き、最近飲んでいましたが、「コーヒーは

どうですか?」、「酒と一緒ですから、控えた方がいいでしょう。」、「先生、女は?」

「・・・・・・・・」ということでコーヒーもやめました。


酒、たばこも止め、パチンコも止め、大好きなケーキも止め、コーヒーも止め、食事とカミ

サンには気をつかい。私の人生どうなるの?といったところですか。


皆さんも、体にはご注意を、いつどんな病気が出るかわかりませんから。今日は、早め

に、お休みなさい。


今日はポチと厄日でした、心臓はまだポポチポチポチチチと不整脈を打っています。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ





2013年4月28日 (日)

天祐寺~諫早家二代目直孝(なおのり)公夫妻の墓

Photo

以前、諫早家墓所、「天祐寺」のことを書きましたが、十年ほど前、少し面白い話を聞いた

のですが、はっきりした資料が無かったので忘れていましたが、「諫早郷土館 解説シート

(歴史編)」に載っていたので紹介を。


諫早は元来、西郷氏が治めていたのですが、佐賀の龍造寺に攻め落とされます。佐賀の

龍造寺家晴が諫早の初代の領主となり、この、天祐寺を菩提寺にしています。


上の写真は、二代目の直孝(なおのり)の墓ですが、龍造寺氏から諫早氏に改めますが、

このとき伊佐早藩(当時は諫早でなく伊佐早でした。)が、佐賀藩の支藩、いわば家臣にな

ります。


森山町郷土誌によると、直孝が病弱で参勤交代に耐えられなかった、また、参勤交代に

要する膨大な出費の問題。佐賀藩の強化策、野望もあったことなどがあったそうです

が、はっきりした事は分からないそうです。ですから諫早藩ではなく、佐賀藩諫早領という

ことになります。直孝の時代、慶長十六年に一万石、元和七年に三千石を佐嘉藩に召し

上げられます。要するに、取り上げられたわけです。


その直孝の墓から、見上げたところ、少し小高い所に、立派な石室の立派な墓がありま

す。

Photo_2

これが、二代目直孝公の後室、龍造寺に取って代わった鍋島家開祖直茂の姫の、長寿

院の墓です。

Photo_3

直孝公の墓と比べれば石室に入った立派な墓です。ここから下を見下ろすと

Photo_5

直孝公の墓が下に見えます。直孝公の後に墓が見えますが、主君が亡くなったとき、追い

腹を切った家臣の墓です。手前の墓は、歴代ご住職さんの墓です。


さて、何故このような位置に墓が建てられたかというと、後室長寿院にとっては、自分が龍

造寺にとって代わった鍋島家(佐賀藩)の姫であるということ。その、本藩の出身だという

意識があったのでしょう。諫早領は格下になりますから。


「直孝公の墓碑建立の時も、同列埋蔵を拒んで、単独墓とし、自分の墓は佐嘉背振山山

系の御影石を運んで、台地の上に墓を建てよと指示したといわれています。」(諫早市郷

土館 解説シートより抜粋)


さて、この長寿院の横にもう一つ、こちらはご夫婦で入っておられますが、

Photo_6

四代目茂眞(しげざね)公の墓ですが、どうして茂眞公の墓が、立派で外の墓とは別の所

に建っているかについては「諫早を歩く~山口八郎著」には次のように書いてあります。


「『この人はどろがみさん(カミナリ)がえすかった(怖い)とげなたい。おいが死んだら、絶

体大丈夫の所に埋けとけと、遺言しんしゃったとげにゃばい。』と、まことしやかな話が残っ

ています。」という事だそうです。


人間死んでからもいろいろありますね。私も仲良くカミサンと入りたいのですが、ひょうっと

したら、私を見下すような所に、自分だけの墓を作るんじゃないですかね。

(参考・文引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早郷土館 解説シート(歴史編)」「森山町

郷土誌」より)

諫早、伊佐早。佐賀、佐嘉と少しごっちゃに書いていますが、お許しを。


茂孝公のお墓を見ていると、自分のこととダブって、ポチと侘びしくなります。 

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 



2013年4月27日 (土)

Windows8パソコン買いました

Dscf0626

評価の分かれるWindows8です。以前のXPなんかと比べると、あまり騒がれていません

が。


Windows8が出たということで、家電屋さんに見にいったら、上のような画面。はっきり言

って、「こりゃ、なんじゃ!」と思いました。今までのと画面とは全く違っていますから。

家電屋さんに通うこと、数日。いじくっていると段々分かってきましたが、まだ、購入する気

にはならず・・・・


私のパソコンは、あまり評判の良くないVISTAを使っていますが、その前はXP。このXPに

コーヒーを飲ませたところ(要するに、コーヒーをこぼしたという事)、まったくのハングアッ

プ。


仕事に、必要なので、修理に出したら、なんと、20万。買った値段が16万円。おまけにハ

ードディスクは修理不可能。


仕方なく、その頃出たVISTAを買って、今も使っていますが、どうにも重くなって(体重では

なく、作動のことです。)、作動不良が出てきて、いろいろいじくったのですが、思い通りに

ならない。おまけに、来年からXPのサポートがなくなるとか。次は、VISTAの番ですから、

思い切ってWindows8のパソコンを買いました。


最初は、慣れませんでしたが、画面を切り替えると

Dscf0627

従来のWindowsの画面になります。違うのが下のタスクバーに「スタート」がないこと。右の

画面下にポイントを合わせるか、右の端をスワイプ(指で撫でるようにする)と、「チャーム」

という画面が出てきます。

Dscf0628

設定を指でタップするか、ポイントを合わせクリックすると

Dscf0629

電源が出てきて、これをクリックすると、「電源を切る」、「スリーブ」、「ロック」など出てきま

すから、これで電源を切ります。ここが、最初は慣れなくて・・・・


以前の画面は、起動したアプリは下のタスクに出てきましたが、今は左端をクリックか、ス

ワイプするとチャームが出てきて

Dscf0631

あとは見たいアプリをクリックするか、指でタップすると画面が切り替わります。


さて、使った感じですが、賛否両論ありますが、まあ、こんなんじゃない、という感じです。

慣れることが大事でしょう。でも、VISTAに比べると、起動時間が短くてストレスがたまりま

せんね。


数十年前までは、キャビネットくらいの大きさの汎用コンピューターで、その処理能力に驚

いたものですが、今やこの大きさで、処理能力は断然上。フロッピーも使わなくなったし、

昔の外付けハードディスクは1M(1Gではありません)で、一万円、20M、40Mのハードは

夢の又夢でしたが、それが今ではテラの時代。


携帯電話も、自分が持つとは思っていませんでしたが、いまや、スマートフォーンの三台

目。まあ、時代に遅れないように、縋って生こうと思っています。ついでに、年寄りの頭の

体操だと思って・・・・


古人曰く、「パソコンと女房は新しいほど良い。」いや、本当の事ですね。

ついでに、音声入力できるソフトを入れましたが、便利ですね。喋ると、そのまま文字に変

換しますから、キーボードは打たなくて済むし。ただ、思ったように変換できないときもあり

ますが・・・これも、そのうち慣れるでしょう。


皆さんもこのゴールデンウィーク、家電屋さんで、Windows8で遊んでみませんか。金は

いらないし、勉強になりますよ。


今日もカミサンは留守で、カミサンがいると何となく気が散るので、今からポチポチWindo

ws8のお勉強です。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




2013年4月26日 (金)

2013 島原芝桜公園(4月26日)&島原城石垣修復作業~長崎県島原市

Photo

ゴールデンウィークを前に、島原芝桜公園の状況を紹介しようと、病院の帰り、寄ってみた

のですが、先週が一番の見どころだったらしく、花もしぼみかけていました。


今日は、天気は良いし、行ってみると、普通、保全・維持管理のため、協力金を取られる

のですが、料金所の所には誰もいなく見て来ました。盛りが過ぎたからかな?ゴールデン

ウィークにはどうなるか、分かりませんが・・・・

Photo_2 Photo_3

平日でしたが、結構見に来ている人が多く、皆さんのんびりした様子で散策を。

ゴールデンウィーク中は天気も良さそうだし、気持ちの良いところなので、皆さんもお立ち

寄りを。


さて、この公園外周の道に、おおきな木があって、写真では雰囲気がよく分かりにくいので

すが

Photo_4 Photo_5

多分、土砂で押しつぶされた木が、そのまま枯れずに大きく育ったのでしょう。しめ縄が張

ってあり、根元になにやらあるので見に行ったら、温泉熊野神社のお札が祀ってありまし

た。何となく日本人の自然に対する、素朴な気持ちが伺われますね。


さて、島原城の石垣が以前崩れたとの事で、見にいったら、片方はまだ手つかずでした

が、もう一方は修復中でした。

Photo_6 Photo_7

修復中の所、大きな石は、きれいに並べて番号が付けられ、大きな石に詰められた、小さ

な石を整理中でした。

Photo_8 Photo_9

ここの石垣は、ご覧のような石垣で、大きな石の間には、小さな石が挟み込まれていま

す。


修復も大変でしょうが、この石垣を、重機も無かった時代、積み上げるのに、どれくらいの

労力と資金がかかったことか。このことが、島原・天草の乱が起る、一つの大きな原因に

なったのですが・・・


明日からゴールデンウィーク。私、何の予定もありませんので、ポチとお誘い頂ければ。

ただし、40歳以下の美女に限りますが・・・・

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 




2013年4月25日 (木)

三體地蔵尊祭り~長崎県雲仙市吾妻町

1

この間から、祭りの話ばかり続きますが、また祭りの話です。昨日のことですが・・・


雲仙市の吾妻町に三體地蔵尊というのがあります。鳥居がありますが、地蔵さんといえば

仏教関係、鳥居といえば神社関係。昔は神仏混淆で、神社の中に寺があったりしたので

すが、明治政府の神仏分離令で別れてしまいますが、このような風景をみると、まだその

頃の名残が残っていたのか?お堂は新築したみたいですから、その時ついでに作ったの

か?中にはちゃんと神社で使う鈴もありました。これは、古いものでした。


なお、以前は、古びたお堂であったとのことでした。

2

三體地蔵さんです。お地蔵さんのご利益として、病苦の身代わりになるものとして、化粧地

蔵、咳止め地蔵、いぼ取り地蔵等。厄除けとして、とげ抜き地蔵、水子地蔵、六地蔵等あ

ります。その中で、子宝・子育てとして、子宝地蔵、子安地蔵等ありますが、三體地蔵も、

この子宝、子育てに関係するそうです。


この三體地蔵の左右に

3 4

お地蔵様と人形などが置いてありました。聞いてみると、最初は三體地蔵だけだったの

が、誰かが持ってきて、段々増えたそうです。お人形が置いてあるのは、ここの三體地蔵

が子供に関係あるからでしょう。


近くにいたご婦人(というより、おばちゃま)に聞いたところ、子供ができなかった方が、ここ

にお参りしたところ、三體地蔵にあやかったのか、三人子供が生まれたそうです。かなり

遠くからもお参りに来て、ご利益あらたかだそうです。

5  6

お祓いがあり、日蓮宗のお坊さんみたいでしたが、わが家は浄土真宗なので、日蓮宗の

お経もなかなか賑やかで、新鮮に聞こえました。お経のあと、参拝の人一人一人にお祓い

を。


まあ、宗派は違いますが、結婚式、厄払いは神式、キリスト教のクリスマスまでしています

から、私も厄払いをして頂きました。


このお堂は、吾妻の山田原というところにありますが、吾妻町史によれば、「この地は、山

田庄の交通要津にあたり、ここから道は放射状に拡がる。古代の山田駅に通じる古道で

もあり、南北町時代は野井城、飯岳城(千々石町)の戦いに南朝・北朝の軍勢が、何回と

なくこの古道を往来(いきき)している。」と書いてあり、祭りについては、「昔から大変盛ん

で、祭日の日は、道の両側に出店が出張して通りは参詣者で埋め尽くされたと言われて

いる・・・」。と書いてありましたが、年寄りの方に聞くと、確かに出店が並んでいたというこ

とでした。

8 7

ご祈祷のあと、お守をいただきましたが、さっきのご婦人の話によると、孫のお守りに持た

せてやっているとか。来年、これを持ってきて新しいのと取り替えてもらうそうです。


その後、餅まきがありましたが、餅まきの前に、店で使う買い物用のポリ袋を配っている

ので、何のことかと思ったら、大量に餅をまくわ、まくわで、気の弱い私も、遠慮しながら上

の写真のように、たくさん拾って来ました。袋がいるはずでした。


私も子宝に恵まれるように、お祈りしてきました。まだ、その能力はポチと残っています。

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 




2013年4月24日 (水)

有喜貝塚遺跡~長崎県諫早市有喜・松里町

Photo

昨日から、有喜の松里町の祭りのことを書きましたが、本来は有喜貝塚遺跡を見に来た

のが目的でした。


たまたま、祭りをやっており、弘法さんの祭り→普賢菩薩祭の浮流→貝塚遺跡→普賢菩

薩・烽火台跡という順に回ってきたわけですが、本日は有喜貝塚遺跡のことです。


とにかく、場所が分かりませんでした。

Photo_2

こんな所を、行ったり来たり、聞くこと3度。2度目に聞いたときは、丘の上と聞き、丘の上

の墓地の横を行くと道が途切れ、それでも頑張って林の中を迷いながら行きましたが、こ

れ冗談だろうと思ったら、本当に冗談、全く違うところでした。危うく遭難。


3度目の正直でやっと行き着きましたが、一番上の写真です。多分、左の説明版がなかっ

たら、分からずに行き過ぎたでしょう。


シートが敷いてあり、発掘調査の時は、現状維持のため、埋め戻しをするので、それかな

と思っていたら、畑の所に80歳くらいの婦人の方が。


聞いてみたら、ここの所有者の方で、この横の所に家がありました。聞いてみると、シート

は単に草が生えないように敷いているとのこと。


話をしばらくしていると、この方の祖父の方が、畑にするため掘ってたら、貝殻が足の踏み

場も無いくらい出てきたそうです。祖父の方が興味があったらしく、発掘物を随分集めてお

られたということですが、ご婦人が興味がなく、見学者が結構多いらしく、そのたびに差し

上げていたら、残り少なくなったそうです。

Photo_3

これが、貝塚から出てきた貝殻ですが、なかに、石器、黒曜石の細石器も混じってありま

した。


この裏にも畑があるのですが、こちらの畑を耕していると土器がたくさん出てきたそうで

す。

Photo_6

Photo_4 Photo_5

ネットで「長崎県の遺蹟大百科」にも説明してありますが、1921年(明治45年・大正元

年)に発見。1925年(大正14年)に、京都帝国大学(当時)の浜田耕作氏を中心に調査

がなされ、その時、箱式石棺2基、人骨も3体発掘されたそうですが、ご婦人の祖父の話

によると、かなり大きな骨であったそうです。


諫早市の説明版には、「この人骨一体の胸部から鉄のやじりが出土したことにより、縄文

時代人が鉄器使用の人たちに征服され、その年代は西暦一世紀以降、三~四世紀に近

いものとされ、当時の学会の注目を浴びました。」とあります。


2回目の調査が昭和58年度。このときも、石器、土器等も出土したそうです。なお、説明

板には書いてありませんが、「長崎県大百科事典」には、「箱式石棺墓と人骨、鉄鏃につ

いては、弥生時代以降のもので、縄文文化と弥生式時代の二時期があったことが判明し

た。」と書いてあります。



資料所在地は、京都大学、諫早市教育委員会とありますから、多分諫早市郷土館に展示

してあるのかな?


なお、現地は少し小高い所にあり、昔はすぐ下の方は、海であったとのことです。

帰りがけ、あなたも一つもっていかれませんかと言われましたが、「そんな貴重なものを、

数も少なくなっているし、取って置かれた方が良いですよ。」と言いつつ・・・・


土器を眺めつつ、これが太古の人が作った物かと思うと、ポチ感動しますね。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ





2013年4月23日 (火)

有喜・松里町浮流・普賢菩薩・烽火台跡~諫早市有喜・松里町

Photo

昨日の続きです。弘法さんの祭りの、お接待を受け、お喋りしているとき、笛、鉦、太鼓の

音がどこからともなく。聞けば、「普賢菩薩」の祭りとか。


本来は、日程が違うらしいのですが、子どもたちの学校もあるとかで、弘法様の祭りと、普

賢菩薩の祭りがダブったということでした。


長崎県教育委員会の民俗芸能調査には、「有喜浮流は有喜町の伝承芸能であるが規模

の大きな本浮流を仕立てる場合には有喜川を間に隣接する松里町と組むことが多くなっ

てきている。」と書いてあり、当日は、その松里町独自の祭りの浮流です。


この浮流を演じているところ、島原街道と長崎街道を結ぶ有喜街道であり、多分、勝海

舟、坂本龍馬一行が、島原から長崎へ駆け抜けて行った道でしょう。

Photo_2 Photo_3

なにせ、4ヵ国連合艦隊の長州攻撃を阻止するための旅ですから、水戸黄門さんみたい

に美女を連れた漫遊記とは違います。


浮流を見たあと、有喜貝塚へ回り、帰りがけ、国道にでると普賢菩薩の幟が。

Photo_5 Photo_6

さっきの浮流を演じていた方が、左の写真の所から登っていたので、私も、菩薩様でも拝

もうと、気軽に思ったのが、大間違い。なお、この入り口に「普賢山頂 烽火台跡 登り口」

の標柱が。


これを見たら、登らないわけにはいかない。幟の間の急坂。これのすぐ上に、菩薩様が祀

ってあるのかと思ったら、「上り坂を登ったら、そこは上り坂であった」という感じで・・・


途中、広場があり、浮流の方がいたり、テントが張ってあったりで、ここにあるのかと思っ

たら、「まだ上ですよ。」


ここらあたりになると、もうヘロヘロ。帰ろうかと思ったのですが、上から、年寄りの方も結

構下ってきていたので、必死こいて登ってきましたが、結局は頂上まで登りました。

Photo_7

逆光で良く撮れませんでしたが、意外と小さな鳥居でした。というより、ここらあたりには

石材がなく、下から担ぎ揚げたのでしょう。たいしたものだと思います。


右側に、「安政四丁己歳」、「有喜村 庄屋?八 役中」。左に、「三月吉日辰」、「施設人

佐藤彌太(六?)エ門 田中徳治郎」、「石工 辰五郎」。カッコ良い名前ですね、「辰五郎」

「松里 津 右者中(?)」と読めました。

Photo_8

頂上の普賢菩薩です。雲仙半島に近いので、雲仙の普賢岳に関係あるのかと思ったら、

小耳にはさんだ所、どうも、長崎の矢上の普賢岳。古くから信仰の地であり、そちらの関

係みたいでした。一番右は比較的新ようでした。左の二体は年代書いてないようでした。

鳥居が安政四年ですから、その頃か、それ以前から祀られていたのは確かでしょう。

諫早市史等もあったって見たのですが、掲載はしてありませんでした。

Photo_9

なお、ここは国土地理院の三角点地点です。よい子の皆さんは、いじくらないように。地図

が狂いますから。


烽火台。のろしを上げるところです。残念ながら、標識も説明版も何もなし。いつの時代

に、何のために作られたのか、調べて見ましたが資料は見当たりませんでした。ただ、橘

湾を一望するところでしたから、橘湾を見張っていたのでしょう。本当にヘロヘロになって

いて、海側の写真撮るのを忘れていました。


知らない方が見ても、烽火台とは分からないでしょう。下に標識があるなら、こちらにも欲

しいところです。

Photo_10

鳥居の所でお土産をいただきました。

Photo_11

帰りがけ、広場の所で浮流の披露をしていましたが、もう疲れはてて、見る気も失せて、下

だって帰りました。


なお、入り口の所が急坂のため、車はいけないと思っていたら、広場の所まで役所の公用

車(シーマですから、市長車でしょう。挨拶にきていたみたいです)が登ってきていて、軽自

動車だったら鳥居の所までいけるようです(行かれるは自己責任で)。


これだけ疲れると、ポチどころか、布団に入ったとたん10秒もたたないうちに、深い眠りの

底でした。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




2013年4月22日 (月)

有喜・松里町弘法さん祭~諫早市有喜・松里町

Photo

有喜は、諫早の漁業の町です。私の町から、20分程度の所にあり、長崎市に行く時、い

つも通りかかる所です。


ここに、有名な貝塚があるとかで、一度は見ておこうと、寄ったところが

Photo_2 Photo_4

いたるところに、弘法大師の幟がやら、お接待の準備やら。

Photo_5

あちらこちらで、近所のご婦人が集まって、歓談。昔から、続いてきた風習なのでしょう

が、まだ、こんな風景が残っているのは良いですね。松里町の各班に弘法太子さんの石

仏があるところでは、各班で祭りをやっているそうです。


祭りといっても、ほんの些細な祭りですが。昔は今ほど娯楽もないし、生活も豊かでない時

分の、息抜きの場でもあったのでしょう。何となく、ほんのりとした感じの祭り。


お参りに来た方には、お接待といって、茶菓子やお酒が振る舞われます。もちろん、私も

加わって、お茶でもご馳走になりながら、昔の事など聞きましたが、

Photo_6

昔は、この岩の所まで海だったそうです。この写真の右手には、住宅が広がっていました

が、そこも海だったそうで、今や、あちらもこちらも、変わっていっている時代。お年寄りの

話を、ちゃんと聞いて置かないと、なにがなにやら、分からなくなってしまいそうです。


年を召した方が、多かったのですが、若い女性もいたらもっと楽しいな、と思っていたら、

どこからからか、笛、太鼓の音が。聞いてみたら、松里町の普賢菩薩の祭りもやっている

とか。


そちらの方にも行って見ましたが、これは又明日。ということで、この日は、弘法様の祭

り、普賢菩薩の祭、有喜の貝塚と、あちらこちら駆け回って忙しい一日でした。


しかし、ここに限らず、弘法さんの石仏がなぜ多いんでしょう?そういえば弘法大師に関す

る逸話も多く、私の住んでいる千々石町にも伝説があり、隣町の小浜町富津にも弘法大

師の六角井戸もあり、伝説が日本各地5,000以上あるということです。いろんな説があ

るようですが、少し多過ぎる感じ。ちなみに、ご存じだとは思いますが、弘法大師は真言宗

開祖の空海の事です。


帰りの国道の所にも、天満宮の幟があったので、ちょっと覗いて見たら、左の石祠は新し

いものでしたが、右は古く

Photo_7 Photo_9

真ん中は、「天満宮」、左右に、「弘化二年」、「己五月吉日」と読めました。弘化二年です

から、1845年の頃ですか。この頃から、受け継いで、祀ったことを考えると、日本人にと

って宗教とは何か、ということを感じさせられます。特に、キリシタンが多かった島原半島

に住む私にとっては。


余談です。猫に、水を入れたペットボトルは効果ありません。

Photo_10

昨日の夜は、自治会の常会もあり、監査役でもあったので、ポチ所ではなく、大忙しの日

でした。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




2013年4月20日 (土)

飯盛町・農山村ウォーキングコース歩きました~諫早市飯盛町

1

昨日の新聞記事で、「農山村ウォーキングコース」ができたとか。飯盛コース、三浦コー

ス、高来轟コースの3コース。設定したのは、県中央振興局。ネットで、「長崎県中央振興

局」で検索すると、「農山村ウォーキングコースのガイドを掲載しました。」という記事があり

ますから、そこをクリックすると、上のような案内図が出てきます。


県中央振興局は、平成21年に新しく開局した、長崎県の組織です。なにをするのか、良く

知りませんが・・


このウォーキングコース、説明によると、「県民の皆様が癒やしの里・山に来て、見て、触

れて、食べる『農山村ウォーキング』を3コース設定しました。・・・・案内板や標識を整備し

ております。・・・好きなときに訪れて、農山村の自然を感じながら自由に歩いて頂ければと

思います。」ということです。


出発点は、飯盛町の農産品直売所「フレッシュ251」。ちなにみ、「251」は、国道251号

線にあるからでしょう。

2

駐車場の広さは結構あり、従業員さんにことわり駐車。コースを聞くと、「こう行って、ああ

行って・・・」。初めての道、よく分かりません。「でも、道たくさんあるから、適当に行っても、

大丈夫ですよ」。あとで、この意味分かりましたが、グーグルの地図で見ると

3

             (「Google earth」より)

これ、ほとんどジャガイモ畑です。ここは、「長崎県のだんだん畑十選認定の地」。

青い四角が「フレッシュ251」。ここから、下手の海側に行くのですが、市道があちらこちら

あって、先ほど言われたように、適当に行っても何とかなる感じ。

標識はありましたが

4_2 5

6 7

なんとなく、しょぼい感じ。予算不足か?途中迷いながら、でも、まあ、何とかなると気楽

に。


最初は、ジャガイモ畑ばかりでしたが、国道に近いここらあたりにも、イノシシが出るのか

あちらこちらに柵が

8 9

トイレは新しいのが2カ所ばかり。畑の中に、ハウスがありますが、説明図には、「カーネ

ンションハウス団地」。

Photo_3 Photo_4  

ハウスの中を覗いたら、お父さんには関係ない、カーネーション。まだ蕾が多く、咲いた分

から、収穫していくのでしょう。ほかにもきれいな花が・・・

Photo_5 Photo_6 

途中には、「飯盛鬼塚古墳。」

14

さすが、海に近づいていくと良い風景が広がりました。前ノ島に向島。写真奥の、向島の

左手には「龍宮の池」というのがあって、干潮時に姿を現すそうです。行ったのが満潮時

で、残念。

15

Dscf0353

左手には、愛野町の断層、雲仙岳が見えるはずなのですが、私の心と同じ、霞んで見えま

せんでした。


距離にして、6,5キロ、消費カロリー334㎈、所要時間1時間30分。今の季節、潮風を

受けながら、ちょうど良いコースでしょう。長いと思ったら、ショートカットする道もあるし。


年取ったので、本当は、ポチポチと半分歩き、半分は車で行きましたが・・・・

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 





2013年4月19日 (金)

懐かしの郵便ポスト

P3240039

懐かしいですね。昔は町の角々に立っていたものでした。まさに昭和レトロ。


このポスト、若い方は初めて見る方もいるでしょう。諫早市の郷土資料館に展示されてい

たものです。説明版が左の方にありましたので、長いので概略書いてみると。


正式名称は、「丸形一号郵便差出箱」だそうで、明治時代には、木製で黒塗りの柱状のも

のだったそうです。


下関市の俵谷高七氏が、この赤い円筒形のポストを考案し、明治41年の通達で認知され

たそうですが、昭和45年より製造が中止、徐々に姿を消したそうです。


この写真のポスト、昭和28年製造、昭和62年3月まで、市内の本野郵便局で使われてい

たものを、郵政局からいただいて来たそうです。


郵便物総量約360通、材質は鋳鉄、高さ135センチ、根石まで165センチ、ポスト本体の

重量は135キロ、根石の重量は130キロだそうで、思ったより重量がありますね。

Dscf0374_3

今の郵便ポストですが、何となく時代の変わりを感じます。


上の丸形郵便ポスト、私も何回もお世話になったもので、何度、恋文を出しては、そのたび

振られたものか。ちなみに、貰ったことは一度もありません。


いまは、メールで、「愛してるよ又、今度飲みに行こうね。」、なんてやっていますが、

やはり恋文は、手紙で書くのが情緒があるもの。昨年、ブレイクした、由紀さおりさんも、「

恋文」という歌を歌っています・・・


「アズナブール流しながら この手紙を書いています 秋祭りに買った指輪 小指に光りま

す 椅子の上には 赤い千代紙 窓のむこう 昼下がりの小雨 何を見ても 貴方様を 思

い出して候 (2番以下略)」


こんな恋文貰ったら、もうメロメロですね。ちなみに、アズナブールとは、、「シャルル・アズ

ナブール」。シャンソン歌手、俳優、シングソングライターで、一世を風靡しました。「アズナ

ブール流しながら」は、アズナブールの音楽を流しながら、と言うこと。多分、今のステレオ

ではなく、蓄音機で彼の音楽を流していたのでしょう。


ということで、「恋文」、「戀文」と書いた方がピッタリかな。万年筆で書いて、ポストへ出して

が良いですね。


私も、久しぶりに、愛用の万年筆、「モンブラン マイスターシュッテク No149」で、一筆し

たためることに。


「見も知らぬ私より、手紙をお受け取りになられ、驚かれたことと思ひ候。貴方様を駅で一

目見たときより、心騒ぎ、失礼ながら、手紙をお出した次第にて候。これが、思へば戀心か

と思えば・・・・・」


と書きながら、途中で止めました。だって、出す相手がいないんじゃね。そういえば、デュー

ク・エイセスの歌の一節にもありましたね。「出すあてなしのラブレター 書いては何度も読

み返し あなたのイニシャル何となく 書いては破いて捨てたっけ。」


ポストを見ていたら、いろんな事を思い出しました。あなたも、一度は恋文を出してはいか

が。


そういえば、ウチのカミサンに一回、書いたような思い出が、ポチとありますね。幻想だった

かな?近ごろポチとボケがひどくなって・・・・・

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ






2013年4月18日 (木)

十二支公園:未・南風の海浜公園~諫早市早見町

Photo

諫早の十二支公園については、以前書きましたが、諫早市が環境整備のためか、諫早周

辺に公園を整備したものです。しかし、「十二支公園」とは、曰くありげな名前を付けたも

の。

Photo_2 Photo_3

いつも通っている、長崎へ行く、海沿いの国道251号線ですが、左の写真、おや、何だろう

と見ると、右の標識。ここの所、何十年も通っているのですが、気がつきませんでした。新し

く立てたのか、私がボーッとしているせいなのか?

Photo_4 Photo_5

看板を見たからには、見て行かなければと・・・名称が良いではありませんか。「南風の海

浜公園」。思わず、二人っきりで行ってみたいような名称。


道は、広くは無いといったところ。2~3カ所標識がありましたから、迷わずに行きました、

多分標識がなかったら、迷っていたでしょう。なお、ここは、「九州自然歩道」の標識も立

っていました。

Photo_6 Photo_7

着いたところが、え!ここが公園という感じでしたが、左の写真、林になった所は「歳大明

神」があるところで、赤の四角の所、「十二支公園 未 南風の海浜公園」と、古びた標柱。

手前の広いところは駐車場になっており、真ん中に一番上の写真、エビス様がおられまし

たが、もちろん、お供えは「エビスビール」。

Photo_8 Photo_9

「浜遊びの皆様へ」と注意書きがあり、その下に、「駐車料金について 早見町にようこそ

あなたの真心を料金箱へ 駐車料金200円 早見町自治会」と書いた料金箱があって、

「真心を」と書いてあっては、「真心」のある私。200円、ちゃんと入れてきました。

この看板と、駐車場の広さを見ると、夏場にはかなり、浜遊びをする人が来ているみたい

な感じでした。

Photo_10 Photo_11

「歳大明神」と書いてある神社。新しい立て替えたような感じの神社みたいでしたが、御手

洗いには、明治42年と書いてありました。


裏へ回ると、おおきな木が、朽ちたままに立っており、下の説明版に、「諫早の名木 アラカ

シ 諫早ライオンズクラブ結成30周年記念事業」と書かれていました。


調べて見ると、書いてあるとおり、ライオンズクラブが30周年記念に、諫早の名木30本を

選定したものらしく、ネットで調べると、30本の中に、「アラカシ(ブナ科) 早見町 歳大明

神 2.28m 16m」となっておりました。

Photo_13 Photo_14

神社へ行くと、いろいろ見る癖がつき、本殿の所の彫り物ですが、見事なものでした。


さて、海岸は岩場で、道が途中まで続いており、右側にも、3~4カ所駐車場がありました

が。道が狭く、軽自動車以外はよした方が良いでしょう。私も、日本のベンツ、トヨタに乗っ

ているので、車は置いて、しばらく潮風を受けウォーキングしてきました。気持ちは良かっ

たですよ。


この日は霞んでいましたが、愛野の断層は見えていました。多分天気が良ければ、雲仙岳

まで見えるでしょう。

Photo_15 Photo_17

右の看板には笑いました。「この先早見海岸には駐車場がありませんので 適当な場所に

車は置いて 徒歩でお下りください 諫早市長」。適当な場所と言っても、こんな狭い道に

車なんか置いていくと大変ですよ。市長さん。


夏場は、子供を連れて浜遊びは楽しいでしょう。興味のある方は是非どうぞ。途中の道は

気をつけて。


近ごろいろいろあって(例のお方とです)。クサクサしていたので、ポチと良いお散歩コース

でした。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 





2013年4月17日 (水)

「活水」の読み方?

Img_2

今日は、活水の同窓会事務局から、総会の通知が来ておりまして、この学校、中学校、高

校、大学とあり、、私も、この大学に行きたかったのですが、なにせ、女の子の学校という

事で、門前払いでした。


私たちの時代には、お嬢さん学校というイメージが強く、高校の時には、憧れていた人があ

ったのですが・・・当時は、男女交際なんて考えられない時代でした。


私の家に通知が来たのは、娘に来た通知です。

さて、この「活水」なんて読むでしょうか?「かっすい」。違いますね。

Img_2_2

下の英語で書いてあるところ、「活水」は「Kwassui」と書いてあります。学校のホームページ

も「Kwassui」です。パソコンで「Kwassui」と打ち込んで変換したらなんと出るでしょう。「K]と

「s」の間に「w」が入っていますから注意して。


「かっすい」ではなく、「くぁっすい」と出ます。出ない?そりゃ、あなたのパソコン買い換え時

期ですよ。「かっすい」でしたら「Kassui」で「w」はいりません。


昭和50年の始め頃でしたか、千々石に勤めの関係で来ました。(おかげでカミサンに騙さ

れて、一緒になりましたが、あれは立派な結婚詐欺です。)


ある日、お年寄りの家に行ったとき、「くぁしは、くわんかない。」と言われ、「くわんかない」

は「食べないか」というのは分かるのですが、「くぁし」とはなんぞや?出てきたのをみたら、

普通の「お菓子」。


その時は、千々石では「菓子」のことを、方言で、「くぁし」と言うんだなと思いましたが、いろ

いろ、勉強していくと、言葉の発音には変遷があるとか。たしか何かに書いてありました

が、昔は、「は」は「ふぁ」だったそうで、「はな」ではなく、「ふぁな」だったとか。興味ある人は

自学自習でお勉強を。


調べた人によると、「くわ、ぐあ」が、カ、ガになるのは江戸時代だったそうです。

「活水」が「活水女学校」として創立したのが、1879年(明治12年)、すくなくとも、この頃

まで長崎地方では「か」ではなく「くわ」、もしくは「くぁ」と発音した歴史がうかがわれます。


さて、千々石では、昭和50年までは確実に使っていましたから、千々石はよほど時代に遅

れたところか、それとも、伝統、文化を大切にしたところか・・・・


活水ですね。ポチとでも入学してみたかったな。

 

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 




2013年4月16日 (火)

本明川の飛び石 その2~長崎県諫早市

1

さて、昨日は一つの疑問。本明川は河川改修がされたはずなのに、なぜ、工事の邪魔に

なる飛び石が残してあるのか?


確認するところはないのか?しばし考えると、ピンとくるところがあり、諫早市郷土館へ走っ

て行きました。


はやり正解で、実に詳しく知っておられました。本明川の飛び石は、昭和32年の大水害で

全部流されたそうです。その後、河川改修などあったそうですが、地元の人の熱望によっ

て、国土省だったかに話し、飛び石が復活したそうです。


なお、自治会によっては、遊び心か、この辺に眼鏡橋があったのか

8

             (Google earthより)

眼鏡橋風に飛び石を作った所もあるそうです。


郷土館に行ったとき、「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 諫早」と言う写真集

(以下、「ふるさとの写真集」と略します。)を紹介されましたが、見るにつけ面白いので、高

かったけど、早速手に入れました。


その写真集の中にあったものですが、一番上の写真、諫早神社(旧四面宮)を本明川の対

岸から見たところですが、鳥居が2本ある事が分かります。本当は3本あって、

2

赤の四角が、現諫早神社。緑の丸印の所に、鳥居の印が書いてあります。この3本の鳥居

を通って神社へ行くのですから、これが参道に当たるのでしょうが、一番上の写真のよう

に、飛び石を渡って行くようになっています。

昨日の最初の写真と比べれば、川が拡張されているのが分かると思います。


なお、奥にある鳥居、これが多分肥前鳥居でしょう。多分、笠木だけの鳥居に見えます

が・・・・これも、あと2本の鳥居も諫早の災害で流されたそうです。

鳥居の柱が川原にありますよと、といわれたので行ってみるとありました

5

短いみたいですが、昔の写真を見ると、柱が二本つなぎの鳥居みたいですから、この長さ

なのでしょう。

3

諫早神社(お四面さん)の飛び石風景です。眼鏡橋が架かる前の30年間は、本明川を渡

る唯一の通路であったそうです。昭和26年の写真だそうです。


古地図を見ると、この飛び石の上流にもう二つばかり、飛び石が書かれています。多分ど

ちらかだとこ思いますが。

4

説明によれば、「本明川の水で洗えば、洗剤そこのけに白くなる不思議さ。」と書いてあり

ます。井戸端会議の場所でもあったのでしょう。昭和28年の写真ですが、後の橋は新四

面橋です。


「想い出の写真集」に、あと2枚ほど飛び石の写真が載っていたので

6_3 7

左は、諫早公園の高城から城見町の二の丸を結ぶ通路であったそうです。昭和10年の

写真。


右は、昭和初期に作られたものだそうで、形を見ると、将棋の駒の様な形をしています。水

の流れを考えたものでしょう。


このような、写真集、昔の、ひいては現在の私たちの生活を知るのに、大切なものなので

すが、もっと出して欲しいですね。


さて、千々石も河川改修、橋を架けるため、又近ごろは河川改修に伴い、川に風情を付け

るためか、わざと飛び石を作っているので、何が何だか分からなくなっていますが、一つだ

け温泉神社の所に確実なのがありました。

Photo_2

諫早の飛び石は、新しいものとはいえ、住民の熱意で作られたもの。あと、百年もすれば

文化財でしょう。


飛び石には、あまり目をむける方がいませんが、我々民衆の生活に密接に関係があった

もの。河川改修、橋を架けるときはには大切にしてもらいたいものです。 

(参考・写真・文引用:「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 諫早」~諫早史談会

編)  ■本明側の飛び石・終了


今日は久しぶりに歯医者さんへ。この歳になっても、歯医者さんはポチ怖いですね。

 

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




2013年4月15日 (月)

本明川の飛び石 その1~長崎県諫早市

Photo

昔は、橋が現代ほど多くなく、住民は川の飛び石を渡っていました。


先日、書いたように、諫早の郷土館で「諫早市郷土館 解説シート」という冊子をいただき

ましたが、表紙を見ていると

Photo_2

赤い枠の所が、昔の本明川に架かっていた眼鏡橋になります。本明川洪水後、今の諫早

公園に移設し、そのそばの本明川に公園橋が架かっていますが、眼鏡橋は、若干、下流

の所にあった事になります。


この地図、諫早図書館蔵の諫早家古地図の中にあるそうです。


説明によると、文久4年(1864)頃のものだそうですが、見取り図ではなく、測量したもの

だそうで、かなりの精度をもったものだそうです。縮図1818分の1。


さて、この本明川をみていると、青の四角の所、なにやら、○印が点々と書いてあって、ひ

ょっとしたら、飛び石かなと思って、GoogleのEarthで調べるとビンゴ

Photo_3

皆さんも、Googleで本明川を見て行くとすぐに分かります。ここの河原は歩きやすく、ウォー

キングがてら、見に行ったら

Photo_6 Photo_7

Photo_8 Photo_9

Photo_12 Photo_15

いや、あちらこちらあるもんで、しばらく見ていたら、皆さん結構利用していました。橋と橋

の間に住んでいる方は、ぐるっと回わらなければならないので、利用しているのでしょう

が、飛び石のある川は風情があって良いもんですね。


ということを、考えていると、ふと、ある疑問が。この本明川は昔から、洪水を起こしたとこ

ろ。元禄12年には洪水を起こし、次の年の大干害の犠牲者の供養、治水、領内の安泰の

願いを込め、諫早家当主、第7代目茂晴公が富川渓谷に500羅漢の磨崖仏を彫っていま

す。


特に、昭和32年の7月25日には、大雨に伴う諫早地方の災害、特に本明川に大水害を

おこした事は、まだ記憶に新たなところです。


と言うことで、この本明川はかなり河川改修をしたところ。この事を考えると、飛び石を残し

たままだと、工事の邪魔になるはず。どうしたのか?どうも、釈然としません。


さて、どこで確認するか?考慮することしばし、ピンときたところが、私のカン良い所。と言う

ことで次回のお楽しみ。


なお、一番上の写真は対岸が、諫早神社(旧四面宮、地元では、お四面さんとして親しま

れているそうです。)この写真、次回に関係あるので覚えておいてください。


飛び石、私も渡ってみましたが、歳のせいかポチと滑りそうになりました。情けない。

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 




2013年4月14日 (日)

ぶらり歩けば~雲仙市千々石町

1

最近、カメラの調子が悪く、いつものように、店頭展示品現品処分のを買って来ました。

今日は、カメラの調子、機能が多いので、慣れるために、カメラ片手に、ブラリブラリしてき

ました。


あちらこちらに、鯉のぼりが立っていましたが、そういえば、もうすぐ端午の節句。この鯉の

ぼりの足場を作るのが大変で、左手にあるような、たくさんの鯉のぼりを立てるのは、親戚

中集まって、足場を一日がかりで作ります。

2 3

川端を歩いていると、石垣のひょんな所に、目立たないように地蔵様が・・・・ひょっとした

ら、隠れキリシタンの地蔵では?聞いてみたら、水神様でした。昔、この地蔵様の下に水

が湧いていて、スイカなども冷やしていたそうです。見て歩くと、水神様はあちらこちら多い

ですね。

4 5

スイトピーも終わりです。これから種を取って、時期になったら地蒔きし、苗が大きくなった

ら間引きして育てます。右はタマネギの収穫。今年はタマネギが安く、ウチも数軒から、い

ただきました。去年は高値だったので、貰えませんでしたが。二人で食べるには夏過ぎま

でかかるでしょう。もちろん、市場に出せない、ふぞろいの林檎たちならぬ、不揃いのタマ

ネギたちです。若い方は、「ふぞろいいの林檎」と言っても分からないでしょうが、ヒットし

た、TVドラマでした。主題歌は、サザンオールスタ-ズの「いとしのエリー」

6 7

商品にならないタマネギは、そのまま畑においてあるところもありましたが、もったいない

な。右は、ジャガイモ畑。もうすぐ収穫になります。


タマネギ、ジャガの収穫が終わると、田んぼの準備になります。もうボチボチと取りかかっ

ているところも。

8

晴耕雨読と言いますが、ハウスができてから、雨の日も農作業。農家も大変です。

9 10

町内某所、タケノコ、クレソン、フキなどがありますが、取っていく人はあまりいません。私

は、時々いただていきますが・・・・

11

その某所にある、しだれ椿だそうです。枝がしだれて、その先に椿が咲いています。

12_2 13

橘神社の桜もすっかり散ってしまい静かになりましたが、橋の所の崖に藤の花。誰かが植

えたみたいで、年々増えています。

14

橘神社の駐車場の所にある石造物ですが、これについては、神社の宮司さんに聞いても、

近所の方に聞いても、誰も知りませんでした。何なのかな?どうも気になります。

15_2 Photo

またも商店街で閉店です。「山口ショッピング」。時々、利用していた店です。国道筋に、セ

ブンイレブンとファミリーマート等ができたせいかな?

右は「久保田食道」。チャンポンが名物で、結婚前は随分利用しました。後継者がいないみ

たいで閉店です。神社前の「ヤマサキデイリーストアー」も閉店しました。もう何軒、店を閉

めたことか。


千々石は、酒屋と洋服店と床屋が多かったそうです。「おしゃれで、飲み助がおいところ

だ。」と言っていた人がいましたが・・・

Photo_3

島原鉄道の記念碑が、昔の駅々にたっていますが、「千々」ではなく、「千々」のはず

なんですが??????????


季候も良いし、ぶらぶら歩くと、何やかやとポチポチ目につくもんですね。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ





2013年4月13日 (土)

2013 諫早つつじ祭り~ミニ眼鏡橋、渡ってきました

Photo

なんと、かっこの良い男性か。スタイル満点、心優しく、イケメン。顔をだすと女の子がほっ

とかないので、消していますが・・・私です。


ミニ眼鏡橋の由来については、以前から書いていますから、そちらをお読みください。後の

方に、本物の眼鏡橋が少しばかり見えます。


このミニ眼鏡橋、普段は柵がしてあり、渡れません。出来た当初から、どうしても一度渡り

たく、深夜来て渡ろうと思ったのですが、崩落したら大変だと、我慢していたのですが・・・


さて、4月13日~21日まで、「2013 諫早つつじ祭り」。

Photo_2

今年は、祭りに時期を合わせたように、ツツジが満開。ツツジに眼鏡橋、後には新緑の林

と青空、なんとも絵になる風景。


朝から、つつじ祭のチラシを見たら、小さな字で、「※ミニ眼鏡橋は祭りの期間中(土、日)

限定で渡れます。」と、書いてあるではありませんか。4月13日(土)、14日(日)と20日

(土)、21日(日)です。


どうせ、渡ることが出来るのは、子供だけだろうと思ったのですが、急いで出かけ、一時間

ほど待っていて、係員の人が来たので、「大人も渡っていいんですか?」、「いいですよ。」、

「体重65㎏ですが?」、「かまいません。」と言うことで、係員の方に頼んで、一番上の写真

を撮ってもらいました。やはり、自分で言うものなんですが(他人が言ってくれないから)い

い男ですね。最初はおっかなびっくりで渡りましたが、がっちりしたものでした。

Photo_3 Photo_4

子供が乗っているのは、対州馬です。対馬の馬です。これで、成馬ですが、対馬は急な山

が多く、足が長いサラブレッドなんか役に立ちません。カッコ良いばかりが、役に立つとは

いえない見本です(私は違いますが)。フリーマーケットも大賑わい。


昔の本明川に架かっていた頃の眼鏡橋です。

Photo_5

       (「”暴れ川”本明川」~長崎新聞社発行より)

Photo_6

      (「九州の石橋をたずねて」~山口祐造著より)


ミニ眼鏡橋は、石橋を移転するにあたって、石工さんが試しに縮小したものを作りました

が、諫早に置くところがなく、所沢のユネスコ村に置いていたものを、ユネスコ村閉鎖に伴

い、諫早に里帰りさせたもの。


眼鏡橋については、解体の時、その構造が話題になりましたが、特に真ん中の所、ただ単

に立てた物ではなく、「潟泥」の中に杭を打ち込み、その上に基礎石を置いて、その上に橋

を作っています。いわば柔軟構造にしてあるものです。誰が考えたか、天保の時代ですか

ら、凄いものです。今のように、力学なんて学問は無かった時代ですから。


この橋の作りの驚くべき構造については、上記、「九州の石橋をたずねて~山口祐造著」

に詳しく書いてありますので、興味のある方はお読みください。

Photo_7
               

                (諫早つつじ祭りチラシより)

天気は良いし、念願のミニ眼鏡橋は渡れたし、良い一日でした。一番上の写真、本当は彼

女とツーショットのもあるのですが、問題になるので載せませんでした。と言いたいのです

が、残念。私はいつもロンリーウルフガイ、カッコ良い一匹狼です。


なお、駐車場は会場横の本明川の河川敷に充分あります。または、高城公園駐車場。歩

いて、足の長さとか、歩く速度もありますが、10分程度です。

(参考・写真:「”暴れ川”本明川~長崎新聞社刊」、「九州の石橋をたずねて~山口裕造

著」、 「諫早つつじまつりチラシ」より。)


ミニ眼鏡橋、渡るときは壊れはしないか、ポチ怖かった。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




2013年4月12日 (金)

原城の抜け穴~長崎県南島原市南有馬町

P4110539

これ、原城を再建したものではありません。ベニヤ板に、描いたもので、「夢一夜城」。ボラ

ンティアの方が作って、22年目だそうです。話には聞いていて、一度は見てみたいと思っ

ていたのですが、思ったよりも立派なもので、驚きました。明日13日は、「原城一揆祭り」

が昼から、夜にかけて開催されるようです。ネットで検索すると、イベントの時間帯も分かり

ますので、行かれる方はチェックを。


さて、この原城に抜け穴がある事は、世界遺産登録にも絡み、平成9年頃のマスコミを賑

わせたようです。某記事には「発掘調査に新年度から着手する」と書いてありました。


この穴については、以前から、すでに知られていたようで、昭和44年発行の、「南有馬町

郷土誌」に以下のように載せてあります。


「昭和三十八年四月豪雨の浸水で地盤が沈下し直径三米から三,九米の大空洞が突然

できたが、これは天守閣から通じる抜け穴で下の海岸から約六米の高さの所に一.一米、

幅0.七米、乃至0.八米の洞窟があり二十七米で三叉路になり奥が三畳敷になって水が

出ている洞窟につながったものであろうと想像されたのであるが、我国史家の泰斗『黒坂

勝美博士』の令息で、文化財保護委員会の黒坂技官の説によると、往事は築城に当たっ

て排水溝を作るのが普通であるから、これもまたその一つではないかといわれる。またこ

の洞窟は「原城構築」に際に掘られたものであろうが、一揆軍が籠城に際し掘起こして抜

穴に利用したことも同年八月に発掘した際傾斜した穴でこの穴からでた瓦陶器の破片から

察せられるが明確にいえない。」と書いてあります。


この穴は、現在崩落して入れないそうですが、2009年頃、ロボットカメラを入れて調査し

たと思われる写真が、ネットの「有家史談会 嶽南風土記」、2009年09月23日の記事に

載ってましたので転載します。

Photo

私も、心動かされ見に行ってみたのですが、本丸の方はからは、フェンスが張ってあり、分

かりませんでした、と言うより、ネットがなくても、海側は絶壁になっていて、とてもじゃない

けど、おっかなくて・・・


下から、行ってみると、途中までは良い道で、護岸工事などしてありましたが、途中で途切

れて、藪になっており、一人ではちょっと無理

P4110556 P4110557

最初は右手から行ける所まで、次は左手から行ける所まで行ったのですが、ついに分かり

ませんでした。


この絶壁の上に原城の本城があり、とてもじゃないけれど、海側からは攻められないこと

は一目瞭然です。崖はかなり崩落をしておりました。


ただ、途中少し変なところがあり、

P4110560

入り口は完全にふさがっていますが、よく見ると穴らしきものが少し見え、かなり古くなって

いますが、材木で支えたような所が、ひょっとしたらかな?

いずれ、抜け穴も解明されるでしょうが、楽しみにしましょう。


さて、原城というと、観光の方は本丸だけ行かれますが、平成12年版「長崎の文化財」に

原城の全景が分かる写真があったので

Img

皆さんが観光で行かれるのは、赤い四角の所だけだと思いますが、ほかに、「鳩山出丸」

「東二の丸」「南三の丸」「西二の丸」「北三の丸」等も在り、こうして見れば、この原城を

築城した、有馬氏の勢力のほどがうかがえます。なお、この原城は北有馬町にある、日之

江城の支城になります。

(参考・文引用・写真転載:「南有馬町郷土誌」「平成12年度版 長崎県の文化財~長崎

県教育委員会発行」。ネットより「有家史談 嶽南風土記」)


歴史というのは謎が多いですね。ウチのカミサンの心に、ポチと似ています。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ



2013年4月10日 (水)

センゴク一統記第3巻 宮下英樹著~出ましたよ

Img

桜も散り、ツツジが咲き始め、一年経つのも早いもの。私の人生も段々と短くなるばかり。


さて、本屋へ行ってみたら、出てました。「センゴク一統記」、第3巻になります。いよいよ、

歴史上の謎、「本能寺の変」へと進んで行きます。


あまり書くと、読む方が面白くないので、簡単に。この巻は明智光秀が主人公になり、なぜ

「本能寺の変」を起こしたか、主に精神的な面から書いてあり、今までとは若干趣が違って

います。


本の帯の裏の方に、こう書いてあります。

「明智光秀が、信長の中に見たものは輝く桃源郷か、それとも破滅か・・・・

一人の天才の生涯を通して人間の実存をとう、”本能寺の変”前夜!!

静かなる”序奏”が幕を開ける」

なんのことか分からないでしょうが、読めば分かります。書いてあるとおりです。


さて、本能寺の変については、諸説あるようで、「ウィキペディア」によると、「「怨恨説」、「野

望説」、「恐怖心説」、「理想相違説」、「将軍指令説/室町幕府再興説」、「朝廷説」、「四国

説」、「イエズス会説」、「諸将黒幕説」。面白いのは、明智光秀は生き延び、徳川家康の幕

僚として活躍した「南光坊天海」になったと言う説。是非、「ウィキペディア」の「明智光秀」

の所、お読みください。面白いですよ。


これだけある説で、著者がどんな自説を展開していくのか、チラリと見えてきますが、難

しいですね。人の説を真似ても意味ないし。どんな進行になるのか。「ヤングマガジン」連

載ですから、それを読めば早いのですが・・・・


今回は、主人公仙石秀久は出演なしでした。影も形も見えません。いつも、著者の後書き

があるのですが、今回は無し。ひょっとしたら、作者がどう展開していくのか悩んでいるの

かな?


作者の参考文献は、前にも書きましたが、「改撰 仙石家譜」、「信長公記」、「天正記」、

「日本史(ルイスフロイス)」、「川角太閤記」、「雑兵物語」、「身自鏡」、「晴豊記」、「日々

記」、「籾井家日記」、「牧田茂兵衛氏所蔵文書」、「惟任謀反記」、「備中兵乱記」、「溝江文

書」、「立入左京亮入道道隆佐記」、「明智氏一族相伝系図書」、「多門院日記」。


こう並べると凄いですね。読むだけでも大変でしょう。古文書、良くて読み下し文があるて

いどでしょうから・・・この資料を基にどう物語が進んで行くのか・・・・・いよいよ「本能寺の

変」、いかに・・・


ウチでも、本能寺の変、やってみたんですが、ポチポチポチと、軽く、あしらわれただけでし

た。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ



2013年4月 9日 (火)

長崎のハタ・諫早の凧揚げ取り締まり

1

さて、皆さんは長崎名物をご存じでしょうか?


「長崎ぶらぶら節」という民謡があります。「長崎名物 ハタ揚げ 盆祭り 秋はお諏訪のシ

ャギリで 氏子がぶらりぶらりと いうたもんだいちゅ」。と言うことで、第一番目に、「ハタ揚

げ」があげられています。ということで、長崎名物の第一がハタ揚げと言うことになります。


「盆祭り」は「精霊流し」、他の所と違って、爆竹などを使って、賑やかなお盆行事。

「秋はお諏訪のシャギリ」は、諏訪神社の「おくにち」の祭りのこと。


これに最近は「ランタン祭り」が加わり、以前の日銀長崎支店長が講演会で、長崎は祭り

が多いところですね、などと言ってました、どうも、口調からすると、長崎人は浪費癖がある

という感じでしたが・・・・


さて、ハタと言えば唐八景、唐八景と言えばハタ揚げと決まっていて、4月7日にハタ揚げ

大会が開かれていました。


この大会、ハタを揚げるヨマ(ハタを揚げる糸)に、ガラスを細かく砕いて、糊と混ぜ、ヨマに

塗り、乾かして、ハタの方に、このヨマを使い、ハタとハタを絡ませ、ヨマを切るというもの。

切れて飛んだハタを追っかけて、拾いに走った思い出があります。この、他人のハタに絡

めて切るのは、難しいものです。


もちろん、切られたからといって、恨むようなことはありません。あくまで大人の粋なお遊び

です。


さて、長崎のハタは上の写真の様に菱形です。裏は

2

実に単純で、二本の竹を組み合わせたもの。ヨマを竹が交差した所と、一番下の部分に取

り付け、この二本を結び、これに揚げるヨマを結びつけます。バランスを取るのが難しく、下

の方に、ほそ長く切った紙を使い、長い尻尾をつけたりします。


さて、長崎でハタ揚げが盛んなら、お隣の諫早でも盛んで、江戸時代に取り締まりまであっ

たとのこと。


「諫早市史」の、「奢侈(しゃし)取締」の所、「寛永年間の倹約令」、「文化向上と服装取

締」、「諫士に對する取締」などの中に、「凧揚げの取締」というのが書いてあり、長いので

要約すると、長崎では凧の大きさを文数で呼んだそうで、長崎は20~30文の小型が多か

ったそうです。


これに対し、諫早では、紙の枚数で何枚入りと言ったそうで、八枚入りになると、かなり大

型になり、長崎ではこの大型の凧を「つぶらかし」と呼んでいたそうで、これに凝ると、財産

を潰すからだと言われています。


その、費用のかかる遊びを、お上が見逃すはずはなく、取締が出たそうです。


一、左の通り達帳を以て相達候事。

   達   帳

凧揚の儀、童、子供尾長の外一切後停止置かれ候については、一統其の心得いたし、吃

度、取止め候様、・・・・・・・自然心得違ひ取り扱い候者これあるい於ては、御取揚の上、其

者は申すに及ばず、親々々も急度其〆り仰付らるヽ儀に候。」


「尾長」は多分、子供用の凧の下に、紙で長く尻尾をつけたものかな?「其者は申すに及

ばず」、「親々々」まで、取締の対象になるとは。


なお、面白いことに、凧ばかり取り締まっても、それを揚げるヨマを売る者があってもよろし

くないと、それも取締になったそうです。


一、市中、其外において、凧相拵(こしらえ)、扨(さて)又、右よま杯一切賣出さざる様、自

然相用ひざる者之有るに於ては、御取揚げの上、急度手當仰付けらる儀候。


この取締が出たのが、慶応四年、江戸時代最後の年号。4年後に明治になりますが、取締

はなくなったため、反動的に盛んになり、凧商などが集まり、凧合戦などを主催したそうで

す。いまでは、この大型のハタ見たことがありません。ゲイラカイトばかりが飛んでいます。

(参考・引用:「諫早市史」より)


女遊びは、できないし、ハタ揚げにでもポチ凝ってみますか。

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ



2013年4月 8日 (月)

愛のハタあげ大会~長崎県雲仙市愛野町

Photo_2

今日の長崎新聞を読むと、「長崎のハタ揚げ大会」と、「雲仙・愛のハタあげ大会」の記事

が並んで載っていました。長崎では「凧」ことを「ハタ」と言います。


「愛のハタあげ大会」。本来は土曜日の予定が雨。日曜日も、朝から雨が降ったり止んだ

り。どうかなと思いながら行ってみると、ちゃんとやってました。

Photo_3 Photo_4

子ども用には、小さなハタを準備して、これはお土産。旗が立ててあったので見ると、「愛の

まち剣舞箏保存会」、と書いてあるので、剣舞をやっている人が、主催か手伝いかと思って

いたら、新聞に書いてありました。「剣舞箏」は「けんぽうそう」と読むそうで、その、「愛のま

ち剣舞箏会保存会」の主催。


「剣舞箏」はハタの一種で、島原半島北部に伝わる、剣をかたどった形が特徴だそうで、

「剣をかたどった形のハタ」、どこかで見たことがあるなと、考えているとハタ(親父ギャグで

すみません  )と思い出し、確認に行ったところありました。


愛野町の公民館、1階から2階に上がる階段の所。一番上の写真が、「剣舞箏」です。意外

と呆けてないな、と自分で感心。公民館の方に、作った方など聞いてみても、全然知りませ

んでした。少しはお勉強を。


さて、その他、いろいろな大型のハタがありました。

Photo_5 Photo_6

これも、立派に遠くの空に飛んでいて、肉眼ではよく見えません。いつか書いたように、老

眼と近眼と乱視混じりだから。


私も、大きなハタをしばらく借りて遊びましたが、手袋を忘れて、糸を持ったところが焼けて

まだヒリヒリ。


このハタの裏側

Photo_8

赤の四角の所、弓みたいなのが取り付けてあります。弦のところは、お菓子の箱を包むよ

うな、平たい紐です。これが、風を受け、振動し、「ブーン」という、何とも言えない音を出し

ます。


この紐、以前、お年寄りの家に、この型のハタが飾ってあったので、話をしていると、「この

紐んところ、いまはビニールの平たい包み紐をつかっとるが。昔はの。」と言いながら、箱を

持ってきて、見せて貰いましたが、「昔は馬の皮をなめして、薄く削って、平らな紐にして使

つとったもんじゃ。」、と言うことでした。


多分、この話は、段々と忘れられてしまうことでしょうが・・・・庶民の歴史は、はかないもの

ですね。


次回は、長崎のハタと、江戸時代の諫早における、「凧揚げの取り締まり」などについて・・


ハタのように空を自由に飛んで見たいな。でも、紐を持っているのはカミサンか。ポチ残

念。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ





2013年4月 7日 (日)

春の全国交通安全運動

P2210788

4月6日~15日は、「春の全国交通安全運動」です。


最近は、赤信号でも、突っ切っていく、ウインカーはつけないで曲がっていく、人が道を譲っ

てもあいさつなし。運転以前の方が増えて来たみたいです。


私?模範的安全運転です。というより、年を取ったら、運動神経が鈍くなって・・・・後の車か

ら追突されないか心配なので、まだ該当者ではないのですが、高齢者のマークと、初心者

のマークと2枚貼り付けて、走っています(もちろん、冗談です)。


さて、先日買い物に行って、ふと隣の車を見ると、フロントウインドーの上の所に、張り紙が

してあって、よく見えないので、何かと思って、写真の望遠で見たら、思わず笑ってしまいま

した。

P2210792

良いですね。運転の三原則、「一、脇見運転はダメ」、「二、飲酒運転はダメ」、「三、六〇K

以内で運転」。


全くその通り。この運転手さん、どんなわけで、こんな物をわざわざ貼り付けているのか?

ひょっとしたら、脇見運転をしたり、飲酒運転をしたり、速度違反をいているので、自戒のた

めに貼ったのか?よほど真面目な方なのか?どちらなのか?


戻って来た方を見ると、七十代の男性の方でした。多分、後者の方みたいでした。

私もマネをして貼っておきました。「浮気はダメ。」

皆さんも見習って、安全運転を心がけましょう。


カミサンが今日は花火大会のご見物。今日こそは遅くなりそうだし、鬼の居ぬまに、ポチと

命の洗濯を・・・・

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ




2013年4月 6日 (土)

高城神社の猩々の石造 その2~長崎県諫早市高城神社

2

昨日、「その2」を書こうと思ったのですが、人生思わぬ事もあるもので、美女の方から、食

事に誘われ、あるところに行って、ある事をして、帰るのが遅くなり、書けませんでした。今

日続きを書きます。何をしたか?大人のあなたなら分かるでしょう。(てなことじゃ、な

かったんですが・・・・)


さて、この猩々さん、よく見ると良いお顔をしておられます。現代の小顔美人ではないけれ

ど、ふっくらした、癒やし系の女性で、こんな方と一緒になれたら、楽しいだろうなと言う感

じ。いくら見ても、見飽きないので、しばらく見ていました。


この像と水瓶を作ったのは、諫早下町の石工田島卯之助だそうで、モデルは娘さんの、

「つね」さんと考えられているそうです。作ったのが明治15年。

Photo Photo_2

向かって右側に氏名。右側に作製年が書いてあるのですが、石造のかげになっていて、よ

く見えません。


この石造を囲う、上家を寄進したのは、旧諫早家上士喜多官八郎で、左右の柱に、氏名と

年月日が彫ってあります。


さて、この像の仕掛けですが、「諫早市郷土館 解説シート」に、次のように書いています。

この高城神社は昨日書いたように、諫早水害で、移設されたものですが、「昔この像は、神

社横のチンチク竹叢のそばを流れる小川から水車と掛樋で引いてきた水を柄杓の先端か

ら水瓶に垂らすようになっていたということです。」

Photo_4

肩口に水の受け口があり、この穴から水を入れ、

Photo_5

こちらの手の方から水が出るようにしたのでしょう。今は水道を引いているようですが。


それにしても、能の「猩々」と関係ある石造、そしてこの洒落た仕掛けと、可愛らしいお嬢さ

ん。よほど優れた石工さんだったのでしょう。神社の説明版にもこの事は書いてありません

から、是非、ご覧になってください。


さて、この神社は諫早家初代家晴を祭神にしていますが、神社ができたのが明治15年。

えらく年代が離れていると思っていたら、諫早十二代茂洪が天保13年(1842)に家晴を

追慕して城山の頂上に、家晴神社を祀ったそうですが、本明川畔の旧領民がこぞって寄付

と奉仕によって神殿を移して、高城神社と改称したそうです。残念ならら、旧神社は水害に

よって大破しました。 (この項 終わり)

(参考・文引用「諫早市郷土館 解説シート(歴史編)」「諫早街道をたずねて~高来町教育

 委員会著」)


カミサンが同窓会だとか、夜遅くなるから、ゆっくりできるなと思っていたら、8時にご帰宅、

また恐怖の時間が・・・・ポチゆっくりして来れば良いのに。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ



2013年4月 4日 (木)

高城神社の猩々(しょうじょう)の石造 その1~長崎県諫早市高城神社

Photo

先月、諫早市郷土館所有の古地図展があるとかで、見に行ったら、「諫早市郷土館 解説

シート(歴史編)」というのが置いてあり、50ページ程度の小冊子ですが、多分いくらかする

のかと思ったら、なんと只でいただきました。


一昨日、雨なので半日ばかり読んでいたら、面白く、よく調べてあること。せっかくですか

ら、これを元に、何回かに分けてご紹介を。


最初は、諫早の眼鏡橋のすぐ近くにある、高城神社の猩々の石仏です。高城神社の祭神

は諫早家初代龍造寺家晴公で、明治15年に創建。本来は、諫早公園と市役所の中間に

建っていたそうですが、諫早大水害で大破。現在の場所に移設されたそうです。


さて、この神社の社殿にあがる右手に上の写真の様な、御手洗いがあります。よく見ると、

少女の像のように見えますが、

Photo_2

実は「猩々(しょうじょう)」の像だそうです。


辞書に寄れば、猩々といえば、オランウータン、ゴリラ、チンパンジーのことですが、中国の

想像上の動物で、猿に似てあり、人の顔を持ち、人の言葉を理解して、酒を好むと言いま

す。酒飲みの異名とも載っています。


もう一つ、能の一つで、唐土の高風という孝行息子が、夢のお告げで酒売りになって、富

貴になったそうです。ある日、いつもやってくる客が、「自分は海中に住む猩々」だと名乗っ

たそうです。


月夜の美しい時、潯陽江(しんようのえ)に猩々が現れ、酒を酌み交わし、舞を舞い、いくら

汲んでもつきぬ酒壺を、高風に与え消えていたそうです。

この像は、壺の酒を汲みつつ舞う舞姿であり、御手洗いが酒壺を現しているそうです。


諫早市郷土館の資料には、「これが少女の姿を借りた猩々像であることは、その右肩から

下に垂らした手ふき様の布形の浮き彫りのなかに『飲みつきぬ 香り深し 菊の酒』という

文句が彫り込まれていることからあきらかです。」と書いてあります。

Photo_3

なお、「猩々」という能は、縁起の良い、めでたい舞だそうです。

さて、この像にはもう一つ仕掛けがありまして、また明日。

(参考・文引用:「諫早市郷土館 解説シート(歴史編)」「大辞林」より)



うちのカミサンもひょっとしたら人間の姿をした○○ではないのかな?ポチ、心配。

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 



2013年4月 3日 (水)

淡島神社春期大祭~長崎県雲仙市国見町

Photo

今、NHKでも放送していましたが、雲仙市国見町の淡島神社のミニ鳥居。神社の横に置い

てあります。30㎝くらいの間ですが、くぐり抜けると、子宝、安産に霊験があるといわれて 

います。もちろん私もくぐりましたが、ダイエットが効いたのか、スルスルと、通れるわけが

ない!


本殿の中にもミニ鳥居が、「健康に育ちますように」と書いてあります。子どもを入れるバス

ケットの下に、車輪を付けた台車がありますが、赤ちゃんがお祓いをしてもらった後、これ

に乗せてくぐらせるのでしょう。

Photo_2

今日は淡島神社の春祭り。みんなで、ミニ鳥居をくぐるのが見られるのかと思って行った

ら、遅すぎたみたいで、演芸会が始まっていました。残念。

Photo_3 Photo_5

この神社は、文化九年(1812年)、第十代神代藩主の鍋島體公の時代、亀川出羽守忠

英という人が建立したそうです。当時は、「粟島神社」と言っていたそうですが、いつの間

にか「淡島神社」と呼ぶようになったそうです。社殿は平成四年に再建されています。


祭神は少名彦命(すくなびこな)。調べると、少彦名命(すくなひこのみこと)と両方あるよう

です。中身は似ていますが、多分、同じ神様なのかな?


さて、この社殿の横に、「道祖神」と書いた、案内がありますが、「道祖神」といえば、道の

辻などに祀られ、村に災厄が入ってこないように、また、子孫繁栄等を願って、村の守り神

としてされたもので、種類はいろいろあるそうですが、ここのは(十八歳未満は以下見ない

でください)

Photo_6 Photo_7

実に立派なものでありまして、下の方は、多分女性の「なに」かな?子孫繁栄、ひいては、

五穀豊穣を願って祀ったものでしょう。


さて、この道祖神は最初は30㎝くらいのものだったとか。子宝に恵まれたい女性が、触っ

たり、撫でたりしているうちに、段々大きくなって今のように、大きく、立ち上がり、それと共

に、村も繁栄したというと言う伝説が、あるわけないでしょう。(私の創作ですから信じない

ように。)


淡島神社にお参りこられた方、社殿のすぐ裏ですから、ご覧のほどを。本当に立派なもの

でした。私のも、これくらい立派ならと思いつつ、神社を後にしました・・・・

(参考:「国見町郷土誌」・神社説明板より)


こんな写真載せて、わいせつ罪にならないでしょうね。小心者の私、ポチ心配です。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ






2013年4月 2日 (火)

幻の肥前鳥居 その3~南島原市有家町・島原市

Img_0004

千々石の桜も、ほとんど散ってしまいました。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりし」。若

い女性の方は、せいぜいお遊び下さい。え?遊びまくっている。時代が違いますからね。


さて、「有明の歴史を語る会」から「ありあけの歴史と風土」という機関誌を出しています

が、第16号で、杉本伸一氏が「殿様の鳥居」という記事を書いておられます。

元文元年(1763年)に島原藩三代藩主松平忠俔(ただみ)が、雲仙岳登山道路3合目に

作ったそうですが、この方は信心深く、同年、護国寺三十番神も建立されたそうです。


この写真と、杉本氏の記憶を元に書いたのが下の左図です。右の図は、諫早愛宕社の入

り口に書いてある、肥前鳥居の図。笠木と島木が一体になっています。

Img_0005_2 3

ほとんど一緒ですが、上の写真も斜めから撮ってあるために、もう一歩よく分かりません。


ひょっとしたら、これ肥前鳥居ではと思い、島原の専門家に聞くと、残念ながら、この鳥居、

平成4年7月30日の土石流で流されますが、一部発見され、眉山ロードの途中の広場に   

展示してあり、説明版にも昔の写真があるとのこと。


島原に用事があったついでに寄って見ると、

P3290108_2

左に写真がありますが・・・・

P3290110_2

ほとんどボロボロで、しかも大事な、笠木、島木の端が木に邪魔されて、はっきりとは確認

できませんでした。

P3290119_2

掘り出された鳥居の柱が三本立っていましたが、この柱には「吉日」と彫ってありました。

鳥居の大きさは、高さ4,3m、幅4,4m、柱の周囲2,3mだったそうです。


その右に建ててあるのは

P3290120 P3290126

上の写真に比べれば、少し細く、彫ってある文字を読むと、どうも「大正七」と、読めるよう

な文字もあり、殿様の鳥居とは違うみたいな感じでした。他に建てられていたのが、土石流

で流されてきて、一緒に掘り出され、ここに建てられたものでは・・・・・・?


土石流に流されていなければ、肥前鳥居だったのではと、広場を後にしましたが。とにかく

残念でした。まさに、幻の肥前鳥居です。島原半島に、肥前鳥居が残っていないのか、ボ

チボチ回って調べてみるつもりですが、情報がありましたら・・・

(幻の肥前鳥居編 終了)


昨日もカミサンとバトルで、毎日いじめられる私、これってDVではないですか。ポチと可哀

想な私。

  にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ






2013年4月 1日 (月)

胃カメラを飲んできました

P4010351

私の、ポンポンさんの写真で、確か3回目のご登場だと思います。見たくない人はご覧にな

らなくて良いし、お好きな方は頬ずりをしてもよろしいし。もう少し下を見たい?私は、露出

狂ではありませんから、ここまで。


さて、昨日から、胃が「ピクピク、ピク、ピク、ピクピクピク」と、胃けいれんと言えるほどでも

なく、軽くけいれん気味。


以前から、年に何回かは起こる事があり、ほって置いたら治るのですが、今回は、朝にな

っても治らず、何となく心持ち気になり、胃腸科へ行きました。ひょうっとしたら、胃カメラか

な、と思い朝食は抜きで行ってみたら、案の定、「胃を見せてもらいましょうかね。」


さて、20歳代の方は、胃カメラはほとんど飲んだことがないでしょう。30歳代~40歳代で

ボチボチ。50歳代以上になると、飲んだこと無い人の方が多いのでは?


胃カメラというと、集団検診のバリュームを飲むのと違い、何となく恐ろしがる方がおられま

すが、バリューム飲むと、あとのウンチの関係で、私はあまり好む物ではありません。あの

バリューム、イチゴ味とか、リンゴ味とか、みかん味とか、味付けをして貰えれば良いんで

すけど。


今日は、胃カメラが恐ろしく、避けておられる方のために、胃カメラの様子を。


受付へ戻ると、「予約の人が多いので、時間がかかるかも知れません。」、私、「いいよ、君

の美しい顔を見ているから。」


順番が来て、ベットへ横たわると、「これ飲んでください」、紙コップに、半分ほどの甘いジュ

ースみたいなものを。「胃をきれいにするお薬です」、「ウチのカミサンの顔に塗ったら、き

れいにならない?」、またいらない冗談を。年取ると、平気で言えるようになるもんですね。


しばらくして、注射器に針のないようなものを持ってきて、中には黄色い薬が入っていま

す。寝たまま、「はい、あーんして、そのまま口に含んでいてください」。これ、以外と辛いん

ですよね。口の中に入ったものを、そのまま飲み込まないのは。待つこと5分。喉の麻酔薬

です。そのうち、しびれてきます。


「それでは行きます」。口の中の物をだして、真ん中にベットと機械が置いてある検査室

へ、ベットに横になると、「頭がボーッとする注射をしますよ、ちょっとチクッとしますから

ね」、ということで注射を。すぐに頭がボーッと。お医者さんがきて、「はじめますよ、口を開

けて」、再度、口の中に薬を、今度はゴックン、食道あたりから、胃あたりまでしびれるよう

な感じ。麻酔です。


横になって、マウスピースを咥え、先にカメラをつけた管を入れていきますが、大体食道ま

で来たなとか、胃の入り口まで来たなということは感じます。異物感はありますが、痛みは

ありません。


かかりつけのお医者さんなんですが、いつもは、「きれいですね、良いですね」、なんて話を

しながら検査をしますが、この日は、何にも言わないで、難しい顔をしたまま。


不安でした。いつもは、頭がボーッとしているので、病室を移ってしばらくは眠るのですが、

この日はどうにも心配で眠れない。ひょっとしたらガンでは?


そのうち、看護師さんが来て、「はい、起きてください、大丈夫ですか?」。「まだ少しボーッ

としてますね」。起きながら、ふらっとしたふりをして、看護師さんの肩へ手を・・・もう少し、

抱きついても良かったかな。


お医者さんの所へ行って、診断を。なにせ、気が弱い、私。不安でした。「大丈夫ですね。」

この一言、まるで、天使の言葉(顔はまあ・・・)みたいでした。


ということで、無罪放免になりましたが、「特定健診は受けて下さいね。」と言われました。

雲仙市の特定健診の受診率は低い方だそうです。、健診でひっかかって、命が助かった方

もいます。逆に、受けないまま、手遅れになった方もいます。皆さんも、自分の体が大事な

ら必ず受けて下さい。


ポチと可愛い、私のおへそ。霊験あらたかですから、ポチと触って見ては?

 にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ 







« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

フォト
2023年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログランク参加中ポチしてね(^o^)

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ