「鯨の塔」後日談 その2
さて、「鯨の塔」後日談 その2 です。
80年配の男性の方が歩いてこられたので、念のために、聞いてみたら、「諫早水害の時に
流されたのを集めたんじゃないかの。」
すっかり忘れていました。昭和32年7月24日~25日にかけて、1,000㎜もの集中豪雨
が諫早市を襲い、諫早市で多数の死者行方不明者がでます。本明川が氾濫しますが、こ
こは、本明川のすぐ川沿い。
「上からも、地蔵さんとかいろいろ流れてきて、仲沖の公民館の所にも、集めて祀ってある
よ。」、とのことで、すぐ近くの仲沖の公民館に行ってみたら、裏側にありました。一番上の
写真になります。
ちなみに、ここは
諫江八十八カ所の第四十四番札所でした。
ということは、鯨の塔とその横にある碑は、災害の時流されたものを、あそこに集めたもの
か?
と、思っていたらふと疑問が、私がこの「鯨塔」に興味を持ったのが、「諫早史談~田中為
市著」、ですが、これは初版が昭和40年、「その対岸仲沖側の堤防の一角に、一基の碑
が建ててある。」と書いてあり、諫早水害が32年。なら、災害後も流されずに残っていたこ
とになるのですが・・・ということは、はやり何かの時に、ここに移設されたものなのか?
さて、疑問は解けぬまま、某日、諫早の郷土史を研究されている方に、たまたま出会い、
聞いたところ、鯨の塔までは知っておられたものの、今の位置に置かれたいきさつは、分
からないとのこと、ただ、田中為市氏の事も知っておられ、出版は昭和40年であるが、水
害以前の事を思い出して、書かれたのかも知れないとのお話し。また、ここ一帯は、災害
後土地をかさ上げされており、その工事の時、移設された可能性も考えられる、と言う事。
しかし、わたしが言う、漁協解散時の関係も考えられると。なにがなにやらと、いう感じです
が・・・・
結局は、①水害で流され、その後この場所に集められた。②土地、河川工事の時集められ
た。③漁協解散時に集められた。と3つの事が考えられるのですが、近所の人も知らない
となれば、これ以上は、当時の漁業関係者を見つけて、話を聞かなければならないのです
が、そこまでの元気はなく、田中為市氏が書いておられるように、「余り人通りのない堤防
の一隅に寂しく建っている・・・」ではなく、現在は、人通りのあるところに丁重に建てられ、
「よっかったね鯨君」と声をかけ、「鯨塔」を後にしました。
さて、ここ一帯は、前は漁村で、以前の写真を見たことがありますが、今は面影もありませ
ん、
道を歩くと恵比寿さんの像があちらこちら置いてあり、これだけが港町だった面影をとどめ
てめていました。何となく、長崎出身の蛭子能収さん(おなじエビス)的な雰囲気で、いつま
で見ても、飽きませんね。
今回も、昔のことを知る人が少なくなってきていることを肌で感じました。所詮、庶民の歴
史は埋もれてしまっていくのかな?
満開だった桜が、今日の雨で早くも散り始めました。ポチ感傷的になる時期です。
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