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2013年3月 5日 (火)

「鯨の塔」捜索記 ① ~諫早市




Photo

諫早に「鯨塔」というのがあると聞いて、調べると、昭和40年初版、昭和49年復刊の田中

為市氏著の「諫早史談」に、「鯨の塔と諫早津漁民たち」として書いてありました。


諫早市の説明板によると、ここら一体は、「諫早津」とよばれ光江(みつえ)、古中川原(ふ

るなっこら)、新中川原(しんなっこら)、倉屋敷、唐津の5地区の総称だそうです。「津」と付

いていますから、船舶が来着するところです。


昔は、長崎輸入の生糸の荷を運ぶルートの拠点として、この光江が使われたそうで、長崎

から陸路光江まで運び、光江から海路有明海を、それから筑後川を遡り、久留米の住吉に

揚げ、長崎街道に入っていったそうです。今では、新しい家などが建ち、面影は残っていま

せん。


さて、「鯨の塔」は明治18年に建っていますから、そんなに古いものではありません。


「諫早史談」をまとめてみると、当時、漁業で生計を立てている方が多く、あまり漁業がふる

わず、生活が苦しいとき、この漁区に大きな鯨が迷い込んで来て、逃げられないように、追

い込んで仕留めたそうです。


おかげで、近隣に売りさばき、収益を上げたそうですが、その年の正月も楽しく送ることが

でき、これも、鯨様の恩だと言うことで、鯨の霊を慰めるため、「鯨塔」を建てたそうです。


ここにも、庶民の歴史があるなと、一度訪ねることに。本によると、本明川下流に架かる、

光江橋の対岸にあるとかで、この橋はすぐに分かりましたが

Photo_2

光江橋です。改修されているのが一目瞭然。左右の欄干も違っています。

河原も意外ときれいにしてあり、石垣は昔の岸壁でしょう。

Photo_3

本によると「自然石の大きな碑であって・・・」「それから80年を経た今日では塔も古びて、

あまり人通りもない堤防の一隅に寂しく建っているが・・」ということで、すぐに分かるだろう

と思ったら、どこを捜しても無い。一時間ばかり捜したが無い。日が暮れたので、再度、調

べに。


今度は、少し住宅街に入っていって、高齢者の方に、聞くことに・・・

第一の男性、70歳代の方でしたが、聞くと、やはり昔はここらあたりは、ほとんど漁業関係

者が多かったとか。今では、全然面影もありません。


さて、「鯨の塔」の場所を聞くと、「そこを右に曲がって、左に行って・・・・」。なにせ、私、良

家のお坊ちゃまで、世間の右も左も分からない人間。とにかく、「右は箸を持つ手、左は茶

碗を持つ手、私のチンポコ右曲がり。」などと、気楽に行っていたら、完全に迷子。


まあ、川の方に行けばと思い行っていると、今度は第二の男、70歳代くらいの男性。

「鯨の塔は」と聞くと、「ああそれなら、そこの土手に上がって、左に曲がって100m位行っ

たところに・・・」

これで、やっと見られると喜んだら、「昔、あったとばってん、いつの間にか、なくなってしま

っとっとよ。」これには、「ゲッ」。対馬の国宝級の仏像なら盗まれるのは理解できるのです

が・・・

Photo_4

とにかく、ここらあたりだろうと、跡かなにかないか、見に行きましたが、何にもない。

そこへ、現れたのが第三の男、「鯨の塔」はと尋ねると・・・・・


おあとがよろしいようで、続きはまた明日。

(参考:「諫早史談~田中為市著」「諫早市説明版}より)


3月5日は啓蟄(けいちつ)。冬眠をしていた虫が穴から出てくる頃のこと。私の浮気の虫も

ポチと顔を出してきました。

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コメント

「鯨が迷い込んで・・・」のところを興味深く読ませていただきました。

2002年?だったと思いますが、「金シャチ」がシンボルの地元名古屋に、

よりにもよって本物の鯱が海から川へ迷い込んできた事件?を思い出しました。

さすがに「食べちゃう」わけにもいかず、その際には多数の船・人員を繰り出して、

無事に海まで誘導したのですが、水面から出ている背ビレの高さだけでも、

ゆうに人間の背丈ほどありましたから、それはもう迫力あるデカさでした。

その思い出に応援クリックとコメントをさせていただきました。

また、寄らせていただきます。

コメントありがとうございます。

本物のシャチとは豪勢な。さすが名古屋ですね。

数十年前、対馬にいましたが、海岸に鯨を上げていたという跡がありました。護岸工事で
壊されてしまいましたが。

色々調べると、昔は、近海まで鯨がいたようですね。それだけ、多かったのでしょう。
私の小さい頃は、ステーキというと、鯨のステーキのことでしたが・・・・

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