橘中佐銅像後日談 その2~長崎県雲仙市千々石町
橘中佐の銅像の行方については、千々石町郷土誌によれば、「終戦後、占領軍の進駐に
より軍国主義の表徴であるとして撤去の運命に迫られたが、志のある町民の人々はこれ
を隠ぺいし・・・」とありますが、この「隠ぺい」した場所については2説あり、銅像が立ってい
たあたりを上山(じょうやま)といいますが、この林の中に隠したと言う説、もう一説は、白い
布に包んで、海岸に埋めていたという説があり、近所の方、高齢者の方に尋ねても、確た
る返事は得られませんでした。
郷土誌には、「志のある町民」、とは書いてあるものの、あれだけの銅像、運ぶのも大変な
ら、隠した場所も明確にならないなら、多分、強固な、口の固い団体か、組織が関係した
か?
あの当時、そのような関係団体なら、「在郷軍人会」あたりかと、調べて見たのですが、な
にせ、昔のこと、どうにもお手上げ状態。
ところが、郷土史家のS氏と話をしていたら、S氏もそのことを調べたことがあり、砂浜に埋
めたとばかり思っていたところ、やっと関係者を調べ、聞いたところ、やはり、「在郷軍人
会」が絡み、それに、青年団が加わっていたそうです。両方とも、上下関係が厳しく、これな
ら人力的にも問題なく、秘密保持の面でもしっかりしていたのでしょう。
なお、隠したところは、現在の小学校のプール(以前は保育園があったところ、昭和27年
に開設になっています。)あたりだということでした。一番上の写真がプールがあるところで
すが、二宮金次郎の銅像も残っています。多分、今の子どもは誰も知らないでしょうが。
昭和40年頃の第一小学校の航空写真ですが、終戦直後とはあまり変わっていないでし
ょう。黄色の道路は現在の国道。右側が橘神社の方向になります。
現在は、国道方面の校舎が運動場になり、校舎は3番目の校舎の方に移り、鉄筋三階建
てになっています。広い空き地に見えるのは運動場でしょうが、現在は体育館になってい
ます。
赤く囲んだ所が、プールあたりになり、多分、ここらあたりに隠されていたのでしょう。
なお、この後、昭和22年に橘中佐の生家に隠され、昭和29年に現在の橘神社の入り口
に移設されました。
ということで、橘中佐銅像のいきさつが分かりました。残念ながら、隠された日付は分かり
ませんでした。
余談ですが、橘神社駐車場に
手すりの向こう側に、コンクリートで作った、柱があります。昔は、これに鎖が付いていたの
ですが、何に見えますか?私のチンコはこんなに立派ではありません。
橘中佐が軍人だったということもあり、大砲の弾丸を模して作ったそうです。数十年前、こ
の事を聞いたことがあり、この事はどこにも書いてありませんが、多分本当の事でしょう。
この話も、段々知る人も無くなり、風化して無くなる事でしょう。私たちの回りから、どんどん
忘れらてしまう話が増えてきました。淋しい限りです。 (この項おしまい)
(参考:写真~「千々石町郷土誌」「千々石町懐しい故郷写真集~千々石町老人クラブ」)
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