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2013年3月10日 (日)

橘中佐銅像後日談 その2~長崎県雲仙市千々石町

Photo_2

橘中佐の銅像の行方については、千々石町郷土誌によれば、「終戦後、占領軍の進駐に

より軍国主義の表徴であるとして撤去の運命に迫られたが、志のある町民の人々はこれ

を隠ぺいし・・・」とありますが、この「隠ぺい」した場所については2説あり、銅像が立ってい

たあたりを上山(じょうやま)といいますが、この林の中に隠したと言う説、もう一説は、白い

布に包んで、海岸に埋めていたという説があり、近所の方、高齢者の方に尋ねても、確た

る返事は得られませんでした。


郷土誌には、「志のある町民」、とは書いてあるものの、あれだけの銅像、運ぶのも大変な

ら、隠した場所も明確にならないなら、多分、強固な、口の固い団体か、組織が関係した

か?


あの当時、そのような関係団体なら、「在郷軍人会」あたりかと、調べて見たのですが、な

にせ、昔のこと、どうにもお手上げ状態。


ところが、郷土史家のS氏と話をしていたら、S氏もそのことを調べたことがあり、砂浜に埋

めたとばかり思っていたところ、やっと関係者を調べ、聞いたところ、やはり、「在郷軍人

会」が絡み、それに、青年団が加わっていたそうです。両方とも、上下関係が厳しく、これな

ら人力的にも問題なく、秘密保持の面でもしっかりしていたのでしょう。


なお、隠したところは、現在の小学校のプール(以前は保育園があったところ、昭和27年

に開設になっています。)あたりだということでした。一番上の写真がプールがあるところで

すが、二宮金次郎の銅像も残っています。多分、今の子どもは誰も知らないでしょうが。

Photo_3

昭和40年頃の第一小学校の航空写真ですが、終戦直後とはあまり変わっていないでし

ょう。黄色の道路は現在の国道。右側が橘神社の方向になります。


現在は、国道方面の校舎が運動場になり、校舎は3番目の校舎の方に移り、鉄筋三階建

てになっています。広い空き地に見えるのは運動場でしょうが、現在は体育館になってい

ます。


赤く囲んだ所が、プールあたりになり、多分、ここらあたりに隠されていたのでしょう。

なお、この後、昭和22年に橘中佐の生家に隠され、昭和29年に現在の橘神社の入り口

に移設されました。


ということで、橘中佐銅像のいきさつが分かりました。残念ながら、隠された日付は分かり

ませんでした。


余談ですが、橘神社駐車場に

Photo_4

手すりの向こう側に、コンクリートで作った、柱があります。昔は、これに鎖が付いていたの

ですが、何に見えますか?私のチンコはこんなに立派ではありません。


橘中佐が軍人だったということもあり、大砲の弾丸を模して作ったそうです。数十年前、こ

の事を聞いたことがあり、この事はどこにも書いてありませんが、多分本当の事でしょう。


この話も、段々知る人も無くなり、風化して無くなる事でしょう。私たちの回りから、どんどん

忘れらてしまう話が増えてきました。淋しい限りです。   (この項おしまい)

(参考:写真~「千々石町郷土誌」「千々石町懐しい故郷写真集~千々石町老人クラブ」)



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