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2013年3月 6日 (水)

「鯨の塔」捜索記 ② ~諫早市

P3020059

昨日の続きですが、「鯨の塔」の跡でもないかと、見つけていると、第三の男が登場。


「鯨の塔というのはここら辺に・・・・」と尋ねると、そこの道を左に行って、最初の角を右に

曲がるとあるよとの事。


「左に行って、右ですね。」「左に行って、右ですね。」「左に行って、右ですね。」、今度は間

違わないように、3回ばかり確認をして、ついでに、「鯨の塔というのは、ここらに建ってい

たのでは無いですか?」、と聞くと、「さあ?」。多分、新しい家がたくさん建っているので、

新しい住民の方か、このようなことには、まったく興味の無い方なのでしょう。


とにかく、今度は、「左行って、右」、「左に行って、右」と間違わないように」呪文のように何

回も唱えていくと。白い説明版が目に付きましたが、記念碑などは見当たらず・・・・


行ってみると、なんと「野呂邦暢 終焉の地」。諫早が生んだ芥川賞作家です。

P3020055 P3020053

かなり広い敷地でしたが、もちろん家はなく、雑草が生えていました。ここに、住んでいたこ

とは、もちろん知らず、思わぬ出会いで、ビックリしました。説明版はクリックすると、読める

程度には、拡大します(老眼にはきついかな?)。


さて、この道をまっすぐ行くと、今度は間違いないでしょう。

P3020070_2

多分これでしょう。寄って見ると、最初の写真になりますが、一番右の石碑。真ん中、上の

方に「鯨塔」の文字。右下に「明治十八年一月吉日」、左に見にくいですが、「諫早津漁民

中敬立」。


これを、見るにつけても、諫早津の漁民の方が、「敬立」、「敬(うやまって)立(たてる)」で

すから、生活に困窮していた漁民の方の救世主になった鯨に対する気持ちが、心に沁み

るような感じでした。


右から2番目の石碑

P3020061

「龍宮」の文字。島原方面では、小浜町富津弁天公園の岬の先端に「ジュウゴサマ様」とし

て、自然石が置かれています。漁民の方が、釣りに出て釣り糸を入れるとき、「ジュウゴ様」

と言って縁起を担いだといいます。見たところ、普通の石なのですが、どうして神様として祀

られているのか、いつも、日本人の信仰の不思議さを感じさせられます。


雲仙市の吾妻町史も「じゅうごさん」の事が書いてありますが、「じゅごさん」は「竜王」が

訛ったものではないかとの記述があり、漁民部落の船津を中心に、阿母崎(あぼさき)、大

熊、船津集落の海岸に建っているそうです。いずれにしても「龍宮」、「竜王」、海に関する

神様でしょう。なお、この「龍宮」の碑の横には、「諫早漁業協同組合」の文字が彫ってあり

ます。


左から3番目の碑。表の文字はすり切れて分かりませんが、横に「諫早漁協組合」と書い

てあります。


その横の、立派な御影石には、「諫早漁業組合之碑 長崎県知事 高田勇 揮毫」と立派

な碑が立っていますが、多分諫早干拓のため、漁業が出来なくなり、また、県漁業組合の

組織の改編もしていたみたいなので、その関係で諫早の漁協組合が解散した記念碑なの

かな?


一番左には、恵比寿様の石仏が二つ

P3020063

考えるに、「野呂邦暢氏」の説明版に、「対面(注:野呂氏宅)には漁協協同組合があった」

と書かれていますから、解散記念か、ここらは随分開発が進んで、河川工事もやっている

みたいですから、そのときに、漁業に関する物を、全部集めて祀ったのでしょう。この並び

方を見ると、お分かりになるのではないでしょうか・・・


さて、「諫早史談」には、「余り人通りもない堤防の一隅に寂しく建っている」、と書いてあり

ます。今のところに移転して人目に触れることは良いことだと思うのですが、説明版は欲

しいですね。あと、数十年すると、いわれも分からないし、最初からここに建ててあったと

誤解を招くでしょうから。

(参考:「諫早史談~田中為市著」「吾妻町史」「おばま~史跡巡りガイド)


本当に捜すのに、ポチと疲れました。行かれる方があったら、光江橋あたりで、聞くのが

無難です。私の好きな、若い女の子でなく、高齢者の方にポチと尋ねて下さい。

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コメント

こんにちは。

仰る通り、石碑などが立てられている「場所」は、その由緒を考える上ではとても大切なものですから、移さざるを得なくなった時には何とかその経緯を記録して欲しいところですね。なかなか満足のいく形で記録が残っているものが少ないのが実情ですが…。

コメントありがとうございます

ブログ拝見しましたが、大変そうですね。こちらの長崎街道は、新しい道が出来ているため、使われなくなり、林の中に埋もれたりしている状態の所が随処に出てきています。

史跡も、国、県、市の指定が無いと、やりっ放しの状態です。かなり、高齢者の方に尋ねても、分からないところがかなりあります。
各町の史談会の方が、頑張っているところなので、期待しているのですが・・・
諫早市の史談会は、独自で標注などを建てて、かなりの活動をしています。

グーグルマップで探し当てました。長崎県諫早市旭町7−25付近ですね。
移転の時期は2007年と比較的最近のようです。西日本新聞の記事がありました。
文化系の分野連携(文学と民俗学?)が課題のように見えるけど、、、

>>芥川賞作家・野呂邦暢氏 「終焉の地」に案内板 顕彰委「足跡たどる目印に」
>>
>> 芥川賞作家野呂邦暢氏(1937‐80)の執筆活動の拠点だった諫早市旭町(旧仲沖町)の
>>武家屋敷跡に、野呂文学の足跡を記す案内板が完成した=写真。野呂邦暢顕彰委員会の
>>山下博之委員長は「野呂氏の足跡をたどる見学者も増えていただけに、目印の案内板が地元に
>>設置できて本当にほっとしている」と話している。 長崎市生まれの野呂氏は、戦時中の疎開を
>>きっかけに諫早市に移住。この屋敷跡には、1971年から亡くなるまで住み続けた。
>> 市芸術文化連盟と顕彰委員会が屋敷玄関の笹垣そばに8月末に設置した案内板は高さ約1.7
>>メートルのアルミ製。「野呂邦暢 終焉(しゅうえん)の地」と書かれた案内板には、名作の
>>歴史小説「諫早菖蒲(しょうぶ)日記」がこの地で誕生したことなどが記されている。
>> 敷地内の屋敷は取り壊されているが、笹垣や石造りの玄関は当時のまま。野呂氏をしのぶ
>>文化関係者や近隣住民ら約30人が今月1日朝、当時の姿を少しでも取り戻そうと玄関前の
>>石畳に積もった土を払い、敷地内の雑草を取り除くなど屋敷周辺の清掃に汗を流した。
>>=2007/09/03付 西日本新聞朝刊=

いつもコメントありがとうございます。

移転の時期については、ちょっと調べなければ分からないところがあり(調べてもわからないかな?)、要するに諫早漁協解散の時期と関係があるのですが、資料を捜しても、一部しか分からない状況です。

分かったら、この欄か、ブログにて・・・・

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