「安德天」と「二位尼(にいあま)」の碑 ② ~諫早市夫婦木
昨日は、長崎のランタンフェスティバルの開会式。子どもを長崎に送っていったら、人が多
く帰るのが遅くなって、お休みしました。
さて、「安德天」の続きです。先日、安德天皇のお祖母さんの「二位尼」の碑の事を書きま
したが、その碑より先に進む事200m程度。
「旧嶋原街道 安德天碑」の石碑があり(この碑も、諫早史談会の方が建てられたもので
す)、この階段を上がったところにすぐに広場があり、真ん中に「安德天」の碑がありまし
た。
広場は綺麗に掃き清められ、碑にも新しい花が飾られていました。この土地の方が、丁重
に祀っている事が分かります。また、この碑の所までしか、舗装がして無いところをみる
と、わざわざ、ここまで来るためのものだと思われます。
さて、仁徳天皇の伝承については、各地に残っているところですが、「諫早を歩く~山口八
郎著」には、次のように書かれています。一部要約しながら書いてみると、
壇ノ浦で二位尼と共に入水した安德天皇ですが、その実、こっそり生き延び、ここまで来た
が、ここで源氏の手にかかって生涯を閉じられたという伝説が残っていおり、そういう安德
天皇のお墓は全国にいくつもある。「恐らくは似た年頃の平家の子どもたちを影武者とし
て、安德天皇だと匂わせて八方に散らせ源氏の追っ手を引きつけ、ご本人はこっそりと安
全に落ちのびるという、策を練ったものと思われます。たといご本人でなくとも、可哀想な
平家の子どもが犠牲になったものと思えば安德天皇として、お祭りすることこそ、最も
ご本人の気持ちをくんだ慰霊の道だと思います。夫婦木の皆さんが、八百年来お祭りを
続けて来られたのも、素晴らしい事だと思います。」
碑が立っている、この広場に立つと、つくづくと同じ気持ちにさせられました。
さて、諫早市史によると、女夫木の安德天皇の伝承では、安德天皇は、壇ノ浦から豊前、
肥後の五箇米良、筑後潟から島原に上陸、島原安德で足を休め、雲仙を越え、串山村京
泊(現在の雲仙市南串山町京泊)から海路有喜、鶴田越から乙女木まで来られたが、源
氏の知るところとなり、討ち取られたということでした(地図の場所は大体の所です)。
里人は深く崩御を痛み、ご遺骨を治め手厚く祀ったと言う事です。
さて、ここの碑には「安德天皇」ではなく、「安德天」と彫れています。本来、無銘の自然石
の小碑が立っていたのを、お粗末だと言う事で、立て直したものだそうです。
「安德天皇」と彫ると畏れ多いということで、「天」で止めたと言う事です。「大黑天」とか、
「弁財天」とかありますから。
正面に「安德天」、横に「女夫木」と彫られています。
なお、市史によると、「諫早は平氏との交渉が深かったと思われる。」と書かれてありま
す。
影武者だったのか、本当の安德天皇だったのか、あるいは、安德天皇の崩御を知った、
平家方の者が、霊を慰めるために立てたものか分かりませんが、今も夫婦木の方々から
篤く祀られて様子が見てとられました。
(参考・引用:「諫早を歩く~山口八郎著」「諫早市史」)
近ごろ疲れ気味で、試しに、「コエンザイムQ10」というのを飲んでみました。ポチ、効いた
ようです(まだ一粒しか飲んでないので気のせい?)。赤マムシの方が良かったかも。で
も、あれ、あちらの方にも効きますから。お相手がいれば良いのですがね・・・・ポチ
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