五穀岳~長崎県諫早市森山町
またもや、ローカルな話です。五穀岳といっても、地元の方も、登った方はあまりいないと
思います。
森山町には、蓮華石岳とか、獅子喰岳とか面白い名前の低山があり、登ろうかと思ってい
たのですが、「イノシシの餌になるよ。」とか、石切場になっていたりで、断念していたので
すが、地図を見ると、「五穀岳」。ここは、何となくいけるような気がして、
まあ、車で行けるところまで行って、後は歩いてみようと思ったら、途中、「五穀公園」の案
内板が二カ所ばかりありましたが、なんと、道は狭いものの、頂上のすぐ下まで道が通って
いて、拍子抜け。平成9年に、参道と公園が作られたもののようです。
駐車場から、少し階段を上がると、山頂には一番上の写真ように、石仏が祀ってありまし
た。なお、展望台まで作ってあり、残念ながら、この日は、少し霞んでいましたが、諫早干
拓から、有明海、雲仙岳まで、展望の良い事。特に、干拓は一望のもとです。
さて、「五穀岳」と言うからには、「五穀豊穣」を祈ったものでしょう。「森山町郷土誌」を調べ
てみると、森山町田尻名(田尻、釜)で、毎年4月13日を、「五穀さん祭り」として、各家で餅
をついて、お供えをし、肴を持ち寄って、お祭りをしていたそうです。
現在では、自治会長、班長さんなど代表者が寄って、お参りをし、各地区でお祭りをするよ
うになったそうですが、少し淋しいですね。
さて、「五穀豊穣」を祈るためでしょうが、それぞれに石仏が彫ってあります。
残念ながら、女を見る目はあるのですが(見れなかったのカミサンだけ)、神仏の種類につ
いては見る目が無く、一つ一つ分かるなら、それなりに面白いのでしょうが・・・・
それぞれに、寄進者の氏名と年号が、左右に彫ってありましたが、年号は天保13年
(1842)、文化10年(1813)、天保13年(1842)、安政6年(1859)、安政4年(1857)
になっていました。
年表によると、この頃の干拓事業としては、中仕切干拓、文化15年(1819)。井牟田下名
他籠干拓、文政12年(1829)。森山地先180町干拓、天保11年(1840)。山東大開井
牟田下名大開干拓、安政元年(1854)となっており、この頃、盛んに干拓がおこなわれた
みたいで、石仏建立の時代にも近く、何かの関係があるのでしょうか?
森山町といえば、干拓の歴史ですが、その時代から、五穀豊穣を願い、何百年と、五穀岳
の神仏を守ってきた地域の方の心に感動するものです。諫早湾干拓の問題も早く解決して
くれると良いのですが・・・近隣町に住む者としての気持ちです。
島原、諫早方面の方には、「安・近・短」の、気持ちの良いところですから、お弁当でも持っ
てどうぞ。 (参考:「森山町郷土誌」)
明日はカミサンの白内障の手術。付き添いがあるので、今宵もポチと早めに、お休みなさ
い。
« 慶師野の六地蔵と馬頭観音~諫早市森山町 | トップページ | Aura vitaさんとAura vividさん »
コメント