江東寺②松倉重政と板倉重昌の墓~長崎県島原市
(Googleマップより)
昨日は、涅槃像を紹介しましたが、この左側に松倉重政と板倉重昌の墓があります。
長崎県以外の方には、分かりにくいので少し、くどい説明を。
島原半島は、有馬氏の領地で、赤の四角がその居城「日野江城」ですが、もう一つ、黄色
の四角が日野江城の支城の「原城」。この間に、一里近くの橋が架けられたという話も残っ
ていて、「からはし」の名前が残っているそうです。緑の四角が「島原城」があるところ。
有馬氏はキリシタン大名有馬晴信の時代に、岡大八事件(各自調べてね)に巻き込まれ、
甲斐国鹿野に追放、慶長17年、死を賜ります。このとき、切腹は自殺になるので、キリシタ
ンの自分は切腹できないという事で、首をはねさせたとの話がありますが、確たる資料は
残っていないとの話です。
それから、多少、話はありますが、長くなるので、省略。
その後、元和二年(三年説も有り)、大和五条城主松倉豊後守重政が、ここの領主になっ
たのですが、最初は日野江城に入りますが、その後島原の「浜の城」、(現在の霊丘公民
館近くの公園の一角に、記念碑があります。もちろん城を偲ばせるものは何もありませ
ん。寛政四年の大地震で眉山が崩れ、ここら一帯は埋もれてしまったといいます。)に入城
します。
元和四年、島原城(昔は森岳城と呼ばれていました。)に着手。その築城の時、日野江城、
原城の石垣を運んで作ったという話です。
新しく城を作った理由として、林銑吉氏の「島原半島史」によると、 ㈠ 徳川幕府が一国城
の制をしいたこと。 ㈡ 日野江城を中心として有馬地方はキリシタンの巣窟であったこ
と。 ㈢ 治城、交通の利便性 ㈣ 呂宋(ルソン)を攻略する遠望があった事。(これにつ
いては話が長引くので今日は省略) ㈤ 松倉重政は築城に造詣が深く、理想の城を築
造したかった、との理由が考えられるそうです。
この頃、キリシタン禁教令がありましたが、重政は最初は寛大であったそうですが、寛永二
年、参勤の折、将軍家光から、この事に対し叱責され、それから弾圧が厳しくなったそう
で、水責め、火あぶり、烙印、指切り、穴つるし、硫黄攻め、針刺し責め、木馬責め、竹鋸
引き、子責め、温泉地獄責め、斬首、磔等、残忍を極めたそうです。
寛永七年、重政は小浜で死去しますが(これにも、暗殺等の話があって、これも今日は省
略。)重政は「勇武豪宕の資であって良く家臣士卒を撫育したので、綱紀緩まず、領民には
峻厳の中にも呻吟しながらも、乗ずべき間隙がなかった。」といいます。
その子、勝家が家督を継ぎますが、性愚鈍であったそうで、民に厳しく、原城の乱を起こす
原因となります。(どこかの本に、日本で二番目のバカ殿様と書いてありました。真実は知
りません。)
さて、江東寺ですが、北有村田平に開山。重政が島原に築城するに伴い、島原城下今村
に移転し、松倉城主の菩提寺になったそうです。
寛政四年雲仙岳の噴火、眉山の崩壊で寺も埋没したそうですが、25年をかけ浄財を集め
再建したそうです。
重政の墓ですが、寛政の大震災によって流失したものを、当寺の実言和尚が文政11年に
再建したものですが、右側に半分欠けた墓石が最初の墓で、災害復旧工事中に掘り出さ
れたものだそうです。(写真撮るの忘れました。すみません。)
この墓の左に板倉重昌の墓があります。板倉重昌は、原城の乱の時、最初の総大将とし
て、討ち死にをしています。板倉重昌の派遣に関しては、大久保彦左とか、柳生但馬守宗
矩がからんでくる話もあるので、またいつか。
寛永15年に寺の中に立てられたそうですが、これも、寛政の震災で埋もれて行方不明
に。
島原藩にいた三河の板倉家の血縁、家老の板倉勝彪(かつたけ)に再建を依頼し、文化
14年に正面の墓を立てたそうですが、古町の別当中村家で、井戸を掘っていたところ、地
中から、流失した墓が発見されたそうです。向かって右側の少し小さめの墓です。
知っていて見るのと、知らないで見るのとは、はやり違いますね。これだけ知っていると、
見るときに興味が湧いてくるでしょう。もっとも、ほとんど説明版に書いてある事なのですが
ね 。
「松倉重政(しげまさ)」、「板倉重昌(しげまさ)」。名前も何となく似ているし、「島原の乱」
「寛政の大震災」両方とも関係があるし、その墓が並んでいるとことは興味深いですね。
(江東寺編 おしまい)
(参考・文引用:「島原半島史~林銑吉著」 各説明版より)
今日は暖かく、お散歩していたら、梅の花がポチと咲いていました。
もうすぐ春~ですね。ポチッと気取ってみませんか。
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