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2013年2月 2日 (土)

江東寺②松倉重政と板倉重昌の墓~長崎県島原市

Photo

               (Googleマップより)

昨日は、涅槃像を紹介しましたが、この左側に松倉重政と板倉重昌の墓があります。

長崎県以外の方には、分かりにくいので少し、くどい説明を。


島原半島は、有馬氏の領地で、赤の四角がその居城「日野江城」ですが、もう一つ、黄色

の四角が日野江城の支城の「原城」。この間に、一里近くの橋が架けられたという話も残っ

ていて、「からはし」の名前が残っているそうです。緑の四角が「島原城」があるところ。


有馬氏はキリシタン大名有馬晴信の時代に、岡大八事件(各自調べてね)に巻き込まれ、

甲斐国鹿野に追放、慶長17年、死を賜ります。このとき、切腹は自殺になるので、キリシタ

ンの自分は切腹できないという事で、首をはねさせたとの話がありますが、確たる資料は

残っていないとの話です。


それから、多少、話はありますが、長くなるので、省略。


その後、元和二年(三年説も有り)、大和五条城主松倉豊後守重政が、ここの領主になっ

たのですが、最初は日野江城に入りますが、その後島原の「浜の城」、(現在の霊丘公民

館近くの公園の一角に、記念碑があります。もちろん城を偲ばせるものは何もありませ

ん。寛政四年の大地震で眉山が崩れ、ここら一帯は埋もれてしまったといいます。)に入城

します。


元和四年、島原城(昔は森岳城と呼ばれていました。)に着手。その築城の時、日野江城、

原城の石垣を運んで作ったという話です。


新しく城を作った理由として、林銑吉氏の「島原半島史」によると、 ㈠ 徳川幕府が一国城

の制をしいたこと。 ㈡ 日野江城を中心として有馬地方はキリシタンの巣窟であったこ

と。 ㈢ 治城、交通の利便性  ㈣ 呂宋(ルソン)を攻略する遠望があった事。(これにつ

いては話が長引くので今日は省略)  ㈤ 松倉重政は築城に造詣が深く、理想の城を築

造したかった、との理由が考えられるそうです。


この頃、キリシタン禁教令がありましたが、重政は最初は寛大であったそうですが、寛永二

年、参勤の折、将軍家光から、この事に対し叱責され、それから弾圧が厳しくなったそう

で、水責め、火あぶり、烙印、指切り、穴つるし、硫黄攻め、針刺し責め、木馬責め、竹鋸

引き、子責め、温泉地獄責め、斬首、磔等、残忍を極めたそうです。


寛永七年、重政は小浜で死去しますが(これにも、暗殺等の話があって、これも今日は省

略。)重政は「勇武豪宕の資であって良く家臣士卒を撫育したので、綱紀緩まず、領民には

峻厳の中にも呻吟しながらも、乗ずべき間隙がなかった。」といいます。


その子、勝家が家督を継ぎますが、性愚鈍であったそうで、民に厳しく、原城の乱を起こす

原因となります。(どこかの本に、日本で二番目のバカ殿様と書いてありました。真実は知

りません。)


さて、江東寺ですが、北有村田平に開山。重政が島原に築城するに伴い、島原城下今村

に移転し、松倉城主の菩提寺になったそうです。


寛政四年雲仙岳の噴火、眉山の崩壊で寺も埋没したそうですが、25年をかけ浄財を集め

再建したそうです。

P2010245

重政の墓ですが、寛政の大震災によって流失したものを、当寺の実言和尚が文政11年に

再建したものですが、右側に半分欠けた墓石が最初の墓で、災害復旧工事中に掘り出さ

れたものだそうです。(写真撮るの忘れました。すみません。)


この墓の左に板倉重昌の墓があります。板倉重昌は、原城の乱の時、最初の総大将とし

て、討ち死にをしています。板倉重昌の派遣に関しては、大久保彦左とか、柳生但馬守宗

矩がからんでくる話もあるので、またいつか。

P2010252

寛永15年に寺の中に立てられたそうですが、これも、寛政の震災で埋もれて行方不明

に。


島原藩にいた三河の板倉家の血縁、家老の板倉勝彪(かつたけ)に再建を依頼し、文化

14年に正面の墓を立てたそうですが、古町の別当中村家で、井戸を掘っていたところ、地

中から、流失した墓が発見されたそうです。向かって右側の少し小さめの墓です。


知っていて見るのと、知らないで見るのとは、はやり違いますね。これだけ知っていると、

見るときに興味が湧いてくるでしょう。もっとも、ほとんど説明版に書いてある事なのですが

ね  。


「松倉重政(しげまさ)」、「板倉重昌(しげまさ)」。名前も何となく似ているし、「島原の乱」

「寛政の大震災」両方とも関係があるし、その墓が並んでいるとことは興味深いですね。

                                      (江東寺編 おしまい)


(参考・文引用:「島原半島史~林銑吉著」 各説明版より)


今日は暖かく、お散歩していたら、梅の花がポチと咲いていました。

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