金鍔次兵衛(トマス・デ・サン・アウグスチノ)神父~神出鬼没の男
先日、島原の殉教者記念館へ行ったとき、何冊か本が置いてあったので、買ってきた本の
一冊です。「ガリラヤ」はもちろん、イエスが宣教を始めた場所です。
この本、「フランシスコ・ザビエル」「天正遺欧少年使節」「日本二十六聖人殉教者」等々の
物語が書いてありますが、この中で、「金鍔次兵衛」のことが書いてあります。この「金鍔次
兵衛」については、坂口安吾が、よほど興味があったのでしょう、「島原の乱雑記」、「安吾
の新本地理 06 チャンポンー九州の巻ー」で、二度にわたって触れています。
この本と、安吾の文章では若干の違いがありますが・・・
さて、この金鍔次衛門、詳しくは省きますが、小さいときから信仰心が強く、禁教令が出さ
れるに及び、マカオへ行ったり、長崎へ戻ったり、再びマニラへ渡り、聖アウグスチノ会(他
にも、イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会などがあります。)に入り、トウマス・デ・サン・
アウグスチノという修道名が与えら、25歳の時、司祭に叙せられます。
もちろん、このとき日本は禁教令が出ていたのですが、日本に潜り込み、なんと当時、キリ
シタンを取りしまる、長崎奉行、竹中采女の馬廻りに入り込み、当時、捕らえられていた、
アウグスチノ会の布教責任者、グチエレスと通信を取ったりしたそうです。昼は役人、夜は
神父です。
グチエレス刑死の後、布教に努めますが、露見をし、ここ、この本と、安吾は若干違います
が、この本によれば、15歳から60歳までの男子、4~5千人が集められ、三十五日にわ
たって山狩りがおこなわれたそうです。
安吾によれば、もっと詳しく
「九州諸藩の軍勢数万人が出動したのである。・・・大村藩所蔵の『見聞集』によれば、家
老大村彦右衛門を大将に少数の城内留守番を残して、士分は言うまでもなく、足軽から土
民に至まで、15歳から60歳に至る全人口を集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原
の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけ山関を張り、一歩一人の列を
守って山狩りをはじめたのである。山狩りの味方同士が同士討ちの危険があるので、・・・
(佐賀藩、平戸藩、島原藩それぞれ目印をつけたそうですが、長いので省略)・・・・三十五
日かかって山の端から端に及び浦上から海へ突き抜けてしまったけれど、次兵衛を捕らえ
る事ができなかった。」そうです。
さて、次兵衛はどうしていたかというと、江戸へ逃れ。今度は大奥へ忍びこんで、将軍家光
の小姓に伝道し、洗礼を授けたそうですが、それを知った家光は、小姓を殺してしまったそ
うです。
その後、長崎に舞い戻り活躍しますが、捕らえられ、拷問を受け、処刑されたそうです。35
歳のときだったそうです。長崎市戸町に金鍔谷という所があり、そこの洞窟で捕らえられた
そうです。
波乱に富んだ人生みたいですが、彼もまたキリスト教布教のために殉じた一人だったので
す。
さて、坂口安吾は、「チャンポン屋で渋い酒を呑みながら、金鍔次兵衛ともあろう豪のもの
が、原城にも入城しないで(注:金鍔次兵衛は原城の乱前に処刑されています。)あんな穴
ぼこの中で捕まるとは、返す返すも残念至極だと、酩酊に及んでしまったのである。」
(参考・文引用:坂口安吾「島原の乱雑記」「安吾の新日本地理 06 チャンポンー九州の
巻」 「ガラリヤへ」~まるちれす研究会 ドン・ボスコ社 より)
大奥へ忍び込むとは、ポチと羨ましい・・・・
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