嶋原街道の一里塚②★唐比一里塚・木秀一里塚~長崎県諫早市
昨日についで、もう一つの一里塚「木秀一里塚」です。先日書いた、木秀古墳の付近にな
ります。県道124号線をいくと、道の端に、小さな看板で嶋原街道と書いてあります。
県道から外れ、しばらく登ると嶋原街道に出ますが、街道に出たところに、看板があり、「木
秀一里塚 400メートル 唐比一里塚4㎞」と書いてあります。
道は、唐比一里塚より良く、私の、ベンツの軽トラックでも十分通れるくらい()。というよ
り、車の轍があり、植林がしてあったので、いまでも使っているのでしょう。
とりあえず、右の方の「木秀一里塚」へ。
上の写真の所ですが、こちらも看板はちゃんと設置されていました。「塚は街道の両側にあ
る」と書いてあったので、道下を見ると。こちらにも、ちゃんと標識が。
さて、すこし先まで行ってみると、残念ながら、林の中に入ってしまい、分からない事はない
ようでしたが、回れ右。
元のところに戻って、唐比一里塚の方向へ、「唐比一里塚まで、4㎞」と書いてありますか
ら、一里は大ざっぱに4㎞。唐比の一里塚の次が、この木秀の一里塚だったことが分かり
ます。
しばらくいくと。こんな所にでましたが、分かれ道の所に、標識が。まっすぐ行くと、昨日の
唐比一里塚方面、手前が木秀一里塚への道。諫早方面に出ます。唐比一里塚から来て、
標識の左の方向に行くと、有喜から江の浦方面、長崎への最短の道です。
真ん中の看板、嶋原街道の文字の下には「長崎への分岐点『蓮堂の辻』」とありましたが、
「島原藩主 長崎監視の道」には「横山頭追分」とありました。「追分」ですから、街道、道が
分かれる所です。
勝海舟、坂本龍馬一行は、唐比一里塚方面からここへ出て、左へ曲がって長崎へ向かっ
たのでしょう。一番右の標識にも「龍馬が歩いた道」と書いてありました。「歩いた」のでは
なく、急ぎ旅で、「駆け抜けた道」が正確ではないのかな?
今日は1月22日、年末まであと343日、ポチと急ぎましょう。
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コメント
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こんにちは。
今はもう傍らの立て札が無ければそれとはわからない状態ですが、当時はもっと目立つ状態だったのでしょうね。東海道の一里塚などだと塚の上に榎などが植えてあったと記録されていますが、九州だとどういう樹種が多かったのでしょうか。
投稿: kanageohis1964 | 2013年1月23日 (水) 21時26分
コメントありがとうございます。
今は、車社会で、この街道と平行に車道が走っていますから、使われる事はないと思います。文化財などで、保護すべきなんでしょうが・・・・行政という所は、こんな場所に興味は持っていませんから、忘れられてしまうばかりでしょう。
塚の上、確かに木はありましたが、その頃植えられた木なのか、新しく生えた木なのかは、分かりませんでした。
投稿: sugikan | 2013年1月23日 (水) 22時55分
追伸
標識の裏には、森山町教育委員会と森山町史談会の名前が書いてありましたが、随分前に立てたもののようです。
投稿: sugikan | 2013年1月23日 (水) 22時58分
H.27.9.13(日)に行ってきました。行く前に、この記事を読んでいればよかったです。
投稿: onnanomiyako | 2015年9月15日 (火) 00時55分