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2012年2月12日 - 2012年2月18日

2012年2月18日 (土)

ランチタイム&ティータイム~風の森(諫早市森山町唐比)

1

昨日、気づいてみると200回目の記事でした。どこまで続くかと思っていたのですが、途

中、目を悪くした2週間くらいを除いて、よく、なにやらかにやら、駄文ばかり毎日書いてい

るなと反省。



記念ではないのですが、昨日はかみさんが留守で、飯作るのも面倒だし、弁当を食うのも

少しあきたし、外飯することに。

よく、長崎のタウン誌に「風の森」というのが紹介され、食堂もあるとか。一回、夕方遅くい

ったのですが、よくわからず、今日は昼に行ってみました。わが家から15分程度の所で

す。ちょっと入り道が分かりにくいのですが・・・


森の自然の中に、雑貨店とか、アトリエとか、あまり大きな店ではありませんが点々と建っ

ていました。飯を食うところが2カ所「COZY」と、フランス食堂「みち草」。コインの裏表で決

めたら「COZY」の方。駐車場が少し分かりにくかったのですが。

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木立の中に囲まれたという感じ。他の店もこんな感じで建っていました。

中へ入ると。ユニークさに少しびっくり縦に長細い感じ。

3

プレートランチ、サンドイッチ、ケーキなどありましたが、面白そうだったので「まぜまぜご

飯プレート」を注文。コロッケかハンバークどちらかをチョイス。コロッケにしました。

4

豆とかゴマとか混ぜたご飯、野菜の煮物、ナスのチーズ乗せ、野菜サラダ、そしてメイン

のコロッケ。ここらあたりはジャガイモの産地だけあってコロッケはおいしかった。

いつもは食後のコーヒーなどあまり頼まないのですが、メニューに「紅茶~LUPICIAの茶

葉使用。cozyオリジナルブレンド」なる文字を見るにつけなんぞやと思って注文。

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さて、少しゆっくり考え事をしようと思っていたら、お客さんが少しずつ増え続け、しかもア

ベックばっかり、女の子は可愛いのばかり、思わず「ヤケのヤンパチ石投げた」という歌を

思い出しました。知らない?高石友也の「受験生ブルース」の3番「昼は悲しや公園へ、行

けばアベックばっかりで、恋いしちゃならない受験生、ヤケのヤンパチ石投げた。」という

やつです。しかし、平日の昼というのに、この若者たち何やってるんですかね。

私にもいませんかね、食事してお話をするだけでも良いのですが、年の頃30~40歳、も

ちろん美人で、知的で話題豊富、若干ほっそりとして、笑うと片えくぼ、少し八重歯が見

えたりして、二重まぶたで、笑い顔が素敵な恋人。



自分の顔と体型と歳を考えろと言う声が聞こえそうですが、「The Impossible Dream」と言う

歌があるでしょう。「見果てぬ夢」。ブロードウェイのミュージカル「ラ・マンチャの男」の中の

歌です。今年はがんばりますよ「見果てぬ夢」。

回りがアベックばっかりになって、おじさんは私一人、少し侘びしくなって店を後にしまし

た。

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外へ出ると雲仙、橘湾、唐比と見えてなかなか良い景色。

写真で見える唐比(盆地みたいになっている所です。)、なかなか面白いところなので来週

あたり、気が向いたらご紹介を。

2012年2月17日 (金)

ヘレン・ケラーと長崎そして雲仙②~雲仙編

1

ヘレン・ケラーの来日は昭和12年4月15日ですが、離日の8月10日まで、日本各地、朝

鮮、満州(当時)まで及び、全行程1万4000キロ、39都市を訪問、講演回数97回と言い

ます。

長崎での記念植樹の際「記念樹に寄せて」を書いた日が、5月29日。雲仙に着いたのが5

月30日。


泊まり先は雲仙ホテルですが、写真右の二人がヘレン・ケラーを日本に招聘した岩橋武夫

とその奥様でしょう。

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その時の宿帳です。ヘレン・ケラーの自筆署名が分かると思います。下に書いてあるのが

秘書のポーリーの名前ですが、これから見るとイギリス人だったことが分かります。部屋は

同じく1号室です。


忙しい中でのほんのひとときの休息だったのでしょう。いかにもくつろいだ様子が写真でう

かがえます。

3

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おばあさんから何か受け取っているみたいですが、ひょっとしたしたら温泉卵かな?


さて、今日は「温故叢書 56号」の「雲仙と湯けむり」佐藤隆久氏(熊本第一ライオンズクラ

ブ)の文章をもとに書いていますが、ここからちょっとヘレン・ケラーのお茶目なことが書い

てありますからそのまま写してみます。


『雲仙ホテルで旅装を解いたヘレンは日本の温泉における「男女混浴」なる風習をすでに

同行の岩橋武夫さんから聞き及んでおり、温泉を自然に湧き出でる大地の恵みと考え、性

別を超えてくつろげる場所と解釈をしてそれを”実行”したのだ。そのとき、大浴場の中に

は、ヘレンと秘書のポーリーそして岩橋夫妻の姿があり、ヘレンは自らを「象」、ポーリーを

「アザラシ」と呼んで湯船の中を子供のように泳ぎ回ったという。そしてヘレンはこのニュー

スがアメリカに知れたら大変だといいながらも精いっぱい湯あみをたのしんだのであった。

いっぽう、岩橋は「神は完全に私に目隠しをなさっているから(注:岩橋氏も目が不自由で

した。)実におおらかな天国がそこにあった」とのちに述懐している。』

(あの、ヘレン・ケラーが混浴を!)



この文章については、佐藤隆久の(注)によれば、「本文のヘレン・ケラー」のエピソード及

び史実は、岩橋英幸著「青い鳥のうたーヘレンケラーと日本」(NHK出版社)からの引用で

あることを付記する。と書いておられます。この本、探したのですが、長崎県内の図書館に

はまったく無く、ネットでやっと見つけたら9,500円残念ながら断念しました。


しかし、この文章を読んでヘレン・ケラーの強い意志とは別の、底抜けに明るい一面がうか

がえると思います。ヘレン・ケラーが人々に愛された理由のひとつでしょう。


さて、ヘレン・ケラーは本土の全日程を終え(7月4日)、朝鮮、満州(当時)へ旅立とうとし

た時、盧溝橋を挟んで日中の戦争状態。

ヘレン・ケラーは釜山を経て、京城、奉天、大連と行きますが、ヘレン・ケラーのことが新聞

を飾ることもなく、その上、講演旅行中のヘレン・ケラーの一行がスパイだと言う噂も流れ、

大連を最後の終了地とし、8月10日横浜から帰国をしました。


この後、昭和23年に来日。このときは昨日書いたように、長崎の永井博士を訪問。

第3回目の来日は昭和30年。熱烈な歓迎を受けたそうです。


岩橋武夫氏の逝去が昭和29年、第3回目の来日の時は日本に来て泣き崩れたそうで

す。

秘書のポーリーは昭和35年逝去。ヘレン・ケラーは昭和43年6月1日逝去87歳でした。

ヘレン・ケラーのことはこの後も長く語り継がれ、人々に勇気を与えてくれるでしょう。



本日の写真提供、情報には「雲仙お山の情報館」のご協力をいただき深く感謝いたしま

す。

■写真・情報提供:雲仙お山の情報館

■文書参考・引用:社団法人温故学会第56号 佐藤隆久氏著「雲仙の湯けむり~ヘレ 

 ン・  ケラーーとニールス・ボーアー」から

  なお、このニールス・ボーアーのことも手に汗を握る面白いものですが、ヘレン・ケラーと

  は直接ないので割愛いたしました。

(追記)佐藤氏の文章ではヘレン・ケラーは、来日2日後の4月14日に塙保己一の曾孫、

          忠和氏と会われたそうです。 


                             

2012年2月16日 (木)

ヘレンケラーと長崎そして雲仙①~長崎編

3

私の所に、故あってヘレンケラーの3枚の生の写真があります。ヘレンケラーについて

は、伝記の本、映画、舞台などでご存じだと思います。三重の障害苦を乗り越えた女性で

す。ヘレンケラーは、昭和12年、昭和23年、昭和30年に来日しています。


上の写真は、昭和12に年に来日した時、長崎の盲学校で月桂樹の記念植樹をしていると

ころです。帽子を被った方がヘレンケラーです。ヘレン・ケラー57歳の時です。

下の写真は、長崎の盲学校(当時の山里地区・現長崎市時津町へ移転)の校舎前での歓

迎式でしょう。

当時の盲学校は、浦上天主堂、神学校のすぐに近くにありました。

2

ヘレン・ケラーが日本に来た理由は2つあるようです。少し長くなりますが。

ひとつは、岩橋武夫氏の要請。この方は、早稲田大学時代に失明。ふたたび関西学院文

学部英文学科に入学。エジンバラ大学に留学し学位を受け、関西学院大学専門部・英文

学部の講師となり、大阪盲人協会の会長に就任。1934年カナダからメキシコにいたる講

演旅行の際にヘレン・ケラーを訪問。日本へ来日し障害者支援を要請したそうです。

その後、ライトハウスを設立、日本盲人会連合を結成し会長に就任しております。


さて、もう一つの理由は塙保己一の生国を訪れたかったといいます。

塙保己一は、江戸時代の総検校、目が不自由ながら「群書類従」「続群書類従」の編集

者。(高校の時、日本史で習ったはず。思い出して。)

余談になりますが、この「群書類従」版木に彫られますが、版木を彫る際20×20字に統

一したそうで、これが現在の原稿用紙の様式の基になったそうです。


ヘレン・ケラーと橘保己一の関係ですが、塙保己一の偉業を継承すると共に、「群書類従」

版木の保管と活用を図るために設立された学術団体「温故学会」があるのですが、その団

体から刊行した本があり、その中に載っており、以下に要約です。

突如して電話を発明した、グラハム・ベルが出てくるのですが。


ベルの家系は祖父の頃から、口のきけないひとを教育するという研究者だったのですが、

明治9年、のちに東京音楽大学や東京盲聾学校の校長を務めた伊沢修二が青年時代留

学をし、グラハム・ベルの所へ行って聾・唖の教育について話を聞いたそうです。その時、

日本にも塙保己一という目が不自由な学者がいたという話をしたそうです。

その後、ベルの所にヘレン・ケラーの両親が訪れ、その時、塙保己一のことをお手本として

励まし、助言をしたそうです。これをヘレン・ケラーは聞いて育ったようです。


ヘレンケラーが来日したのは昭和12年4月15日ポリー・トンプソン(のちに秘書、先生の

サリバンは前年に逝去しています。)と共に横浜に到着。この後、、新宿御苑の観桜会で

昭和天皇に拝謁し、その後も多忙なスケジュールをこなします。しかし、4月26日には「温

故学会」を訪問しています。塙保己一の銅像、愛用の机に触れ、通訳を経て「私はこども

のころ、母から塙保己一をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日先生の像に触

れることができたことは、日本訪問に於ける最も有意義なことと思います。

先生の手垢のしみたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えま

した。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう。」といっています。

いかに、塙保己一に憧れたが分かるでしょう。こののち、8月10日離日するまで各地で多

忙なスケジュールを過ごします。

3

ヘレンケラーの月桂樹を記念植樹したときの言葉です。



月桂樹に詠みて

樹にそへて

この木が日の光

雨の恵みをうけ

みごとに成長して

その蔭のもと

教へ兒たる目しひ耳しひが

健やかなる人生を歩むよう

またこの蔭がよき働き手に

憩ひと力を與へる

源となるよう私は願ってやみません

昭和12年5月29日 ヘレン・ケラー



この月桂樹は残念ながら原爆の被害を受け焼け焦げてしまったようです。

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原爆で吹き飛ばされた校舎です。多分写真左の庇のあるあたりにヘレン・ケラーが立って

いて歓迎式があったのでしょう。当時この校舎は軍用工場として使われ、生徒は疎開をし

ていて無事だったそうです。

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原爆落下当時の浦上天主堂です。私も小学校に上がるとき、ここから1キロの所に引っ越

しをし、一部はそのままにしてあった瓦礫のところで遊んだものです。今は立派に建て変わ

っていますが、人類の愚行としてこのまま残しておいておくべきではなかったでしょうか。


昭和23年再来日したとき、ここから数百メートル離れたところの、如己堂の永井博士を訪

れています。盲学校あたりを通ったはずですが、どんな気持ちだったのでしょうか?

原爆が落ちていなかったら、あの月桂樹はどれだけ大きく育っていたでしょう。



あしたは、雲仙でのヘレン・ケラーのちょっとしたお茶目ぶりを。


参考:社団法人温故学会刊「温故叢書 第56号」 他各ブログより)


2012年2月15日 (水)

観櫻火宴 2012~日本一の松明武者行列(雲仙市千々石町)

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いよいよ、日本一の松明武者行列「観櫻火宴」が長崎県は雲仙市千々石町で、3月31日

(土)開催されます。皆さん方に一足先にお知らせします。当日のプログラム、申し込み要

領は、チラシをクリックすると拡大しますのでご覧下さい。


少し古い写真になりますが。(7年ばかり前の写真です。ここ数年撮り忘れて・・・)

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長崎県は桜の名所、橘神社がメイン会場ですから3月31日と言えば、ちょうど桜も見どこ

ろ。夜桜見物にもいい頃でしょう。(できれば、もてるあなたは若い子と。アラフォーのあな

たも若い子と。)


出発地点は、海岸の福石様の所。ちょうど夕日が綺麗な時間帯ですね。カメラマンのあな

た、腕の見せ所ですよ。

お薦めなのが、元服立志式。小学校、中学校入学予定の子どもたちの出演。

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舞台に並んで、一人ひとり自分の名前、志を発表します。市外から来られた方も記念にな

ったと喜んでおられました。

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こうびっしり決めれば、かっこいいでしょう。あなたもいかが。衣装をつければあなたもイケ

メン武将、美女武者。

私は「あれ~お殿様ご無体な~」の悪代官役をやりたいんですが。プログラムにはないよ

うで残念。


今年の様子は→こちらをクリック「観櫻火宴スナップ」






2012年2月14日 (火)

バレンタインデーの日に~「何度も読みたい 広告コピー」から

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ちゃんと私の所にも来ましたよ。息子の嫁と孫から。

チョコレートと「ねんりん小僧」というのが。ところが、ねんりん小僧の箱の横を見てびっく

り。

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こりゃなんじゃ、何んと「東海大学福岡短期大学 地域総合連携研究室」の文字。

お菓子にしては、えらくまた堅い文字。


説明を読むと、北九州の「小倉北区役所まちづくり推進課」から、小倉のお土産を開発して

ほしいとの依頼が、観光を学問としている研究室へ。原案を完成し、商工会議所へ作る所

を相談。「株式会社つる平」とお互いに手をつなぎ作ったお菓子だそうです。

かわいらしい小さなバームクーヘンですが(食べてしまって写真撮るの忘れた)、黒ごまク

リーム味、トマトクリーム味、バナナクリーム味、紫クリーム味、抹茶クリーム味があるそう

です。皆さんも小倉に行ったらどうぞおみやげに。


さて、バレンタインで来たのはもう一つ。私の女友達からです。(ちゃんといますよ私だっ

て)

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手袋と「がんば最中」です。

「がんば」は島原弁で「フグ」のことを言いますが、島原では棺桶のことを「ガンオケ」と言い

ます。フグを食べるときは棺桶を用意して食べろと言う意味だそうです。

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中身もびったり入って、この下にもう一段あります。島原にお越しの節は是非どうぞ。

手袋は、車用のがなくなっていたのでグッドタイミングでした。


まあ、バレンタインデーというのに地味な本ですね。なんか、かわいそうな感じで手に取っ

てみたら面白い。

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広告コピーはご存じですね。新聞、雑誌などで商品の事を紹介するのがボディコピー。

コピーも良いのがありますね。「一瞬も 一生も 美しく」「思い立ったが、父の日、母の日に

なる。」「がんばる人の、がんばらない時間」「バラ色でいくぜ」「私たちは、家族の温暖化に

賛成です。」「MAID IN DREAM」「汗水の価値」「ナケレバ、ツクレバ」等など。どうかした小

説より面白い広告コピーもあります。

バレンタインデーにふさわしいのがあったので、ひとつ全文紹介を。




人生が、ラブストーリーでありますように。


私は、「その人」との約束を破った。

生まれて初めて愛した異性。

生まれて初めてバレンタインデーに、

チョコレートを贈った相手。

完璧な人生の先輩。

愛妻の存在は知っていたけれど、私は本気だった。

なのに、だんだん欠点が見え始めた。

大切なときに、仕事、束縛。

年下の私をいつまでも子供あつかいにすることにも

我慢できなくなった。

会話が途切れた。

長い月日・・・。

そして大学を出た私には、他に好きな人が。

どこか「その人」に似ていた。

結婚を決意。

「その人」はただ黙っているだけだった。

式は、2月14日。

新しい恋人に私が愛を告白した日。

その朝、「その人」と二人っきりで会い、

お別れのチョコレートを贈った。

「約束を破ってごめんね」という言葉に、

「その人」と私は数年ぶりの笑顔をかわした。

バージンロードへ向かう私は、

守れなかった「約束」を心の中で繰り返していた。

「大きくなったらパパのお嫁さんになるの」


チョコレートで、愛を伝える日、

チョコレートは、明治。




娘を持つおじさんたちとしては、こんなのを読むと目がウルウルしてくるんですよね。

ところで、うちの娘からは何にも贈ってきませんが、皆さんはお父さんに義理チョコでも良

いから贈ってあげてね。





2012年2月13日 (月)

開高健「夏の闇」~「新潮」掲載から直筆原稿版そして司馬遼太郎追悼文

1

頼んでいた、開高健の直筆版が届きました。本当は、開高健記念会から出した、原稿用原

寸大をそのまま印刷したものが欲しかったのですが、700部の限定、気づいたときにはす

でに手遅れ。仕方ないので、新潮社から出版された「直筆原稿縮刷版」を買いました。

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やはり、印刷とはいえそのままの字。直しも少なく、意外と読みやすく、少し丸っこい字が、

晩年の開高健を彷彿とさせます。

もちろん万年筆の字ですが、モンブラン社マイスターシュテック149番を使ったそうです。

私もある事情で買いましたが、20年ほど前6万円だったかな?ペン先も良いですね。

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さて、この小説は「新潮 昭和46年10月号増大号」のために書き下ろされた小説です。

292ページのうち6~139ページを占めています。書き出しは、題があってそのまま本文

に入っています。

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普及版の方は少し違って、本文にいる前に序文が入ります。昭和47年3月15日発行。


・・・・われはなんじの行為(おこない)を知る、

なんじは冷ややかにもあらず熱きにもあらず、われはむしろなんじが冷ややかならんか、

熱からんかを願う。 『黙示録』   (序文です。)


             

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この後、昭和47年5月25日に特装版が出版されます。2500部の限定ですが、60部は

個人で買い取り検印の所に「私」と書いたそうです。多分知人の方に贈呈したのでしょう。

他の2440部は「ken」と書いてあり、自署、パラフィン紙で保護してあります。

この本フランス装丁本といって、小口が切ってありません。ペーパーナイフで切って読むも

のですが、もちろん私のも切らないままにしています。読むのは普及版で。

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4_2 P2130310


この本にいたって開高健、初めて後書きを書いております。

『・・・前作の「輝ける闇」をだしてから三年ぶりである。三部作にするつもりでその第二部と

してかいた。』・・・・『第一部の「輝ける闇」が雄ネジだとすると、これは雌ねじである。そうで

なければならないのである。そうだとしてすべてをはこんだ』・・・・・・

これを読めば、書かれなかった小説はどんな小説だったのか。雌ねじと、雄ネジだけで、

他に何か入る余地があるのか?それだけで完結しているのではないか?


さて、開高健の葬儀の際、弔辞を読んだのは司馬遼太郎です。夫人の牧洋子さんから

依頼されたみたいです。この「文學界」で10ページに及ぶ長文の弔辞です。

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『大兄の病篤し、との知らせを仄かにうかがった朝、天から舞い込むようにして「文學界」所

載「珠玉」がとどき、吸い寄せられるように読みました。第58頁、なにやら輪廻のごとき思

想的述懐がのべらているくだりにいたって奇しくも訃報に接しました。』にはじまる、名文と

も言っていいでしょう。この中で、日本文学における開高健の試みを「夏の闇」を中心として

語っていますのですが、


『ここで、思い出すことがあります。

大兄に最後にあったのは一昨々年1987年12月11日・・・夜半、別れるときに、大兄は、

はにかみをこめた笑顔で「いま、小説を書こうとしている」と話しました。ただひとことでし

た。大兄と小生のあいだで、小説とか文学とかいう言葉が用いられたのはこのときただ一

回きりで、それも二秒か三秒ほどのあいだでありました。小生は不用意にも、大声で答え

ました。

「やめればいいのに」』・・・・


『「やめればいいのに」ということばについて、小生は言い足りぬまま年をすごし、今

この場に立っています。いま、それを、言い足さなければならないと思っています。』

『・・・大兄は五十代の後半になっていました。さらにいえば「夏の闇」一作を書くだけで、天

が開高健に与えた才能の返礼は十分以上ではないかと思われたのです。それほど小生

は「夏の闇」気にいっていましたし、それを越えるものを書こうとするのは無駄だろうと思っ

たのです。以上が小生が言い足りなかったことどもです。』


「輝ける闇」を書いたのが、昭和47年、42歳の時。司馬遼太郎に「いま、小説を書こうとし

ている」と言ったのが昭和62年、57歳の時。この間15年、開高健は小説の構想を練って

いたのでしょうか。

それから2年後の平成元年死去。享年58歳。できていたらどんな小説だったのか。

死者は黙して語らず、残された我々は只追想するのみか。

最後の小説は「珠玉」まさに「珠玉」のような小説です。



2012年2月12日 (日)

この一曲~ベートーベン交響曲 第7番

7

ベートーベン交響曲第7番。ご存知ですね。ドラマの「のだめカンタービレ」の主題曲に使わ

れていた音楽です。千秋様がSオケで最初にタクトを振り、留学するときに最後にタクトを

振った曲です。


この曲、なんかで使われていた記憶があったので、DVDを借りてきて、見たらビンゴでし

た。(当時ちらっとしか見たこと無いのですが。)

確かめるために、第1巻しか借りて来なかったのですが、あまりに面白く、日本編の6巻、ヨ

ーロッパ編の2巻、完結編の2巻、一気に見ましたが、笑ったり、泣けたり、おまけに名曲の

説明までついていたり、学校音楽の時間はこのドラマを見せた方が、音楽好きの子どもが

増えるのではないでしょうか。


ベートーベンの交響曲というと3番「エロイカ」、5番「運命」、6番「田園」、9番「合唱付~歓喜

の歌」と、標題音楽の間に隠れて、なんとなく地味な存在でしたが、このドラマに取り上げら

れ少しは知られるようになったようです・・・


日本人はと言っても、外人の事は知りませんが、標題音楽が好きですね。「月光」「悲愴」

「未完成」「新世界」等々、題が分かった方が頭の中で何んとなく、その感じになるのでしょ

うが、フルトヴェングラーは「音楽とは、あくまで耳で聞くもので、頭の中で考えるものでは

ない。」と言っています。


この曲、初演当時はいろいろ評価があったそうで、ワーグナーは「舞踏の権化」、ウェーバ

ーは「ベートーベンは精神科行きだ」といい、北ドイツでは「あれは酔っ払いの音楽」と酷評

されたとロマン・ローランの著作に書いてあるそうです。


一時は、クラシックと言うとベートーベンでしたが、耳が不自由で、背が低く、醜男で、女に

もてなく、刻苦して音楽を書いたところが、明治以降の、列国に追いつき追い越せの勤勉

で努力家の日本人に合ったのでしょう。戦後、名曲喫茶というのがあり、私たちの一世代

前の方はそこで、ベートーベンを一生懸命聞いたそうですが。

砂川しげひさも「ベートーベンの音楽は人が苦境に立たされたときに、はじめて威光を放つ

種類の作品だということ・・・」と書いています。

「つべこべいわずに」良い題です。ベートーベンの音楽にピッタリ。

Photo


いま、ベートーベンを聴く人も少なくなって来ているようです。私たちの暮らしが不況、就職

氷河期と言われながらも、昔より良いのか、J-POP、TV、ゲームのおかげで感性が鈍って

きたのか。


余談になりますが、学校で映画鑑賞の時間があり、泣ける映画で、私も泣きながら見たの

ですが、明かりがついたら、ハンカチを出して泣いているのは先生ばかり、生徒はケロリと

したもので、子供の感性もここまで来たかと思うとガックリしましたが。


フルトベングラーではありませんが、標題音楽以外にも、耳だけを頼りに聞いていくと良い

音楽に出会えますよ。一緒を友とするような。



(参考:五味康祐著「音楽巡礼」 砂川しげひさ著「つべこべいわずにベートーベン」 ライナ

 ーノート)




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