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2012年9月9日 - 2012年9月15日

2012年9月15日 (土)

御手水観音(おちょうずかんのん)~諫早市

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諫早の三大名勝といえば、以前、記事に書いた、「富川渓谷」、「金比羅山頂」、そしてこ

の、「御手水観音」だそうです。中世山岳宗教の修験霊場として開かれたものだとされてい

ます。石仏がたくさん並んでいます。神仏習合で祀っているのでしょう。


右側、小さな滝が流れていますが、近くまで来ると、冷気(霊気)とオゾンがドット襲ってき

て、身が清められる感じ。


ここに至る参道左側に、磨崖仏が49体彫ってあるといいます。

富川渓谷の五百羅漢と違って、領主諫早家が作らせたのではなく、信者の方が、長年の

間に刻んだものと思われるそうです。


全部ではありませんが、下に貼っておきますので、クリックすれば拡大します。

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ここを通ってくると、一番上の写真のところに着き、その奥に千手観音を本尊とする、観音

堂があります。

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さて、一番上の写真、四角の所に「鏡」が取り付けてあります。これは、戦国時代末期、佐

賀の龍造寺に西郷氏が滅ぼされた時、西郷純堯(さいごうすみたか)の姫が、ここに籠も

って難を逃れ、その折、銅鏡を納めたという言い伝えがあるそうです。


戦時中に行方不明になったので、関係三か町で話し合って、復元したものだそうです。

この下に梵字が三つ並んで、その脇に、至徳二乙丑歳(1385)と彫ってあるそうですが、

不勉強で行ったため、気づきませんでした。

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なお、この鏡の上の方の出っ張りに

P9150250

こんな感じの所があり、丁度、鏡の大きさ。ひょうっとしたら、本来ここにあったのでは?


鏡で、三遊亭小朝さんの小話を思い出しました。うる覚えで少し違っているかも知れませ

んが。


美術館にて、

「これ、ルノアールでしょう。」

「いいえ、モネでございます、奥様。」

「これ、ドガでしょう。」

「いいえ、ゴッホでございます、奥様。」

「これ、ピカソでしょう。」

「いいえ、奥様、これは鏡でございます。」


ポチして、おあとがよろしいようで・・・

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2012年9月14日 (金)

「特定健康診査受診結果」来る★あ~大ショック

Img_3


今日は、「雲仙鐵道」の工事中の、珍しい写真があったので、それをご紹介、と思ったので

すが、先日、7月5日に「特定健診に行きました」という記事を書いたところですが、やっと

結果が来ました。あ~大ショックというところで、今日は、この事を。


十数年ほど前、体重が75㎏。これではいかんと、毎日、歩くこと一万歩。半年ほどして、今

度は、毎日走ること一時間。5年ほどかけて、57㎏まで落とし、健康診断では、それまでD

(最下位)だったのが、Aになり、指導の女性の方から、どうしたらそんなに体重減るんです

か、とまで言われたのですが、膝を悪くして少しサボっていたら、なんと今回69.4㎏。もち

ろん、メタボリックシンドローム。


夏前は65㎏だったのですが、この夏、甘い物の取りすぎ。原因は分かっているのですが。


特に、この肝機能の所。ALT(GPT)のところ、基準値が5~30なのですが、私の価が

102。3倍以上。前年は38です。これ見てホントにショック受け、具合悪くなりました。


ネットで調べてみると、少し基準値から外れていたからといって、神経質にならないでくださ

い、とは書いてありますが、3倍以上は、少しではないでしょう。結果を見たとたん、神経質

になりました。


これが、高値の場合、急性肝炎。慢性肝炎、アルコール性肝炎(酒は止めたのでこれは関

係なし)、肝がん、脂肪肝、急性心筋梗塞、進行性筋ジストロフィ、などがあるそうです。

その他も、どうもおもわしくなく・・・


とにかく、太り過ぎが一つの大きな原因なので、もう、ブログを書くどころではなく。今から

歩いて来ます。それでは・・・


特定健診は必ずポチして受けましょう。

 

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2012年9月13日 (木)

そろばんを持った恵比寿様

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何とも愛嬌のある顔でおられます。


二日ほど前から書いていた、「原城の乱~余話」ですが、原城から、海岸線を通って、浦田

観音に行っているときに、恵比寿様が目につき、なんか変だなと思って、よく見ると、

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そう、恵比寿様は、竿を持って、鯛を持っているのですが、この恵比寿様、そろばんをお持

ちなのです。


以前から、そろばんを持った恵比寿様がある事は聞いたことがあるのですが、お会いで

きたのは今日が初めてでした。なんと、ハッピーな顔と、私も負ける「美腹線」wink

年代は書いていないので分かりませんでした。


この恵比寿様、佐賀県、熊本県にも散在するそうですが、特に、原城の乱があった、島原

半島の南目(南部)に多く、「そろばんを持った恵比寿・大黒様」が百体くらい点在している

のではないかということです。農家の神棚、海岸、自治会の公民館、道端、山の中にもあ

るそうです。ちなみに、私は西目に住んでいますが、こちらでは、確かに目にしたことは、

今までありません。


有家史談会から発行の「嶽南風土記 18号」に、林田津誉毅氏が書かれた「和算とキリシ

タン」では、かくれキリシタンとの関係も示唆されてありました。


何はともあれ、難しい話は別にして、見ているだけで幸せになれる恵比寿様でありました。

(参考:有家史談発行「嶽南風土記 18号」)


幸せのポチね。

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2012年9月12日 (水)

原城の乱・余話②~ここ掘れワンワン・忍術使ひ登場(浦田観音他)

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以前、「島原鉄道南目線廃線駅(左のカテゴリーに入れています)」を書いたとき、「浦田観

音駅」の所で、浦田観音は「乳出の守り本尊」で、おじさんには関係なく、スルーしたことを

書きましたが、今日はここにやってきました。別に乳が出るように拝みに来たのではないの

ですが・・・


再度、書いてみますが、キリシタン大名で有名な有馬晴信に子供が生まれたとき、乳不足

で、家臣山崎飛弾守が観音菩薩の小祠を作り、祈願したところ、乳が出るようになったとい

う事で、以来、「乳出安産」の守り本尊として、多くの方がお参りになっているそうです。

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ご本尊さまです。


なんで、私がここに来たかというと、この掘られた穴が、原城攻撃のため使われた「甬道

(ようどう)」なのです。宮崎県から工夫を招いて、「ここほれワンワン」ということで、原城ま

で掘らせていたそうです。


残念ながら、原城の方はこれを知り迎穴を掘ったそうですが、原城側が3名討たれたそう

です。その後、生薬をいぶし、糞を注いで、この策略、幕府軍は失敗したそうです。


この場所は、原城から少し離れた所、浅間神社の鳥居をくぐったところから、少しいったと

ころにあります。


左右の階段、どちらも浅間神社に行きます。なお、浅間神社も「安産乳出の守り本尊」とし

て崇拝されているそうです。

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さて、、無頼派作家の坂口安吾が、この原城の乱の事を書くために、長崎に来ましたが、

読んで見ると、県立の長崎図書館でかなりの資料を調べたようです。


昨日、鉄砲の弾が天草四郎の袖を貫いたと書きましたが、安吾の「島原の乱雑記」による

と、「砲丸よりも、旧式な一本の弓矢が、さらに大きな被害を与へた。正月十六日、四郎が

本丸で碁を打ってゐると、敵の矢が飛んできてその袖をぬいた。

生き神なる四郎にすら矢が当たるといふので、陣中の動揺限りなく、遂に脱走する者数名

が現れたのである。」と書いてあり、弾丸が当たったのか、矢が当たったのか分かりません

が、期日についても、有家郷土誌では、3月6日になっており、違っておりますが、島原の

乱についての資料は数多くあるので、よく分からないところです。


次に、安吾は「甲斐守輝綱」の日記から引用して、「この戦争に、忍術使ひが登場した。二

月十五日、甲賀衆者を城中に忍び込ませたのである。忍者使ひは近江の甲賀から呼び寄

せたものであった。

忍術使いは失敗した。九州の言葉が分からぬうへに、切支丹の用語や称名を全然知らな

かつたからである。忽ち看破され、慌てて逃げた。それでも忍びこんだ印に、塀に立てた旗

を抜いて担ぎ出したが、石で強(したた)か頭をどやされ、決して見事な忍術ぶりではなか

った。・・・・」と書いています。


まあ、いろいろと考えて、手を打ったことが分かると思います。


この雑記は、昭和16年頃に書かれたようですが、一つ気になる文章が、原城がある南有

家町は今でこそ、キリシタン文化を重要視していますが、安吾は「宿屋で、何か切支丹のこ

とを聞き出そうとしたが、・・・・ややあってのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、

といった。」と書いています。


戦前と、前後ではキリシタンについての受け取り方が違っていたのか、気になる部分であ

りました。(参考・引用:「各説明版」「島原の乱雑記・坂口安吾著」)


ここ掘れワンワンと言えば、犬。犬の名前と言えば、ポチよ。  

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2012年9月11日 (火)

原城の乱攻防・余話①~下手な鉄砲数打ちぁ当たる(重箱山)

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言わずとも分かると思います。天草四郎の像です。


原城の乱について、読んでいると、ちょっと面白い攻防戦があるので、2回ばかりに分け

て、書いてみます。


読んでいると、良く「重箱山」というのが出てきます。南有馬町郷土誌にも、「山を築き井楼

を作らせて城内を一望のうちに眺められるように築かせ・・・・鍋島家が築いたといわれる

『重箱山』はその一つで、ここへはオランダ船から下ろした大砲を運び込み砲撃をし、効果

をおさめることができたのである。」と書いてあり、この「重箱山」以前からどこか探していた

のですが、小浜町~諏訪の池~北有馬町へ下る途中、南有馬町、西望公園へ曲がる道

がありますが、その道の途中

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よく見ないと、分からないくらいの看板が。黄色い方向が西望公園です。ここを左に行きま

す。車は、まあまあ通れますが、私はここに置いて、10分弱歩きました。

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標示も何もありませんが、ここらあたりが、「重箱山」というらしく、散歩の途中の方がおら

れたので、聞くと、はやりここらあたりらしく、特に四角で囲んだところ、ここが、開けていれ

ば原城本丸は一望でしょう、多分ここが盛り土した所ではないでしょうか?下の写真は少し

角度を変えて写したものです。

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赤の所が本丸あたり。黄色で囲んだ所が、本丸の所に植えてあるシュロの木です。


「旅する長崎学」には「約900mといったところでしょうか。」と書いてありますが、まあ、そ

れくらいでしょう。


さて、この距離で、大砲はともかく、鉄砲の弾が届くのか、命中精度はどのくらいなのか?

You Tubeで、火縄銃の実演とか、火縄銃のクレー射撃が見られ、これはとにかく面白い

ので是非ご覧下さい。音が現代の銃より大きく、それだけでも、心理的に圧迫をかけたの

でしょうはないでしょうか?


「南有馬町郷土誌」によれば「陸上の砲台から打ち出す弾は次第に的確になって遠い城

内にも届くようになってきた、それによって起こる土煙が井楼から見え城内では負傷者を

運び、城壁と柵の修理に懸命な活動をする様子が望楼から見られるようになってきた。」と

あります。下の写真、逆に原城から重箱山を確認したのですが、よく分からず、左の枠が

「原城文化センター」。右が重箱山の近くにある塔でしたから、この間になると思います。も

う少し背が高ければ分かったのでしょうが。「わたしゃ、もう少し背が欲しい」。

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有家町郷土誌には、「鍋島から打った弾丸が、本丸で碁を打っていた四郎の袂をつらぬ

き、傍にいた数名の者が即死した。神の御使である四郎に弾があたったのであるから全員

の士気には相当の打撃を与えたらしい。」とありますが、火縄銃で、この距離で命中させる

は、ゴルゴ13くらいでしょう。まあ、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる。」だったのではないので

しょうか。


なお、現在、一部発掘中で、詳しくは調査中で、教えてもらえませんでしたが、興味ある方

は、参考のために見学してみてはいかがでしょうか?

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2012年9月10日 (月)

島原城の門の行方~長崎県雲仙市小浜町

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湯の町小浜と切っても切れないのが、湯大夫本多家です。上の写真、現在は、市の施設と

して「小浜歴史資料館」になっていますが、昔は「湯大夫本多家」の屋敷です。

慶長19年、初代の本多親能(ちかよし)氏と、同族の島田氏が共に小浜村に来て、温泉場

の管理を始めたそうです。


本多親能氏は、城主(島原藩、松平忠房公)に取り締まりを命ぜられていたそうですが、城

主の許しを得、長男に庄屋職を、次男の親次氏を湯大夫としたそうです。


小浜温泉は今でこそ、交通便利なところですが、以前書いた雲仙鐵道、バスの運行が無

かった時代は、陸路では不便なところ、長崎の茂木港から船に乗って来ていたような所で

す。


10代目の本多西男氏が、海岸の埋め立てなどを行い、今日の小浜町が出来たわけで、

昔の方と話をすると、雲仙鐵道についても、「本多さんの力じゃもん(本多氏の力によるとこ

ろだ)」と言う話を良く聞きます。


下の写真が、昔の小浜の風景です。

Photo

    (長崎大学附属図書館・古写真データーベースより)

さて、話は変わって島原城のことですが、島原城は元和4年から、松倉重政が築いた城

で、島原一揆で攻められながらも耐え、寛政の地変でも倒壊を逃れることが出来たのです

が、明治の御一新。明治3年に島原城は国有化、また、佐賀での江藤新平による反乱の

影響、明治6年、政府による「全国城郭在廃の処分並びに営地等撰定法」、いわゆる「廢

城令」等で、立木一本に至まで民間に払い下げられたそうです。


島原城には、大手門、先魁門、田町門、北門、桜門、東虎口(こぐち)門、西虎口の七つの

門があったそうです。なお、この東虎口(こぐち)門、西虎口は、葬列のために使う門で、市

内の快光院、江東寺の門になっているそうです。


残る門のどれかになりますが、明治4年、そのうちの一つを本多家が買い受け、自宅の門

にしたそうです。門柱が大きすぎ少し作り替えてあるそうです。


天守閣は、明治7年、400円で払い下げられたそうですが、早く分かっていれば・・・

この門は、100円で買い受け、解体し船で運んだそうです。当時は米一升で7銭だったそ

うです。今買えばいくらになるか、あとは計算して下さい。

Monn

いつもは、開いているのですが、今日は休館で門が閉めてあり、ゆっくりと見られました。

これが、島原城の何百年前の門かと思うと感動ものでした。

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裏側です。休館日で入れなかったのですが、忍法「すり抜けの術」で・・・

(参考:「小浜町史談」・「島原城ネットサイト」)


あなたの家の門にも、おひとついかがでしょうか?ノックじゃなくてポチしてね。

 

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2012年9月 9日 (日)

この一曲~G線上のアリア★小澤征爾:浦上天主堂の想い出

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図書館に本を借りに行ったら、少し時間が早すぎて、開館までの間、自動ピアノの演奏を

やっておりました。


見ていると、面白いもので、鍵盤が動いて、ちゃんとピアノのペタルまで、上がったり、下が

ったり、何か透明人間が演奏しているみたい。


演奏している曲がバッハの「G線上のアリア」でしたが、ボンヤリ聞いていると、小沢征爾さ

んが、長崎の浦上天主堂で演奏会をしたことを思い出しました。浦上天主堂は、私の家か

ら500m強くらいの所にあります。


この演奏会、ハガキで応募して抽選するというもの。私も10枚ほど出しましたが、くじ運

と、女運には恵まれておらず、後日NHKの放送でで見ることになりました。


調べて見ると、1995年6月14日。曲目はマーラーの第2番「復活」でしたが、その前に小

沢征爾さんが出てこられ、ここから少し、うる覚えなのですが、この年の1月に阪神・淡路

大震災が起こり、多数の犠牲者を出したのですが、「この曲(G線上のアリア)は、阪神・淡

路震災の犠牲者の方に捧げたいと思います。拍手のかわりに祈りを、拍手はなさらないよ

うに。」 と言われたような記憶があります。


確認しようと思って、You Tubeと、ニコ動調べましたが、削除してありました。


小澤征爾さんは指揮棒は使わずに、素手で指揮をして、曲が終わってからの、拍手なしの

静寂、実に感動的で、おもわず涙がこぼれたものでした。あのような感動は、いまだに経

験したことがないといっても、言い過ぎではないでしょう。


さて、このピアノを弾いている透明人間さん、どんな人かなと想像していると、私の好きな

「グレン・グールド」ではなさそう。彼なら、椅子がもっと低く、大げさ言えば、顔が鍵盤にくっ

つきそうにして弾きますから。まあ、こんな下手に演奏したくっても出来ないだろうし。


この椅子の高さ、鍵盤までの距離、演奏のたどたどしさを聴くと、まだ、小さい子供みたい

ですね。もうちょっと練習して上手になってね。また、聴きに行きますよ。


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