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2012年7月22日 - 2012年7月28日

2012年7月28日 (土)

平松(へいまつ)かぶり★千々石騒動~雲仙市千々石町

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千々石にしか通じない言葉があります。「平松かぶり」。残念ながら若い人は段々知らない

人も増えつつあります。


時は幕末、弘化四年。江戸時代、農民は重税に苦しみ、加えて不作があり、困窮した生

活。

11月頃から小作人が、各名の乙名宅等へ小作の引き下げを相談。12月17日の夜、上

の写真の専照寺へ500~600名(橘家々記によれば、「弘化四年十二月十七日夜四ツ

頃より、専照寺へ作得一件につき小前(注)共大勢相集り・・・)農民が集まり談合。


ある程度の要求は受け入れられたが、他の項は藩へ持ち越され落着かと思われるが、農

民の無届け談合、しかも島原は「原城の乱」が起こったところ。


島原藩から役人が出向き、多くの者が捕らえられ、島原まで送られたが誰が首謀者が分

からず、小倉(おぐら)名の平松が自分一人で罪をかぶり、本当の首謀者は誰か分からな

いまま獄門にして解決。


これから、千々石では何事も一人で事を負うこと(かぶること)を「平松かぶり」と言うように

なり、宴会などでその費用を一人で負担する場合にも使われるそうになったそうです。


と、ここまでくれば義侠心にとんだ話なのですが、平成54度版千々石郷土誌には「平松

は決断力の乏しい、ぐづぐづした性格の人で外の百姓におしたてられて、それに反対する

ことが出来なかった。」とあり、さらに、昭和43年出版の「千々石町誌」にも、「小倉名の有

志のなかでは一人で『かぶって』犠牲的精神を発揮した、平松氏の顕彰碑を建てようと計

画したこともある。それは昭和30年ごろもその案が持ち上がったが、みずから進んで騒

擾罪を一人で被ったのでなく、あまりにも無言で鈍重で正直であったため、他の人からな

すりつけられたのであるから顕彰には価しないとて、とりやめた。」との記述もあり、可愛そ

うな「平松」さんでした。


なお、平松は小倉名のKという所に住んでいたと言うことで、私の家の近くで、近所の人を

見るとなんとなく子孫ではないかと・・・


なお、下の写真は小倉名の古い墓地ですが、ひょっとしたたここに眠っているのかな。


(注:小前とは本百姓ではあるが特別の権利・家格を持たない百姓、また小作人層。大辞

林より)

参考:「千々石町郷土誌」「千々石町史」「平成54版千々石町郷土史」「島原半島の歴史」

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今日のおやつ:

いただき物の水ようかん。

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あまり見事なので、食べきれず大事にとっておいております。皆さんは見るだけ。

ポチしてね。

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2012年7月27日 (金)

鮎帰りの滝★涼を求めて~南島原市有家町

Photo

へたばってしまいそうな毎日ですが、涼を求めて滝でも見ようかと、数十年前訪れた有家

町の「鮎帰りの滝」へ。


この「鮎帰り」の名前、鮎がここまで帰ってきたのかと思って、ネットで調べると、他にも「鮎

帰りの滝」という所があり、鮎がここまで遡って来たが、ここから先には行けないので、Uタ

ーンして帰ったので、「鮎帰り」というのもありましたが、こちらの郷土誌には「止まることの

ない清流に鮎が群生したという鮎帰の滝」と書いてありますから、Uターンはしなかった方

の話でしょう。


この滝壺近くまでくると、驚くほどさわやかな涼しさ、クーラーとは比べものにならないくらい

の気持ちよさ。そして、肺の奥まで届くオゾン。いや~本当に気持ち良かったですね。高さ

13.7m,巾1.7m。ここの滝の面白さは、滝の上に行けること。

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左の方が「千畳石」だったかな。広さ7.3aの一枚石だそうです。子供も水遊びをするのに

丁度良いでしょう。右の写真の岩の所から滝が落ちています。

ここのところに、「湯河内社」と書いてありますが、「湯河内神社」があります。

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左右の石灯籠は「文久元年(1861)八月吉日」となっているそうですが、創建は宝永年間

だと思われるそうです。鳥居は新しく、昭和四年十月、御大典記念になっています。ご神

体を拝ませていただいたら、・・・

いろいろ見て来ましたが初めてみるご神体でした。いわれがあるのでしょうが。

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この「湯河内神社」明治八年の県へ提出された書類によると、

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               (有家町郷土誌より)

となっており、山の頂上にあるような感じ。今は左の滝の上の所にあるのですが、ひょっと

したら移転をしたのかな?


この滝は島原の殿様が訪れたこともあるらしく、庄屋さんの記録には「文政三年四月八

日、御巡在ノ節、殿様隅田村、御昼休直ニ当村鮎帰リ御登御帰ノ節此方エ御立寄・・・」

とあり、何回か来られたことが記せられているそうです。


さて、もう一つ、ここは千々石の人物にも多少関係があり、千々石の三偉人「軍神橘中

佐」、「千々石ミゲル」、そして江戸時代の日本画家「釧雲泉」。この「釧雲泉」が、この滝を

書くために訪れたが、あまりの絶景に見とれて、描く自信をなくし筆を捨てたという、「筆捨

石」の言い伝えがあります。最も当時は本当の山の中で、林の中を分け入ってきて、それ

だけ感動があったのでしょうが。


ここの滝のすぐ横に「滝の茶屋」というのがあり、昼時だったので、今日はソーメン流しなら

ぬ、ソーメン回しとニジマスの塩焼きを

Photo_8

Photo_9 Photo_10

「鮎」が食べたかったのですが残念ながら鮎はありませんでした。でも、ここのニジマスも、

川の水を利用して、店の下の生け簀で生かしていますから、新鮮でおいしいものでした。


場所は、雲仙から島原方面に下り、途中の俵石展望所から右折して有家町に下る所。標

識がありますから道は間違わないと思います。

ただ、途中の道が狭くて要注意。「滝の茶屋」の駐車場はありますが、夏休みは少し混む

かな?

Photo_11 Photo_12

このあと、西有家の「戸の隅の滝」を見に行く予定でしたが、滝の所まで下り坂がひどく、

暑くはあるし、膝は完治してないので、また今度来ることに。

紅葉(こうよう)の頃が綺麗だとか、秋になったら、来うよう(こよう)かな。(親父ギャグで少

しは寒くなりましたか)   

 (参考・引用:「有家町郷土誌」)


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2012年7月26日 (木)

平家物語~猛暑の日にはマンガでいこう

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とにかく、梅雨が明けたら猛暑の毎日。少しは古典でも読んでみようかなと思っているので

すが、この猛暑では、原書では読む気にもならず、訳文の文字を読んでも字が霞んでくる

し、本屋さんによったら、マンガの「平家物語」が。丁度、NHKで「平清盛」をやっていること

もあって買ってきました。


祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり 

沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす


ここら辺までは、高校の古典の時に習って覚えているのですが、どんな物語だったか?

確か日本史の時間でも、源平の争いについては習ったはずですが、まったく頭になく、習

った私が悪いのか、教えた先生が悪いのか。


この古典、源氏物語にしても、平家物語にしても人物の関係が、ごっちゃになって分かり

にくく

2

一日で読んでしまいましたが、たかがマンガと思わずに、これで興味を持って原典を読む

人も出てくるでしょう。とにかく、知らないより、知っていた方が良いということ。


誰もが挫折するプルーストの「失われたときを求めて」、ドフトエフスキーの「罪と罰」もマン

ガで読みましたが、それなりのツボは押さえて書いてあります。


昨日は、我が尊敬する、夢枕獏先生の「翁~秘帖・源氏物語」を読みましたが、主人公は

もちろん「光源氏」。


ところが、後書きで夢枕獏先生も、この「源氏物語」、何度か読み返して挫折したとか。出

版社から依頼され、引き受けたのは良いが、最後まで読んだことがない本。結局、「大和

和紀さんのお描きになった少女マンガ『あさきゆめみし』があることを、ぼくはころっと忘れ

ていたのである。」、と言うことで「こうして、ぼくは、マンガという現代語訳で、『源氏物語』

をなんとか最後まで読むことができたのである。」マンガも役に立ちますね。


猛暑の時の読書ははマンガでいきましょう。「あさきゆめみし」書店に行ったのですが、残

念、置いてありませんでした。わたしも「源氏物語」、入門書を読むだけで、最後まで読ん

だことがないもんで。


今日のおやつ:

夏はやっぱり、みんなの味方「白くま」くん。プラスいつものトコロテン店やさんのトコロテ

ン。カロリーが少なく、原材料が海草で食物繊維豊富。この、ツルッとした喉ごしがなんと

もたまりません。

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2012年7月25日 (水)

木津・弁天公園(富津)・小浜・鵜の穴~長崎県雲仙市小浜町

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海から見た木津です(島みたいに見える所です)。明治初年に「喜津」から「木津」に変わっ

たそうです(小浜町史談)。

以前、雲仙鉄道のことで書きましたが、雲仙鉄道が敷かれて、一般にも知られるようにな

った所です。しばらく行くと、富津です。

2

富津の弁天公園の一角にある立石(だったかな?)。奇岩といえる風景でしょう。

3

こちらが、富津の六角井戸からしばらく行ったところの、富津の弁天公園(以前書きました

が)。これも以前書いたところですが、富津は元来「日比ケ浦」といっていたのですが、江

戸時代2回の大火事があり、「日」は「火」に通じると言うことで「富津」に地名を改めたそう

です。


ここらの岩石は、この上の猿葉山が火山だった頃の溶岩だそうです。

先の方に近づいてみると

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陸の方からは数回行ったのですが、こうして海の方から見ると良い風景ですね。弁天公園

の一番先の方です。なお、ここの松林は、地元の方が松の苗木を植え、育てたものだそう

です。


この後、小浜を沖から撮影しようと思っていたのですが、残念ながら少し霞んで、良い風景

が取れませんでした。

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海の方を見るとなにやら、不思議なものが浮いていて・・・

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これ、釣り堀だそうです。白い小屋みたいなのは便所だそうです。


さて、今回一番見たかったのが「鵜の穴」。本とかガイドブックにのっているのですが、海岸

からは近づけないということで。どうしてもみたくて・・・


もう一つ、山領の所で少し触れましたが、島原の乱を避けて隠れていたところが、山領の

鍋ノ穴、鬢串の与平納戸、富津の四郎穴。


木津に行ったとき、木津と富津を勘違いして四郎穴のことを聞くつもりが、「島原の乱の時

に逃げ込んだ穴があるそうですが、どこらあたりですか」と聞くと、即答で「鵜の穴の事や

ろ」。


これだけあっさり答えられると、木津はの人は「鵜の穴」へ逃げ込んで、その話を代々聞か

されてきたのではないでしょうか?


さっきの富津公園の少し千々石側。大きな穴と言えばここしかなく、ガイドブックの写真と見

比べながら・・・

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意外と大きな穴で、小浜史談によると「穴は二つにわかれ、左の天井の高さは一メートほ

どであるから小舟では抜けられないが、右のは三十メートルほどの奥まで船で行ける。」

と書いてあり、近づけるところまで近づけてもらいましたが、

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ご覧の通り、千々石の「鳩の穴」と同様、天井の岩盤が崩れ、船ではまったく入れない様に

なっていました。


本当にここに逃げ込んでいたかどうかは分かりませんが、船で逃げ込んで、船で暮らして

いれば確かに誰にも分からないでしょう。夜になって、家に帰り必要品を積んでくれば、し

ばらくの間は暮らせますから。


海側から見た風景は思ったものより素晴らしいものでした。皆さんも機会があったら是非ど

うぞ。(参考:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド」)


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2012年7月24日 (火)

弁天様・よけ石・鳩の穴~長崎県雲仙市千々石町

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今日は船を頼んで、千々石から小浜あたりまで。富津公園あたりに「鵜の穴」というのがあ

って、これは明日書こうと思っていますが、ちっと気になることがあり、磯づたいには行けな

いということで、船でお出かけ。


まあ、例によって「穴」と聞けば出かけたくなるのが性分ということもあって。あなたも好きで 

しょう。競馬、競輪の大穴狙いあれと一緒ですよ。


さて、私泳げないこともあって、浜育ちの知人も一人同行してもらいましたが、漁船に乗

るのは初めてで・・・でも、海から見る景色は、普通に見ている風景とは違い楽しいもので

した。

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港から撮った釜山(かまやま)です。千々石少年自然の家があるところです。この山の後に

猿葉山があり、約26万年前に噴火した火山だそうですが、「弁天神社(富津弁天公園内)

の林を抜けると、島原半島には珍しい断崖絶壁の海岸が迫ってくる、崖は堅い縞模様の

安山岩の溶岩で出来ている。」(長崎遊学7 島原半島をひと筆書きで一周する~寺井邦

久編著より)と言うことで、この千々石から小浜にいたる海岸の絶壁は、猿葉山の火山の

影響といえるでしょう。


船が浮かんでいる少し上の、こんもりした林の中に、地元では弁天様と呼ばれる宗像神社

があります。

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灯籠を見て行くと一番古いのが宝暦四年(1754年かな?)随分古い神社ですが、

P7240291

立派な飾りまで作ってありますが、獅子の口に玉が咥えられているのが分かるでしょうか。


この弁天様にはいわれがあるということで、知人と共に、ここの神社を預かっている方の所

へ。

当主は五代目の方だそうですが、祖先が島原半島の村々を回り、お金を集めて(何とかと

言う制度だそうですが、名前を忘れました。)島原に納めに行くとき、夢枕に弁天様が現れ

「帰ってこい」と言いわれ、これが三日間続き、戻って来たときに、「島原大変」が起こり一

命をとりとめたそうです。代々伝わっているという話だそうです。

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港を出るとこのような風景が続きますが、まあ、海の方からでしか見られない風景で感

動します。これも猿葉山の火山の影響だと思われます。なお、この林の上の方を雲仙鉄道

が通っていました。

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この穴「鳩の穴」という名前だそうで、昔は小舟で入れ、蝙蝠なんかも住んでいたそうです

が、今は崩れて入れなくなっています。

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こちらは千々石で一番大きいと言われる「よけ石」といわれる石です。昔はここまで歩いて

行かれたそうです。


大正七年の「千々石村郷土誌」によれば、「千々石字釜ニ辨天神社アリ海岸ニ臨ミ風景殊

ニ麗ハシク奇岩怪山老松の間ニ点在シ千々石村ノ海岸中殊ニ目ヲヒクトロコタリ 其怪石

中ニヨケ石ナル大石アリ」と言うことですが、今は港などもでき、風景が変わって、普通に

は見えなくなっています。


この、よけ石にも話があり、「千々石村郷土誌」によれば二つ話が載っており、

一つは、信心深いおばあさんがここらあたりに薪を取りに行ったとき、崖上から大きな石が

転がってきて、あわや押しつぶされてるところ「南無阿弥陀仏」と手を合わせていたら、お

ばあさんをよけて転がり落ちたそうです。これからこの石を「よけ石」というそうになったそう

です。


もう一つの話は、山の中腹に村民が植樹していたところ、石が転がり落ちてきて海岸に落

ちたそうですが、植えた樹木をことごとく「よけて」いったそうです。


あしたは、木津、富津、そして「鵜の穴」のご紹介です。これも、めったに見られない海から

の風景ですよ。お楽しみに。

(参考:「千々石町郷土誌」「長崎遊学7」「昭和54何版千々石郷土史」「大正七年千々

 石村郷土誌」)

 

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2012年7月23日 (月)

千々石海水浴場&松林と松倉重政~雲仙市千々石町

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千々石の海水浴場です。昨日の日曜日は少し多かったらしいのですが、今日は月曜日と

あって、中学生が4~5名と一家族だけ。ビキニスタイルは見られませんでした。ゆたっとし

て良いですね。私も泳げれば・・・・ちゃんと監視人も置いてあります。

昨年も書きましたが、

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十数年前は、このコンクリート一杯に桟敷席があって、賑わったものです。海開きも、お偉

いさんが出席して、太鼓を叩いて安全を祈願していましたが、今は向こう側にテントが二張

りばかりあるだけで。食べ物があまりないようなので、近くのコンビニで調達した方が良い

でしょう。


さて、この海岸の後ろに松林があり、日本100選になったこともあるのですが、いま松食い

虫などにやられて、段々減少してきています。元に戻すべく植林はしていますが。

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松林は昔の写真で見るともっと広がっているようでした。


この松林、自然のものかと思っていたら、なんと島原城を築いた松倉重政が命じて作った

ものだとか。


元和二年、五条(奈良県)城から松倉重政が島原の領主として移ってきます。初めは北有

馬町の日野江城に居住しましたが、一国一城の令により、島原に森岳城(島原城)を作り

ますが、多額の費用が必要であり、領民にかかる苦労は多く、松倉重信を継いだ重次に

なると、さらに過酷な重税を強いられ、棚を作れば棚税、小屋を作れば小屋税、人が死ん

で埋めるために穴を掘ると穴税、子供が生まれると頭税、畳税、窓税、と何でもかでも、税

金がかかり、加えてキリシタンへの弾圧。原城の一揆へ。一揆の原因については諸説ある

ので、又いつか。


さて、松倉重政は「森岳城ヲ築クヤ 本村小倉名(現雲仙市千々石町小倉名)住 和田四

郎左右衛門義長(橘氏三世慶安三年卒)ヲ召シテ普請係ニ命ス」とあり、これで松倉重政

と千々石の関係が出てくるのですが、「重政ガ本村ヲ視ルコト極メテ重ク」ということで、和

田四郎が千々石で困っている事がないかと聞かれたとき、西海岸一帯は波風がひどく秋

稼(注:稼は穀物のこと)夏麥(注:麦のこと)が稔らず村民が困っていると答えると、実地調

査をし、代官に命じ住民を指揮し「堤防ヲ築キ ソノ上ニ松樹ヲ植エタリキ」ということで、海

岸の松林は松倉重政の命でできたものなのです。


なお、松倉重政は、日本のキリシタンを広める司令所がマニラにあったため、フリッピンの

ルソン島攻略を計画し、実際に偵察隊まで送ったそうです。


寛永七年十一月十七日、長崎奉行、竹中采女正重義に報告に行き、その帰路、小浜温泉

に入浴中に急死をしています。これについては、ルソン島攻略が成功すれば、幕府に発言

権を与える糸口になるか、九州独立を計画するかも知れないと言うことで、暗殺されたとい

う説もあります(島原一揆~渋江鉄郎著)。


(参考:「千々石町郷土誌」「千々石村郷土誌(大正七年)」「小浜町史談」「島原一揆~渋

 江鉄郎」)


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2012年7月22日 (日)

この一曲~ラムネの飲み方★SKE48チームKⅡ (ラムネ→ラムネ氏→坂口安吾)

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ラムネですね。昔はよく飲まれたものですが、いまや、清涼飲料水、缶ジュースなどに押さ

れて段々見かけなくなってきましたが、ストアーの端っこに細々と売ってあったので買って

きました。


大人が、サイダーなんか飲んでいるのは不思議では無いのですが、ラムネを飲んでいる

姿は何となくカワイイという感じ。中に玉が入って、それをうまく、途中のくぼんだところで

止めておいて飲むという行為が遊び心があり、子供ぽっく見えるんでしょうか?

Cimg0121

元来、イギリスで作られたそうですが、今や絶滅だとか。日本の有形文化財にしてでも残

したいような形。これ発明したのはどんな人かな、と考えていると、どこかで、こんな事読ん

だなと、そう、「坂口安吾」の「ラムネ氏のこと」。確か高校の教科書に出てなかったかな?


小林秀雄と島木健作と三好達治が、小田原へ鮎釣りに行って、ラムネを発明した人物に

ついて話をしていくところから、茸取り名人が茸にあたって死ぬ話、キリシタンが渡来した

とき「愛」という言葉の翻訳に苦労して「御大切」にしたこと、そして戯作者のことについて話

は続いていくのですが・・・


坂口安吾は時として、復活して来るときがありますが、本が手元に無いので、ネットの「青

空文庫」で検索すると、意外や意外200~300ほどアップされ、安吾ファンがと多いのに

驚きました。安吾は終戦後、太宰治、織田作之助などと共に無頼派と呼ばれていました。


2~3編ざっと読んでみましたが、戦後すぐは凄い時代で「安吾巷談の麻薬・自殺・宗教」

を読んで見ると「織田作之助(注:代表作は夫婦善哉)はヒロポン注射が得意で、酒席で、

にわかに腕をめくりあげてヒロポンをうつ。」とか、「田中英光はムチャクチャで、催眠薬

を、はじめから、ねむるために飲むのではなく、酒の勢いを速く利かせるために用いた・・・

あれぐらいの大酒飲みは、いくら稼いでも飲み代に足りないから、いかにして速く酔うか

という研究が人生の大事になるのである。」とか書いてあって、いくら薬事法が無かった時

代でも凄いですね。


故立川談志の本にも、楽屋でヒロポンを打って、高座に上がっていた落語家がたくさんい

たと書いてありましたが・・・もっとも、坂口安吾自体も中毒になり、病院に入ったりします

が。


しかし、坂口安吾の時代を見抜く眼光は鋭く、「安吾巷談 世界新記録病」なんて、オリンピ

ックを前にして読んで見ると、今でも十分に通じる所があるし、「風と光と二十のわたしと」

は学校の先生に読んでもらいたいところです。なにせ、二十歳で代用教員(終戦直後は学

校の先生が少なく、そんな制度がありました)になり、70名の生徒を受け持っていた時の

話です。

ずるさをした子供について「ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失

うことがいけないのだと私は思った。」と書いています。しっかりと人間を見つめている目で

しょう。


無頼派と言っても、安吾ほど純真な心を持った小説家はいないでしょう。だからこそ、今の

時代読んでもらいたい小説家の一人です。


さて、ラムネの話から脱線しましたが、ラムネをネットで検索していたら、SKE48チームKⅡ

というアイドルバンドがあるそうで(「SKD」とか「OSK」なら知っているのですが)、その歌に

「ラムネの飲み方」というのがありましたので。長いので途中をはしょって。ラムネに関係あ

るところだけ。



ラムネの飲み方


一気にラムネを飲めないだろう

もっと、もっとゆっくり飲めばいい

真っ青な空 見上げながら

瓶のビー玉 落ちて一休み

心の泡が苦しいなら

息をついてごらん


大人はラムネを飲まなくなるよ

きっと きっと嫌いじゃないけどね

忙しい日々 疲れ切って

そんなビー玉なんか面倒で・・・

楽に生きていくその方法は

頑張らないことさ


一気にラムネを飲めないんだろ

半分 半分残せばいいんだよ

胸のビー玉 息が詰まるまで

今は何もかんがえないで

そっと休息しよう?

(作詞:秋本康 作曲:夏 海)



何となく甘ったるい歌ですが、ラムネも甘ったるいものだし、いいでしょう。分かる所もあ

るし。でも、この曲ヒットして欲しいですね。ラムネが売れるように。


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