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2012年6月24日 - 2012年6月30日

2012年6月30日 (土)

「形代(かたしろ)流し」★橘神社&「グリーンテラス雲仙」~雲仙市千々石町・雲仙

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6月9日に橘神社の「形代流し」(→こちらをクリック)のことを書きましたが、今日は一年に

2回(6月と12月の晦日の日)の大祓いの日。それに合わせて「形代流し」がありました。

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この人形(ひとがた)に名前などを書き、人形を撫で3度息を吹きかけて、罪、穢れ、災いを

人形に移し、お祓いをし川などに流すというものです。神社に総代さんがあつまり、人形に

お祓いをし、その後、千々石川に流しました。もちろん私のも入っています。「かみさんが、

私に優しくしてくれますように。」と書いてみましたが・・・・


ところで、玉串奉奠(たまぐしほうてん)の時、拝殿の外から私が写真を撮っていたのです

が、神主さんが、私の名前(ちょっと知っていたので)を呼ばれ急に拝殿へ。「玉串」をと言

うことで。でも、ちゃんと以前、神社での作法を調べてブログに書いていたので、慌わてる

こともなく、私のブログを読んでいただいている皆様の幸せを祈願してきました。

何事も勉強しておくべきですね。


ところで、「形代流し」、川の中を、人形がゆったりと流れる様子を写真に撮ろうと思ったの

ですが、梅雨で川の流れが速く、情緒もへったくれも無く、あっという間に流れ去りました。

でも、お願いをされた皆さんが、新に幸せな日々を送くれる良いですね。


さて、今日は朝から用事で出かけ、昼頃ちょうど雲仙へ。どこか食べるところを探している

と、最近まで工事をしていたレストランが出来ていたので昼食へ。「お山のカフェレストラン

・グリーンテラス雲仙」」さん。雲仙の道路添いですぐに分かります。

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シンプルで落ち着いた雰囲気。いつものように一番豪華な本日のお薦めランチ「ジャポネ

味ソースのステーキ」。スープ、ワンプレートランチ、飲み物付きで680円也。


お味ですか?ここ、非常に可愛い子がいて、そちらばかり見ていたので、よく分かりません

でした。また、行くつもりです。可愛い子ちゃんを見に。


皆さんの幸せを祈願してきたので、ご褒美のポチよ。

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2012年6月29日 (金)

山武士神社の謎、そして、これは何?~南島原市北有馬町

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今年の5月16日に「山武士神社とは?~日野江城麓」という記事を書きましたが、多少の

事が分かりましたので。(5月16日の記事はこちらをクリック)


これには2つの謎がありました。一つは一番左の石碑に「山武士神社」と書いてあること。

「山武士」とは何か。もう一つの謎は真ん中の祠の扉の裏に千々石庄屋の名前が、「千々

石里正 宮崎九郎右衛門延高造立」と彫ってあり、なぜ千々石の庄屋がここに祠を建てた

かでした。


一つ目の謎はヒントは「日本史」を書いたルイス・フロイスの書簡でした。「1583年・口之

津発・バードレ・ルイス・フロイス書簡」、口之津は日野江城がある北有馬とは近くです。


この書簡の中で、「日本には十三の異なった宗派のあることはすでに承知せられたと信

ずるが、このほかに第二位のものがあって、その一つは山伏Yamabuxis,すなわち山の武

Soldados de serra と称するものである。」この事から、「山武士神社=山伏神社」である

事が伺えると思います。


なお、当時の山伏についてフロイスは、「彼等の通常の勤めは(彼等の言うところによれ

ば)悪魔を人体より追い出すこと、未来を予言すること、シガノと同じく手によって人生を観

ること、悪魔を呼び、健康、長寿及び富貴のため護符を売り、また妖術及び魔術を行って

生活をたてることである。彼等は道路において諸人の払う税を払わぬ特権を有し、また道

を歩いて都市及び村落に着く前に、腰に携ふる大きな貝を吹いて到着を知らせ、彼等を

信ずる者が勤めを求むる便を図る。彼等が悪魔の召使いであり恐ろしき人であることは容

貌にあらわれている。」


これを読むと当時の山伏が、ある程度の特権を持ち、フロイスがいかに嫌悪しているか分

かると思います。


さて、第二の謎、千々石の宮崎庄屋の件ですが、これには地元の郷土家が子孫を訪ねた

ところ、当時はS市に在住。古文書等は処分をしたということでした。S市からN市に移つら

れたそうですが、居所不明だそうです。残念ながら、第二の謎は解けませんでした。


さて、北有馬に来たついでに不思議なのもが、何に見えますか?

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回りの状況を見ると

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こんな感じです。


説明版があるのですが、これがボロボロで、「隠れキリシタン墓碑 青面金剛」と書いて

あり、「地元の人は(不明)呼んでいる 真言密教(不明) 守護の仏神と言(不明) 本碑は

聖母マリ(不明) 隠れ(不明) 墓碑ではないかとして 切支丹研究家の注目を集めている 

特異な碑で(不明) 明和7年に建立されている (不明)成十八年三月 北有馬町観光協

会」ということです。

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顔には何か文字らしきものが彫ってあるのですが、読めません。

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横と後から見た写真ですが、一枚岩からなっていることが分かります。イエスを抱くマリア

と見る人もいますが、なんなんでしょう?隠れ切支丹の遺跡なのでしょうか?とにかく不思

議な感じがする石碑です。この小さなのがこの地域にあと2,3あると聞きましたが、また

時間をゆっくりとって見にいきましょう。

(参考:「修験道とキリシタン~根井浄著)


今日のおやつ:

いつものピュアリッツさんの「はちみつのスペシャルケーキ」。

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健康診断が近いので、今日を最後として「おやつ」はしばらく辛抱します。


健康診断が心配なひとは、無事なようにおまじないのポチよ。

 

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2012年6月28日 (木)

日野江城★有馬晴信とキリシタン

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昨日、日野江城のことで少し忘れていたので。


この写真は発掘調査時の航空写真です。黄色で囲んだ所が昨日の階段遺構です。赤の

線の所に川が流れていますが、昔は入り江もかなり陸地まで入り込んでいて、この川も大

きいものだったといいます。赤線のもう少し下の所に駐車場があり、以前ここも調査したと

ころ、船を繋ぐ杭の跡があった記憶がありますから、南蛮貿易のおり、こちらの方から荷を

揚げ城へ運んだのでしょう。

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階段遺構の上の方から金箔瓦が出土しています。左側の写真は説明版に印刷されたもの

を撮ってきたもの、右の写真は多分金箔瓦が出土した当時の写真だった記憶があります。

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         (島原半島の歴史より~松尾卓次監修)

有馬晴信の像です。この像は有馬家の菩提寺である台雲寺に納められていますが、レプ

リカが、北有馬町のピロティ文化センターに置いてあります。


さて、島原半島は雲仙の修験道関係、キリシタン関係などあり、私も勉強中で下記の事に

ついては誤りがあるかも知れないので、訂正があったらコメント欄で指摘をしてください。


有馬晴信は一般的には「キリシタン大名」として有名ですが、当初はそう単純な物では無

く、「義貞(注:晴信の父、洗礼名ドン・アンデレ)が死去すると、その有馬家を継いだ晴信

は、仏僧の反抗を背景に多くのキリシタンを棄教させ、教会を焼却するとともに領内にある

十字架を切り捨てたという。」(修験道とキリシタン~根井浄著)


しかしながら、当時は佐賀の龍造寺が領地拡大を狙い、島原半島に進出し、晴信はイエズ

ス会から食料、武器の援助を受けているようで、「毎日、修道院に喜捨を求めてくるすべて

の貧者に施しを与えたほか・・・またこの目的のために定航船から十分仕入れておいた鉛

と硝石を提供した・・・・」(フロイス:日本史 第39章)。鉛と硝石というと、鉄砲に使うもので

しょう。


このため、洗礼を受けたのですが、「こうした状態に追い込まれた有馬殿は、この上は教

団と団結し・・・彼はキリシタンにならねばなるまいと考え、大急ぎで(巡察)師に洗礼を授け

てくれるように通知した。」(フロイス:日本史 第38章)


この、洗礼には側室の問題がからみ、「有馬殿は領内のもっとも重立った身分のある若い

女性を邸にかこって・・・・」と言うことで(キリシタンは一夫一妻ですから)、洗礼の予定日

が10日以上延びたようです。


さて、戦いは有馬晴信側が勝利するのですが、「既述のように、もしこのたびの戦いで(巡

察)師からの援助がなかったならば、疑いも無く(有馬殿)が敗北していたことは万人が等

しく認めることであった。」(同)


このため、見返りとしてフロイスが「日本史」に「悪魔」という表現している、キリスト教の

大敵である仏教関係に対し、晴信は、「家臣達に(たいして)(巡察)師に謝意を表して領

内から偶像を駆逐すべしと伝達した。・・・大小合わせて四十を越える神仏の社寺がことご

とく破壊された。」(同:39章)


この中には雲仙の瀬戸原にある300坊、別所にある700坊あった寺院が破壊されたもの

と思われます。(有家郷土誌:修験道とキリシタン)

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有家町にある「四面宮遺跡苑」です。この塔碑はそのとき、破壊、投棄されたものを復元し

た物ですが、組み合わせが分からず大体の所を組み合わせたものです。このほかまだ廃

棄された塔碑がたくさん残っています。

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「有馬の宝福寺、感徳院、訪福院、遍照院、・・・・・千々岩(千々石の誤り)の大泉寺・・・な

などもその破壊に遭遇したことであろう。」(修験道とキリスト教)。


上の写真が、千々石の大泉寺跡ですが、この付近家が建てられていますから本来はもっ

と広かったのでしょう。近くの家には、投棄されていた宝篋印塔でしょう。


この後、いろいろありますが、書いていけば切りが無いので又機会を見て。


最後は、晴信は岡本大八事件に巻き込まれ、甲斐国初鹿野に追放され、死罪になりまし

たが、武士の誉れである切腹は自殺になるので、自分はキリシタンであると言うことで、家

臣に首を切り落とさせます(異論も有り)。この頃には本当のキリシタンとして生きていたの

でしょう。


フロイスの日本史は面白いですよ。是非読んで見てください。


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2012年6月27日 (水)

日野江城跡階段遺構~南島原市北有馬町

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平成10年度第4次日野江城跡発掘調査で、出土された階段遺構と外来系の技術で構築

された石垣遺構です。


今日の新聞に「南島原市 世界遺産へ整備着手」「日野江城跡 歴史学習の拠点に」との

事で記事が出ていました。今まで十分な整備がなされてないため、原城跡と共に歴史学習

の拠点に位置付け、整備をし、今月から階段遺構の状況の調査に着手、遺構の復元や石

垣の改修等をするそうです。

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この階段遺構が発掘されたとき、このまま見学をさせることが出来ないかと言うことで議論

がありましたが、そのまま置いておくと風化するばかりで、今は埋め戻し、下の写真の通り

です。

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多分来られた方も拍子抜けするでしょうが、整備するとなるとこの階段遺構が中心。


この階段遺は幅5.5メートル、高さ3,3メートル、22段の階段ですが、2つの特徴があり

ます。一つは階段の所に仏教関係の五輪塔等を転用し階段に使っている事です。この遺

構はキリシタン大名有馬晴信時代のものとといわれ、いわば仏式の墓を踏まなければ

入城出来ない事になるのです。

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当時調査した実測図に合わせ、五輪塔、宝篋印塔が使われている所に、赤印をつけてみ

ました。階段が崩れているところ、階段の上の方が写真では確認出来ず、実際はもっと多

かったと思います。それまでの墓である、五輪塔、宝篋印塔がいかに多く使われているか

分かると思います。


もう一つの特徴は黄色の印をつけておきましたが、この石垣はノミ等で整形した加工石を

積み上げた布積みと呼ばれる技法で、さらに、大きさの違う切石をパネル状に組み合わ

せる技術は当時の日本には存在しない外来の技法です。南蛮貿易に力を入れていた晴

信の影響だと思われます。


今まで、原城の影に隠れるような日野江城でしたが、整備により日が当たるようになると

原城と共に脚光を浴びるようになるでしょう。


なお、今月から状況調査だそうですから、発掘まではまだ時間がかかるでしょうし、発掘が

終わったら現地説明があると思いますから、今から楽しみですね。

(参考:日野江城説明版・長崎新聞 )


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2012年6月26日 (火)

チン釣り石~雲仙市千々石町

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千々石川の中に、カッパが座った大きな石があります。場所は千々石の温泉神社のすぐ

横です。小浜町雲仙の「温泉神社」と関係があり、由緒ある神社です。

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この石は「チン釣り石」といいます。「チン」といっても「チン○コ」とは関係ありません。標準

語で言えば「チヌ(黒鯛)釣り石」です。

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チヌというと海の魚ですから、川で釣れるはずはないのですが、信じられないことですが、

昔はここらあたりまで海岸であったそうです。


郷土史家の方と話をしていたら、本来はこの石は「チン釣り石」ではなく、もっと大きな石が

この橋の所にあったそうです。この橋は昔は無かったそうですが、川の拡幅と橋を架けた

ため、その石は撤去してしまったそうです。その工事を請け負った会社の社長が、後年こ

の石の上にカッパの像と説明碑を設置したそうです。

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昔は橋がなかったので、飛び石で川を渡っていたそうです。この川の上流に何カ所か見受

けられます。

P6260383


謂われについては、昔、四面宮(現温泉神社)が千々石に鎮座するにあたり、お祝いの魚

をこの辺で釣っていたところ、魚が釣れず、その時、一組の老夫婦が、「鯛は釣れたなー」

と言いながら、大石の上に座って、大きなチヌを次々と釣り上げ、「お四面様へのお供え

と、お祝いの酒肴に」と言うことで立ち去ったのですが、その後ろ姿がカッパに似ていたそ

うです。と言うことででカッパがここに座っています。


その他、2,3のバリエーションがあるのですが、説明の碑があるのでそれを基に書いてみ

ました。この、カッパさんと説明碑は平成16年、比較的新しく設置されたものです。


先ほどの郷土史家の方は、小学校の時遠足に来たときに、少し違ったバリエーションです

が、学校の先生から聞かされたそうです。

先生、「あん石しゃチン釣り石というて・・・」

生徒、「先生、嘘ばっか、こげんとこ(こんなところ)で海の魚が釣れるわきゃ無かたい。」

先生「うんにゃ(いやいや)、昔しゃ、ここんとこまで海岸で・・・・」

ということで話を聞いたそうです。もちろん先生は地元の方です。勝海舟、坂本龍馬が通っ

たのではないかと言う、千々石断層の中腹を走る「早駆け街道」の話も聞いたそうです。



長崎県は今や広域人事で、通勤の先生ばかり。学校の指導も忙しく、勤務校の地域のこと

も知らない方ばかりのようです。学校で副読本も作っているのですが、娘が使った小学校

3,4年生の副読本を読んでも、どうも、知識に偏った感じ・・・


本当は、民話、言い伝えなどの中に、柳田國男「遠野物語」のように地域の文化があると

思うのですが。地域の人が頼りですが、地域の人も段々忘れていく話ばかりで、この石の

上のカッパさんが無かったら、私もこの石のことはまったく知らなかったでしょう。


とにかく、若い子は「温泉神社」と言うと、「昔は温泉が湧いとったとね。」という時代。知っ

ていることは何とか伝えて行きましょう。



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2012年6月25日 (月)

田植え風景今昔~雲仙市千々石町

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今の田植えの風景です。去年も書きましたが、今の田植え、ほとんど機械ばかりです。トラ

ックターで整地、田植機で田植え、ほとんどの田が2~3人。田植機が入らないところを手

植えをします。田植機は一年に一回の出番です。

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昔の田植えと、稲刈り風景。集落でまとまって、今日はAさんの所、明日はBさんの所と共

同してやっていたそうです。今はもうこの風景は見られません。


農作業は機械化で随分楽になったようですが、機械の借金に追われているみたいで大変

なようです。トラックターは一家に大小2台持っているところもあります。

素人から見ると、共同購入して使えば楽なのになと思ったりするのですが・・・

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もちろん昼食も、共同調理で

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食べるのも一緒。多分話がはずんだでしょう。

驚いたことに、

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昭和15年の写真ですが、農繁期の隣組における託児所があったことです。こどもが5~6

人は普通の事ですから、子どもの多いこと。でも、ちゃんと隣組で子どもを見るのは、今の

時代より進んでいるんじゃないでしょうか。


冠婚葬祭もここ数年大きな葬儀社ができて、近所同士助け合う事も少なくなりました。葬式

の時は近所同士炊き出しをしたり、準備をしたりしながら、大変でしたが、いろんなことを話

したものです。今は、近所同士顔を合わせるのは、1年に2~3回の自治会の話し合いの

時だけ。近所の子どもの顔さえ知らなくなっています。


不況を別にすれば、なんにしても楽な時代になりました。きつい労働、貧しい暮らし、「昔は

良かった」という気はありませんが、昔の写真を見ていると何か、ほのぼのと楽しくありま

せんか?


今日のおやつ:

いつも、長崎の行き帰り、諫早市戸石にある「ルイーズ」さん、気になっていたので、「ホワ

イトムース」だったかな。少し小ぶりの上品なケーキでした。

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2012年6月24日 (日)

この一曲~夜が明けたら★浅川マキ

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浅川マキ、独特の声で一世を風靡した歌手です。


これCDですが、CDの音質についてはあまり好まなかったとのことで、聴き返してみると、

やはり浅川マキの音楽は、針を落としてレコードで聴くのがピッタリですね。


「時には母のない子のように」という歌がヒットしましたが、高校時代には父と母を亡くした

伊奈かっぺいさんは「時には母のある子のように」、なんて詩を書いています。「時には母

のある子のように 黙ってないで海を見つめていたい 時には父のある子のように みんな

で旅に出てみたい・・・・・」。


長崎市で酒飲んで、バスのターミナルで千々石(ちぢわ)行きのバスの乗ろうとしたら、隣

に京都行きの夜行長距離バスが停まっていて、思わずそちらのバスのスッテップに足をか

けようとしたのですが、結局は千々石行きに乗ってしまいました。あの時、向こうのバスに

乗っていたら、今の人生どうなっていたのか。


何もかも捨てて、別の土地で、別の人生を送りたいと思うのは、私だけでしょうか。今となっ

ては年で、体力も気力も無く、かみさんに縋(すが)って生きている毎日です。



夜が明けたら


夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

切符を用意してちょうだい

私のために一枚でいいからさ

今夜でこの街とはさよならね

わりといい街だったけどね


夜が明けたら一番早い汽車に乗って

いつかうわさに聞いたあの街へ

あの街へ行くのよ

いい人が出来るかもしれないし

ンーあの街へ行くのよ


夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

切符を用意してちょうだい

本当に本当よお 一枚でいいのよ

いつだって身軽なあたしじゃない

そうー乗るのよ

(浅川マキ作詞・作曲:山本幸三郎編曲)


You Tubeに、この歌を歌っている映像がありました(一番だけですが)。ビリー・ホリデイー

についてラジオで語っているのもありましたが、浅川マキさんファンの方は聞いてみてくだ

さい。浅川マキが目指していたものが分かると思います。

2010年1月17日、急性心不全にて逝去。67歳の人生でした。



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