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2012年5月6日 - 2012年5月12日

2012年5月12日 (土)

橘神社から弘法原へ旧道を歩く★龍馬が歩いた道???

      Photo_3

        (島原半島の歴史 監修・松尾卓次より)


坂本龍馬、勝海舟が、熊本から島原へ渡航したのは万治元年(1864)二月二十二日、

その日のうちに、愛津村庄屋深浦家(現島原市愛野町)で一泊しています。

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いまは、民家になっておりますが、一周すると石垣などは昔を偲ばせるものがあります。

昨年は龍馬ブームで訪れる人が多く大変だったみたいですが、伊能忠敬も泊まったと言

われております。


坂本竜馬が島原から愛野まで来る道は、近道だと雲仙を越えていくか、有明海の道を通

って来るかですが、帰路については「神代鍋島家日記」で「(四月五日、小雨のち晴)最前

長崎へ罷り越された公役人が今昼当所で休まれ(略)休所手当いたす。一、御軍艦奉行

並勝麟太郎上下弐十人」(島原半島の歴史 監修・松尾卓次)となっていますから、海側

の道を通ったでしょうが、長崎まで行った道については記録がないみたいですが、どちら

にしても健脚だったのでしょう。

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さて、いつも気になっていたのがこの看板(龍馬が歩いた道)、弘法原から千々石の方に

降りることになっていますが、島原から来ると、島原~雲仙~田代原になりますが、田代

原からは小倉という地区に降りる道と、吾妻岳の横の自然歩道を通ってここへでて、急

坂を下る道があります。


伊能忠敬日記には「田代で野陣昼休み。千々石村小倉名内大堀、(略)右に釜蓋城、千

々石大和考古城・・・」(新島原街道を行く 松尾卓次著)と書いてありますから、田代原~

小倉に下る方に街道があってこちらを通ったはずでしょう。なお、この看板の道を下ると

釜蓋城は左になるはずです。この看板あちらこちらに立ててありますが、しっかり調べて

ほしいものです。


この、千々石~弘法原~田代原は、自然歩道になっており、季節の良いときにはよく歩い

ている人の姿が見え、また、雲仙山系は山岳競技の場所でもあり、高校生などがインター

ハイ近くになると練習のためか良く通っています。


地元の人間でもあり、一回は登ってみようと。なお、近くのおばあさんと話をしていると、小

さいとき、弘法原(いまは牧場の里と言っています)まで、この道を通って、牛の世話をしに

行っていたそうです。女の子のが行ったのならと、気軽に考えて・・・・昔の人は強かった。


案内がてらに写真を貼っておきます。出発は橘神社です。神社の鳥居から少し行ったとこ

ろ。弘法原との表示板が、少し分かりにくいので要注意。後は中学校のグラウンドの崖沿

いに進みます。後は表示版通りに行くと間違いありません。

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岡東(おかとう)という地区に入るとすぐに神社があります。そこから少し行くと三叉路にな

ります。赤印の道を行きます。ここから上り坂になりますが、登ったところ日向平線(ひな

たびらせん)という道路に出ますから、ここを右に、ここは両方とも表示版がありませんか

ら迷わないように。

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赤い四角いところ、さっき書いた岡東地区の神社です。これからに比べれば、たいしたこ

とはありません。

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入ってしばらくは草が茂り、荒れていますが標識は点々立っていますから、道は間違うこと

はないでしょう。よく見ていくと、道が崩れないように、石垣が組んであります。千々石から

弘法原、吾妻町方面への主要道路のひとつだったのでしょう。

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さて、やっと着いたところです。時間にすれば、1時間~2時間くらいでしょうか。でも、私、

登りは良かったのですが、下りに関節を痛めて・・・なお、元気ある方はここから田代原

へ。


まあ、できれば、すぐに駐車場がありますから、何方か頼んで車で帰った方が無難かな。

田代原までは別の日にして、牧場の里でゆっくり遊んで。

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駐車場と龍馬の看板です。右側がすぐ道の出口になります。

今からは草が茂り始めますから、出来れば秋が良いでしょう。なお、ここらあたり、イノシシ

の罠がたくさんありましたから、間違って入らないように、要注意。


なお、岡東までにキリシタン地蔵がありますから興味ある方は→こちらクリック

吾妻の里は→こちらをクリック





2012年5月11日 (金)

かいじゅうたちのいるところ~モーリス・センダック

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柳田邦夫さんが、「砂漠で見つけた一冊の絵本」でこう書いています。「人は人生において

三度、絵本や物語を読み返すべきではないかということだ。多くの人は、自分が幼いとき

と、親になって子どもを育てるときの二度、絵本や物語を読むだけで、子どもが成長すると

そういう本には目を向けなくなってしまいます。しかし、たとえば『フランダースの犬』が語っ

ている、死の受容に欠かすことのできない『自らの人生への納得』という普遍的な問題の

重要性について、本当に自分の生き方にまで結びつけて読み取るということは、人生後半

になってからか厳しい病気を背負うようになってから読まなければ、なかなかできないこと

だと思う。

 つまり、人生後半になって絵本や物語に親しむのは、その人の内面的な成熟に結びつく

営みだと、私はとらえている。」


先日、5月8日、モーリス・センダックさんが死んだというニュースが流れました。「かいじゅ

うのたちのいるところ」は、子どもが小さいときに読んでやったなと思いながら、懐かしく思

い図書室から借りてきました。


考えれば、子どもに読んでやるときは、どうして興味を持たせようかということばかり考え

ながら読んでやって、中身まで十分に考える余裕もなかったのですが、今回ゆっくりと一人

で読んで見ると本当に良い本ですね。

P5110177

じっくり見ると、ダイナミックでありながら、怪獣の毛皮の一本一本の線の繊細な描写。こ

れ見ているだけで楽しくなってきます。


子どもの頃は、自分が忍者になって崖から飛び降りたり、ままごとごっこでお母さんになっ

たり、プラモデル同士を闘わせたり。この本を読んでいると、大人になった自分の空想力

が、いかに細ってきたかを感じます。半日間絵本を眺めていたら、心が軽くなったような気

がしました。絵本を無心で見ていると精神的にも良いのかな?


ところで、植えていた空豆が空を向いてきたので(下を向いた豆が、だんだん上を向いて

空を向くので、空豆といいます。)試しに10本ほど取ってきたら結構、中身が入っていまし

た。

P5100162

今日ぐらい、全部収穫(といっても7株程度)しようかと思っていたら、知り合いの人が、「食

べんね。」と、袋一杯持ってきてくれました。

旬のものは体にも、味も良いのですが、同じ時期に実るので、いつもあちらこちらから頂

いて、ありがたくはあるのですが・・・夫婦二人では・・・




2012年5月10日 (木)

釜蓋城ぬけ穴か?~雲仙市千々石町

Photo

先日、橘神社の裏山の釜蓋城のことを書きましたが、(釜蓋城→こちらをクリック)上の写

真は展望台であって、こんな天守閣を持っていた城ではなく、いわゆる山城です。


この展望台を作るにあたっては、天守閣を持った城と勘違いされるから止めてくれと、某

所からクレームがあったとか仄聞しましたが・・・・


さて、先日の常会のおり世間話をしていたら、うちの畑に何のための穴か分からないのが

あり、調査にも何回か来て、どうも釜蓋城への抜け穴ではないかとの話であったとか。

とにかく穴ときけば・・・

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畑の所に確かに穴が。

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下の方は土でかなり埋まっていますが、はやり変な感じの作り方。いつの頃からあったの

か、いわれ等も伝わっていないとか。


中の方もちゃんと石が組んでありましたが、数メートル行った所で岩みたいなのが崩れ落

ちて、ふさがっていました。人がしゃがみながら行ける程度でしょう。

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下の写真の後方の森が釜蓋城になり、穴の方向は城の方向を向いています。

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穀物の貯蔵庫ではと思ったのですが、それはないとか。


この釜蓋城には抜け穴があったという話は数年前聞いたことがあるのですが・・・

今は、山が削られグラウンドになってしまいましたが、このグラウンドの一角に雪が降って

も積もらないところがあるとかで、ひょうっとしたらと関係あるのではないかと言う話でし

た。

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瑞穂町の杉峰城にも抜け穴らしきものがあるとか。城と抜け穴、何となく良い取り合わせ。


考えれば、ここは千々石ミゲル(天正遣欧使節)が幼少時、龍造寺から攻められ逃れ延び

た城。龍造寺は2万の兵を神代(雲仙市国見町)に集めたといいますから、この、小さな城

を囲まれてしまうとそう簡単には抜け出せないでしょう。ひょっとしたら、この抜け穴から逃

げ出したと考えると感慨深いものがありますね。歴史は、推理とロマンですから、楽しく考

えましょう。


    参考:「千々石郷土誌」「瑞穂町誌」



2012年5月 9日 (水)

島原藩・諫早藩~藩境石塚★雲仙市愛野町

先日、諫早市森山町唐比の佐嘉藩(佐賀藩)の境石の事を書きましたが、調べればいろ

いろあるもんで、今度は島原藩と諫早藩の藩境石塚があるとか。藩境石塚とはなんぞや

と好奇心が。「山を越え」と書いてあるので、また山かと思いながらも出かけて見ました。


   惜春やたまに行きたいキャバクラへ sugikan   お粗末な句ですみません。 


場所は、ブログで良く出ている、昭和13年に廃線になった雲仙鉄道跡のすぐ近くです。も

し、雲仙鉄道を辿る機会があったら、ちょっと寄って見てください。面白いですよ。


目印は「プラスナイロン」目立つ看板です。ここから、山王自然公園、日吉神社に行けま

す。すぐに道が分かれていますから、プラスナイロンの方向、右の道を取ってください。

Photo Photo_2

「プラスナイロンの入り口右手山の中」と書いてあったので、また、山の中を捜すのかと思

っていたら、プラスナイロンのすぐ手前に、標識と看板が立っていました。さすが、愛野町

(あいのまちと読んでください。あいのちょうと言ったら叱られたことがありました)。

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さて、山の中のどこらあたりかと、林の中に入ったら何のことはない。すぐにありました。

Photo_4

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上の2枚の写真と、下の2枚の写真の違い分かりますか。上の2枚は四角形、下の2枚は

円形。これは、四角形が島原藩、円形が諫早藩だそうです。


記録によると、42カ所あたっとの事ですが、現存しているのjが31カ所。島原藩は18カ

所、諫早藩は13カ所が確認されているそうです。辿って行くと、愛野町の中野方面まで

1,5㎞辿れるそうです。行ってみようかと思ったたのですが、イノシシの跡がたくさんあり、

蛇さんが出てきそうだし、加えて、先日無理して、島原街道の山道を歩いて、関節を痛め

(歳のせいか)思うように歩けず、今年の冬にまた来ることに。藩境石塚は初めて見たの

で感動しました。ここが、島原藩と諫早藩の境か!


なお、これが積まれたのは、島原藩、有馬晴信、諫早藩、初代龍造寺家晴のころ、約40

0年前、天正年間から慶長年間頃ではないかと考えられるそうです。

本来、まだあったのでしょうが近年畑の石に使われたり、道路工事などで何カ所かは壊さ

れたのではないのでしょうか?多分、山の中で奇跡的に残っていたのでしょう。



■ 参考:愛野町郷土誌(増補改訂版)




2012年5月 8日 (火)

大根のワサビ漬けレシピ~ビールのおつまみに、ご飯に

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数年前、息子の嫁をもらいに沖縄まで行ったのですが、やはり、緊張しました。相手のお

父さんがざっくばらんな方で、趣味も何となくあって話が弾んで、嫁取りの話はどこへや

ら。


サーターアンダーギーが出てきて、これが手作りでおいしかった。そのうちビールでもとい

うことで、おつまみに出てきたのが、手作りの大根のワサビ漬け。これまた結構なお味で、

レシピを習ってきたのでご紹介を。


材料:

・大根              一本

・砂糖       500g

・塩        50g

・ワサビ粉    50g

・ミツカン酢   500mlの2分の1

・ビール     350ml缶ビールの2分の1(ノンアルコールはもちろんノン)


後は簡単。まず大根を適当に、お口の大きさに合わせて拍子木に。

ちょっと雑過ぎか。右の包丁は、私の包丁で1万円。

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あとは、他の材料を一緒に混ぜますが、砂糖が少し多いので、若干少なくして後で調整し

た方が良いみたい。ワザビも同じで、好き好きで、多くしたり、少なくしたり、ご自由に。

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あとは、適当な入れ物に入れてできあがり。

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大根一本は多すぎるので、半分使いました。それに合わせて、調味料も半分に。


ビールの使い残しは飲みたかったけど、ドクターストップで飲めないため、ナメクジの駆除

用に。あれ、面白いんですよ。適当な入れ物にビールを入れて外に置いておくと、ナメクジ

が夜に寄ってきてビールを飲んで酔っぱらって、おぼれ死にするんですけど・・・


後は、すぐ食べると大根のシャキシャキ感と、甘酸っぱさと、ワザビのピリッとした感じが、

うまくマッチして美味。時間をおくと、中まで味が沁みる込んで、これまた美味。これから

の、夏のビールのおつまみにピッタリです。大根はカロリーが少ないから良いですよ。もち

ろん、ご飯のお漬け物にも。アルコール分は時間がたてば抜けてしまいますから、アルコ

ールに弱い方もご心配なく。

それにしてもビール飲みたいな。beer





   

2012年5月 7日 (月)

諫早の織部灯籠二基(キリシタン遺跡?)~長崎県諫早市

3

諫早方面に織部灯籠、別名キリシタン灯籠というのが二基あるというので、見にいってみ

ました。島原城の二階にもあるのですが、やはりこういうものは現地で見ないと。


一基は、諫早の運動場近くのパチンコ屋の横の栗面(くれも)橋を渡渡ると、すぐにきれい

な花壇があります。

1

青の線の方向に行くと天祐寺、眼鏡橋方面、ここを右に入ると、赤の四角のところに、他

の墓碑と共に立っていました。

2

一番左側ですがこちらは裏側から見たところになります、前面は一番上の写真です。、

笠、火袋、中台はありません。以前の写真を見ると宝珠もなかったみたいなんですが、本

来の宝珠か、どこからか持ってきたものかは分かりません。


織部灯籠はご存じのように、戦国大名、古田重然(一般には茶人古田織部としての名前

が有名)が、茶室用に考案したものと言われています(異説有り)。


竿の上部が膨らみ遠くから見ると、十字架にみえること、竿の中央部に神父、聖人に見え

る像が彫られていること、膨らみのところにローマ字らしい記号が刻まれていること等から

キリシタン灯籠ともいわれ、隠れキリシタンとの関係も考えている方もおられます。


下の写真、神父さんみたいな像が分かると思います。ローマ字らしきものは分かりません

でした。

4_3

さて、もう一基は、諫早観光ホテル道具屋の道を隔てた裏側。金谷町公民館の横に稲荷

社(鳥居には安政六年と彫られてありました)がありますが、そこに飾られていました。

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いろんな、地蔵さんや祠が並んでいましたが、近所にあったのをまとめて祀ったのかな?

全部詳しく見なかったのでよく分かりませんでしたが。

ここに、一基。

6

こちらも最初は、竿の部分だけだったらしいのですが、町内の方が中台から上を付け足し

て作ったそうです。

7

はやり竿の部分に人の形が。


本来、諫早地方は当時の伊佐早の西郷氏がキリシタンを頑として受け入れず、キリシタン

とは関係ない地方だと思われていたのですが・・・


しかし、、織部灯籠自体諸説有り、ここのものが、禁教前のものであったのか、禁教後の

ものか、キリシタンと関係あるのか無いのか、ただ単に茶室等の飾りとして使ったのか、こ

こらあたりの昔の状況などを考え合わせなければ分からないのでしょうが・・・


なお、千々石にも「神父像(キリシタン遺跡)」というのがあるのですが。

P1040397

何となく似てると思いませんか?

一応金屋町公民館の説明版も張っておきます。(クリックすると大きくなります。)

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さて、皆さんの推理は如何に。


参考: 「諫早を歩く」 山口八郎著




2012年5月 6日 (日)

この一曲~沖縄で聞いた話★伊奈かっぺい

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少し早いのですが、1975年(昭和47年)5月15日、沖縄が日本に返還された日です。

この頃になると、伊奈かっぺいさんの「沖縄で聞いた話。」を思い出します。

「この一曲」といいながら歌ではなく、このCDのライブコンサートで読んだ詩ですが。





沖縄で聞いた話。


学校の先生が言ったー

 あすから沖縄は日本になります

 何もかも、日本と同じになります

ひとりの子どもが言ったー

 先生、それじゃ


あしたから沖縄にも

雪が降るんですね・・・。


笑えなかった


 出来るなら

 降らしてやりたいと

 思ってしまった。




あの頃の事を知っている人には、本当に笑えない話です。日本人が、沖縄の方がいかに

に切実に沖縄返還を望んでいたことか・・・・



沖縄は今基地問題で揺れています。早く、平穏な島になって、子どものために雪が降ると

良いのですが。うちの息子の嫁も沖縄出身で、雪の降るのを見たことがないとか・・・





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