« 2012年4月8日 - 2012年4月14日 | トップページ | 2012年4月22日 - 2012年4月28日 »

2012年4月15日 - 2012年4月21日

2012年4月21日 (土)

雲仙鉄道 その8~竿御前と山伏の墓

1

今日は、雲仙鉄道跡周囲であまり目立たない所と、まったく気がつかないところ2カ所を紹

介したいと思います。ひとつは「竿御前」です。あまり標識が目立たないせいか、見落とし

が多いようです。場所は終点の肥前小浜駅から200m~300m手前から海の方へ、少し

入ったところです。目印は下の写真、赤い四角のところに標識が立っています。


一番上の写真のように両方に立派なのが立っています。右はコンクリート製、、左は木製

ですが、この木製のリアルなこと。男の私でさえ思わす頬ずりしたい感じ。コンクリーの方

は昭和47年、木製は昭和55年なっていますが、多分古くなったのを立て直したのではな

いでしょうか。木製の方は誰か、あやかろうと思ったのか、上の方がかじられていました。

(絶体私ではありません。)

2_2 Cimg1242

この、真ん中の石像は「さよ姫」だそうです。

3

この笠を持った「さよ姫」は、この近くの山領にも立っています。


「小夜姫」「佐用姫」「さよ御前」「竿御前」いろいろ言い方があるみたいです。「道祖神」だ

そうですが、「さよ姫」にはいろいろまつわる話があるようです。北有馬にも「さよ姫」神社

がありますが、ここの話とはまた違った話のようで、松浦の有名な「作用姫」とどんな関係

があるのか?


真ん中の像、比較的新しいようで、ひょうっとしたら、右の方が元来あったやつなのかな?

よく分かりませんが・・・


さて、もう一つ絶体に見つけられないのが、山伏の墓。

4_2 5_2

千々石から行くと、1番目のトンネルと2番目のトンネルの間、写真の赤の四角のすぐ下

の所です。最初は何かと思ったのですが。文字を見てみると。

6

「改 昭和五年十一月十二日建之 小濱鐵道株式」。「改」と書いてあるには、改めてここ

に立てたということでしょうから、古くなったから立て替えたのか、別の場所にあったのをこ

こに立て替えたのか。何だろうと思って、裏(本当は表)を見るとビックリ。

7

「山伏之墓」の銘。真ん中の文字は「南無妙法」までは読めるのですが、「南無妙法蓮華

経」ではなさそう。

でも、なんで小濱鐵道が山伏の墓を立てたのでしょう?ここらあたりでは、山伏の話は聞

いたことがないんですが。有明町には山伏の墓というのがあって。

9

こんな感じです。


ひょうっとしたら、工事中に何かあったのかとは思ったのですが、ここの開通は昭和2年。

昭和5年に建てられたのですから開通して3年目。また、山伏は海ではなく山で修行をす

るもの。ひょうっとしたら山の中に何かないかと探したのですが、あるのは荒れ果てた畑の

石垣ばかり。


だだ、ここの道路の横の山を登ると釜山から猿葉山へ抜け、猿葉山には猿葉稲荷があ

り、雰囲気的には石に囲まれ修行には適当な場所ですが・・・


もしかしたら、有明町みたいなのがあって、工事に邪魔なので取り壊したのかな?あの時

代、文化財とか遺跡には一般的には関心のない時代でしたから。

小濱鐵道の資料があったら何か記述してあるのでしょうが、資料が全然なくて・・・

何でしょう、小濱鐵道株式会社と山伏の墓の関係は。


さて、偶然、長崎日日新聞を見つけて、雲仙鉄道のことを書き始めたのですが、ただ単に

駅名の標識を辿るだけではなく、ここの鉄道敷設の大変さ、また、周囲の話など知ってお

いた方が面白いのではないかと思い、書いたのですが、何となく話があちらこちらにいっ

て、来たことがない方には分かりにくかったと思います。こちらに興味をもって来られるとき

に、参考にしていただければと思います。


本来は、温泉鐵道(愛野~千々石)、小濱鐵道(千々石~小浜)に分けて書かなければな

らないところもあったのですが、統一して雲仙鉄道にしました。愛野~千々石間について

は、まだ、分からないところがあり、後日ぼちぼち調べて見たいと思っています。


なお、富津については別に書いておりますので、そちらをご覧下さい。

一応、雲仙鉄道はここらで終わりたいと思いますが、また、なにか新しい発見があったら

アップします。堅い話ばかりになってしまい、本当はナンパ路線でいきたいのですが、性格

が性格で困ったもんです。


●富津関係

千々石町~小浜町・汽車道・緑のトンネル・六角井戸は→こちらをクリック

愛宕山神社(雲仙市小浜町)~絶景かな絶景かなは→こちらをクリック

富津弁天公園(雲仙市小浜町)~六角井戸に来たならば・・・は→こちらをクリック


参考:「小浜町史談」「おばま~史跡巡りガイド」


雲仙鉄道その1~その7までは左のカテゴリー「雲仙鉄道」をクリックしてください。





2012年4月20日 (金)

雲仙鉄道 その7~雲仙鉄道と戦争遺跡  付録:諫早市森山図書館の牡丹

Photo

愛野から千々石に抜ける海岸道路ですが、ここが雲仙鉄道が走っていた跡です。右手を

見ていただければ分かると思いますが、まったくの絶壁でこれが千々石断層です。今で

も、大雨、台風がくると岩が崩れ、すぐに通行止めになります。左の海の方岩がゴロゴロし

ていますが、干潮のときはもっと沖の方まで続いています。多分、線路を引くときも岩だら

けで大変だった事がうかがえます。


数十年前は、この道は草だらけで通れたものではありませんでした。整備するにあたり、

道路は愛野町と千々石町にまたがり、千々石側は諫早へ行くというメリットがあるものの、

愛野には何の利点もないということで多少もめたことがあったような記憶があります。


さて、この廃線になった鉄道跡に戦争の遺跡があります。これを知ったのは以前紹介し

た熊本の戦争遺跡研究会から出している「子供と歩く戦争遺跡 Ⅲ」でした。

Photo_2

千々石の方から行くと最初のトンネル。

Photo_3

この右側のフェンスが張ってありますが、横から入ると。

Photo_4

このフェンスは完璧に入れませんが、中を見ると。

Photo_5

岩盤を掘った跡があります。これをトンネルの中20メートルほど入ると補修した跡が分か

ります。トンネル側から、上の写真のように岩盤を掘っていったもので、ここに砲台があっ

たといいます。廃線になったトンネルを利用したものです。

Photo_6

砲台の射線は千々石の海岸を向いています。多分上陸する敵に向かってのものだと思わ

れます。


もう一つ、線路とは離れますが、愛野~千々石の峠の展望所にレストランがありますが、

その下にも砲台跡の穴があり、横6m、高さ5m、奥行き4mあったそうです。近くの土産

物屋の方に訪ねたところ、子供の頃そこで遊んだことがあるとか、場所を聞いて調べよう

と思ったのですが、ちょっと入れる状態ではなく、また、機会を待ちたいと思います。

こちらの射線も海岸に向いているそうで、本土上陸決戦に備えたものでしょう。

Photo_8 

この、両方の砲台は第103分隊の稗田秋儀兵曹長の部隊であったそうです。


あと、富津付近の戦争遺跡については、以前書いておりますので→「戦争遺跡~額栗石

をクリックしてください。

汽車道跡の小浦バス停付近に案内板がありますが、書いたとおり、たどり着くのは困難で

しょう。

Photo_9

なお、千々石の釜山にもあると書いてありますが、これは確認出来ませんでした。もっと

も、山頂に設置してあったなら、今は「千々石少年自然の家」が建っているので、なくなっ

てしまっているでしょう。


あと、雲仙鉄道とは関係ありませんが、島原半島の橘湾沿いには、南串山町京泊の港に

震洋の基地、これも以前書いていますので→「戦争遺跡~雲仙市南串山京泊漁港」をク

リックしてください。もう1カ所、加津佐の岩戸山に砲台があり、四十五口径十五糎砲」4台

が設置される予定であり、3基がほぼ完成、一門はいつでも発射が可能だったそうです。


これらの遺跡も残念ながら段々忘れられてしまう存在かも知れません。トンネルの砲台跡

はすぐに見られますので、鉄道跡を走る折はご覧下さい。


付録:

今日、諫早の森山図書館に行ったら、あちらこちら牡丹が咲いてきれいでした。

   立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 

と言いますが、昔は、うちのかみさんも・・・・

Photo_10 Photo_12

Photo_13 P4200033

ウォーキングロードいつもきれいです。早場米は田植えが終わっていました。

Photo_14 Photo_15

参考:「子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ」~熊本の戦争遺跡研究会編


雲仙鉄道その1~その6はカテゴリーの「雲仙鉄道」をクリックしてください。


2012年4月19日 (木)

雲仙鉄道 その6~昭和2年の長崎日日新聞による★養生客と不養生客

P4190005

今日は、野菜の苗を見に園芸店へ、さすがプロとはいえ見事な花のオンパレード。きれい

な花には虫が付くとか。温泉場も同じようで・・・


肥前国風土記に「峰の湯の泉。郡の南に在り。この湯泉の源は、郡の南高来の峰の西東

の峰より出で、東に流る。流るる勢い甚多に、熱きこと余の湯とことなり。但、冷き水と和

ふるすなわち沐浴ふること得。その味ひ酢し。硫黄・白土、及和松あり。」とあります。雲仙

のことでしょうが、小浜も同じような状況だったのでしょう。


さて、新聞によると「昨年中(昭和元年)の浴客は、警察署に届出た分のみで日本人十五

萬人、外國人五萬人といふ延人員を数へ・・・・」と言いますから、警察に届けなかった人

員を入れるとまだ多かったのでしょう。交通手段が現在とは比べものにならない時代で

す。参考に平成24年1月末の基本台帳にもとずく長崎市の人口が441,466人です。


小浜までの鉄道がなかった時代、茂木からの海路をとるか、諫早で汽車を乗り換え愛野

まで、また乗り換え千々石まで。千々石から千々石登山道路を利用。なお、この、鉄道が

出来てからは海路をとる客は激減したそうです。まあ、長崎市内から茂木までも結構あり

ますから。


しかし、この時代20万人の客とはかなりの人数ではないでしょうか。特に、この中で5万

人が外人であったとは、いかに人気があったかが分かると思います。なお、雲仙が外人客

に人気があり、かなりの外人客が小浜から雲仙に流れていったものと思われます。


さて、ここから新聞記事になりますが、要約すると、最初は浴客を収容する設備はなく、付

近の農漁民が業務の閑散な折に集まって小屋掛して湯治したものが、慶長年間本多(湯

太夫)島田家両家が移り住んで浴客のために長屋を建てたのが湯町の始まり。嘉永安政

の頃は木賃宿十三軒を数え、今や大小50軒(昭和初期)の盛況を呈したと書いてありま

す。


さて、ここからが面白く、

「浴客も最初は病氣保養の人々ばかりであったが、遊覧地として、不養生の浴客も次第に

數を增し、是等不養生客の要求に應ずべく、料理屋も十五軒あり、藝妓十三人、酌婦五

十四人が紅白粉で媚びを賣つて居る。藝妓の線香代は三十分で一本で五拾䬻、都合一

時間壹圓で。紅燈の蔭に戀が咲くのは遊覧境のならはしで、従って厳重な檢黴がおこな

われている」

「不養生客」「酌婦」「線香代」「紅燈の蔭に戀が咲く」なんとも昭和初期という気がします。


今、小浜、雲仙は不景気でだんだんさびれてきています。大きなホテル、旅館も店を閉め

るところが出てきています。地元は必死で努力をしていますが、また、昭和初期のような活

況を呈してくれればいいのですが・・・

さて、新聞記を中心に6回書いてきましたが、新聞に載っていることは大体書きましたの

で、新聞記事を離れて、知ってもらいたいことがあと少しありますので、我慢してあと2,3

回、おつきあいのつきいのほどを。


島原鉄道 その1~その5はカテゴリーの「島原鉄道」をクリックしてください。




(参考:新編日本古典文学全集 小学館 訳/植垣節也)


2012年4月18日 (水)

岩戸神社(パワースポット)のばくち穴&春祭~雲仙市瑞穂町

1_2

今日も雲仙鉄道の続きをと思っていたのですが、ちょうど岩戸神社の「春祭」があるという

ので出かけました。もう一つ目的もあったのですが・・・


先日、瑞穂の知人と会って、岩戸神社の事を話していたら、あそこは、昔、博徒が集まっ

て博打をしていたという話があるとのこと。今でこそ、車ですぐ近くまで行けますが、昔はひ

どい山道を歩いて来ていたと聞いていたので、まさかそんな馬鹿なと思っていながらも、

「瑞穂町誌」を読んで見るとちゃんと、「ばくち穴」として記載があり、穴と聞いては・・・


再度、知人に場所を聴いたのですが、かなりの急斜面とのこと。転げ落ちないようにとの

忠告も。考えてみて、もし転げ落ちても、平日は人が来るところでないし、助けも呼べない

し、日曜日なら、まあ、人が来るのでそうしようかと思っていたら、偶然に今日4月18日が

春祭りという情報。


祭と行っても、地区の人が集まって、氏神様に祝詞を上げて、直会ぐらいですが。これなら

万が一の事があっても助けてくれる人があるなと出かけました。


町史によると、「・・・その崖の左端部に入り口が北向きにある。その洞窟を古くから『ばく

ち穴』と呼んでいる。近郷から博徒が集まり、そこに隠れて博打をしたからその名称がつ

いたものだといわれている。また原始、古代の穴居生活の遺跡か、キリシタンの隠れ場所

ではなかったかともいう。」と書いてありました。

3_2

行って見ると予定どおり、地区の方が。これなら人が居るから万一のことがあっても大丈

夫。念のため場所を聴いてみたら、一人よく知った方がおられ、場所を確認。神社の横、

少し降りたところに2つの穴がありますが、その横から登って、頂上に出る少し前のと

ころで右に曲がった所だとか。


写真のような急な所を、途中でくじけそうになりながらも、100メートルばかり登って、右手

の崖を見ると。

4

四角の赤く囲んだ所、らしく見えたので行ったら。

5

確かに洞窟が。手前が少し狭いが広場みたいな感じ。

6

大人が入っても10名程度。自然に出来たものではなさそうな感じ。また、博徒がとは何

となく考えにくい。隠れ切支丹については、以前「隠れ切支丹聖堂跡か?」でも書きました

が、ここも、可能性がなきにしもあらずでしょう。同じ町内ですから。あと、考えられるのは

修験道(山伏)の修行場所跡か?


ただ、この穴の左の方に写真では分かりにくいのですが、何となく人手で積んだような石

が。とにかく何かに使われいたのは感じられました。

7

さて、また下っているとちょうど神主さんが来て祝詞の最中(一番上の写真)。

もちろん私も加わって。祝詞が終わると終了かと思うと、紅白の餅投げ。

8

私のかみさん、どういうわけか餅が好きで、私ももらってきました。さて、帰ろうかと思った

ら、これら琴の演奏がありますとか。

9

これがまた、天気は良いし、新緑の下、山奥の幽玄なパワースポットといわれる神社で、

回りが岩盤で音響が良く、お箏ととあっては最高の演奏会でした。こんな演奏会は滅多に

聴かれないでしょう。昨年も長崎から音楽家を呼ばれたとか。


なお、演奏をしている場所、神主さんがおられたので訪ねてみたら、正式には「神楽殿」と

いうそうです。岩戸神社のブログを見ると良くここをバックに写真を撮ったのを見ますが、

ここは「神楽殿」で本当の神社は上の方の写真になります。

Photo

祭の期日です。前に来たという人と話したら、秋祭りも良かったとの事でした。私もまた来

るつもりです。


今日は、穴は見れるし、餅はもらえるし、素晴らしい演奏は聴けるし、帰ったら、かみさん

は長崎行きでいないし、最高の一日でした。


今日のおやつ。岩戸神社でいただいた紅白餅。焼いて砂糖醤油でいただきました。

Photo_2




2012年4月17日 (火)

雲仙鉄道 その5~昭和2年の長崎日日新聞による★空前の難工事

1_2

千々石から小浜まで、開通当時は、「小浜鐵道株式会社」(いきさつは 雲仙鉄道 その2

に書いています)といっていましたが、この千々石から小浜へが難工事。長崎日日新聞に

よると、「山を拓き谷を埋め空前の難工事~海に沈んで高所を通ふ日本では類なき鐵

道」。


起工式が大正12年、工事を請負に付したのが翌13年、同年4月に工事に着手。開通す

るまでに5年半。この時代、重機もなく、ひたすらに発破、スコップ、つるはし、もっこ等で

人海戦術を行ったのでしょう。新聞によると。


●ダイナマイト五万四千八百貫。一貫が約3,75㎏ですから。

 54,800×3,7=202,760㎏

●鉱山火薬二千五百貫

 2,500×3,7=9,250㎏

●雷管四十七万個

●導火線五十万尺 一尺が約0,3メートルですから

 500,000×0,3=150,000メートル


人員として昨年(昭和元年)七月三十一日までに

●土木用のの人夫延べ99,585人 ●工夫延べ人員74,469人 

●鍛冶延人員16,500人 ●その他人夫工夫5,200人


上の写真は、上千々石駅を出てすぐの所ですが、緑の線の所、土を盛り上げ土手を作り

線路を通したことが分かると思います。赤の四角の所、左右行き来出来るようにトンネル

が掘っててあります。

2

この、土手を盛り上げたところ、たくさん見られます。

3_2

赤い線のところが線路跡ですが、ここも盛り土して作ってあります。

4 

ここを、人間の手で盛り上げたかと思うとまったくすごい。

5

トンネルは3カ所ありますが、ここの山は岩盤でですから、発破をかけ、つるはしで掘って

いったのでしょう。

6

緑のトンネルといわれる所ですが、ここも上の赤い線のところで繋がっていたところを、掘

り切っていたものです。左右の岩盤を見れば、どんなに困難な工事かが分かると思いま

す。ただ、ここは岩盤が崩れやすく、以前は大雨、台風等のときは通行止めになったもの

です。

7

よく見ていくと、補強の後があります。鉄道工事の時か、道路になった後かは分かりませ

んが、保線もここらあたりは大変だったと思います。


これほどの難工事ですから、資金の方も思うように運ばす、「此の資金の關係上終點は

北野に止め、湯町までは時機を見て延長する事に成ったのである・・・」


これで、なぜ小浜の温泉街まで汽車が行かなかったのか、私の疑問が解けました。なお、

終点からは「湯町との約十五間には頻繁に自動車(賃金貳拾銭)を運転せしめて連絡を

密にし、翌客の便に供する事になったが、僅かな距離であるから歩くのも決して苦痛では

ない。」と書いてありますが、諫早で乗り換え、ここでも叉乗り換え、やはり不便を感じたの

でしょう、乗り換えなしのバスの方に乗客を取られてしまします。

8

最終駅です。「小濱駅」ではなく、「肥前小浜駅」になっています。これも、「木津の濱」と同

じで、「小濱駅」は若狭にあるため、「肥前小濱駅」になったそうです。

車で通るときも、少しは止まって見ていってください。いかに、凄い工事をしたか肌で感じ

られます。


「島原鉄道 その1」から「その4」までは、左のカテゴリー「島原鉄道」をクリックしてくださ

い。


2012年4月16日 (月)

2012 諫早つつじ祭り&山城案内板設置~お城のお勉強

P4160330

今日も、雲仙鐵道の続きをと思っていたのですが、下の諫早つつじ祭りのチラシが気にな

って。といっても、千々石のつつじの名所といわれるわが家(自称)ですから、つつじの方

にはあまり関心はないのですが、「山城案内板設置」の文字が目にちらちらと。この、眼鏡

橋の後の小高い所が城になります。

Photo

城については、「曲輪」だとか、「虎口」だとか、「搦め手」だとか、話をきいてもピントこない

ところがあり、勉強がてらこちらの方に出かけました。、


土曜、日曜はイベントもあり、人が多いだろうと、今日、月曜日行ったら予想どうり。河川

の方に駐車場がありましたが、ガラガラ。つつじも色気づくのが早いのと、遅いのがあるの

か、満開のつつじ、まだ小さい蕾、いろいろありましたが、今週の土、日、各種イベントが

あるようで、ちょうど満開になるでしょう。


さて、案内板は。こんな感じで、番号が振ってありましたから順番に回ることに。

なお、上のパンフレット、クリックすれば拡大しますから下の記事の参考にしてください。

P4160222

ここから、各掲示板を要約をしますので、皆さんもお城の勉強と思って、読んでください。

このお城、今は諫早公園ですが、戦国時代伊佐早地方(諫早市)を統一した、西郷尚善

(なおよし)が作ったそうです。「高城(たかしろ)」、別名、「亀城」とも呼ばれたそうです。


豊臣秀吉の命に従わなかったため、4代目信尚は、佐賀の龍造寺家晴(初代の諫早家に

なります)に攻められ追い出されますが、江戸時代「一国一城令」でこのお城姿を消したそ

うです。


さて、最初の桜馬場、多数の馬が用意され、調教、馬術の練習場であり、戦の集合場で

「武者だまり」とも呼ばれたそうです。

Photo_2

2番目の大手門です。城の表口。本丸へ通じる虎口(こぐち)に設けられた門があったとこ

ろで、厳重な作りだったと考えられています。

Photo_3

3番目の折坂虎口。虎口とは、城内への出入り口のことで、狭い道という意味もあり、敵と

の攻防が繰り広げられ、攻め登る敵の勢いをなくすため、狭く急な坂と曲がり角の両方の

仕組みになっています。

Photo_4

4番目の東の丸です。攻め登る敵をこの場所で待ち受け、頂上の本丸へ行かせないた

めの広場。本丸の防衛、物見などの目的で作られたそうです。

Photo_5

5番目の武者走り(むしゃばしり)(帯曲輪、腰曲輪)。城の中腹を一周しています。現在は

広くなっていますが、昔は人一人が通るくらいの狭い道だったそうです。敵の様子を見て、

移動して攻撃をしたそうです。何回かこの公園来たのですが、この道知りませんでした。

Photo_6

6番目の虎口(こぐち)です。本丸へと行く最後の出入り口です。戦の重要な場所で下の階

段は狭くて急にして、敵の勢いを止めます。

Photo_17

7番目の高矢倉です。敵を弓で攻撃したり、見張り台として用いられたそうです。見張り台

は現在ありません。

Photo_8

8番目は本丸(本曲輪)です。山城の中心となるところ。ここに高城という城があったそうで

す。山の一番上、かなりの広い広場になりますが、ここの奧に忠霊塔があって、

Photo_9

この字、よく見たら、なんと「元帥伯爵東郷平八郎書」と書いてありました。ここで、終りかと

思ったらこの後、藤原明神と高城明神がありました。本明川の山下渕に大亀がいて敵が

攻めてくると、手足をのばし山を押し上げて、攻めることが出来ないとの伝説があり、「亀

城」とも言われたそうで、明神の石塔は亀の彫り物の上に立っていました。

Photo_10

この後の広場に本丸の説明版が。

Photo_11

ここの奧の所に階段があり、降りると9番目の搦め手(からめて)になります。

城の裏口で、殿様の逃げ道です。昔は木橋が架かっており、逃げた後切り落として追跡を

絶っていたそうです。

Photo_12

10番目の空堀です。敵の侵入を防ぐため掘られた溝です。水が張られている水堀と、こ

の城のように水が張られていない空堀があるそうです。ここ確信が持てませんが、多分こ

こだと思います。いまは島原鉄道が走っています。

Photo_13

11番目の土塁、石塁(せきるい)です。敵の進入を防ぐために土を積み上げた砦で、空

堀を掘るときの土で作ったそうです。

Photo_14

最後の西郷井戸です。城で使う水はここからくみ上げたそうですが、西郷家と龍造寺家の

戦いの時、西郷軍の首をこの井戸で洗って、龍造寺家晴に差し出したそうです。

Photo_15 Photo_16

城の一番上まであがると息切れしますが、これに甲冑をつけて戦いながら登るというと、

大変どころではないでしょう。


回ってみて、説明版がきちんとして回りやすく、説明も丁寧で、城の作りについても勉強に

なりました。これからは、お城のことについては少しは知ったかぶりで話も出来るでしょう。


全部回って、5000歩程度でした、お城について興味のある方は是非お寄りください。

なお、説明板は諫早観光物産コンペンション協会が作ったもので、ブログの説明はこの説

明版の要約です。本物はもっと詳しく分かりやすく良く書かれてあります。


疲れたのでおやつでも。小浜シェダムールさんの、なんだっけケーキの名前また忘れた。

ここの2階、喫茶室になっており、ケーキバイキングもやっていますが、コーヒーのみに行

ったら、隣の男が、ケーキ5個とジュース2杯とコーヒ。バクバク食っていましたが、見てい

て具合が悪くなった。

P4160003

参考:各説明版から



2012年4月15日 (日)

この一曲~はじめの一歩/ともだちに なるために★トラや帽子店

Torayabousitenn

今から20数年ほど前、「トラや帽子店」の演奏会を、長崎のNCC放送局のホール聴きに

行きましたが、どうも、なんの理由で聞きに行ったのか記憶がないんですね。


あまり、聞いたグループの名前でもないし、知っている曲もなかったし。どうせ、お客さんも

少ないだろうと思ったら、満席で、結局通路に座って聞きました。子供連れのお母さん、若

い女の人(どうも幼稚園、保育園の保育士さんかな?)がほとんどで、結構有名なんだなと

思いましたが、曲を聴けば、グループの名前は知らなくても、ああ、この曲聴いたことがあ

る、というのがあると思います。


とにかく、楽しい音楽会でした。このレコードには入っていませんが、「キャベツはキャッ」と

か、「HA!HA!HA!」とか、パワフルで、会場みんなノリノリで一緒に歌いました。


この中から、一曲選ぶとすれば難しいですね。

「世界中の子どもたちが」「ハッピーチュルドレン」「テルテルボーイズ」「誰かが星を見てい

た」「海ボウズ山ボウズ」「おじいちゃんちのカメ」「丘をこえたらおべんとう」「不思議な月夜

の音楽会」「うさぎ野原のクリスマス」「はじめの一歩」「雪男のヨーデル」「ともだちに なる

ために」。どれも良い曲ですが・・・今は四月、新しい出発の季節ですから




はじめの一歩


小さな 鳥が うたっているよ

ぼくらに 朝が おとずれるよと

きのうと ちがう あさひがのぼる

川の ながれも かがやいている


★はじめの一歩 あしたに一歩

 きょうから なにもかもが

 あたらしい

 はじめの一歩 あしたに一歩


勇気をもって 大きく

一歩 歩きだせ


信じることを わすれちゃいけない

かならず 朝は おとずれるから

ぼくらの夢を なくしちゃいけない

きっと いつかは かなうはずだよ


★くりかえし


生まれ変わって 大きく

一歩 歩きだせ



このグループ2000年に解散し、それぞれ活動しているみたいですが、もう一度聴きたい

演奏会です。

Torayabousitenn_3

五味太郎さんが絵を描いて、楽譜集にもなって、ギター(クラッシックの方)を習っていた

頃、買いましたが、1990年 1刷、1995年 14刷、と書いてありますから随分売れたん

ですね。


ところで、私、こちらの「はじめの一歩」も好きで、第1回から読んでいます。1989年から

連載ですが、こちらの「一歩」さん、年取りませんね。私はすっかり年取りましたが・・・・

Photo


おまけに、私の好きな曲を。




ともだちに なるために


ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

どこの どんな人とも

きっと 分かり合えるさ

ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

同じような 優しさ

もとめあって いるのさ


★今まで出会った たくさんの

 君と君と 君と

 君と君と 君と

 これから出会う たくさんの

 君と君と 君と

 君と ともだち


ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

一人 さみしことが

誰でも あるから

ともだちに なるために

人は 出会うんだよ

誰かを 傷つけても

幸せには ならない


★くりかえし




(新沢としひこ作詞  中川ひろたか作曲  増田裕子編曲  音楽監修:クニ河内)



« 2012年4月8日 - 2012年4月14日 | トップページ | 2012年4月22日 - 2012年4月28日 »

フォト
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

ブログランク参加中クリックしてね

最近のトラックバック

amazon

無料ブログはココログ